Quantcast
Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
Viewing all articles
Browse latest Browse all 514

この国を・・・・35:危ないところ

$
0
0

もうじき、鳥たちが食べにきます。渋柿です。

日本の人口のおよそ3分の1に近い3800万人が、「危ない場所」に暮している、という「研究成果」が報道されていました。
   逆に言うと、残りの3分の2の人たちは、安全な場所に暮している、ということです。
「危ない場所」とは、地震で揺れやすく、地盤の液状化も起こりやすい・・・といった地域。
どうやら、その「研究成果」を、「防災」に役立ててほしい、ということのようです。
ことによると、東日本震災後、比較的静かだった建築系の《学界》に、この「研究成果」を基に、建築に関係する諸規定・諸基準を「改定」しよう、「新・新耐震基準」のごときものをつくろう、という「下心」があるのかもしれません。
   木造建築では、そういう動きが既に始まっているようです。
   たとえば、日本建築防災協会という団体は、「2012年改訂版 木造住宅の耐震診断と補強方法」を発行し、
   それをテキストにした講習会の全国展開を、地域の建築士会と共催で始めています。
     この団体は、例の「直ぐに壊れてしまったけれども倒壊ではない」という
     訳の分らない「解説」がなされた「実験」を行なった方がたの関係する「民間の団体」です。
     私には、この団体は、災害をメシのタネにしている人たちの集団に見えてしかたがない。
     なぜなら、この講習会、参加料が一般8000円、テキスト代がなんと7000円!
     社会全体に係わる大事なことを広めることを目的にした講習会にしては、あまりにも法外な費用。
     ほんとに大事で緊急のことなら、ボランティアで無料だっていい。
     だから、メシのタネにしている、と思わざるを得ないのです。
     だいたい、こういうことを、一民間団体が牛耳るなど、もってのほか、と私は思います。
     それに、公共団体であるはずの建築士会が相乗りをするなど、もってのほか。
       ベトナムに出向き、ボランティアで白内障の治療を行なっている医師の話を聞きました。
       もう、1万人を越えた方が目が見えるようになった、とのこと。
       ベトナム行きは、偶然。そこで白内障で悩む人の多さを知って始めたとのこと。  
       一度治療費をもらうと「クセになる」、とはこの医師の言。
     ところで、この講習会に、茨城県では200人近くの人が申込をしています。
     「耐震診断」が《仕事》になるからのようです。
     そうやって、各地域で営々として培われてきた建築技術が失われてゆく・・・。
     その責任は重大です。[文言追加 13日 10.38]

では、「危ない場所」とはどういうところか。
何のことはない、それはすなわち、いわゆる人口密集の大都会の「立地」。
この「立地」の面積が、日本全体から言えば、きわめて狭小な範囲・面積であることは、公表された地図で明らかです。

これについては、かなり以前(2010年3月〜4月)に、
わざわざ危ない所に暮し、安全を願う!?
危ない所が街になったのは・・・・江戸の街と今の東京の立地要件は同じか」で触れています。
しかし、この、日本全体から見ればきわめて限定され、しかもきわめて特殊な性格の地域において生じる「問題」を前提に、防災にからむ諸々の「基準」「指針」がつくられてきている、と言ってよいでしょう。
そして、そういう「危ない所向けの基準」「指針」が、他の地域:「危なくない所」にまで及んでいるのが現状です。

何故そうなるのか。
そこに人口のおよそ3分の1が暮している、ただそれだけの理由。
あるいは、その地域に「偉い方がた」が暮している、ただそれだけの理由。
   「偉い方がた」が好む多数決主義で言うなら、人数も、そして面積も少数派。
   この場合だけは、多数決主義を採らない・・・!
   ご都合主義の一例。
重要なのは、危ない所での耐震補強・・・などに専心することではなく、
そういう所には居住すべきではない、という考え方を広めることではないか、と私は考えます。
此処より下に家を建てるな」と言うことこそ、そしてその考え方を伝え広めることこそ、本当に求められる「都市計画」「地域計画」、そして「対震、対液状化策」である、ということです。
同趣旨の論を展開している数学者の書を、下記で紹介しています。
   「本末転倒の論理・・・・複雑系のモデル化を誤まると
実際、江戸時代の街道、街は「危なくない所」につくられているのです(下記参照)。
   「建物をつくるとは、どういうことか−16」 

つまり、その気さえあれば、簡単にできることなのです。
何故できなくなったのか。
「学の成果」に寄り掛かり、各々の自らの体験・体感に根ざさなくなったからだ、そうあることこそが「科学的」なのだと「教え込まれてきた」からだ、と私は思っています。
つまり、人の世は、「科学的」になった代りに non-scientific になってしまった、ということ。
そして、それをいいことに、「偉い方がた」は、学者も経済界の方がたも、「科学的」の名分の下で、理よりも利に目を向けている。
福島原発は、廃炉に40年以上の年月を要し、現在の見込みで4兆円の経費がかかるそうです。しかも、廃棄物の処理は、計算外らしい。
残りの原発も、いずれは廃炉のときが来る。気が遠くなりそうな膨大な経費!
それでも原発の発電コストは安いと言い続ける。これは何だ?
目先の利が、人の目を狂わしている、としか言いようありません。
これでも、現代人は江戸時代の人びとよりも「進んでいる」と言うのでしょうか。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 514

Trending Articles