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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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閑話・・・・鐘楼 と 釣鐘 の 関係について : 一枚の写真から

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本棚から「岩波写真文庫 12 鎌倉」という写真集が出てきました。
写真集と言っても、B5判60頁ほどの小冊子に近い書物です。下の写真はその表紙。



「岩波写真文庫」は、1950年代から60年代にかけて、多分300冊ほどは刊行されたと思います。全ページが写真、中には今やきわめて貴重なものもあります。
   註 調べたところ、1958年まで、286冊刊行されたとのことです。
      最終巻は、「風土と生活形態」、どこかで探してみたい![註記追加]
因みに、一冊の価格は100円!。私は30年ほど前、古本で500円で買いました(そのとき、「日本建築辞彙」の昭和4年版も同じく500円だった!?)。

表紙はどれもこういうスタイル。どこかで見た方も居られるでしょう。  

その中にあったのが次の写真です。 



鎌倉の東南、由比ガ浜・材木座を挟んで長谷寺、鎌倉大仏のいわば対岸に位置する光明寺の鐘楼だそうです。
この写真集は1950年8月が初版ですから、写真はそれ以前、敗戦直後の撮影と思われます。

釣られているのは梵鐘ではなく、大きな石、と言うよりも岩が 数十個・・・。 
解説に次のようにあります。
   ・・・鐘は弾丸に化けたのか、石が下がっている。そうでないと建物の釣合いがとれぬらしいのだ・・・。

だいぶ前に、奈良時代につくられた東大寺大仏殿は、平安時代末に焼き討ちされるまで何回も地震に遭っていますが、軒は波打っても、壊れることなく建っていたようだ、と下記で書きました。
   「日本の建物づくりを支えてきた技術−12・・・・古代の巨大建築と地震
その中で、鐘楼の釣鐘が「地震で落ちた」という記述が何度か史書に出ていることを紹介しています。他の建物に被害はなく、ただ、鐘は、頻繁に落ちたようです。

釣鐘の代りに巨石群を釣ってある光明寺の鐘楼の写真を見て、
そして「そうでないと建物の釣合いがとれぬらしいのだ」という一文を読んで、
なぜ、東大寺では、大仏殿などの建物は壊れずに釣鐘は落ちたのか、
私は深く考えていなかったことに、あらためて、気付かされました。

きわめて重い梵鐘の釣られている鐘楼は、普通、四本の柱で屋根を支え、その梁から鐘を釣っています。
当然、現代の木造ではありませんから、鐘楼は礎石上に置かれているだけです。
現在見かける鐘楼は、ほとんど、四本の柱のそれぞれが独立の礎石に立っています。

しかし、現在東大寺にある鐘楼(「しゅ ろう」と読むそうです)は、鎌倉以降の再建で、下の写真のような姿をしています。
柱の下に、土台のような材があります。しかしこれは、いわゆる土台ではなく、柱を貫いている地貫(ぢ ぬき)。地貫は四角い枠を形成し、その隅部の上に、四本の柱が、いわば跨って載る形になっています。

   

   なお、現存の東大寺鐘楼の詳細については、下記をご覧ください。地貫の工法についても触れています。
      「東大寺鐘楼
      「東大寺鐘楼−2

先の光明寺の鐘楼の写真では、脚部が大きく写っていませんが、辛うじて見える右側の脚部の様子から、やはり地貫があるように見えます。

1) 一般に、地震があると、地面の上に在る物体は、いかなるものも、物体が元あった所:位置を維持しようとします。
   いわゆる「慣性の法則」です。
   それゆえ、地震で地面が右へ動いたからといって、物体は元の位置に留まろうとしますから、
   物体は地面と同時に右へ動くとは限りません。ダルマ落しがその一例です。
2) また、地面が上に動いたからといって、物体が地面と一緒に上に動くわけでもありません。
   その場合は、物体は元の位置を保とうとしていますから、地面の動きにより、強い衝撃を受け、跳び上がるでしょう。  
   逆に地震で地面が下へ下がると、物体は一旦地面から離れ宙に浮いた形をとり、次いで落下して、
   そのとき強い衝撃を受けるでしょう。

しかし、1)の場合、まったく地面とともに動かない、と言うわけではありません。
物体と地面がどのような関係にあるかによって、挙動は異なるはずです。
たとえば、物体が地面に強く拘束されているならば、物体は地面の動きのままに動くでしょう(現在建築基準法で奨められている木造建築はその一例です)。
物体と地面との間に生じる「摩擦」も拘束の一つです。
また、地面に埋められた礎石は、埋め方によっては、摩擦どころか、ほぼ、地面と一体になって動くでしょう。もちろん、掘立て柱も同様です。

物体が軽いか、地面が平滑だったならば、ただ物体が置かれているだけであれば、物体は、いわば地面の上を滑るような、逆に見れば、地面の方が勝手に動いたような状景を見せるはずです。建物の場合でも、相対的に軽ければ、そういう現象が起きると思われます。
   阪神・淡路大地震のとき、淡路島で布石に土台を据えた家屋が横滑りした例をいくつも見ました。下記参照。
実際の地震では、2)のような事象は滅多に起きず、1)と2)が同時に起きます。そのとき、地面に置かれただけの物体は、あたかも跳んだように別の場所へ移動することも起きるでしょう。地震が与えた衝撃で跳んでしまうのです。
   この実例を、阪神・淡路大地震の際、西宮駅の近くで見ました。下記参照。
   「地震への対し方−1・・・・『震災報告書』は事実を伝えたか
   「地震への対し方−2・・・・震災現場で見たこと、考えたこと
鐘楼の建物は地面に置かれているだけですから、地震があると、その状態を維持して(維持し続けようとして)、地面の方がいわば勝手に動く筈です。
とは言っても、まったく地面の揺れと無関係というわけにはゆきません。
礎石は地面に据えられています。したがって、地震に際し、地面なりに動くでしょう。
柱:建物は礎石の上に置かれているだけですから、地震の際、礎石の動き=地面の動きとまったく同じには動きません。地面が勝手に動きます。
しかし礎石と柱の間の摩擦、あるいは地面の縦揺れには無関係ではあり得ませんから、地面の揺れとまったく同じではないにしても、地面に追随して一定程度は揺れ:変動を生じるはずです。
掘立て柱の時代に代って礎石の上に建てるようになった古来の日本の建物では、地震のときには、常にこのような挙動を生じたはずです。
   ただ、その建物の挙動の様態を算定する一定則はありません。置かれている様態によって異なるからです。
   つまり、礎石の様態、置かれ方の様態、重さの分布・・などで、事例ごとにまったく異なります。
   一定則を設定するには、実際の様態を「理想形」に「変形」する必要が生じます。
   しかし、何をもって「理想形」とするか、これは難題です。あまりにも様態はさまざまだからです。
   そこで、この様態の実体に「まともにつきあう」ことを止めてしまった、
   これが、日本で、古来の木造建築の「解析」が行なわれてこなかった理由であろう、と私は考えています。
   一方で、大工さんたち工人は、その「解析」を、身をもって、つまり「経験・体験」で行なってきたのです。
   これを、学者は、「非科学的」だ、と言って批難してきました。これが日本の学者の世界です。
   蛇足:私は、そういう学者の世界こそ non-scientific と言ってきました。


では、鐘楼に釣られている梵鐘と鐘楼とは、いかなる関係にあるのでしょうか。

釣鐘は鐘楼に釣られています。いわば宙に浮いていますから、地震があっても地面の動きとはまったく無関係、元の位置を保ち続けようとするでしょう。唯一、鐘楼にロープで繫がっている。
鐘楼の重さは巨大です。もしかすると、鐘楼そのものと同じか、それ以上の重さがあるでしょう。
この釣鐘の重量は、釣っているロープを経て梁などにかかり、最終的には四本の脚を経て地面に伝わります。
もしも鐘楼の柱が掘立てならば、軟弱な地面ではもぐってしまうかもしれません。そうなることを避けるには、地形(地業)を確実に行い、底面の広い石を用いた礎石建てにする必要が生じるでしょう。

おそらく、古代の東大寺の鐘楼も、そういう大きな礎石を据えて四本の柱を建てていたと思われます。
そしてまた、古代の鐘楼の小屋の架構は、他の東大寺の建物と同じような架構法だったのではないかと思います。
   古代の東大寺大仏殿などの架構法は下記等をご覧ください。
   「日本の建築技術の展開−8

このような礎石上の四本の柱で支えられた鐘楼は、建物自体と釣鐘の重さによって、おそらく柱は礎石に喰いこむような様態を呈していたと思われます。
そういう状態の鐘楼が地震に遭ったらどういう挙動を生じるでしょうか。
鐘楼は、地面に喰いついてるような状態ですから、地面の動きに追随して動く、動かざるを得ない、と思われます。

一方、釣られている釣鐘の方は、追随はしません。極力、元の位置を保とうとするはずです。
この両者の挙動の違いはきわめて大きなものであった、と思われます。
それゆえ、傍からは、大げさに言えば、釣鐘は動かないで、まわりの鐘楼が激しく動き、それに引きずられて釣鐘の頂部:ロープの取付け部が揺さぶられる光景を見たのではないでしょうか。そして、その挙動の差が過大になったとき、釣っていたロープが切れ、あるいはロープを取付けてあった梁が折れ、鐘は落下した、そのような状況になったのではないか、と思われます。

では、大仏殿はなぜ壊れなかったのか。
おそらくそれは、建物が巨大で重かったからです。唐招提寺の拡大コピーのような架構でも、巨大ゆえに壊れなかった・・・。
たしかに大仏殿の総重量は巨大ですが、独立の礎石に載っている柱は、大仏殿の場合、裳階まで含めると総数92本あります。それゆえ、1本の柱が支える重さは、鐘楼のそれに比べ、圧倒的に小さい(正確に計算したわけではありません。いつか試みてみようと思いますが、この判断は復元図を見ての勘です)。
ということは、礎石:地面との摩擦は少ない。つまり、地面に拘束される割合が小さい。ゆえに、地面が揺れても追随しない。建物の重量が巨大ゆえ、建物は現在位置を容易に維持しようとするのです(慣性の大きさは、重さに比例します)。
結果として、同じ架構法の大仏殿は壊れずに、鐘楼は壊れてしまい、釣鐘が落ちてしまった・・・。
というのが私の解釈です。
   江戸時代に、西本願寺など巨大な建物がつくられていますが、それらもまた、地震で被害を受けていません。
   もちろん、壁は少なく、地面に置かれているだけで、耐震診断をすると補強が求められる建物群です。
   なぜ被害を受けないのか。
   私は、架構法もさることながら、その総重量に理由があると思っています。特に、瓦の重量。
   重い瓦は地震に弱い、というのは人為的神話の類、と私は思っています。
   これについても、先の「地震への対し方−2・・・・震災現場で見たこと、考えたこと」で触れたと思います

では、建立以来たびたび見てきた釣鐘の落下から、工人たちは何を学んだか。
それが、再建東大寺の鐘楼に使われた地貫だったのではないでしょうか。より正確に言えば、貫で組んだ構築物は堅固な立体:箱になること、すなわち貫工法そのものの原理を学んだのです。

つまり、鐘楼と釣鐘の重量を、四本の柱の柱脚部にのみ集中させず、地貫のつくる方形の枠全体に分散させたのです。そうすれば、地面と建物との間の摩擦が格段に小さくなり、地面の動きへの追随も小さくなるからです。しかも、鐘楼全体が堅固な立体:箱になっている。
そうであれば、鐘楼は、地震に遭っても、形も位置も維持し、梵鐘もそのまま。
もしかしたら、鐘楼の下で、それこそ、地面が勝手に右往左往、上下するような光景を呈したかもしれません。
そのとき、この光景に大きく「貢献した」のが、梵鐘の重さだった、と考えられます。慣性の力を大きくしているからです。
つまり、工人は、梵鐘の重さを、単なる「負荷」:余計な重さ:とは考えなかった、のではないでしょうか。
   現在の構造の考え方では、おそらく「負荷」と考えると思います。

岩波写真文庫の説明は、光明寺の鐘楼で、没収された梵鐘の代りに岩石群を釣っているのを、「そうでないと建物の釣合いがとれぬらしいのだ」と書いています。
このような、鐘を没収されてもそのままにせず石を釣るという判断をなさった方は、大仏様を引継いだ鐘楼のつくりかたの原理を知っていたからなのではないか、と私には思えます。

以上は、一枚の写真を見ての、まったくの私の勘による事象の解釈です。
どなたか、別のより妥当な解釈があれば、ご教示のほどお願いいたします。 

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