中旬のたんぼ。
今はもう、黄金色。近在ではコンバインの準備が進んでいます。
このところ、たまった用事の処理で時間がなく紹介ができなかったのですが、その間、東京webで読んでいる東京新聞には、あいかわらず、いろいろと素晴らしい論調、記事がありました。
以下に紹介するのは8月21日の紙面から。
社説は、政府が、福島県につくろうとしている「汚染土壌」のいわゆる「中間貯蔵施設」建設についての明解・明快な論。
素朴な疑問は、なぜ福島でなければならないのか。
なぜ、福島の方がたが、30年以上、生まれた土地から離れて暮さなければならないのか、それについての「釈明」を聞いたことがありません。
他の地域が設置を嫌うのは、よく分ります。
そういう問題が生じない場所があります。
それは、国会議事堂前の広場、あるいは総理官邸の広場。地下から地上まで、おそらく東京ドーム23個分ぐらいはできるのでは。
輸送が大変だ、と言うかもしれませんが、最終処分場を九州にしようと考えているらしいですから、その問題はないはず。日本は科学技術先進国なんだから・・・?!
第一、国会議事堂や総理官邸などにつくれば、日本政府の「本気度」が、世界中に伝わります。
そして、それでも足りない場合には、脱原発に反対する経団連:経済界・経済人や政治家・政党各々が、それぞれの所有地内で請負う(もちろん電力会社も含まれます)。
「それはできない」という筋道たった理由はないはずです。
福島でなければならない、という筋道たった理由もないからです。
私は、経済界の偉い方がたの、電力が足りないと産業が空洞化する、・・・という《説教》を聞くたびに、幕末から明治初期の各地で鉱山を開いた経営者たちのことを思い出します。
彼らのもとに、電気をはじめ必要な品々が存分に他所から届いていたのでしょうか。
そんなことはありません。大半が「自前」です。
たとえば、いつか紹介した小坂鉱山では、足りないものは山道をかついで自ら運び入れ、・・・自ら発電機をつくり発電所を建設し、・・、上水道を整備し、住居を用意し、病院をつくり・・・という「経営」をしていました。
鉱山特有の排出物の処理も行なっています。ゴミを出しっぱなしで平気ではいられなかったのです。
もちろん完全無比ではなかったでしょう。しかし、「気遣い」はあったのです。
現在の経済界で、「気遣い」のある会社はどのくらいあるのでしょうか?
次は、この「気遣い」とも深く関連する「ドイツの脱原発の経緯」についての記事。
ドイツが脱原発を決めたのは「倫理」。
「倫理」は、今の日本では、単なる学校の一「教科」にすぎなくなっています。
ドイツでは、そうではなく、「倫理」とは、この世で人が生きてゆくにあたっての「あたりまえの感覚」であるようです。
この「感覚」は、近世までの日本人は誰でも、皆あたりまえに備えていました。そうでなければ暮せないからです。
それを「近代化」を焦った日本は、この「あたりまえの感覚」を何処かに置き忘れてきてしまったのです。置き忘れることを奨めてきたのです。
今、日本の中枢を牛耳っている(と思い込んでいる)方がたは、この感覚をお持ちでないように思えます。むしろ、そうであることが「先進的」と思い込み、積極的に捨てることを心がけてきた。それは、先の記事で触れたとおりです。
そんななか、今日の「リベラル21」の記事の中で、今、ある種の人びとから注目されているある「政治家」の言葉が紹介されていました。この人の自著(絶版)に載っているのだそうです。
以下に引用させていただきます。
「政治家を志すっちゅうのは、権力欲、名誉欲の最高峰だよ。その後に、国民のため、お国のためがついてくる。
自分の権力欲、名誉欲を達成する手段として、様々国民のため、お国のために奉仕しなければならないわけよ。
・・・別に政治家を志す動機付けが権力欲、名誉欲でもいいじゃないか!
・・・ウソをつけないヤツは政治家と弁護士になれないよ!嘘つきは政治家と弁護士のはじまりなのっ!」。
何をか言わんや。