PDF 「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-A5,参考」A4版6頁
A-5.島崎家 享保年間(1716~1735年) 所在 長野県 塩尻市 片丘
南西からの全景
大戸口、玄関正面
島崎家は、長野県塩尻市の中心部から北東へ約3.5km、松本盆地の東に連なる鉢伏山系高ボッチ山西麓の緩斜面、片丘地区にある畑作農家。
切妻板葺き屋根、妻入りで、塩尻地域に多い本棟造(ほんむねづくり)の古い事例の一つ、それゆえ、本棟造の原形式を示していると考えられている。
建設当初のままと見られるカミザシキの床の間の壁貫(建込み仕事)の墨書から修理工事報告書では享保年間の建設とされたが、元禄13年(1700年)にある程度完成し、享保になって完成した、という説もある。以来、解体修理が行われるまでの間、建築当初の形式を保ちながら、約260年以上、代々島崎家により住まわれてきた。なお、その間の各時代の使い方を知ることのできる資料が残されていて、その点でも貴重な事例である。
島崎家は建設当初、地域の村役を務めていたため、武家を招じる接客空間として、カミザシキまわり(式台、ゲンカン、二ノマ)が設けられた。
片丘地域をはじめ一帯には、この接客空間を除いた5~6間×7~8間程度の同じ形式の住居:本棟造:が多数見ることができる。
復元 平面図 復元後も家人が一部使用のため、北東部に便所が設けられている。
島崎家の板葺き屋根は、勾配がかなり緩く、約2寸7分だが、一般には2.5寸~3.5寸程度の例が多い。
四周と間仕切になる通りに同じ高さで柱を1間間隔で建て、その上に@1間で格子状に梁を架け、束立てで小屋を組む。 基準柱間 1間:6尺1分(1821㎜) 註 徳川幕府の検地の間竿では、1間を6尺1分とする規定があり、この地域では、この数字が建物にも援用されたという説もある。
復元 梁行断面図
写真・図は島崎家住宅修理工事報告書より
梁伏図 梁の長さ、継手位置を示す。・印は柱位置 母屋伏図 継手は小屋束上で鎌継ぎ
太枘を設け、重ね継ぎ 小屋梁~妻梁~柱 小屋束と小屋貫端部
解体時の梁組 明治12年に、一部の梁が切断された。
軸組 柱:自然石の礎石建て。 カラマツ、サワラ、クリ。当初材にサワラの転用材。 計画寸法4寸3分角。各柱はほぼ同高(12尺材使用)。 柱に折置または枘差し(鼻栓、込栓の両様)。柱通りには足固貫。ただし梁行では大引が兼ねる。
小屋組 梁・桁:主にマツ。他にケヤキ、クリ、カシ、サワラ。 桁行を下木、梁行を上木にして@1間の格子に組む。 継手は柱上で重ね継ぎ、鎌継ぎ、蟻継ぎ併用。
天井見上げ図 平面図に対応
復元桁行断面図
図・写真は島崎家住宅保存修理報告書より
キープラン
ダイドコロ 大戸口見返し 板壁部分はマヤ
オエ 北側(ネマ側)見上げ オエ 東側(イタノマ側)
オエ 西側(ダイドコロ側)見上げ 右手ネマ境の壁 オエ 南側 板戸はゲンカン 明かり障子は土間境 畳は仮敷
カミザシキ 南~東にまわる縁・土庇 左奥:カミザシキ、手前:二ノマ、右奥:ゲンカン
島崎家代々の建屋内使い分け:間取りの変遷
島崎家では、遺された諸資料から、建屋内の時代ごとの使い方:間取りが下図のように判明している。
当初の建屋の梁伏と使い分けを対応させたのが上段左図。記号のA~Dは、21頁住まいの原型で解説したゾーン分けの記号。
島崎家住宅修理工事報告書より転載・編集
図1は、想定された当初平面図(復元平面図は、この平面の北側に廊下と便所を設けた)。
改造は、常に、梁伏と対応して行なわれ、特に、明治初頭までは、空間のゾーン分けとも対応した改造が行われている。
明治12年の改造(図3)は婚礼のため。このとき、オエを東西2室に分け、ゲンカン境、二ノマ境、土間境の柱が内法下で切断され、差鴨居が入れられ、オエ間仕切にも3間の差鴨居が新設された。その結果、この差鴨居のおさまるコザシキ南西隅の柱は折損していた。なお、この時期以降、一部に踏み天井で2階を使うようになる。
大正期になり(図4)、ネマ・コザシキ南側、オエとの間に1間幅の畳廊下がつくられる。マヤは不要となり居室化。この頃から、当初のゾーン分けが維持できなくなる(図5)。
島崎家の間取りの変遷は、長く使いこなせる建物の必須条件を示している。
あえてその条件を箇条書きにすると、1)当初の規模が適切である、2)当初の建屋の形体が簡潔な形である、3)当初の建屋が改造・改修あるいは補修が可能な架構・構造で、簡潔な工法でつくられている・・・などが挙げられよう。
参考資料 日本の民家調査報告書集成9 中部地方の民家3 山梨・長野(東洋書林)
(「第Ⅳ章ー3ーA5参考小松家」に続きます。)