PDF 「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-A1,2」A4版8頁
「日本の木造建築工法の展開 Ⅳ 近世ー3」
・・・・数学的な自然研究は、正確な計算がおこなわれるから精密なのではなく、その対象領域への結びつきが精密さの性格をもっているので、そのように計算されねばならないのです。 これに反して、すべての精神科学さらに生活体についての諸科学も、まさに厳密であろうとすれば、必然的に精密さを欠くことになるのです。 つまり生物を或る時間-空間的な運動量として把えることはできても、そのときはもはや生物として把えられてはいないのです。
歴史記述的な精神科学の不精密は、なんらの欠陥ではなくて、この種の研究の仕方にとって本質的な要求を充たすことにすぎないのです。むろん歴史記述的な学問の対象区域の企画と確保とは、仕事の面からいっても、精密科学(自然科学)の厳密さの実行よりも、遥かに困難なのです。・・・・ ハイデッガー「世界像の時代」(理想社)より
・・・・我々はすべていずれかの土地に住んでいる。従ってその土地の自然環境が、我々の欲すると否とにかかわらず、我々を「取り巻いて」いる。この事実は常識的にきわめて確実である。 そこで人は通例この自然環境をそれぞれの種類の自然現象として考察し、引いてはそれの「我々」に及ぼす影響をも問題とする。有る場合には生物学的、生理学的な対象としての我々に・・・・それらはおのおの専門的研究を必要とするほど複雑な関係を含んでいる。
しかし我々にとって問題となるのは、日常直接の事実としての風土が果たしてそのまま自然現象として見られてよいかということである。自然科学がそれらを自然現象として取り扱うことはそれぞれの立場において当然のことであるが、しかし現象そのものが根源的に自然科学的対象であるか否かは別問題である。・・・・
・・・・風土の現象において最もしばしば行なわれている誤解は、自然環境と人間との間に影響を考える立場であるが、それはすでに具体的な風土の現象から人間存在あるいは歴史の契機を洗い去り、単なる自然環境として観照する立場に移しているのである。・・・・ 和辻哲郎「風土」(岩波書店)より
一体世界のいろいろな民族は皆それぞれ独自の形式の生活を営みそしてそれに相当する独自の様式の家に住んでおります。これを発生的に考えて見まして、どこの民族の家も一室主義に出発してそれに多少の潤色を附加せられたものになっております。蒙古の包(パオ)やアイヌの小屋を初めとして我々の先祖の住宅だったと考えられる伊勢の神宮や出雲の大社なども「妻入り」「平入り」の差だけで一室主義を原則としたものだったのでしょう。そしてその原始型からやがて、寝る所だけを別にした形式が生まれます。世界中の住宅には実にいろいろの種類があり、それに大小の変化もありますが、この根本の要領だけはそのまま維持されているというて決して間違いありません。この意味で、我々日本人の従来の百姓家も町の「しもた家」も立派に民族の家たる資格を持っておるのです。
・・・かつてブルーノ・タウトは桂の離宮を絶賛したと聞いております。そして日本人は今さらのように桂の離宮を見直して、タウトのひそみに倣うて遅れざらんとしたようです。 しかし、私は深くそして堅く信じます。タウトは桂離宮に驚く前にまず所在の日本の百姓家に驚けばよかったのです。そしたら日本に滔々として百姓家を見直すということが風靡したかもしれませぬ。
従来とても我々の間に「民家」の研究という種類のことはありました。しかしこの研究には何か「取り残されたもの」に対する態度、「亡び去らんとするもの」に対する態度、したがって、ある特殊の趣味の問題として扱われてきているのが実情です。 しかし私の考えによれば、私どもが軽々にこれを「民家」と呼ぶことがすでにいけないのです。私どもはこれを「民族の家」といい直さなければなりません。そのとき我々のうかつにも軽蔑してきた百姓家が、実に厳然としてさんらんたる白日光を浴びながら私どもの前に立ち現れてまいります。私どもはじかにこの民族の「たましい」に面接しようではありませんか。・・・ 遠藤 新「一建築家のする―日本インテリへの反省」(雑誌「国民」)より
Ⅳ-3 近世の典型-3:住宅建築
先に、室町時代末に建てられたと考えられる農家住宅、古井家、箱木家を観ましたが、それ以降、近世:江戸時代になるまでの間の一般庶民のかかわる建物:住宅の遺構は存在しません。
しかし、近世につくられた建物を見ると、その間に、農家住宅はもちろん、一般庶民の建物づくり:住まいづくりの技術は、格段の展開を見せたことが分かります。
ただ、その場合、農家、商家と武家では、つくりかたに大きな違いが見られます。すなわち、農家、商家では、中世の古井家や箱木家と同じように、日常の暮しに応じ、架構=居住空間という竪穴住居以来のつくりを継承しているのに対して、武家の住居では、寺院建築において発展した客殿建築、その流れを汲むいわゆる書院造にならい、日常の暮しより接客を重視したつくりが好まれ、建物の見えがかりの形に意をそそぐ傾向が強く見られます。
註 武家のつくりは、幕藩体制解体後、都市に居を移した旧武士階級の住宅に、さらに形式化して継承されます。
そこで、住宅建築を生業別、すなわち、農家、商家、武家に分けて、その代表的な事例を通じて、住まいづくりの技術を観てみたいと思います。
A 住宅建築-1:農家住宅
農家住宅は、当初の寺院建築同様、上屋+下屋の方法でつくられるのが普通で、古井家、箱木家もその方法を採っています。
上屋のつくりかたには、梁行を先行する折置組と桁行を先行する京呂組がありますが、古井家、箱木家とも折置組にしているため、建屋内には上屋の柱が立ち並びます。
この不便を解消するため、古井家では、江戸時代におもて、ちゃのま、そしてにわに立ち並んでいた柱を取り除く改造をした記録が残っていて、その後も間仕切と柱位置を一致させる改造が何度か行われています。箱木家においても、そのような改造が行われていたことが、当初材に残された痕跡から判明しています。
上屋+下屋方式の建て方にともなう不便の解消のための工夫は、おそらくどの地域に於いても、どこの建物においても行なわれたと考えられますが、その過程を知ることのできる遺構はありません。しかし、いつ頃からかは分りませんが、上屋の柱を省いて建物をつくる技法があたりまえになります。今回紹介する椎名家や北村家には、その成果を見ることができます。さらに、地域によって、種々な建て方も現われ、養蚕が盛んになると、二階建ての建屋も自由につくられるようになります。
また、外形を見ても、農家住宅では、茅葺では寄棟あるいは入母屋が一般的ですが、地域によると切妻屋根もつくられ、高冷で風の強い地域では、板葺き屋根が発達します。
つまり、人びとは、その地域の状況に応じて、その地に最も適したつくりかたを探し続けてきた、その結果:結実した姿が、各地に現存する住居遺構であると考えることができます。
以下に、そのいくつかを基に、人びとが何を考えてつくってきたか、見てみたいと思います。
註 いわゆる「民家」研究では、間取りの型の変遷、軸部のつくりかた、小屋のつくりかた・・・に分けてみる見方を採るのが一般的ですが、ここではその見方は採りません。また、「民家」という語も使わず、農家住宅、商家住宅・・・という語を使うことにします。
A-1.椎名家住宅 1674年(延宝2年) 所在 茨城県 かすみがうら市 加茂(現地保存)
1960年代の南面全景 滅びゆく民家 河島宙次著 より
1960年代の間取り(復元修理前) 滅びゆく民家 より
椎名家は、東日本に現存する建設時を確定できる最古の住居遺構。
霞ヶ浦の北部に飛び出す半島:旧出島村:のほぼ中央部に、現地保存されている。出島は、標高25m程度の厚い関東ローム層に覆われた丘陵状の地形で、微小な谷地田が数多く刻まれている。 この地には、古代以来人々が住み着き海進期の縄文時代までさかのぼる住居址、貝塚、古墳が数多く残っている。
古代の畿内からの官道(東海道)も、東京湾を横断し、房総半島を経て、霞ヶ浦を渡り出島を通り、半島の東側の付け根付近に置かれた常陸国府へと至っていた。国府跡が現在の石岡市。
また、一帯は、中世以降は馬の産地としても栄え、牧の付く字名も見られる。椎名家も、この丘陵上で馬の生産・放牧を含む農業を営んでいたようである。 椎名家は、村役を務めていたため、接客空間(ざしき、げんかん)が用意されていた。
平面図 日本の民家1農家Ⅰ(学研)より
桁行断面図 日本の民家1農家Ⅰ(学研)より転載・編集
〇で囲んだ材は貫、内法位置では、貫は付長押で隠されている。 床部分の橙色に塗った材は大引兼足固め。▢で囲んだ材は差鴨居あるいは同様の働きをもつ材。ひろまとざしき境の差鴨居は付長押を一材でつくりだしている。
西~南面 近撮
南面 近撮
どまからひろまをみる 日本の美術№287 より。
ひろまの三方には、内法付長押がまわる。奥のざしきには、小壁上の高さで天井が張られる。
左上 どま~よこざ境の出隅の柱(見付6.7寸×見込6.0寸)への繋梁の差口:枘差し鼻栓 右上 同上柱を南から見たところ(柱見付6.7寸)
柱間の横材の仕口は、ほとんどが枘差し鼻栓。
基準柱間 1間:1909mm=6尺3寸 2371mm≒1.25間=7尺8寸 ひろま、ざしきの幅:桁行幅=2.5間
材寸 側柱:スギ 3.7~3.9寸角、大戸口:4.7寸角、 内部柱:ケヤキ、シイ、土間境:6.7~6.9寸角、ざしきまわり:4.7~4.8寸角。 梁・桁、大引など:マツ。
梁行断面図 日本の民家1農家Ⅰ(学研)より転載・編集
〇で囲んだ材は貫、内法位置では、貫は付長押で隠されている。 床部分の橙色に塗った材は大引兼足固め。▢で囲んだ材は差鴨居あるいは同様の働きをもつ材。ひろまとざしき境の差鴨居は付長押を一材でつくりだしている。
左手:よこざ その奥はねまへの板戸 繋梁の鼻栓が見える。 ひろまからざしき 境の差鴨居・長押は一木、他は付長押。この差鴨居には枘に延宝2年の墨書があった。
(「第Ⅳ章ー3-A1椎名家」に続きます。)