(「筑波通信№12」前半より続きます。)
建物は、雨露さえしのげればよいか
「建物は、雨露さえしのげればよい」という言いかたは、以前の私であったなら、少なからず反発を感じたであろう言いかたであった。これは、多くの場合、「(だから建物なんて)どうでもいいんだ」と言うのと同義に私にはきこえたのである。またそれを言う人も、ほとんどの場合そういう意味で使っている。どうせお金なんかかけられないんだから、と。つまり、逆に言えば、金さえあればちゃんとした家にするぞ、という意味が言外に含まれた言いかたなのである。そしてそれ故に、そういう意味での「雨露さえしのげればよい」という言いかたに好感がもてなかったのである。どうでもいい、なんてとんでもない、金高の問題ではない、そう反発したのである。
だがもちろん、ここで行きついたこの言いかたの意味は、このような意味ではなく、もう少し本質的な意味をもつ。
「雨露をしのげればよい」的な言いかたはいつごろからあるのかと思い、ふと思いついて、久かたぶりに「方丈記」などひっぱりだしてみた(多分高校のころ以来である)。その昔読んだときには、ある種のにおいが感じられて好きになれなかったのだが、今回はそれほどにおいを感じないで読めた。私が歳をとったせいか、それともその昔の私の読みが足りなかったのか、そこのところは分らない。それはさておき、彼は言う。仮りの宿にすぎない家を、いったいだれのために苦心してつくりたて、どうしてそんなものを見てよろこぶのだろう。家の高さやきらびやかなさまを競って何になる。仮小屋(いおり)で十分用が足りるではないか。そして彼は組立式(いま風に言えばプレファブ式)の仮小屋をつくり(車二台で運べたそうだ)それを好みの場所に構えて住み家とした。彼にとって、その場所の選択が重要であったらしく、その場の場景をことこまかに描写している。その意味では、彼も、建物は雨露さえしのげればよいではないか、と言っていると見てよいだろう。
いま私が係わっている知恵おくれの人たちの家づくりは、その設立主体が少しばかり風変りである。これは、知恵おくれの子どもを抱えた親たちが、自らの先きゆきと、いまの世の状況とを考え、その設立を企図したものである。その詳細は省くが、彼らはほんの数ヶ月で意を決し、自分たちの出資金を基金とし、それに補助金、借入金等を加え、二年数ヶ月後のいま(それは長いようで、実は極めて短期間というべきだろう)初夏の開園へ向け、建物を新築中である。その経緯にまつわる諸々の事件は、それだけでもこの「通信」の格好の素材とするに十分である。
それはそれとして、その仕事に係わりを深めてゆく途中で、私はふと考えた。幸い補助金も借入金も一応の目途がつき建物の新築が実現可能となったわけなのだが、しかしもしもその目途がつかなかったならば、この親の集団は、この計画を断念、放棄してしまっただろうか、と。答は否である。彼らは断念しなかっただろう。
いま、金操りの一応の目途がつき、と簡単に書いた。しかしその目途は、たった数語のことばで書ききれるほど簡単なことなのではない。なるほどたしかに当初からそういう資金援助の制度としての利用の可能性はあったにしても、実際に使えるという保証があったわけではなく、目途がついたのは、設立運動が始まって相当経過してから後のことである。その段階で、補助金も借入金もだめだという逆の目途がついたとき、つまり建物新築が不可能だと判ったとき、「はい、そうですか」と従順にその計画を断念したとは、私には到底思えない。そのときまでの運動の、あるいは親たちの、ポテンシャルの高まりは、決してその計画の放棄を許さなかっただろうと思うからである。(つまり、それほどこの集団の動きは強烈なものだった。なにしろ、やろうではないか、という呼びかけから、やろうと心に決めた集団が結成されるまでが、たった数ヶ月なのである。常識人ならだれしも無暴と言うに決っているこの計画をやろうという者が、二十六人も、たった数ヶ月で結集したのである。)
ではそうなったとき、彼らはどうその運動の方向を転換しただろうか。多分彼らは、建物の新築がだめならだめで、別の手だて:たとえば手ごろな廃校になった建物でも場所ごと譲りうけ手を加えるとか・・・・を講じて、目ざす「知恵おくれの人たちの家」づくりを実現してしまったのではないか、と私は想像した。彼らのそれへの強い願いと、そしてその実現へ向けてのポテンシャルから考えて、それが極く自然の成りゆきだと思えるからである。
私はこういう現実にあり得そうな状況を、彼らの迫力ある行動ゆえに、言わば気楽に、他人ごとのように想像してみたのであるけれども、ふと我にかえってその状況を現実のものとして考えなおしてみたとき、私はそのことのもつ思いもかけなかった事の重大さに気がつき、がくぜんとした。なぜなら、それはすなわち、目ざす「知恵おくれの人たちの家」のためを専ら考えてつくられた建物でなくても、「知恵おくれの人たちの家」はできるのだ、ということを意昧しているからだ。「ある用途のための(あるいはある用途のためだけの)建物(あるいは建物の形)」、という考えかた(つまり「なかみ」に対してそれを容れる「器」という建物観)の虚しさが、観念的にではなく実在感をもって見えてきたのである。
そしてそのときにも、「(そうであるならば)建物は、雨露さえしのげればよい」という言いかたが、その先に、ちらちら見えたのである。
いま私たちは、先にも少し触れたように、たとえば図書館活動は図書館(という建物)で、医療は病院(という建物)で、人々の集いは公民館とか文化センター(という建物)で、・・・・子どもの遊びは児童遊園・公園(という場所)で・・・・行われるのがあたりまえだと思い、それらがなければ、そういう活動があり得ないかのようにさえ思ってはいないだろうか。事実、図書館は図書館活動のためにあるのだし、病院は医療のためにある。他も同様、ある用途のために考えられた。私もそれを認めるのにやぶさかでない。だが、その逆はほんとに真なりか。
ここで言いかたを逆にしてみよう。つまり、図書館活動は図書館という建物がなければできないか?医療は病院という建物がなければできないか?・・・・と問うてみるのである。答は簡単である。全て、基本的に、可能である。もしそれができないというなら、言わゆる発展途上国では医療は行えなくなる。仮小屋であれテントであれ、基本的には行えるはずなのだ。NHKブックスで当事者が紹介している東京・日野市で行われている図書館活動(運動と呼ぶべきかもしれない)は、いまでこそ図書館という建物もあるが、そもそもは図書館という建物なしの活動であり、そしてまた図書館という建物の建設自体を目ざした活動でもなかったと私は理解している。どういうことかと言えば、それ向きの建物が用意されているかどうかということは、その活動自体の存立には、第一義的には何の係わりもないということなのだ。活動は、基本的には、ひさしを借りてでもできるということである。そういう意味で、雨露さえしのげればよいのである。そして、それらの活動が恒常化し定着していったとき、それに、借りものでない専用の建屋が提供される。それとても、いまのようなそれらしい建物なのではなく、ただの建屋(場合によっては他の用に供してもおかしくない建屋)であったろう。それがおそらく、病院、図書館、・・・・という特化された建物のはじまりの姿であったはずである。それもまた、従って、雨露がしのげればよかった、のである。
共通の認識の基盤づくりのために
私は別に、なにごともやればできるのだ、などという精神論をぶつためにこんなことを言っているのではない。
もちろん、図書館、病院、・・・・といった建物が、雨露しのげる仮小屋で十分だ、などと言っているのでもない。
雨露をしのげる仮小屋でも(つまり、そのためを考えてつくった建物でなくても)、それを適切に構えることによって、私たちのいかなる生活、いかなる活動の場面とも成り得る(あるいは、成し得る)という事実を冷静に見つめるとき、建物づくりにあたって私たちが望んでいること、すなわち建物づくりにおいて私たちが成さなければならないこと、その本質:文字どおりエッセンシャルなことが私たちには見えてくるはずで あり、私たちはそれこそをまず見る必要があるのではないか。私が言いたいのは、まさにこのことだ。
くどいようだが、あの「知恵おくれの人たちの家」をつくろうと奔走した無暴な人たちが望んでいたものが何であったか、もう一度考えてみよう。彼らは、「知恵おくれの人たちの家」という「建物」あるいは「施設」そのものをつくることを望んでいたのか。そうではない。彼らが望んでいたのは、「建物」や「施設」という言わば物的なものをつくることではなく、知恵おくれの人たちの「生活の場面」を安定させる(安定した状態として確保する)ことであった。だからこそ私は、先に、もしも経費の確保が不十分ならば、彼らは廃校でもなんでも適当なものを探してきて間にあわせてしまっただろうと想像したのである。「建物」あるいは「施設」自体の新設というのは、あくまでもその一つの、まったく一つの、やりかたにすぎないのである。
従って、その一つのやりかたとして可能となった「建物」新設においてこの無暴な人たちが望んだことは、当然のことながら、いま極く普通にやられているような、「知恵おくれの人たちの現状をふまえ、彼らの生活形態はこれこれである、あるいは彼らのあるべき生活形態はこれこれである、と設定して、それにあわせて微に入り細に入り工夫した容器をつくる」ことではなかった。もしそうしたならば、それは、この親たちには、知恵おくれの人たちの生活が物的にも管理されている、と受けとめられたにちがいない。彼ら親たちが自ら「家づくり」に走ったのは、そもそも、既存の多くの施設では知恵おくれの人たちの生活の場面が、あまりにも管理されすぎていたからなのだ。それはなにも物的とばかり限ったものではなく、それ以前にそれ以上に、人的にも管理される場合が多いのだそうである。生活の場面が、限定された生活形態のもとに組織だてられ管理されるのである。そしてこのことは、こういった施設についてだけにある現象なのではなく、ほとんどの生活の場面についても同様なのだ。
ちょうどこの文を書いているとき、ある中学校で先生が生徒を刺したといういたましい事件が起き、TVのニュースでは、その中学校の校舎が映されていた。割れたガラスを押えるためか、それとも割れても飛散しないようにするためなのか、ガラスに紙テープが十文字に張られた窓が大写しになっている。それを見たとたん、私は戦時中の窓のガラスを思いだし、そして同時に、ある突飛な、しかし十分にあり得るある事態が目の前に浮んできた。もしかするとこれから先、校内暴力(いやなことばだ)に耐える学校建築、などという建物が欲しがられ、また研究の対象となり提案されたりしだすのではなかろうか、と。
なぜなら、建物とは生活を容れる器である、という考えかたに(単純に)従えばそうなるはずで、現に建築の専門家(と称する)人たちがやってきたこと、(そしてその考えかたに従順に従ってきた)普通の人たちが建物に対して(つい)望んでしまってきたことといえ、多かれ少なかれ、構造的にはまったく同様のやりかたなのだから。そして、窓はせいいっぱい小さく、ガラスは網入りで格子もはまり、どこからも見通しがきき陰になる所がなく、その中央に塔があり、そこにはガラス張りの職員室があって、先生がたは生徒の行動の一部始終を安全にながめていることができる。もちろん電話の回線は警察に直通。なんのことはないかつてのかんごくのような学校建築。それが理想の学校建築になる。
これはブラックユーモアか。私はそうは思わない。いま私たちのまわりにある私たちの生活の場面が展開する場というのは、多かれ少なかれこれと寸分違わぬ構造の考えかたでつくられているのだと言ってもよく、ただ、このようなブラックユーモア風極端に走っていないがゆえに、見かけの上では、気がついていないだけにすぎないのである。
ここまでくれば、先刻私が行きついた言わば逆説的な言いかた、すなわち、建物は「雨露さえしのげればよいのではないか」という言いかたの意味がお分りいただけるだろう。そのように言ってみることによって、建物をつくるということは何であったか、そして、そもそも私たちの生活の場面とは何であるのか、私たちは、専門家であるか否かを問わず、共通の基盤にたち認識することが可能となるのではないかと私は思うのである。そして、専門家が専門家である由縁のものは、まさにこういう言いかた、問いかけを卒先してできるか否かにこそかかっているのではないかとも思う。私がこの言いかたに行きついてがくぜんとしたのは、一つにはこの言いかたがものごとを裸にして見せてくれるそのすごさのせいでもあるが、もう一つには私自身そのような問いかけを自らに課したことがなかったことに気がついたからなのである。
あ と が き
〇二年目もなんとか無事に済みました。ひとまずほっとしています。
〇正直言って、二ヶ月に一度に改めようかと思ったこともありました。大体月の半分はこれを書くのに使ってます。と言って朝から晩までではありません。言うならば空き時間を使うのです。それで数えて半月なのです。ちょっと書いて別のことをやることになります。別の仕事が終わってまた書きだす、このくりかえしです。書きながら考える、言わばそんなやりかたなので、この中断は結構役にたちます。別の仕事をしながら、さっきああ書いたけれども、こう書いた方がよかった、だとか、あれはむしろこういうことだ、とか思いつきます。ときには書きなおすことになります。今回の場合がそうでした。これでいける、そう思って書きだしたのですが、途中で進めなくなってしまいました。一日すぎても一ページも進まないのです。そんな日が一週間近く続きました。先が見えないのです。二月が普段の月より三日少ないのがうらめしく思えました。あせりました。書いてみては別の仕事から戻ってきてすぐ書きなおし、こればかりやっていて、少しおくらすか、などと思っていたとき、例の中学校の事件がありました。そのTVで校舎の姿を見ていて、急に話の展開のやりかたが見えました。だから今回の文の大半は、あの事件のあと書いたものです。しかしそんなわけで調整するひまがなく、読みにくく分りにくいと思います。
〇ひまがあったら、この話はもう一度、こんどは建物をつくるとは何かということに焦点をしぼって書いてみようと思います。
〇それはそうと、先号についても、もう一度整理しなおして書き改めるべきだというきつい忠告をいただきました。
〇岩波新書に「日本の私鉄」というのがあるのを最近知りました。私があちこちひっくりかえして探した開業年月など、みんな詳しくまとめてでています。がっくり。でも、開設の背景については(私の言うような背景については)全く触れられていませんでした。ついでに言えば、あの号(1982-12第9号)は、割とよい評が得られました。たまにはそういうこともなくては。
〇この一月にわが村の村長選挙がありました。いま村の人口は、旧村1に対して新住民2ぐらいの割合だと思います。(詳しい数字ではありません。とにかく新の方が多いのです。)そこで新の側の特におえらいさんたちが軸になって、村長の言うならば乗っとりを企てました。候補者をたてたのです。単純計算で勝つと思ったのでしょうね。でも見事に失敗しました。よいことでした。新の人たちは新の人たちのことしか考えませんものね。
〇今年度もこの号で終りです。拙い文を読んでいただき、ほんとうにありがとうございました。四月からまた気分を一新して書こうと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
〇いま、この通信を読んでいただいている方々は、数の上では決して多くありません。郵送させていただいている方が49名。あと手渡している方が10名内外です。どの方もどこかで私が知りあい、私に大きな刺激を与えてくれた人たちです。
〇重ねて、来年もよろしくご批評のほど、お願いいたします。
〇それぞれなりのご活躍を!
1983・2・25 下山 眞司