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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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1882年4月 「筑波通信№1」

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PDF「筑波通信 №1」1982年4月 A4版10頁   

     「筑波通信 №1」 1982年4月

      十人十色・・・・人それぞれ、それぞれの人

 降ったとも知らずにいた夜来の雨で、乾ききっていた地面も生気を帯び本来の土の色にもどっていた。空気も湿り暖かく、あたりもかすんでいる。もう少し日ざしが強まれば陽炎の季節だ。山々の葉の落ちきった木々も、いつの聞にか、冷たい灰色から暖か味を増した灰色に変っている。しかし、ふと目を遠くにかすむ少しばかり高い山の方に向けると、そこには未だ冬が残っている。昨夜の雨もそこでは雪だったらしく、新雪がまばゆく輝いている。そちらの方から下りてくる風も、心なしか冷たく感じられる。

 こういうころ、山あいの村々を歩くのが私は好きだ。ここ二年ほど、ある仕事のため、関東平野を東西に、もう数えきれないほど往復してきた。平野のそれぞれの季節の情景も、そして季節が少しずつ移り変ってゆくさまも、一見の客の目に映るようなものとしてではなく、より確かな目で見れるようになってきたように思えている。全く同じ一つのものも、見るたびに新鮮に見え、それとともに、そのものが、その存在のさまが、より確かなものとなって私のなかに定着してくるようなのだ。今日もまた、夜来の雨が新しい情景を描きだしてくれたせいか、全てが新鮮に見えてくる。いま私は、後方:東の方に広くかすんだ関東平野を遠く望みながら、平野の西端、言わゆる関東山地のふもとの町や村の中を車で走っている。

 昔ながらのつくりの店や現代風なそれがごちゃごちゃとならぶ街なみをはずれ、道は多分地形なりについているのだろう、微妙に曲りくねりあるいは小さな起伏をくりかえし、気がついてみると川沿いに少しずつ山あいへと向って登っている。

 そういうとき、突然目の前に、実に見ごとな屋なみ:屋根の重なりあいがつくりだす村の風景が拡がることがある。思わず、いいなあ、ということばが口をついてでる。ほっとする。安心して見ていられるのだ。このあたりの家々は大概切妻づくりの総二階、屋根は瓦ぶき。と言ってもてらてらとは光っておらず、どちらかと言えばにぶい色を放っている。切妻づくりの単純な形とその勾配のせいか、重くもなく軽すぎるでもなく適度な重さをもって見えてくる。ときおり混じる土蔵の白壁が、やけに白く目に映る。家々のまわりに遠く近く、屋なみの背景をなすあの温か味を帯びた灰色の山林のなかに散らばるぼやっとした白いかたまりは、あれは多分いまが盛りの梅の花だ。

  こういう見ごとな屋なみの光景は、別の季節にも、もう何度となく見てきているのだけれども、木々が葉をつけているときは、屋なみもまた木々の緑に埋もれてしまい、こうはくっきりと見えないのである。もちろん四季折り折りの光景もそれぞれがそれなりの風情をもってはいるのだが、例えば真夏の暑さのなかでじわっと静まりかえっているのもきらいではないけれど、ちょうどいまごろの、冬の静けさからさめ、これから先のにぎわいを予感させるような風光が、私は好きなのだ。

  

 おそらく、こういう屋なみを初めて見る人には、家々がどれもこれも同じ家のように見えるはずである。先にも触れたように、この辺の家は四寸か四寸五分勾配の総二階切妻づくり、大体東西に長い長方形の平面で棟も東西に走る。庇の出は四周とも深く、ときには六尺近くもあろうかと見えるものもある。二階の長手には:つまり南面ということになるのだが:出し桁づくりと通称する手法による出窓様のつきだしが延々と全面にわたってついている。先ずどの家も同じだと言ってまちがいではない。屋根面も従ってかなり大きい長方形となる。そういった家々が、南へ向いたゆるい斜面に、ほぼ等高線に平行に長辺をそろえてならんでいるので、山はだは同じ向き、同じ形をした瓦屋根で幾重にも重なったようにおおわれてしまうことになる。自然、同じ家が同じ向きにひしめきながらならんでいるように見える。だから、ときおり混じる寄せ棟や入母屋づくりの家は、何か異様のものに見えてしまうほどだ。

 けれども、このどれもこれも同じように見える家々も、二度三度と見てくると、あるいはじっくりとながめてみると、実は一軒として同じもののないことに気がつく。同じようでいながら、一軒一軒にそれなりの顔がある。だから、そういう村うちの道を歩いていて、目の前に次々と表われる家々は、一軒一軒違っていて、我が筑波研究学園都市の公務員住宅のなかの道(一般的な例で言えば、各所の公団住宅団地内の道)で体験するような、ここもあそこもみな同じに見える、などということはまずない。ここでは、一見同じようでいて、十軒十様の顔をしているのである。

 この山あいの村に入りこむ前、町の街なみをはずれたあたりで、向いの山の斜面に、最近関発されたらしい住宅地を見かけた。そこにも、建設中のも含め、住宅がひしめいていた。と言っても、都会周辺のそれとは違い、かなりゆったりと建ち、ことによるとその家々の混みかたは、この辺の村々のそれと大差ないのかもしれないと思えた。しかし、これが村々の屋なみと全く違う点なのだが、この住宅地の屋なみは、まさに見るからに一軒一軒が異なり、はっきりと十軒十様のさまを呈している。

 ここで私は、同じ十軒十様ということばを用いているのだが、明らかにその内容はそれぞれ異なっている。この二つの風景は、質が違うのだ。いったい、この違いは何なのか。何故なのか。単に、社会が変り、生活が変り、技術が変り・・・・そして人が変った、そのせいなのか。そして、だから、昔といまで違いがあってあたりまえ、昔のもの、それは消えてゆくもの、違いは何なのか何故なのかなどと問うこと自体無意味なことなのか。私はそうは思わない。むしろ、この違い、この違いを生じさせているなにものか、そこに重要な問題があるはずなのだ。この違いは、一考に値するのだ。

 

 結論から先に言えば、このいまと昔の風景の違いは、その成りたちの違いであり、それは、唐突に聞こえるかもしれないが、「人それぞれ」ということ、つまり個人ということ、に対しての、いまと昔の理解のしかたの違いに拠るのだ、そのように私は思う。

 私はいままで度重ねて「人それぞれ」ということに対して、あらためて見直すべきだと書いてきた。なかには、何をいまさら、と奇異に感じた方もあったのではないかと思う。あの戦前、戦中の八紘一宇の時代ならいざしらず、この戦後の民主主義の時代では、そんなことは言うまでもないではないか。個人は個人、人はそれぞれ、それはあたりまえであって、いまさらことあらためて言うこともない、と。

 しかし、人それぞれということは、そんなに単純なことなのだろうか。人それぞれということ、それはいったいどういうことなのか、考えなおしてみる必要もないほど、それは分りきったことなのだろうか。

 

 いったいいま、私たちの極く一般的な設計や家づくりの場面では、この人それぞれということに対して、どのような態度がとられているか。

 あたりまえだと思われているのは、個人が建てる言わゆる個人住宅はその個人個人に応じてそれぞれなりに建てられる、しかし、現代の都市化社会の必然として生じた大量供給の住宅づくりの場面では、個人個人に対応するというわけにはゆかなくなる、つまり、対象の個人を特定するわけにゆかず、言わば不特定の多数を相手にすることになる、だから一人一人に対してそれぞれの住宅を用意することは現実間題として不可能である、そうかと言って住宅の形が決まっていなければ建てられない、そこで、ある一つの形を決め、それをその多数に対応させざるを得なくなる、ざっとこういう考えかただと言ってよいだろう。要するに、その根底には、人はそれぞれそれぞれがまるで違うのだから、本来、その家も一軒一軒人それぞれに応じて全く違う形をとらなければならない。あるいは別々の形をとって然るべきなのだ、とする考えがあるのだ。そうであるから、個人が特定できない大量供給の住宅や、あるいはその利用者・使用者を特定の個人に限定することのできない言わゆる公共建築の設計の場面では、この不特定多数の数だけある使用・利用のさまをどう一つに括りこむかが大問題である、と考えられるようになる。

 実際ここ三・四十年、この不特定多数の人々:使用者・利用者のニーズをどうとらえるか、あるいはどうやってその最大公約数を算出するか、これこそが個人の建てる住宅のようにはその対象が限定できない言わゆる公共住宅、公共建築の設計の場面で(そして全く同様に大量生産品言わゆる工業製品の設計の場面で)設計者・デザイナーそして関係の研究者たちの頭を占領していた問題だったのだ。

 そしてこの間、この考えかたに対し、さしたる疑問をだれも抱かなかったと言っても、決して言いすぎではないだろう。使用者・利用者あるいは注文者としての普通の人たちもまた、こういう考えかたにいささかも疑いをもたず、それ故、個人で住宅を建てることができる場合には、せいいっぱいその個性:それぞれの違いという意味での個性:を具体化するものだ、そう思ってきたと言って、これもそれほどまちがっていない。これは、いま新聞その他ではなやかに宣伝されている〇〇ハウス、〇〇の家‥‥などの、その買い手に対するセールスポイントを見れば、そこに明らかだろう。これらは個人で家を建てるその個人を対象としているわけで、その底に流れているのは、いかに人それぞれであることを発揮せしめるか、言い換えれば、いかに他人との違いを(そうすることが人それぞれを示す近道であるとするが故に)形あらしめるか、という考えに他ならない。

 まるでそれは、人それぞれということは、人それぞれがその見えがかりに表われる違いを競いあうことにより表出するものなのだ、とでも言うかのようだ。(実際にいま、大量生産品のデザイナーの最大の関心事は、その買い手である個人の、人と違うという意味での人それぞれ感を個々人にいかに抱かせるかにあるのだそうである。となりの〇〇が小さく見える!とか、これには〇〇がついてます、とかいう宣伝は、まさにこのことを示していると見てよいだろう。)

 大ざっぱに言って、これがいま普通にものづくりの場面で考えられている人それぞれだとみてよいと私は思う。

 

 そして、端的に言って、こういういまの普通のやりかた、すなわち、人はそれぞれまるで違うのだから、それに対応するものもまた本来それぞれ全く違って当然で、しかし対応相手が特定できないときは止むを得ず何らかの形で一つにしぼりこむという考えかた、その結果が現代の街並み・屋なみをつくりだしたのである。一方で全く画一的で同一の文字どおり寸分違わぬ建物が建ちならぶかと思えば、その一方では全く逆に見るからに十軒十様の建物が建ちならぶ、こういう全く対極の風景が次々にこの同じ考えのはてに生みだされ、そしてこの二つの分極した風景のはざまに、まさに所在なさげに、昔ながらの村々の風景が残っている、これがいま私たちの目のあたりにする街なみ・屋なみの全景に他ならない。

 それでは、このはざまにはさまれて、もはやその存在さえも危うくなりつつあるあの昔ながらの村々の風景:よく見ればそれぞれの顔を持ってはいるが、一見する限り同じように見える風景:これはどう解釈したらよいのだろうか。それを成りたたしめた時代、人それぞれがそれぞれであるという考えがなかったからなのか。封建時代・制度のもと、人々はその個性の表出を制限されていたからか。しかしいずれにしろ、いまあたりまえの考えかたでは、その解釈はできないだろう。過去の遺産、そう切って捨てるしかないはずで、現にそうしつつある。価値を認めるとすれば、文化財として、そして観光資源としてのみだ(いま、文化財=観光資源となっているのはまことにいまをよく象徴する興味ある現象だと私は思う)。

 

 十人十色ということばがある。辞書によれば、人の好む所、思う所、なりふりはそれぞれに違うこと、とある。人はそれぞれだということである。しかし、それは単純な意味でさまざまだということなのだろうか。

 そこで、私たちがこの十人十色という言いかたをする場面をいろいろと考えてみると、それは決して単にさまざまだとかいろいろあるだとかいう場合に使われるのではなく、かなり限定された場面においてのみ使われるということに気づく。さまざまな国のさまざまな人が集まっているからといって、あるいはスキー場でいろとりどりのスキーウェアが花咲いているからといって、それを言うのに十人十色だとはまず言わないと思う。このことばが私たちの口をついてでるのは、ことあらためて人それぞれということを、私たちが意識させられたときなのだ。

 つまり、普段は人それぞれだとか、あるいは互いに互いを意識するなどということもなく、まずなにごともなく平然とすごしていたのが、あることをきっかけに、急に互いに互いの違いが目に見えてくる、そんな場合にこのことばが使われるようなのだ。例えば、ある目的のための具体的な行動の方針を決めようとするような会合で、目的自体はなにごともなく了解されているのに、具体的なやりかたについていろいろな案がだされ、それぞれ一理あって決め手を欠き、どうにも一つに決めあぐね、まとまる見通しもたたないままお開きとなり、なんとなく白けた気分で、似た考えをもったもの同志、あらためて考えの多様さに気がつき、先を思い、なかば嘆くようにぼやく、そんなとき「十人十色だからなあ」などという具合にこのことばはとびだすのだ。辞書の説明の言う「思う所」の違いである。

 あるいはまた、これは辞書に言う「好む所」の違いにあたるのだろうが、ある場面で、そういう場合めったに見かけないような格好の服をきた人が現われ、それが意外とその人にも場面にも合ってさまになっていたりして、そんなときにも、これもなかば感嘆の気もちをこめて、このことばを口にする。つまり、このことばには、互いに互いの違いをあらためて発見し、感嘆、驚嘆、あるいは慨嘆する、そんなニュアンスがこめられていると言えるだろう。

 ここで注目しなければならないのは、この十人十色ということばが意味する人それぞれのそれぞれの人というのは、決してその人それぞれが互いに無関係なのではなく、むしろ全く逆で、互いに関係しあう「お互い」の一員である、という点である。すなわち、互いにある場面・局面を共有していて(しかもそのことは普段意識しておらず)、その上で、人それぞれのふるまいかた、思う所、好む所がそれぞれに違う、そういうことをこの十人十色という成句は言っているということだ。

 こうしてみてくると、私たちはそれほど深く考えもせずにあっさりと「人それぞれだ」と思っているけれども、人それぞれである、ということばの意味には、そのそれぞれの解釈のしかたにより、明らかに二様あり得るのだということが分ってくるように思う。すなわち、無関係のものが多種集まっているが故のそれぞれ:多様という意味と、同種のものが集まった上でのそれぞれ:多様という意味、この二様である。簡単に言えば、根っから違うのか、それとも根は同じであるか、この二様である。そして、十人十色で意味するものは、先に見てきたとおり、明らかにこの後者の意味に他ならない。

 そして、あらためて考え直してみるまでもなく、いまの私たちにとってはなかばあたりまえになっている言わゆる現代的な考えかたでは、人それぞれということ、あるいは個人ということについて、明らかにこの前者の意味、すなわち、多種でありそれ故の多様であるという意味で考えられているのである。人は互いに、もう根っから違うものなのだ、これが当然のごとくに前提となっている。従って、人の集団とは、この根っから違う個人の群れであり、だから互いに無関係であり、互いに共通の場面というものは、そもそも存在しない、それぞれが独自の場面をもっている、そういうことになるはずだ。ただ、現代的な考えかたのなかみがこういうものであるということについて、そのなかに埋もれこんでしまっている私たちは、少しも気づいていないのである。

 

 私たちは、よく対話あるいはコミュニケーションが不足しているとか、だからそれを回復しなければならない、ということを言ったり聞いたりする。しかしいったい、互いに無関係な間がらの人と人の間のコミュニケーションというのはどうしたら可能と考えるのか。コミュニケーションを回復しなければならないということは、言うまでもなくそれが存在していないからこそ言われるのであって、そうであるならば、ただ単に回復させようと説いたり唱えたりさえすれば済むわけがなく、いったい何故それが存在しないのか、しなくなったのか、それをこそ先ず問われて然るべきだろう。そうすれば直ちに、互いに無関係な人の集まりなのだという前提を私たちが固持している限り、コミュニケーション:対話というものは、そもそも存在し得ないのだということに、私たちは気づくはずである。それは、ある局面を共有できるという前提があってはじめて成りたつものなのだからである。

 つまり、現代的な人それぞれ観を持つ限り、対話は存在しなくてあたりまえなのであり、コミュニケーション不足を嘆くこと自体が矛盾したはなしなのだ。であるにも拘らず、私たちはその不足を嘆き、回復を望み、そしてその必要を説く。

 ならば、私たちは、その前提を問いなおさなければなるまい。

  いったい、私たちにとって、「人それぞれ」ということの正当な意味は何なのか。


 和辻哲郎がその著書「風土」の冒頭で、私たち(日本人)がよく交わす時候のあいさつについて触れ、次のように書いている。

 ‥‥寒さを体験するのは我々であって単に我れのみではない。我々は同じ寒さを共同に感ずる。だからこそ我々は寒さを言い現わす言葉を日常のあいさつに用い得るのである。我々の間に寒さの感じ方がおのおの異なっているということも、寒さを共同に感ずるという地盤においてのみ可能になる。この地盤を欠けば他我の中に寒さの体験があるという認識は全然不可能であろう。‥‥‥(太字は原文)

  人それぞれとは、言い換えれば個々の私ということだ。私と他人の関係について述べたこの文章ほど、人それぞれということについての、簡にして要を得た、そして説得力のある説明はないと私は思う。人それぞれというのは、本当はこういうことなのだ。先に、十人十色ということばの使いかたを検討したときに見えてきたそのことばの意味、すなわち互いにある共通の基盤を認めあった上で、それに対する個々のふるまいかた:身の処しかた、つまり「思う所」「好む所」はそれぞれに違うのだということ、それこそが「人それぞれ」ということなのだ。そしていま、私たちは、そもそも人と人との関係はこうであったということ、いや人であるということはこういうことなのだということ、それをすっかり見失い、忘れてしまっているのではなかろうか。

 考えてみれば、もしこうではなく、私たちが何の共通の基盤もない、持たない、持とうとしないそれぞれであったのならば、私たちの間にはもはや、ことば:言語など存在しないはずであるし、そもそも存在しなかったはずだろう。先号でも書いたように、私たちが〈冬〉ということばを持っているのは、私たちそれぞれがそれぞれの冬の事象にめぐりあい、それぞれ違うイメージを抱きながらも、「冬」という概念を共有し得ているからなのだ。だからこそ、互いに冬を語ることができる。

 そして、このことを更に理解しようとするならば、「方言」というものの存在、あるいは「地名」のつけかた、などを思い浮かべていただければよいだろう。まさにそれは、ある土地に住む人たちの共通基盤の存在をもの語るものだからである。

 

 このように考えなおしてみると、あの昔ながらの村々の風景の成りたちが、よく理解できる。

 その土地に住む人たちは、その土地に対して共通の認識を持っている、ひらたく言えば、同じものを見ているし感じているのである。そして、その上で彼らは生活をしている。その土地との係わりかた、彼らにとってのその土地の意味、そういう所で生活を営むことの意味、それは共通なのだ。互いに違う点は、その共通に認識していることの、個々人の言わば運用のしかたの違い、あるいは、そのとりこみかたの違い、つまりその共通の基盤に対しての思う所・好む所の違いにすぎないのである。

 家の間取り、屋根のかたちも、屋敷の構えかたも、そして敷地の選定についても、長い間のその土地での体験の蓄積のなかで、その土地で生活してゆく上での適切なやりかた:方針(それは思想と言ってもよく、必らずしも目に見える形をなしているわけでないから、一見の客には直ちに見えるとは限らない)というものが共通に認識されていて、違ってくるのは、個々人のそれぞれの家でのその方針の具体化の場面においてなのだ。だからこそ、同じようなものはあっても同一のものはなく、逆に同じような点が何一つないなどというものもないのである。場合がそれぞれ違うからといって、方針を崩すわけではなく、あくまでも同じ方針のもと、個々それぞれの場合に応じて、言わば臨機応変にその具体化にあたっている、と言ってよい。

 そしていまは、ある土地に家を建てる人たちは、その土地に対しての共通の認識を持たず、また持とうともしないのだ。それぞれは、それぞれの地面としてのそれぞれの土地:敷地に対してのみ、しかも彼だけにのみ分る、認識を持つだけなのだ。

 

 「突然目の前に、実に見ごとな屋なみ、屋根の重なりあいがつくりだす景色が拡がることがある。思わず、いいなあ、ということばが口をついてでる。ほっとする。安心して見ていられるのだ。」 私はこの号の初めで、こう書いた。私のこの感想は何か。私はそこに何を見たのか。私はそこに、単に美しい絵を見たのではない。言ってみれば、そこに私は、そこに住む人たちの共通基盤を見たのである。より正確に言えば、その土地に私が住むとしたら、私がその基盤とするであろう、同じものをそこに見たのである。私がその土地を見て得たものが、そこに住む人たちの得ているものと変らない、私もまた彼らと共通の基盤を共有できる、つまり私がやるだろうと思われることと、彼らがやっていることが一致する、すなわち、分った(という気になれた)のである。だから素直にその世界になじんでゆけ、それがあの感想となるわけなのだ。

 しかし、現代の住宅地の風景には、残念ながら私は、私と共通になる基盤はもとより、そこに建っているそれぞれの家の間の共通基盤をも、全く見ることができない。けれどもそれは、私に見る力がないからなのではない。それらがもともと共通基盤の存在を否定したところで生まれたものだからなのだ。最初から、互いに分るということが拒否されているからなのだ。人それぞれとは、根っから違うこと、そう思うことに根ざしているからなのだ。だから、他人は絶対にその世界にはなじめない。

 大抵の場合。こういう風景は雑然としてめちゃくちゃな印象を与え、それを前にすると必らずと言ってよいほど、「環境との調和」ということが説かれるのであるが、私には、このことばをそのまま素直に受けいれる気には少しもなれない。なぜなら、調和があるとか、調和がないとかいうことは、単純にその見えがかり:表に現れた形の上だけでの話であるはずがなく、従って当然、よく言われる修景などという表面的な処理だけでことが済むようなことであるはずもなく、そもそもその因は、先に書いたように、その表面にあるのではなく、その成りたちの根底にひそんでいるのだからだ。

 

 おそらく、設計という作業において基本的になされなければならないことは、ある場面・局面における(人々あるいは私たちの)この共通の認識となるもの:共通の基盤を探すことなのだ。それは先ず、いかなる局面におかれているかを見ることであり、そこにおける十人を、根っから違う十人としてではなく、その局面におかれている十人だとして見ることからはじまるだろう(昔はこれがあたりまえだったから、意識せずしてそうしていた。いま私たちは、意識してやらねばならない)。従ってその十人に対して、根底から違う十品を用意するのではなく、その十人にとって共通の認識たり得る一品を探すことが、この作業の主たるなかみとなるのである。(そして、ふと考えてみれば、この共通の認識となるものこそ、私たちがつくるものの言わゆる機能というものなのではなかろうか。)それから先の個々の違いは、それは全く臨機応変的に言うならば応用問題を解くことにより生ずることでしかない。そこにおいて、好む所・思う所の違いがでてくる、これが正当なことなのだ。

  しかし、ここで誤解されては困るのだが、この共通の認識、共通の基盤というのは、あの戦前・戦中の八紘一宇的に、私たちの外から一方的一元的に与えられるものではない。決してそうではなく、また決してそうあってはならず、そして決してそうなるものではない。それは、あくまでも、私たちのもの、私たちの内から生まれるもの、前号の言いかたで言えば、私たちが私たちそれぞれの冬を語るうちから生まれるものなのだ。私たちが私たちの感性に自信をもって依拠することによって生まれるのだ。

 戦後、あの八紘一宇の崩解を目ざして、根っから違うという意味での人それぞれが強調されたのも、それは歴史のゆきがかり上、むしろ当然であっただろう。しかし、この対極へ走ったために生じた互いの共通基盤の無視は、それがためにまたいつ八紘一宇的共同意識の効用が説かれるきっかけとなるか、しれたものでない。反動がまた反動をよぶのだ。対極へ走ったものは、また容易に対極へ走るだろう。既にその徴候が各面で現れている。

 だからこそ、私たちは「私」たちであり「私たち」でなければならないと私は思うのである。それ以外に、どうしたら人がそれぞれであり得ようか。人間的であるということがあり得ようか。



あとがき ・・・・通信続行のことばに代えて

〇一年が過ぎ去るのは速い。私がこういうことをやってみようと心に決めたのが、ちょうど昨年の今日であった。その一週間ほどまえであったか、卒業する学生が私を訪ね言いおいていったことばが、その数日間というものずっと私の頭にこびりついていた。なにかしなければだめです、そう言われたって、いったい何ができるだろう。そしてその日、その学生が再び、筑波を離れるあいさつのため寄ってくれた。そうか、今後は何か疑問が生じても、こういう貝合に話しあうなどということができなくなるのだな、そう思ったとき、実はこの通信という方法が頭にわいてきたのである。そして、深くも考えずに、あとはご承知のとおり、無我夢中のぶっつけで一年が飛び去った。

〇それにしても、私の拙い文章、勝手な言い分を我慢してお読みいただいたことに対しては、お礼の言いようもない。

〇それに甘えてことしも、少しはましな文章、内容をと心がけつつ、続行しようと思う。昨年同様、ご批判いただければ幸いである。

 〇・・・・学生時代は、物にはその物がそうあらねばならない形(機能?)というものがあり、そしてそれにより美しい形:スタイリングを与えると考えていました。・・・・(しかし)人間が自分の趣味・好みを超えて美しいと思うものというものはなく、その物がよいとかいう意識は、すべて個々の人間の好みによっているのではないでしょうか。・・・・

〇だとしたら、デザインとはどういうことか。これは、いまある家電メーカーのデザイン部に勤めているインダストリアルデザインを専攻した卒業生からの便りの一節である。

〇今号のテーマは、この便りを読んでいるうちに思いついたのである。しかし問題は多岐(の局面)にわたり、一回で済みそうもなく、今回はそのうちのほんの一部についてしか考えてみることができなかった。それが「人それぞれ」ということなのである。けれどもそれは、根本的な問題なのではないかと私は思っている。

〇昨年度最終号「冬の情景」に対しては、かなりの人から〈それぞれの冬〉が寄せられた。冒頭の冬の情景の描写が、それぞれの方の内にあった冬の情景を呼び起こしたもののようである。あるいは、日常の忙しさに紛れて見失っていたことを思い起こさせたもののようである。それは全くこの冬の情景の便りを寄せてくれた人の描写:感性のしからしむるところであって、残念ながら私の文章のせいではない。私はただ、それを使わせてもらっただけだ。先号のテーマは、実は、この便りに触発されたのである。

 〇それぞれなりのご活躍を! そして、その共有されんことを!

    1982年3月25日                   下山 眞司 


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