(Ⅲ-1-5 より続きます。)
浄土寺 浄土堂の壁仕様――壁に耐力を求めていない
当初の小舞 竹小舞ではなく木小舞 当初の土壁
「国宝 浄土寺 浄土堂修理工事報告書」より
・・・・(浄土堂では、)建具の入る部分以外の壁面は、飛貫より下の比較的面積の大きいところは横板壁とし、面積の小さい飛貫・頭貫間および頭貫・母屋間とは土壁としている。
註 横板壁嵌板(はめいた):幅1.35尺×厚0.16尺(約41cmx4.8cm)程度 外周 隅柱:直径2尺(約60cm)。 平柱:直径1.8尺(約54cm)
壁下地は、間柱(まばしら)・横間渡(よこまわたし)・小舞(こまい)よりなる。
間柱は見付0.20尺×見込0.25尺(約6×7.5cm)の断面をもち、飛貫・頭貫間では3等分して2本、頭貫・母屋間には柱間中央の遊離尾垂木(ゆうりおだるき)によって2分された区画内に1本ずつ立てる。 この間柱の上下両端はともに枘(ほぞ)を造り出し、下端は枘穴にすべり込ます。
横間渡は、この間柱の上下方に各1本ずつ、計2本通し、それぞれ楔締め(くさびじめ)とする。その断面は0.20×0.05尺(約6×1.5cm)。 小舞はすべて割り肌そのままの木小舞で、当然のことながら寸法は一定せず、ほぼ幅は0.05~0.10尺(約1.5×3cm)、厚さは0.02~0.03尺(約6×9mm)程度である。 小舞の掻きつけは、先ず幅広のものを間柱1区画内に4本あて間渡に縄がらみし、これを支持体として横小舞を一定間隔に間渡側に掻きつける。 そして後、縦小舞を両面にあてがい、小舞縄を前後に出し入れしながら千鳥に順次掻きつけて行く。
この縦小舞を留める縄は、上間渡の上方と下間渡の下方にそれぞれ1通り、および両間渡間に2通りの計4通りである。結局、小舞は中央に横材を、その両面に縦材を用いるいわゆる三重小舞で構成されることになる。
この結果、小舞としての厚みは、すべてで約0.10~0.12尺(約3~3.6cm)程度となり、先の間柱の見込み0.25尺(約7.5cm)の範囲内に納まる厚さである。 これらの小舞材は、すべて杉材を用い、また小舞縄は、稲藁を4~5本より合せた直径約1分(約3mm)程度の太さのものであった。
・・・・ 当初の壁は、前記壁小舞に荒壁を塗立て、その上に直接仕上げの上塗りを施しただけの単純なもので、後世のようなむらなおしや中塗りなど工程を重ねるものではなかった。壁厚も比較的薄く、上塗りを含め全体で0.30尺(約9cm)程度で、このことは、荒壁土の組織が粗でしかも藁苆(わらすさ)の混入も少ないこともあって、亀裂や剥落のしやすい状態にあった。
・・・・当初の上塗り材は・・・いわゆる白土(はくど)と呼ばれるもので・・・あった。 註 白土:火山灰または火山岩の風化した土。二酸化珪酸・珪酸アルミニウム。
現在、木造軸組工法による架構の耐力は、軸組間に設けられる壁によって得られると見なされ、それゆえ、文化財建造物についてもその考え方によって補強・補修等が行なわれています。
しかし、浄土寺浄土堂、東大寺南大門など約800年を越える年月を建設時の姿を維持してきた大仏様:貫工法の建物では、上記解説のように、壁は軸組間の充填材にすぎず、構造耐力は架構それ自体によって得られる、と考えていることは明らかです。大仏様以前でも、寝殿造など壁の少ない建物が古代以来可能であった事実から推察すると、古代以来、壁はあくまでも軸組間の充填材に過ぎないと考えられていたものと思われます。そして、壁は軸組間の充填材であるという考え方が日本の軸組工法の基本であったことは、古今を問わず、軸組間を壁あるいは開口に、随意、任意に置換している事例が多々ある事実に示されています(壁に耐力を期待していたならば、このようなことは不可能です)。
(Ⅲ-1 浄土寺 浄土堂の建て方手順 に続きます。)