福井県・高浜の原発再稼働に対して、隣県の滋賀県の方がたの提起した「稼働を差止めよ」との訴えに対して、大津地方裁判所の下した「稼働停止」の「判断」を知った時、何かしらホッとしたのを覚えています。それは、最近、最高裁が下した認知症の方の保護監督のありようについての「判断」を知った時も同じでした。
いずれも、一般の人びとの感覚に添った(つまり一般の人びとの「常識」に合う)判断であったからです。
五年前、《想定外の》自然災害により起きた《絶対安全な》原発の爆発事故に遭ったときに皆が感じたはずの「思い」「想い」は、歳月とともに忘れ去られようとしている、そんな感じを抱かざるを得ないような近頃の状況です。
たとえば、わが宰相は、原発の稼働について、最近、「資源に乏しいわが国が経済性、気候変動の問題に配慮をしつつ、エネルギー供給の安定性を確保するには、原子力は欠かすことができない」と語ったそうです。福島の過酷な状況・情況が、まったく分ってないとしか思えません。「安全性の確保が最優先で、国民の信頼回復が何よりも重要だ。」とも付言しているようですが、単なる「美辞麗句」に過ぎないことは明らかです。
あるところで、日本国憲法9条は、日本国憲法第13条あってはじめて保証されるのだ、という論があることを知りました。第13条は次の文言になっています。
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
「経済」の語源、「経世済民」は、つまるところ、この文言の言うところと同じです。つまり、宰相の(頭にあると思われる)「経済(性)」は、本来の「経済」とは別物なのです。
ここしばらくの新聞各紙の社説を読み比べてみました。
大手紙が一紙だけ、宰相と同じ「論」を述べていましたが、多くの社説は、先の「大津地裁判断」を是としていました。
その中で、明解にして明快に論じているのが東京新聞で、同紙は、五年前の社説も再掲していました。論旨は、この間まったくブレていない。以下に web 版から転載させていただきます。
昨日の毎日新聞夕刊に、歌手のクミコさんへのインタビューが載っていました。そこに次のように彼女の言葉が紹介されています。同感です。
・・・それにしても、とクミコさんは思う。私たち日本人の忘れっぽさのことを。
「だるま寺へ向かうため、京都駅に降り立ったとき、暗かったの。もちろん東京駅も薄暗かった。24時間こうこうとしていたコンビニも自動販売機も光を落とした。日本列島が暗かったじゃないですか。あの暗がりの中で、日本人は大きな不安を抱えながらも、これからの社会をどうしていくかについて、皆で真剣に考えたはずなのに。それが5年たって、どうですか。震災前とたいして変わってないですよね」
五年前の記事を読み返してみました。一月後に紹介させていただいたある教師の方からいただいたメールに、原発事故当時の状況が克明に記されていました。
追記 [15.30追加]
今日11日付の毎日新聞「記者の目」もご覧ください。