梅雨空の下、咲き誇るムクゲ。
「国立競技場」の件、だいぶ騒がしい。
この競技場の「計画案」については、当初から、「斬新なデザイン」という「表現」が使われ続けてきました。相変らず使われています。
これに、私は、当初から「違和感」を感じ続けてきましたが、ずっと黙ってみてきました。
しかし、やはり、これは看過できない、看過してはならない、「異議」を唱えておかなければならない、と思うようになった次第です。
「斬新」とは、「新明解国語辞典」には、「趣向がきわだって新しい様子」とあります。
「新漢和辞典」には、「斬」は唐時代の方言で、「はなはだ・きわだって」の意で、ゆえに「斬新」とは「非常に新しい」こと、とあります。「広辞苑」も「新明解国語辞典」と大差なく「趣向のきわだって新しいこと」とあり、用例に「斬新奇抜」とあります。
「趣向」とは、物事を実行したり作ったりする上のおもしろい(変わった)アイデア」とあります(「新明解国語辞典」)。
「デザイン」は、訳語として、一般に「意匠」があてられますが、「意匠」とは「趣向」の意と解されています。
要するに、「斬新なデザイン」とは、「(競技場としては)目新しい、今まで見たことのない(奇抜な)形」である、ということになるのでしょう。
しかし、いろいろ語られているなかで、「競技場とは何か」という論議がまったく見られないのが、私には不可解でした。
私の見解は、きわめて簡単です。この計画案の形態には「形の謂れがない」。
話題の主題になっている「巨大なアーチ」、競技場として、これでなければならない必然性があるか?ということです。
これは、単に、提案者が「やってみたかった」にすぎないのではないか。
何故「やってみたかった」?人の目を引くから・・。
この場合の「人の目」は、多分、設計競技の「審査委員の目」のこと・・・。
「新明解国語辞典」の「意匠」の解説の一に、「意匠の語は、デザインの訳語、買う人の注意を引くためにする製品や美術工芸品などの形・色・模様などについての新しい考案。」とあります!
言い得て妙。おそらくこれは、今の世の一般の「《デザイン》観」を総括した文言と言えるかもしれません・・・。
多分、こういうものの見かたの延長上に《差別化》という「概念」もあるのでしょう。
報道を見る限り、設計競技の審査において、「競技場とは何か」という「本質的な」視点が論議された、という「形跡」は、見当らないようです。今回の件について批判的な「識者」の「見解」も、専ら「工費」の話。
「建築学とは、木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様に用ゆる事を工夫する学問」という「文言」は、何度も紹介してきましたが、明治に西欧の建築工法を紹介する書を書いた滝 大吉の言葉です。
この文言は、まさに、「デザイン」「設計」という「概念」の定義と言ってよい、と私は考えています。
この「文言」には、「何をつくるのか」については、「言うまでもないこと」という「前提」があります。
この、「言うまでもないこと」は、当時の専門家には、専門家として「あたりまえのこと」だったのですが、当今の《建築専門家》(今回の設計競技の審査委員も含む)にとっては、必ずしも「あたりまえ」ではありません。
先にリンクした「形の謂れー8・・・再び建物とは何か」で詳しく触れています。
だからこそ、「競技場とは何か」という「本質的な」論議が見られないのです。
いったい、「競技場」とは何か。
私の「理解」は、次のようになります。すなわち、
各種「運動・スポーツ」を得意とする人びと(通常の語で「選手」)が、一堂に会して、その技と能力を競う場所であり、その場所へ、一般の人びとが、「日常の生活の時間」を割いて集い、(「選手」たちの)「競技」を観て、ある種の「感懐」を抱いて再び「日常」に戻る、そのような「運動・スポーツを得意とする人びと」と「一般の人びと」の「邂逅の場」、それが「競技場」である。
これは、「学校」を、単なる「教室の集合体」ではなく、「子どもたちが、その日常の一部を過ごす場所」、
また、「病院」とは、単に、諸医療専用室、病室・・からなる、のではなく、病んだ人びとが、その「治療」のために「日常を過ごす場所」
と理解するのと同じです。
このあたりについては、「形の謂れ-8」で触れています。