今日は、雨中に清々しく咲く山百合とはうらはらの、鬱陶しい話になります・・・。
国立競技場の件、設計競技の審査委員長を務めた《建築家》の記者会見での「発言」が報道されていました。
私にはきわめて「恥ずかしい」「聞くに堪えない」内容でした。
彼は言います。「設計競技は、アイデアのコンペで、コストの議論はない・・・・・」
これを聞いたら、明治の先達、滝 大吉 氏は絶句するのではないでしょうか。
「建築学とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様に用ゆる事を
工夫する学問」
これは、滝 大吉 氏の「建築(学)」の「定義」です。これは、時代を問わず、真理である、と私は考えます。「理」が通っているからです。
この《建築家》の「建築観」では、アイデアは、コストとは別の問題、という「認識」が根底にあることになります。
そういう《アイデア》は、私に言わせれば、まさに「絵に描いた餅」以外の何ものでもない。
更に、こうも言う。「宇宙から舞い降りたような斬新な案に心を動かされた」?!
こうも言っているらしい。「あのアーチが、競技者に高揚感を与える・・・」
私は、この《建築家》の「心」と「視座」に疑義、そして何よりも「不安」を感じました。大丈夫か?正気か?
「宇宙から舞い降りたような斬新な案・・・」、多分これは、設計案の「外観図」を見ての彼の「率直な感想」なのでしょう。この外観図は、「鳥瞰図」、bird's-eye view と言います。つまり、鳥の目で見た図という意味。
実際、こういう具合に見えるのは、神宮の杜に棲む鳥たちだけでしょう。
競技場を訪れる観客の目にはもちろん、競技場で競技する「選手」たちの目にも、絶対に見えない視点です。
つまり、彼は、単に、この「絵」に「心を動かされた」に過ぎず、そこに在る「競技場」に心を動かされたわけではないのです。
大きな勘違いと言うべきでしょう。
先回「意匠」:「デザイン」の語についての「新明解国語辞典」の解説に、買う人の注意を引くためにする製品や美術工芸品などの形・色・模様などについての新しい考案とあることを紹介しました。
彼の設計・デザインについての「理解」は、まさに、この「解説」の域に留まっているのです(提案者も同じです)。
ましてや、「アーチが競技者に高揚感を与える・・」だと?
おそらく、競技者にとって、彼の視界をさえぎるこの巨大なアーチの黒い影は鬱陶しいもの、気持ちを殺ぐものに映るはず。競技者は、広々と眼前に天空が拡がっていることを望むに違いありません。
つまり、かの「審査委員」の《建築家》は、「豪快なアーチ」⇒「高揚感」、という「連想ゲーム:言葉遊び」に夢中になっているに過ぎないとしか思えません。
君は一体「何」を「審査」したのですか?
今回の事態を見て、いつかコメントで指摘があった、東急東横線「新・渋谷駅」の「判りにくさ」、「使いにくさ」の因は、その設計者であるこの《建築家》の思考構造にあるのだ・・、とあらためて納得がゆきましたす。
彼にとって、おそらく、駅を通る人びとは、単なる「点景」、彼のつくる《造形》の「お添え物」に過ぎないのです。
註 私は、幸いにして、東急渋谷駅を使うことがないので実感はありませんが、その「分りにくさ」「不便さ」は一品だそうです。
今回の「事態」に拠って、いわゆる《著名建築家》の正体が、鮮やかに露顕した、と私には思えました。
更にこれは、単に《建築家》自体の問題ではなく、彼らの造るものをもてはやしてきた「建築界」全体の問題でもあり、
そしてそれを唯々諾々として鵜呑みにして認めてきてしまった(《専門家》《有識者》の《見解》を無批判に受け入れて平気な)当世の社会全体の問題でもある。
今こそ、何ごとによらず、自由闊達に「王様は裸だ」と、個々人が発言し続けることが求められているのだ、と私はあらためて思いました。