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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-11

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今回は、3 Ground-floor halls : late 13th and early 14th centuries の章から、前回の続きの次の2節の紹介です。
  Builders of stone houses
  Builders of timber-framed houses
少し分量が多くなります。

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   Builders of stone houses  石造の家屋を建てた人びと

家屋を石造にするか、木造にするか、その選択に、社会的な意味があった、という論を実証するのは容易ではない。
なぜなら、現存する13世紀後半から14世紀初期に建てられた一般庶民の家屋について、その建て主についての情報は部分的にしか知り得ないからである。
一方、いくつかの全石造の家屋については、詳しい記録が遺っている。
NURSTEAD COURT は、HORTON KIRBY の爵位領の一部を成す NURSTEAD 荘園の中心であり、NURSTEAD 荘園の領主は、DOVER CASTLE の守護役を担っていた。
NURSTEAD 荘園は、GRAVESEND 家の領地にあるが、同家は、13世紀後記~14世紀前期にかけて、三つの教区を差配していた。NURSTEAD COURTの建屋は1309年に建てられているが、一家の教区在住の聖職者の一人 Sir STEPHEN de GRAVESEND が建て主である。彼は、スコットランドへ EDWARD Ⅰに同行し 1311年に州の爵位をを得ている。
   註 HORTON KIRBY ケント地域北西部の町 SEVENOAKS 近郊の村。SEVENOAKSは、「一般図」(再掲)のノースダウンズ丘陵の文字の下あたりにある。




SOUTHFLEET RECTORY(牧師館)( fig14 ) は、1323年から~1356年にかけて牧師を務め、また ROCHESTER 教区の管区長でもあった ALKHAM の THOMAS のために建てられたと考えられる。
CLIFFE-at-HOO の THE RECTORY HOUSE は、また別の給付によるもので、CANTERBURY の大司教職の特権であった。
すなわち、14世紀の前半を通して、牧師職を継続することで聖職の禄が得られ、ケントはもとより各地に教会を構える特権も得ている。また、PENSHURST PLACE を建てたのは、商業・金融業を営み、ロンドン市長でもあり、ケント各地の大地主であった Sir JOHN de PULTENEY が、1341年に licence to crenellate を取得後に建てた建物である。
   註 licence to crenellate : 資産保持保護特権?wikipedia には、下記のようにあります。
     In medieval England a licence to crenellate (or licence to fortify) granted the holder permission to fortify their property.
      Such licences were granted by the king, and by the rulers of the counties palatine within their jurisdictions, i.e. by the Bishops of Durham,
      the Earls of Chester, and after 1351 by the Dukes of Lancaster.
   註 SOUTHFLEET RECTORY(牧師館)( fig14 )の建物の図・写真等は、後章に紹介されるはずです。
     いずれも、イギリスの「文化財指定建物」と思われます。

     中世イギリスにおいて、教会関係者が、いかに社会的に優位にありまた優遇されていたかが分ります。

しかしながら、他の事例については、その石造の建物が新築されたとき、誰が資産を保持していたかは、知ることが難しい。
14世紀初期の、 ACRISE の HOAD FARM (農家)や LEEDS の BATTEL HALL の場合、その保有者が誰であったかを探る方策がないのである。IGHTHAM  の IGHTHAM MOTE もまた同様である。その建て主と考えられてきた Sir THOMAS CAWNE についての記録は、14世紀の建物が建てられて30年後から記録されているだけであり、彼の死去した1372年当時の彼の一家の状況を考えれば、彼が、1330年代に IGHTHAM MOTE を建てることができたとは考えられないのである。同様に、PLAXTOL の OLD SOAR も、現存の CHAMBER RANGE や CHAPEL が建てられた13世紀の頃の所有者を知り得ない。その後、その資産は CULPEPER 家に引き継がれるが、その15世紀初期以前の所有についての記録は存在しない。
EAST FARLEIGH の GALLANTS MANOR のように、所有者のよく知られている事例の場合でさえ、所有者一家の正確な状況記録は漠然としている。GALLANTS MANOR の所在する土地は、AYLESFORD のPRESTON HALL の CULPEPER 家によって1319年に取得されているが、1322年建設の建物を CULPEPER 家の誰が建てたのか、また、彼がその後の同家とどのような関係にあるのか、などはまったく不明である。

fig15 の「14世紀中期以前の域内石造家屋の分布図」(下図:再掲)は、今回の研究で調査・作成された。

この図から、少なくとも一部が完全な形で遺っている20余の事例と、部分的に遺っている事例(それらは、後世の木造架構の下のヴォールト天井を支える壁の存在から初期の石造建物の痕跡を推測できる事例である)の分布状況が分る。
立派なつくりの20余の建物の半分以上は、CHRIST CHURCH PRIORY や ST AUGUSTINE'S ABBEY によって建てられ、ケント地域の東半分に在る。この地域の土地の大半は、当時、主要な教会関係の団体・組織の所有下にあった。実際、 ACRISE の HOAD FARM を除けば、ケント東部には、一般人の建てた石造家屋は見当たらないのである。
一方、ケント中西部には、11余の一般の石造家屋が健在である。そのうちの二つ、TONGE の NEWBURY FARMHOUSE と LEEDS の BATTEL HALL は、中部域に在る。その他は、MEDWAY 川の西側に在り、最古の事例はこの中に含まれる。このことは、ケントの東部域には、取り壊されて断片的な遺構しか存在しないことに比べ対照的である。
しかし、一般の人びとの初期の遺構事例が西部域に偏在している確とした理由は、よく分らない。
すでに触れたように、ケント東部や北部域では教会関係者の所有地が広大な面積を占めてはいるけれども、一般の所有地も多く存在している。その上、この地域の14世紀初期の一般の人びとの資産評価も最高の評価になっている。
1127年~1340年の間州の SHERIFF :長官や KNIGHT : を輩出してきた58の家系・家族の他にも30の家系・家族が SITTINGBOURNE から TENTERDEN に至る当地域の中心部を南北に貫いて領地を構えている。一方、その頃、その西側には僅か19の家族の領地しか存在していない。このことは、この時期のケント東部域では、上層階級が優勢であったことを示している。
このような状況から、上層階級が建てたと見なされる初期の遺構建物のほとんどは、東部地域に在るはずだ、と考えられもするが、しかし実際は、13~14世紀の重要な遺構の大多数は、先に触れたように、ケント西部域に在るのである。
   註 SITTINGBOURNE : 「ケント一般図」の中央、北部に載っているギリンガム近くに在る町。
     TONGE は、SITTINGBOURNE近在の村。
     TENTERDEN : 同上地図のロイヤル タンブリッヂ ウェルズの文字の右下あたりに在る町。
      LEEDS : 村だと思われますが、調べましたが位置不明。同名の大きな都市がヨークシャーにあります。

今のところどれが正解とも言えないが、この矛盾を解く二つの方策が考えられる。
一つは、地域の官職保持者の分布の様態を考察の拠りどころとするのは、たしかに一つの手掛かりではあるけれども、しかし、逆に迷路へ引きずり込まれかねないから、余りにそれに拘るまい、という考え方を採ることである。
すなわちケント西域の現存遺構の建設に関わった家系・家族の階層は、東部域の建設者たちよりも数等上層であり、少なくとも異なっていたのでないか、と考えてみることである。そう考えれば、彼らの建てる建物が、東部域の人たちの建物よりも豪奢になり、そしてまた、よく維持・保全されることになり、遺構として多くが現存するのは、自然の成行きではないだろうか。
一二の事例が、この説を裏付けているように思われる。ここまで検討されてきたのは、最古の3遺構: LUDDESDOWN COURT 、NETTLESTEAD PLACE 、SQUERRYES LODGE であるが、その建て主は、いずれも上層階級・貴族との強い関係があったことが知られている。
更に、14世紀の最も豪奢な建物の2事例は、ケント域を越えた広域で権益を持つ一家により建てられている。
NURSTEAD COURT の建て主と考えられる Sir STEPHEN de GRAVESEND は、1311年にはケント州の knight :爵位を得ていて、一家はまた13世紀後半から14世紀前半にかけて、 LONNDON で2区、LINCOLN で1区の bishop : 主教を輩出している。
   註 bishop : 英国国教会では、国土を約40の教区に区分し、各区分を一人の bishop :主教が統括する。(「英和中辞典」による)
     LUDDESDOWN COURT : fig7 第8回参照
     NETTLESTEAD PLACE: fig6 同上
     SQUERRYES LODGE : fig5 第7回参照
     NURSTEAD COURT : fig12 第9回参照

一方、 PENSHURST PLACE の建て主の Sir JOHN PULTERNEY は、地域内では何の官職も持たなかったが、王室と親密な関係があり、域内全体に領地を有し、1334年の課税記録では、ケント地域では個人の最高の評価額になっている。これらの人たちの活動範囲は、ケント地域内よりも国土全体に拡がっており、これも既に触れたように、彼らの多くは、主にレクリエーションのためにケントを訪れていたに過ぎないようだ。
彼らの家系・家族が常に地域の要職を務めていたわけではない、という事実は、彼等にとっては、(上層・貴族階層であるという)「地位」の方が意味のあることであったことを示している。 OLD SOAR の遺構 IGHTHAM MOTE と BATTEL HALL は、建て主が資産家であると見られているが、しかし、彼が地域の上流社会でも高位に属していたのであれば、彼等の資産の状況が何ら記録に残っていないということはあり得ず、それゆえ、彼の一家が地域の有力者・富裕な家系・家族であったと見なすことには疑問が生じる。それゆえ、これらの詳細を知ることも、矛盾解明のカギを握る事項として考えるべきだろう。

教会関係・上流階級の勢力の強かった東部域よりも勢力が弱かった西部域に、完全な遺構が多い理由についてのもう一つの解釈は、東部域では、建設後の諸事情による改築が多かったからである、という解釈である。
しかし、この説を立証することは後世の建物の詳細が分らないと難しいが、その点については、諸種の法定の記録文書や Buildings of England を詳しく読むと、得られる事実が多い。
1272~1340年の間のケント州の SHERIFF や KNIGHT を輩出していた58の家族・家系が特定でき、そのうち主な20の地位に就いていた家族・家系には、「謂れ」の分る建物が存在している。
たとえば、地域の西半分の地域では、全体の33%にあたる2事例が中世以降の建設であり、東部域では79%、11事例が16世紀の後に大きく改築されていることなどを知り得る。
こういった調査で得られた概況や少数の遺構からだけでは、確証を得ることは難しいが、15世紀以降の諸記録は、ケントの東部域では上層階層が増加を続け、しかもその一部がその中でも高位に在ったことを示している。
これらのことから、ケント東部域に上層階級の中世の建物遺構が少ないのは、その時代の造りかたの違いに拠ることもあるが、多くは後世の改築に拠ると見なせるのである。
BOUGHTON ALUPH の BOUGHTON COURT や ELMSTEAD の DEAN FARM に遺されている石造の円天井( undercroft )の断片の存在などを考えると、ケント東部の注目すべき一般の人びとの家屋の建設は、 BLACK DEATH( 14世紀 ) の時代に始まる、と言えそうである。
   註 BLACK DEATH :14世紀中期(1346年~1453年ごろ)ヨーロッパを襲った黒死病の流行。

     Builders of stone houses の項 終り
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   Builders of timber-framed houses  木造の家屋を建てた人びと

今回の調査・研究で明らかになった中世初期の木造の OPEN HALL のケント地域内の分布状況は、石造のそれとはいささか異なる。
fig16 の示すように、木造の家屋は、 NORTHDOWNS (ノースダウン)丘陵の北側の斜面、あるいは LOW WEALD 地帯に多く在り、STOUR 渓谷流域や HIGH WEALD 地帯にも飛び飛びに存在する( outliers )。


建物は二つに分類できる。一つは、完全な 「aisled 形式」のつくりで、ほとんどがNORTHDOWNS (ノースダウン)丘陵の急斜面の北側に在り「古風な( archaic 」特徴を備えている。
もう一つは、南部により多く分布する「疑似 aisled 形式」あるいは「 unaisled 形式」のつくりで、そのいくつかは「 base cruck 」を備えていて、前者のような「古風な( archaic )」特徴は見られない。類型論的には、「aisled 形式」の方がより古くからあると考えられるが、年代学的には、両者が併存する時期が在ったと考える方が妥当だろう。
EASTRY の CHRIST CHURCH PRIORY 官邸を除き、現存する木造架構の建物はすべて、一般の人びとの建物のつくりかたに根があると見なせるだろう。
しかしながら、この時代に、木造建物を建てた人びとについては、石造の建物を建てた人びとに比べ、数等その詳細が分らない。
HASTED 氏(後掲註参照)の著書に拠ると、最も archaic な構造のうちの4事例、すなわち NEWBURY FARMHOUSE 、CHILTON MANOR 、HURST FARM 、そして RATLING COURT はいずれも大住宅・邸宅と見られるが、これらの所有者は、時代が14世紀に変る頃は、建物名となっている一家・家系の所有であった。しかし、CHILTON 家、NEWBURGHS 家の姿は、13世紀、14世紀前半の諸記録からははっきりとは浮かび上がらず、彼らの資産状況が明らかになるのは、両家がすでに没落しかけていた14世紀後半になってからであり、建設時の様態は分らずじまいなのである。
残る2事例については、もう少し詳細が分る。HURST FARM は、DOVER CASTLE の守護職を務めることに拠る CHILHAM の KNIGHT'S FEE として維持されていた。1346年、相続人JOHN de HERST が HERST のSYBERSTON、FELBOROUGH にFEE (としての土地)を保有しているが、このことは一家は HURST FARM 周辺以外にも土地を保有していたことを示している。14世紀中頃には、HURST の MURSTON との縁組で、HERST 家は消滅する。
AYLESHAM の RATLING COURT は、当初 ARCHIBISHOP (大司教)の KNIGHT'S FEE として維持されているが、その不動産の保有権の経緯は、少なくとも11世紀後半までさかのぼり知ることができる。1171年の RATLING COURT の評価額は年間5ポンドに過ぎないから、保有地は決して広くはなかったと思われる。
RATLING 家は13世紀~14世紀前半まで続いているが、その所有地は、14世紀末には、より有名な家族・家系の保有地の一部に編入されている。
ARCHIBISHOP (大司教)の KNIGHT'S FEE として維持されていた多くの土地が記録に残っているが、HURST FARM や RATLING COURT の遺構は、中世初期のいくつかの木造建物の建て主が、このような KNIGHT としては最低位にあたる比較的小さな土地しか保有し得なかった名もない家族・家系であったと考えてよいのではなかろうか。
これらの多くは、地域の北東部に多く在るが、そこは、古い荘園の中央部にあたり、大地主層の土地と並んで、封建時代の小さな領地が多数存在していた一帯であった。また、1334年の一般庶民の課税記録の最高評価額は、この一帯から出ている。これらの諸事実を総合すると、何故旧い木造建物が北部域に偏在するかが説明できるのではないだろうか。

fig16 に点在して示されている南部にある木造建物は、形式が若干異なり、主に LOW WEALD 地帯の西部に在る。SUTTON VALENCE の BARDINGLEY FARMHOUSE だけは、ケント北部で多く見られる「古風な」( archaic ) aisled hall 形式のつくりであるが、他はすべて quasi aisled 形式である。そのうち3例には明らかに base cruck があり、他の事例にもあったのではなかろうか。
LOW WEALD 地帯には、このほかに、小さな base cruck のある3事例( YALDING に2例、SPELDHURST に1例)を挙げることができる。いずれも14世紀前半の建設と思われるが、fig16 には載せていない。この3例には archaic な様態がうかがえず、また後世に建てられたのではないか、と思わせる点もあるからである。これらは今は現在の呼称で呼ばれているが、それぞれの旧名称が分っている。すなわち、BRENCHLEY の OLD CRYALS ( base cruck ではない)、HADLOW の BARNES PLACE 、SMARDEN の HAMDEN である。
HASTED 氏の著書に拠れば、OLD CRYALS は13世紀中期には、ALICA de WALTHAM からの OSTENHANGER の CRIOL FAMILY の腹心としての KNIGHT FEE として維持されていた 。彼女は、GLOUCESTER の伯爵 CLARES 家(この一家は大司教から LOWY of TOMBRIDGE を委ねられていた)を引き継いでいる。
   註 このあたり、家系の説明と思われますが、よく分りません。直訳です。
     HASTED : 中世の歴史家のようです。
           Edward Hasted (20 December 1732 OS (31 December 1732 NS) – 14 January 1812) was the author of a major county history,
           The History and Topographical Survey of the County of Kent (1778-99).
しかしながら、14世紀の初期、多分現在の建物が建てられる前に、 CRIOL 家の資産は相続により Sir RICHARD ROKESLE の所有となり、その後、OSTENHANGER に併合されるが、それもまた相続で、より裕福な POYNINGS 家の所有となっている。これらの家族・家系はいずれも上層階級であって、また他の事例の状況は、OLD CRYALS は、こういう一家が自分たちの住居として建てる通常の住居の類とは異なる建屋であることを示唆している。ここに新たな疑問が生じる。すなわち、その資産を自ら管理していたのか、代理人によって管理されていたのか、あるいはまた「また貸し」されていたのか、・・など、その所有の様態についての疑問である。しかし、現在のところ、納得のゆく答は見付かっていない。
BARNES PLACE もまた TONBRIDGE の CLARES 家の所有である。それは、13世紀に MEDWAY 川とその支流域にCLARES 家がつくりだしたとされる多数の小荘園の一つである。BARNES PLACE自体は、借地権を得た小作農が維持していた土地であったらしい。CLARES 家が記録に現れる15世紀後期、新たな不動産の購入や地域の上流階層やロンドンの商人たちとの交流を通じて、一家は上流階層に成り上がる途上にあった。
SMARDEN の HAMDEN 家 については、1362年、JOHN HAMDEN が、 SMARDEN 教区の教会の鐘楼の維持費として年額6sの 寄付金を永代提供することを約束していることは分っている。しかし、彼がどのような人物で、どの程度の土地の所有権を持っていたのか、は不明である。彼が遺産相続で不動産を得たことは十分に考えらるのだが、何処が彼の保有地であるかが明らかでないから、詳細は分らない。しかし、HAMDEN 家が BARNES PLACE の BARNES 家と似たような家族・家系であったと見なしてよいだろう。
彼らは、ケント北部平野域で aisled hall を建てた人びととは財政的には差があったけれども、彼等は数代さかのぼっても武力で得た土地は保有していないのである。(自らの営為で築き上げた資産である、という意と解します。)

むしろ、彼らは新興の階層、すなわち上層・貴族階層と小作農の間に位置する後世の富裕層の先駆者だったと言えるだろう。
彼らが建てた北部域のaisled hall とは別種のつくりの木造家屋は、BLACK DEATH の直後から記録に現れ始める富裕な小作農や自営農民( yeoman )の住居の原型と見なせるのではないだろうか。

     Builders of timber-framed houses の項 終り

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以上を読んでの筆者の感想

   「とりあえず」でない住まいを建てるには、当然、一定の資金がいる。
   資金は、その建て主がいかなる形で取得したかにより異なってくる。端的に言えば、建て主の生業(なりわい)により異なる。
   その生業は、建て主が、その地のその時代の社会構造の中で、どこに位置するかによって異なってくる・・・。
   本書は、この点について、主に「社会構造の中での位置」の視点で論究しているように思えました。
   建て主が、その地域の領主から土地を( fee として)賦与されていることまでは分るのですが、その土地での生業が具体的に見えてきません。
   例えば、FARM での暮しの様態について、詳しく知りたい、と思いました(後章に触れられるのかもしれません・・・。)

   それはそれとして、ここで述べられているような「記録」文書が、日本の場合どのくらい存在するのだろうか、とふと思いました。
   たとえば奈良・今井町の商家の場合でも、その所有者が現在と当初で異なっている場合がかなりあります。
   それぞれの菩提寺で過去帳などの精査である程度は分るかもしれませんが、他のいわば公的な記録文書などが、一般に、どの程度存在するのでしょうか。
   一方、ケント地域で、諸経緯が一定程度分るのは、本書の初めに、地域の「行政区」と「教区」とが同一であることが紹介されていましたが、
   この「行政」をも兼ねる「教会組織」の存在が大きいのではないでしょうか。
   もっとも、そこから分ることが、はたして、「事実」であったのかどうかの検証も別途必要になりますが・・・。

   それにしても、あたかも推理小説を読むかの趣の「論証の過程」の叙述は、日本では見かけず、くたびれはしましたが、新鮮ではありました。

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次回からは、4.Subsidiary accomodation : late 13th and early 14th centuries の章の紹介になります。
新たな事例の紹介が増えてきます。
   

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