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曇天のなか、山茱萸(サンシュユ)の花が開きました。
沈丁花(ヂンチョウゲ)も咲きだしたようで、香りが漂っています。
春 近しです。
[11日 9.45追記]
3月11日が近付いてきて、メディアには震災関連の話題が溢れています。
標題の文言:「檻(の中に)にいるみたい・・・。」は、宮城県で津波で自宅を流され、最近「仮設住宅」から「災害復興住宅」に移り住んだ方が語っていた言葉です。
「災害復興住宅」とは、災害で家屋を失い、自力で住宅を確保することが困難な被災者のために、地方公共団体が国の補助を受けて供給する住宅。「復興公営住宅(災害公営住宅)」などとも呼ばれています。要は、公営の賃貸「住宅」。
映像で見たのは、階段から片側廊下が伸び、その廊下に沿って住戸が並ぶ、ごく普通の中層:4~5階建ての「公営住宅」と同じでした。
そこに移られた方が、問わず語りにポツンと語ったのがこの言葉。
この言葉には、いろいろな意味が埋もれている、そう思えました。
階段を数階昇り、長い片側廊下を歩いて「自宅」に入る。出かけるときはその逆。
一つには、その一連の「過程」が、自宅からの外出を億劫にさせるため、必然的に自宅に閉じ籠りがちになること、もう一つは、外出しても、そこに拡がる「世界」は、見慣れた風景ではなく、知る人もいない・・・、それゆえ、外出の気運も失せてしまう。その結果、更に閉じ籠る・・・・。
それが「檻(の中に)にいるみたい・・・」との言葉になって口をついて出たのです。
地域の町会やNPOが、住人の交流のためのいろいろなイベントなどを企画し、外出を促している、とのことでした。
しかし私には、「檻(の中に)にいるみたい・・・。」との言は、「災害復興住宅」=「集合住宅」=「住まい」(のつくりかた)自体の根本的な「欠陥」をも突いているように思えました。
すなわち、「こういうのが『住居』なの?」という重い「問いかけ」。
被災地の多くで、「復興」のための「計画」が実施されています。メディアでもたびたび紹介されます。
津波の「想定高さ」よりも高く盛土をして、あるいは、山の斜面を雛壇状に整形し平地をつくり、新たな「街区」「住区」を計画する。
その「計画図」は、私には、ほとんどすべて、かつて(そして今も)大都市周辺で行われてきた「住宅地開発」の「計画」そのもの、その「焼き直し」に見えました。
それは、一言で言えば、工場の計画と何ら変りはない。
人や車の通る道路(パイプ)を《合理的に》並べ(配管し)住戸(機器)を配置(接続)する。適宜植栽でも施せば、《心地よい住環境》が整う・・・。
しかし、人は、パイプの中を流れる(流される)物質ではないのです。人は皆、自らの感覚の下に生きているのです。
そして、「住居:住まい」とは、『人』の暮す場所である。この「根本」が見失われている。
実は、被災した方がたの、「人としての思い」と、一般的に見られる《復興計画》《住宅地計画》(それはすなわち、「専門家の思考」の成果物に他ならない)との齟齬は、阪神・淡路震災の際の《復興計画》で、既に露わになっているのです。しかし、そこから何も変っていないのです、問題点を学んでいないのです!その点については、下記で触れました。
「災害復興と再開発・・・これでいいのか?」
人の住まう場所:暮す場所、というのは、こういうものでよいのでしょうか?
そのあたりのことについては、「建物をつくるとはどういうことか」のシリーズで私見をまとめています(下記)。
しかし、このような震災被災よりも更に深刻なのは、福島原発事故被災です。
我が宰相は、最近明らかになった放射能汚染水の海への漏水も港湾内に留まっている、ゆえに原発事故に伴う災禍は従前どおりブロックされていることに変りはない、と大見得を切りました。あたかも、原発事故は「収束した」かの言い様です。
しかし、未だに多くの人びとが、自宅に戻ることができないのです。子どものある若い世代は、放射能を危惧し、他地域に暮し、高齢の方がただけ戻る、という場合も多いようです。家族が分断されている。今後の見通しも立っていません。と言うより、立てようがないのです。
人びとは、従前の暮しに戻ることをブロックされているのです。それゆえ、ここ数年、老若問わず、心を病む方がたが増えているとも伝えられています。
「除染」による汚染土の処理も未だです。しかもゴミ同様、発生地で処分せよというご都合主義の論理がまかり通っている・・・。
棄てることができないのだから、放射性廃棄物などない、あるのは放射性廃物である、
また除染などということは為し得ない、やっていること移染に過ぎない、これは、小出裕章 氏の言です。
要するに「消去することができない」「いつまでも付いてまわる・・・」。
毎日新聞6日付夕刊特集ワイドをご覧ください。
宰相はじめ現政権の方がた、そして政治家の方がたは、この実状を、心底から考えているのだろうか?私にはきわめて不遜に見えます。ましてや、現下のこういう状況下でも、未だに原発再稼働を推進すると言う。
いったい、この人たちの目には何が見えているのでしょうか?8日付東京新聞社説が、この点について、いつものように明解に論じていました。 web 版から転載させていただきます。
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更に、福島の原発事故被災に焦点をあてた同紙9日付社説も転載させていただきます。
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11日付信濃毎日新聞の社説もお読みください。同感です。[11日 9.45追記]
付 「建物をつくるとは どういうことか」は、以下のようなシリーズです。
第10~13回に要点をまとめてありますが、もしも気になり、お時間がありましたら、全編通してお読みいただければ幸です。
第1回「建『物』とは何か」
第2回「・・・うをとりいまだむかしより・・・」
第3回「途方に暮れないためには」
第4回 「『見えているもの』と『見ているもの』」
第4回の「余談」
第5回「見えているものが自らのものになるまで」
第5回・追補「設計者が陥る落し穴」
第6回「勘、あるいは直観、想像力」
第7回「『原点』となるところ」
第8回「『世界』の広がりかた」
第9回「続・『世界』の広がりかた」
第10回「失われてしまった『作法』」
第11回「建物をつくる『作法』:その1」
第12回「建物をつくる『作法』:その2」
第13回「建物をつくる『作法』:その3」
第14回「何を『描く』のか」
第15回「続・何を『描く』のか」
第16回「求利より究理を」
第16回・再び「求利より究理を」
「中世ケントの家々」の続きは現在編集中です。
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曇天のなか、山茱萸(サンシュユ)の花が開きました。
沈丁花(ヂンチョウゲ)も咲きだしたようで、香りが漂っています。
春 近しです。
[11日 9.45追記]
3月11日が近付いてきて、メディアには震災関連の話題が溢れています。
標題の文言:「檻(の中に)にいるみたい・・・。」は、宮城県で津波で自宅を流され、最近「仮設住宅」から「災害復興住宅」に移り住んだ方が語っていた言葉です。
「災害復興住宅」とは、災害で家屋を失い、自力で住宅を確保することが困難な被災者のために、地方公共団体が国の補助を受けて供給する住宅。「復興公営住宅(災害公営住宅)」などとも呼ばれています。要は、公営の賃貸「住宅」。
映像で見たのは、階段から片側廊下が伸び、その廊下に沿って住戸が並ぶ、ごく普通の中層:4~5階建ての「公営住宅」と同じでした。
そこに移られた方が、問わず語りにポツンと語ったのがこの言葉。
この言葉には、いろいろな意味が埋もれている、そう思えました。
階段を数階昇り、長い片側廊下を歩いて「自宅」に入る。出かけるときはその逆。
一つには、その一連の「過程」が、自宅からの外出を億劫にさせるため、必然的に自宅に閉じ籠りがちになること、もう一つは、外出しても、そこに拡がる「世界」は、見慣れた風景ではなく、知る人もいない・・・、それゆえ、外出の気運も失せてしまう。その結果、更に閉じ籠る・・・・。
それが「檻(の中に)にいるみたい・・・」との言葉になって口をついて出たのです。
地域の町会やNPOが、住人の交流のためのいろいろなイベントなどを企画し、外出を促している、とのことでした。
しかし私には、「檻(の中に)にいるみたい・・・。」との言は、「災害復興住宅」=「集合住宅」=「住まい」(のつくりかた)自体の根本的な「欠陥」をも突いているように思えました。
すなわち、「こういうのが『住居』なの?」という重い「問いかけ」。
被災地の多くで、「復興」のための「計画」が実施されています。メディアでもたびたび紹介されます。
津波の「想定高さ」よりも高く盛土をして、あるいは、山の斜面を雛壇状に整形し平地をつくり、新たな「街区」「住区」を計画する。
その「計画図」は、私には、ほとんどすべて、かつて(そして今も)大都市周辺で行われてきた「住宅地開発」の「計画」そのもの、その「焼き直し」に見えました。
それは、一言で言えば、工場の計画と何ら変りはない。
人や車の通る道路(パイプ)を《合理的に》並べ(配管し)住戸(機器)を配置(接続)する。適宜植栽でも施せば、《心地よい住環境》が整う・・・。
しかし、人は、パイプの中を流れる(流される)物質ではないのです。人は皆、自らの感覚の下に生きているのです。
そして、「住居:住まい」とは、『人』の暮す場所である。この「根本」が見失われている。
実は、被災した方がたの、「人としての思い」と、一般的に見られる《復興計画》《住宅地計画》(それはすなわち、「専門家の思考」の成果物に他ならない)との齟齬は、阪神・淡路震災の際の《復興計画》で、既に露わになっているのです。しかし、そこから何も変っていないのです、問題点を学んでいないのです!その点については、下記で触れました。
「災害復興と再開発・・・これでいいのか?」
人の住まう場所:暮す場所、というのは、こういうものでよいのでしょうか?
そのあたりのことについては、「建物をつくるとはどういうことか」のシリーズで私見をまとめています(下記)。
しかし、このような震災被災よりも更に深刻なのは、福島原発事故被災です。
我が宰相は、最近明らかになった放射能汚染水の海への漏水も港湾内に留まっている、ゆえに原発事故に伴う災禍は従前どおりブロックされていることに変りはない、と大見得を切りました。あたかも、原発事故は「収束した」かの言い様です。
しかし、未だに多くの人びとが、自宅に戻ることができないのです。子どものある若い世代は、放射能を危惧し、他地域に暮し、高齢の方がただけ戻る、という場合も多いようです。家族が分断されている。今後の見通しも立っていません。と言うより、立てようがないのです。
人びとは、従前の暮しに戻ることをブロックされているのです。それゆえ、ここ数年、老若問わず、心を病む方がたが増えているとも伝えられています。
「除染」による汚染土の処理も未だです。しかもゴミ同様、発生地で処分せよというご都合主義の論理がまかり通っている・・・。
棄てることができないのだから、放射性廃棄物などない、あるのは放射性廃物である、
また除染などということは為し得ない、やっていること移染に過ぎない、これは、小出裕章 氏の言です。
要するに「消去することができない」「いつまでも付いてまわる・・・」。
毎日新聞6日付夕刊特集ワイドをご覧ください。
宰相はじめ現政権の方がた、そして政治家の方がたは、この実状を、心底から考えているのだろうか?私にはきわめて不遜に見えます。ましてや、現下のこういう状況下でも、未だに原発再稼働を推進すると言う。
いったい、この人たちの目には何が見えているのでしょうか?8日付東京新聞社説が、この点について、いつものように明解に論じていました。 web 版から転載させていただきます。
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11日付信濃毎日新聞の社説もお読みください。同感です。[11日 9.45追記]
付 「建物をつくるとは どういうことか」は、以下のようなシリーズです。
第10~13回に要点をまとめてありますが、もしも気になり、お時間がありましたら、全編通してお読みいただければ幸です。
第1回「建『物』とは何か」
第2回「・・・うをとりいまだむかしより・・・」
第3回「途方に暮れないためには」
第4回 「『見えているもの』と『見ているもの』」
第4回の「余談」
第5回「見えているものが自らのものになるまで」
第5回・追補「設計者が陥る落し穴」
第6回「勘、あるいは直観、想像力」
第7回「『原点』となるところ」
第8回「『世界』の広がりかた」
第9回「続・『世界』の広がりかた」
第10回「失われてしまった『作法』」
第11回「建物をつくる『作法』:その1」
第12回「建物をつくる『作法』:その2」
第13回「建物をつくる『作法』:その3」
第14回「何を『描く』のか」
第15回「続・何を『描く』のか」
第16回「求利より究理を」
第16回・再び「求利より究理を」
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