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今回は、3 Ground-floor halls : late 13th and early 14th centuries の章から、前回の続きの次の2節の紹介です
Differences between stone and timber halls
The form and layout of the hall
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Differences between stone and timber halls : 石造 hall と木造 hall の違い
この時期(13世紀後期~14世紀初期)の木造建築と石造建築の関係、aisled 形式の建築と unaisled 形式の建築の関係について、その様態を正確に述べることは簡単ではない。
先ず、今回の研究で調査された建物群から、fig15、fig16 (下図)で明らかなように、石造架構建物と木造架構建物では、その地域内の分布に顕著な差があることが分かった。
石造建築は、fig15 のように、ケント地域内で広範囲に分布している。すなわち、石灰質や石英質の岩石が建築用材として採れる DOWNS の一帯、石灰質の岩石の露頭である THANET あるいは砂岩の採れる CHART HILLS の一帯にわたり分布している。
註 DOWNS、CHART HILLSは第3回に掲載の fig3 「地質図」を参照ください。
THANETは、下図のケントの港湾都市図(再掲)の右側、ケント地域の北東端 SANDWICH の北側にある島状の部分の地域名称のようです。
なお、DOVER 海峡に面する陸地自体が chalk :白亜質の地層の隆起した一帯です。
ケントの一般図も下に再掲します。
中世に於いて、建築用の石材は、水運の便があれば、必要に応じ、かなりの距離を運ばれている。石材は主として教会系の建物や富裕層の住居用であった。
たとえば、1330年1月には、CHRIST CHURCH 修道院は、FOLKESTONE から SANDWICH へ、EASTRY 官邸 用に FOLKESTONE 石を運んでいる。石材は、そこから全国に運ばれていたのである。また、1322年3月には、MERSHAM の新しい Chamber Block (前回掲載の fig11 の建物?)が GREAT CHART から数マイルも山野を越えて運ばれた石材で建てられている。
けれども、こういうことが一般的に行なわれていたわけではなく、石材を遠距離運ぶなどということは、おそらく普通には、あり得なかっただろう。
その他の場所では、家屋は木造が主であった。しかし、ケント地域は森の多いところではあるが、北部と東部には建築に適した用材が少なく、木材は主に、WEALD 地帯西部から TENDERDEN 近くの港(河岸?) SMALLHYTHE を経て運ばれていた。
註 FOLKESTONE、SANDWICH
いずれも、上記「港湾都市図」のケント東部に在る。「一般図」には SANDWICH 、FOLKESTONE は載っていない。
SANDWICH は DOVER の北、FOLKESTONE は DOVER の南東に位置し、DOWNS 地帯の東端部にあたる。
FOLKESTONE では中石器時代の遺構が発見されているとのこと、古代から石材の産地だったのだろう。地名もそれに拠ると考えられる。
GREAT CHART : 上掲「港湾都市図」の FOLKESTONE 北西の町 ASHFORD の近在の、多分、河川沿いの河岸(かし)ではなかろうか。
MERSHAM は、「山野を越えて・・・」ゆえ、 GREAT CHART から少し離れて在る農村と思われる。
TENDERDEN 、 SMALLHYTHE : アシュフォード: ASHFORD の南西あたりに在る町のようです。
第3回に掲載した河川の描かれたケントの地勢図: fig4 を下に再掲します。 WEALD 西部からこの河川を経て木材が東部上流域に運ばれたのでしょう。
WEALD も第3回に解説があります。先註からリンクできます。
これらの街は、この河川沿いに在るものと思われます。
このように、各地域で使われる建築用材がその地域の特性に拠ることは確かではあるが、一方で、石という材料は、「社会的威信の証」としての一定の意味を持って使われていたようである。
14世紀までには、 PENSHURST PLACE をはじめ聖職者や宗教関係者により建てられる豪壮な邸宅は、その大半が石造で造られるようになっていた。しかし、13世紀の状況は、 first-floor hall についての論議が事態を複雑にしている。すなわち、13世紀の二階建て建物が first-floor hall であるとするならば、上層階級の hall は早くから石造であったことになるが、それが Chamber Block であるとするならば、併存の hall はおそらく木造であったはずで、石造部は単に住居の威厳付けのためであった、ということになる。
このように、これらの建屋の役割については多様な解釈があるけれども、石造 hall を富の象徴として建てる者が増えてくる1300年ごろまでは、農村地域の hall の 建築用材は、一般に木材が主であったと言えるだろう。
しかし、富の象徴としての石造の hall が木造の hall よりも大きく造られた、ということではない。この時期以降、ケント地域の PENSHURST PLACE や大司教官邸級の邸宅の壮大な hall は、7事例のうち6事例までは木造である。すなわち、富の象徴:建物の「格」=「大きさ」とは言えないのである。
aisle 形式は、建屋の幅を拡張するための一般的な方法であるが、石造では用いられていない。それゆえ、唯一の事例 NURSTEAD COURT ( fig12 )は、石造の aisle 形式であるが、そこでは、石材は aisle hall に特別の「格」を持たせるために用いられていると考えた方がよさそうである。そのほか、特に教会関係者の系譜の家屋では、石材の使用は、「格」や「地位」を示す方策として手っ取り早く、更に traceried window のような装飾的要素を設けることが、大きなhall をつくることよりも有効であると考えられていたようである。だからと言って、初期の石造家屋がすべて小さかった、ということではなく、これらの家屋は、そのすべてが、広大な附属室を備えている上に、46㎡を越える広さの hall を有しているのが常であった。
以上のような状況は、石材と木材は、異なる地位の、異なる考え方の建て主により選ばれ用いられていた、ということにほかならない。
現存する最も初期の木造の aisle hall は、ほとんどが、どの石造の hall よりも建設時期が旧い。したがって、以上のような状況は、最上層階級の家屋が変容してきた過程、それはすなわち彼等の生活慣習・風習の変容の過程でもあるが、その過程を経て辿りついた様態、と考えてよいのではなかろうか。 LUDDESDOWN COURT や SQURRYES LODGE には、ある時期、 aisle 形式の ground-floor hall が在った可能性が強い。そして、そのground-floor hallが現存していないということは、それらが木造であったことを示唆している。
このような遺構調査に拠る明確な証拠もない推論は論議を呼ぶことは間違いないが、いまのところ、この状況・現象を説明できるそれ以外の解釈が見当たらないのである。
14世紀初期までに、高級な家屋からは aisle 形式が姿を消す。そして、大きくしかも壮麗な木造家屋では、 aisle 形式の架構の弱点を補う新しい手法が考案されていた。それは、広いhall の中央に独立の柱を設ける工夫であった。そして、1300年ごろまでに、その工夫によって、人びとは aisle 形式の木造架構の伝統を離れ、 unaisled hall 形式の石造建築に傾倒していったのである。
Differences between stone and timber halls の項 了
この項の筆者の読後の感想
イギリスにも、たしかに木造の建築がありますが、木材が豊かな地域ではありません。
一方、手近には、石材、というよりも扱うのに手ごろな「石片」「小石」が多数在ったようです。
それは、転載した石造建物の写真の壁面に、加工を施した石が見当たらないことに現れています。
とは言うものの、扱いやすい点では木材が上。おそらく、一般庶民は、自前で、木材を使い建物を造っていたのだと思われます。
一方、支配階級:上層階級は、堅固な城砦:castle や宮廷: palace を石で「造らせた」。
そこから、[上級=石造]、という「感覚」が生まれ、財を得た一般庶民も、その富の表示:「見栄」のために、石造を「散り嵌める」ようになる・・・・。
このような「過程」は、洋の東西を問わず起きるのだ、とあらためて思いました。
大事なのは、その「過程」を経ることで、「『本質』をいかにして見失わないか」ということではないでしょうか。
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The form and layout of the hall : hall の形態とその構え方
石像、木造を問わず、広い hall の(桁行:長手の)柱間(原文: bay )が数間(すう けん)に分れる。そのため、 aisle 形式の hall の場合、空間を横切る梁組(原文 : division )が、構造的にも視覚的に目障りだが、 unaisled 形式の木造建物でも同様ではあるが、小屋組のトラスが tie-beam :繋ぎ梁:から柱へと連続し、大きなアーチ状の brace :支え:で結ばれているため、一体感がある。
註 fig10 (下図:再掲)のような unaisled 形式の架構を説明しているものと推察し、原文をかなり意訳しました。
brace : (倒れないようにする)突っ張り、支柱。
通常、「筋違(筋交)」と訳されている。「筋交」は、「筋:直線が斜めに交差している状態」のことを言う。
「かう」⇒「支う」ex「突っ張りを支う(かう)」。「筋」は「直線状のもの」⇒「筋」で支えを入れる=「筋を支う(かう)」⇒「筋交」= brace
IGTHAM MOTE 、BATTEL HALL の二つの石造の建物の場合、空間を横切る梁組(原文 : division )は fig13 (下図 :再掲)のように石造のアーチで造られている。この方法は、他には、唯一 SUSSEX の MAYFIELD に例があるだけである。
しかし、石造建築の多くは、小屋組は小割の規格角材で造られ、 bay :柱間:も適当である。CHRIST CHURCH 修道院の大邸宅のほとんどの hall や ACRISE の HOAD 家(農家)がその例である。同様な例は PENSHURST PLACE にも見られ、そこでは、小屋組の棟束( crown post )、繋ぎ梁( tie beam )は地面よりはるか上に在り、その下に居る人の目障りにならない。
註 棟束( crown post ):吊束(つりづか:釣束)とも言う。
繋ぎ梁( tie beam ):陸梁(ろくばり)とも言う。
hall には、梁組( division )が1本架かる(したがって bay :柱間:2間)が、大きな場合は梁組が2本( bay :柱間:3間)が普通である。時には、 CHARTHAM の THE DEANERY や fig10 (前掲) の CHILHAM の HURST 家(農家)のような割付け例もある。
また、 hall 端部の出入口の個所では、柱間: bay を一段狭くしたり、 spere truss を設けて空間を区切る例もある。 SUTTON VALENCE の BARDINGLEY 家(農家)、 FAWKHAM の COURT LODGE 、 fig9 (下図:再掲) の AYLESHAM の RATLING COURT 、 fig14 (下図:再掲) の SOUTHFLEET 牧師館などがその例。
註 spere truss : 第9回の fig46 をご覧ください。spere ≒ screen
空間の「隔て」: screen として設ける「軸組:柱+小屋組」のことと解釈します。
同様の手法は、 PLUCKLEY の PIVINGTON の遺構でも認められている。他の初期の事例でも、小屋組には関係ない「隔て( spere or screen )」を設けて出入口と hall の主部とを仕切る方策が採られていた可能性が高い。その実例が、 HAMDEN 、SMARDEN に在り、 JOYDENS WOOD で見付かった hall にも、低い「隔て: spere 」が存在したのではないか、と推定されている。
いくつかの事例では、「隔て」により仕切られた通路へは、ポーチを経て入るようになっている。 PENSHURST PLACE には、1340年代の美麗な二階建のポーチがあり、また、 IGHTHAM MOTE の小屋組には、多分木造と思われる二階建のポーチ(外観にその痕跡は認められないが)の出入口の上に、アーチを受ける橋台( abutment )が見えている。
ポーチは平屋が普通で、二階建は珍しい。なお、多くの遺構では、一般に、入口の前に突出し部(雨除けの庇のごとき設備か?)を設けていた形跡がある。 JOYDENS WOOD 、SURREY の ALSTED 、SUSSEX の BODIAM などにその例がある。実例が、 SMARDEN の HAMDEN に現存し、また、 BORDEN の THE PLESTOR の事例では、残存している多数の枘孔が、現在の煉瓦造ポーチは当初の木造のポーチを引き継いだものであることを示している。しかし、この痕跡のある出入口が、当初の aisled hall と同時代のものとは言い難い。というのも、この hall は断片的にしか残存していないからである。
註 JOYDENS WOOD : ケントの北東部、大ロンドンの南東に接する場所に位置する林地のようです。
SURREY : 前掲の「ケント地域一般図」の左端部の「サリー」と表記の地域。ALSTEDは、そこに位置する村。
SUSSEX : 「ケント地域一般図」参照。BODIAMはその地域内の小村か。
SMARDEN :「ケント地域一般図」の東部に在る アシュフォード : ASHFORD という町の西部に位置する郡(教区)名。 HAMDEN は村名か?
THE PLESTOR :有名な煉瓦造建築の遺構、BORDENは、SITTINGBOURNEの南西に在る農村名。
SITTINGBOURNE は、ケント地域一般図のノースダウンズ丘陵北側にギリンガムという町がありますが、その東10数キロのところに在る町。
また、「港湾都市図」には、字が小さいですが、載っています。
CHILHAM の HURST 家(農家)には、当初のままの出入口が、後世に造られたポーチの下に遺されている。その保存状態の良さは、それが建設時から大事にされてきたことを物語っている。
このように、ポーチを設けることは、家屋のいわば標準的な形式になっていたとは考えられるが、ほとんどの場合(壊すときは)跡形なく壊されているから、一般的には家屋に不可欠な場所とは見なされていなかったのだろう。
現存する建物は、 hall の上段・上座の構え方について考える上で、いくつかの手掛かりを与えてくれる。 造り付けのベンチを示す痕跡や、例は少ないが端部の壁上の「差掛け」:キャノピー( canopy )は、明らかに、後期になってから現れる。しかしながら、GREAT CHART の COURT LODGE の上座側の壁の近くに設けられている(構造的には)余計な「繋ぎ梁」( tie-beam )や、fig14 のSOUTHFLEET 牧師館の同じ位置にある crown post truss も、 hall の上座に特別な意味を与えるために設けた架構かもしれない。
註 crown post truss : king post truss と同型のトラス組。
「トラス組・・・古く、今もなお新鮮な技術-3」に解説してあります。
hall では、炉床( hearth )は、普通は上座側に向けて設けられる。PENSHURST PLACE では、炉床( hearth )は、上座側にあたる小屋トラス組の位置にあるが、見つかったすべての hall でも、同様の位置に炉床( hearth )が確認されている。
炉床( hearth )からの煙を逃がすための開口部付の越屋根( louver )も稀に遺されている。SOUTHFLEET 牧師館、CHARTHAM の 司祭邸( The Deanery )、SMARDEN の HAMDENには、開口部付の越屋根( louver )の形跡が認められるが、それらは、hall の出入口側の端部に設けられている。多分、煙を上座側から離れた位置で逃がすためと思われる。しかし、この越屋根は、残念ながら、多くの場合、そこに集合煙突を取付けるにあたって壊され、原型をとどめていない例が多い。COPTON 邸( manor )や RATLING COURT ( fig9 )も消滅した例であろう。
註 当初のイギリスの暖房は、日本と同様、囲炉裏状の場所で火を焚く方式で、そのために「煙出し」を設ける場合があった、ということの解説と思われます。
開口部付の越屋根( louver ): 開口部に格子( louver )の付いた越屋根。こういう設備自体を louver と呼ぶようです。
具体的な形状は解説、図がないので不詳ですが、後述の fig12 のような破風屋根のある「破風窓」か?
しかし、hall がすべて、越屋根を備えていたかどうかは確かではない。集合煙突がなく、越屋根の形跡も見当たらない事例もいくつかある。
fig13 の IGHTHAM MOTE には、1860年代には集合煙突が明らかに存在していたが、現在はその痕跡もない。また、fig11 の MERSHAM MANOR の屋根にも越屋根の存在を示す形跡は何もない。これは、14世紀後期に建てられた GREAT CHART の GODINTON PARK などの後世の建物によく見られることである。
註 GREAT CHART : 「ケント地域一般図」(前掲)の ASHFORD 近在の村。
GODINTON PARK : 煉瓦造の建物で、イギリスの文化財指定建造物のようです。wikipedia で紹介されています。
hall の上座側には、両側の壁に一つずつ、時には二つの背の高い窓が設けられることが多く、その事例が石造の家屋にいくつか遺っている。ほとんどの場合、窓の上部には簡潔な「はざま飾り:トレーサリー( tracery )」が付けられ、屋根の低くなる側には「破風窓」が設けられる。 GODMERSHAM の COURT LODGE に最近まで存在したが、fig12 の NURSTEAD COURT には現存する。この形式の窓の先例は、13世紀の CANTERBURY の大司教官邸にまでさかのぼり得るものと思われる。
木造の建物、特に aisle 形式の場合、 hall の窓は取り壊されている場合が多いが、fig10 の CHILHAM の HURST 家(農家)には、当初のままの窓が遺されている。
The form and layout of the hall の項 了
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次回は、 Builders of stone houses と Builders of timber-framed houses の項を紹介します。
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以上を読んでの筆者の感想
読むにあたって、layout をどのように訳したらよいか、しばし考えました。「間取り」で適切だろうか??結局「構え方」とすることにしました。
日本の住居の研究では、いわゆる「間取り」に関心がゆくのが常です。
しかし、この書で用いている「 layout 」という語は、この「間取り」に相当する概念ではないように思えたのです。
解説から察するところ、 hall の layout とは、「 hall の空間の構成のしかた」、というような意味合いのように思われました。
つまり、建物は、先ず「どんな様相の空間にするか」という「観点」でつくられるのだ、という視点です。
それゆえに、“ form and layout”との文言になると思えたのです。
一方、わが国では、「先ず『用』があり、それに応じて『形』が与えられる」という「思考形式」を採るゆえに、「間取りから形へ」との叙述になるのです。
つまり“form follows function”が、まさに《直訳的に》理解されているのです(この「思考形式」の問題点については、下記で詳しく触れています。
「形の『謂れ』・補遺」
考えるまでもなく、原初、人が自らの「住まい」をつくるとき、先ず「用」を考え、それに「形」を与える、などという「過程」をたどることはあり得ません。
「用→形」という「思考」は、いわば「結果論」つまり、「人為」を結果で云々することから生まれたものだからです。
読んでいて、イギリス中世の人たちが、身分の上下に関係なく、いわば「大らかに」、我が家をつくっている姿が彷彿としてきました。
そしてそれは、単に中世イギリスだけではなく何処でも、つまり日本でも同じだったはずなのです。
そんなわけで、住まいをつくる、ということの「原初的な意味」=「根元的な意味」が、現在、見失われているのではないか、とあらためて感じています。