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時間がかかりましたが、ようやく終わりました。
今回からは、2 Houses of the early and mid 13th century の章の紹介になります。分量の点で、数回に分けることになります。
長くなりますので、一気に通して読むとくたびれると思います。
文意・訳に間違いのないように留意してはいますが、なお不明な点があるかと思います。その際はコメントをお寄せください。
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[変換ミス、文言補訂 25日10.25]
13世紀初期~中期にかけての(ケントの)家々・・・・その1
13~14世紀に建てられた「domestic architecture :イギリス建築」で上級の部類に属する建築についての研究は、この間、ややもすれば無視されてきた。
これについての研究は、1851年に刊行された Turner and Parker 著“ Domestic Architecture in England ”第一巻に始まり、今世紀の Margaret Wood 他諸氏の研究に引き継がれてはいるが、未だに多くの課題が残されている。
なぜなら、この部類の建物は事例が少なく、また所在が広域に散在しているうえ、ほとんどが断片的にしか残存していないからであり、また、「各地域の建築」というよりも「イギリスの建築」として括られることが多く、それゆえ、「地域(性)に根ざした: vernacular な建築」の研究者たちからは無視される傾向が強かったからである。
註 domestic architecture に対する適切な語が見当たらず、この場合は「イギリスの建築」としました。我が国の場合ならば「日本(の)建築」。
vernacular architecture は、「地域(性)に根ざした建築」としました。「土着の」建築、「民俗」建築とでも言うか?
最新の厳密な調査・記録も少なく、おそらく、再検討を加えると、その様態は既往の研究の示すところよりも数等複雑であることが明らかになってくると思われる。最近の著作のいくつかが指摘しているように、そこには検討すべききわめて広範な問題が存在するのは明らかなのだ。しかしこれらについては、既往の文献では対応できず、問題を再考するにあたって、先ずその基盤づくり、すなわち基礎資料確保のための膨大な実地調査が必要となった。
今回の調査・研究では、研究期間が限られてはいたが、ケントに在るかなりの数の「domestic architecture :イギリス建築」が収集記録された。ただし今回は、城郭、大主教の宮殿、 Templar の大邸宅などの調査は除外した(必要に応じ、参考することになる)。
研究の関心は、農村地域の建築に集中し、現存する三つの石造建築遺構の調査とその当初の用途を解明することから始まった。
この三建造物、すなわちLuddesdown Court (在 Luddesdown 、1220年あるいは1230年代造)、Nettlestead Place (在 Nettlestead 、13世紀中期造)、Squerryes Lodge (在 Westerham 、13世紀中期造 )はすべて「 first-floor halls 」型の建物として解釈されてきている。
註 Templar : Knight Templar という用語があるようです。 wikipedia の解説を一部転載します。
The Poor Fellow-Soldiers of Christ and of the Temple of Solomon (Latin: Pauperes commilitones Christi Templique Salomonici), commonly
known as the Knights Templar, the Order of the Temple (French: Ordre du Temple or Templiers) or simply as Templars, were among
the most wealthy and powerful of the Western Christian military orders[4] and were among the most prominent actors of
the Christian finance. The organisation existed for nearly two centuries during the Middle Ages.
教会がらみで一定の地位を有し、財力もあった者と思われます。ご存知の方ご教示ください。
石造建築遺構の固有名詞について wikipedia から、要点を転載します。いずれも、イギリスでは有名な「文化財」建造物のようです。
Luddesdown court : This very rural parish, forming part of the North Downs Area of Outstanding Natural Beauty, is located in a dry valley to the
south of Gravesend and is named after a scattered group of houses and farms around Luddesdown Court and its church
next to it.
Nettlestead Place : Nettlestead Place is a medieval manor house in the heart of Kent.
Squerryes lodge : Squerryes Lodge is a grade II* listed building in Westerham, Kent, England.
Nettlestead Place は、 fig6(下図)で分るように、非常に美しいヴォールトの円天井を有する建物である。その二階部分は、細部は当初とは大きく変えられてはいるが、それでもなお、当初の姿を彷彿させるに十分である。
註 first floor : イギリスの場合は、地上から数えて一番目の階→日本の二階の意。
latrine : 辞書には「(掘り込み)便所」とあります。二階レベルで「掘り込み」とはこれ如何に?単に「便所」の意か。
これに対して Luddesdown Court と Squerryes lodge には、より多くの細部が残存している。
Luddesdown Court には、fig7のように、大きさの異なる三つの二階建て部分が残っていて、そこでは屋根の構造、「window seat :窓腰掛」、中世風装飾、当初の暖炉の様態などをうかがい知ることができる。
註 window seat : 室内の窓下に造りつけにした横に長い腰掛(研究社「英和中辞典」による)
Squerryes lodgeには、fig5b のように、二階建て部分が二か所あり、一つにはplate traceried window が設けられていた。
註 plate-traceried window
tracery : はざま飾り、トレーサー。ゴシック式窓上方の装飾的骨組み(研究社「英和中辞典」による)参考図が下図
plate-traceried の意不明。「平らに埋められた飾り窓」との意か?
なお、 fig5 図中の b)の解説も理解できません。blocked とは、閉鎖された、という意味かと思われますが、この写真が、図上 A の窓であるとして、
何処から撮った写真なのか分りません。また、図の窓の幅と写真の窓幅も同じに見えません・・・???
この二つの建物の出入口は、建物の「間取り」「動線」を探る一定の手掛かりになる。現存する構造の大きさ、その素晴らしさから、それが first-floor hall としてつくられた主室を有する一戸の家でと見なされるのも当然ではある。しかし、Nettlestead Placeについては、この解釈は受け容れられず、現在も中世後期の門番小屋から入る広大な敷地のなかに現存している建屋はfirst-floor hall ではなく、往時を知る痕跡をすべて失せてしまった単なる「大きな室」にすぎないのではないかと考えられ、一方、 Nettlestead Place は三つの遺構のなかで、主要部の地上階が最大規模であることから、 first-floor hall の形跡を確かめるための恰好の事例とされた。ケントの建築遺構をより適切に考察するには、 first-floor hall の実態を知ることが不可欠だったからである。
なお、これらの建物については、次回以降の項目でより詳しく解説・説明されています。
First-floor hall についての再検討・・・その役割( function )は何か
M W THOMPSON 氏は、first-floor hall は、征服された時代に大陸から移入された上流階級の建築形式で、元来当地域の上層の階級の建物、とりわけ城郭や王宮に見られた ground-floor hall 形式に代ってつくられるようになった形式である、との説を述べている。
一方で、first-floor hall はむしろ稀で、二階建て家屋の多くがfirst-floor hall として誤解されてきたに過ぎない、という別の解釈も BLAIR 氏により説かれている。
問題は多岐にわたり、論点も多様に残っているが、城郭( keep )や楼閣( castle )では、first-floor hall が普通のつくりであったことは確かである。ケントの場合は、DOVER や ROCHESTER の楼閣( castle )、それよりは小さいが EYNSFORD 城や WALMER の古い領主の大邸宅( Manor House )などがその事例と言える。しかし、これ以外の様態ははっきりしない。イングランド全体で見れば、大きなfirst-floor hall が、「主教の官邸( bishops'palace )」として多数遺っている。WINCHESTER 、NORWICH 、WELLS 、LINCOLN の官邸( bishops'palace )などがその事例である。これらの事例は、first-floor hall が後の時代に ground-floor,aisled hall:側廊付hall に代ったものだと考えられていたが、最近は多くの疑念が出てきている。CANTERBURY の LANFRANK の hall(と考えられる室・空間) は、二階に設けられているけれども、この解釈では説明がつかない。
実際、これら初期の事例の機能・使われ方はまったく不確かであり、first-floor hall は、当初は「一時の流行」であったものが、後になって定着したのだ、という見かたは、もはや通用しなくなっている。OLD SARUM、WILTSHIRE、FAHNHAM、SURREY、HEREFORD の「主教の官邸( bishops'palace )」では、 ground-floor hall は、12世紀に既に建てられているのであり、一方、first-floor hall が WELLS、SOMERSET、ST DAVID'S、DYFED、SOUTHWARK、LONDONなどで続々と建てられるようになるのは、13世紀になってからである。英国王宮でも12・3世紀のfirst-floor hall と考えられる事例は少ない。ただ一つ確実に思えるfirst-floor hall の例は、 WESTMINSTER の LESSER HALL であり、諸種の資料の中から、他の事例にfirst-floor hall を探すことははなはだ難しい。なぜなら、「かつて存在した」という事実を確かめる痕跡がすべて失われしまっているからである。12世紀の後半、HENNRY Ⅱ世が、 SAUMUR に AISLED HALLを建てようとしたらしい。当時、フランスの王室や貴族の間では、大広間: hall を二階に設けるのが慣例になっていた。それゆえ、HENNRY Ⅱ世は、イギリスの慣行に従い AISLED HALL を建てようとしたと考えてよい。1190年代に、既に、 ALEXANDER NECHAM 氏は「論考」中で、当時イギリスでは、HALL という語は、地上階に建つ AISLED HALL のことを意味し、 AISLED HALL は建築形式:つくりかた:の一つであると述べている。
註 HENNRY Ⅱ世:在位1154~1189年。
AISLED HALL :「身廊( nave )+側廊( aisle )」形式:「上屋(身舎)+下屋(庇・廂)」形式の空間・大広間
ALEXANDER NECHAM 氏の論考:1851年刊の「家屋の構成」についての著作中の「 AISLED HALL 生成の経緯」についての論考(原註より)。
筆者の読解
イギリスでは、hall は地上階に建てるのが普通であったが、ある時期から、hall を、一階に代り二階部分に設ける例が現れる、ということのようです。
そして、地上階に設ける場合は、AISLED HALL 形式の建て方が多かった、ということでしょう。この事例は、後に紹介されます。
実際、当時のイギリスの農村地域の住居で、いろいろな形式の中から選り好みをして建てるなどということは考えられない。NECHAM 氏が書いているように、12世紀後半までは、普通の hall は、地上階で AISLED 形式にするのが普通で、13世紀中には、この AISLED 形式の ground-floor hall が農村意域での標準的なつくりかたになっていたと考えられる。
hall へは、長い壁面の一端に設けられた出入口(日本で言えば「玄関」にあたる主出入口を意味すると解す)から入り、それに接する切妻状の壁にある2~3個の出入口がサービス諸室に連なり、おそらく厨房への通路にも通じていたと思われる。
hall の暖房は、暖炉に拠っていた。主出入口から離れた hall の上手に当主の座があり、暖炉は hall 中央部に、当主の座の方へ向けて設けられていた。そして、通常、当主の座側の更に奥の壁の出入口が個室( private room )群へ通じていた。
このような構成は、多少の違いはあるものの、中世を通じて一般的に見られるが、これは、ground-floor hall形式の空間のありようについて、人びとが、きわめて明確に認識していたことを示していると考えてよい。
すなわち hall は、住居の中心:focal point であって、そこから数多くの出入口で、住居の各部に通じ、そのように構成することで「一家の暮し」が維持される。そして、これはすなわち、この住居に暮す人びとそれぞれのの「立場・地位: status )」に応じてそれぞれの居場所が定まっていることをも示している。
この空間構成の考え方は、12世紀以後、王宮から現存する小さな open hall 形式の住居に至るまで普通に見られるようになり、その空間の構成の仕方に潜む階層原理( hierarchical arrangement of spaces )は、当時の「一家構成員」の居場所と「一家の中での立場・地位: status )」との「関係」をも知る手掛かりにもなる。
註 この建物の構成の説明は、具体的に図がないので分りにくいかもしれません。
ここでの説明は、「日本の建築技術の展開-1・・・建物の原型は住居」で示した「住居の空間の構成原理」と同様のこと、すなわち、
「住居の中で暮す人びとが時どきに為す諸々の所作は、その時どきに居る場所の、その住居内での位置の性質・様態に応じて為されること、
つまり、諸々の所作は「時どきに居る場所」の、住居の主出入口(外界への唯一の接点)からの『心理的な距離』に応じて為されている、ということ
ゆえに、その所要の場所がつくられる場合も、それに応じて『設けられる』こと、を説明している、と考えられます。
なお、「日本の建築技術の展開-1」では、「出入口」から「奥」に向い、「三人称の世界」→「二人称・一人称の世界」へと展開すると説明しています。
そこでは、特に「家族の中での status 」との関係は触れていませんが、主人の座、主婦の座などで、この書の説明と同じ見方ができるでしょう。
武士階級の建物では上下・主従関係がより如実に空間の位置どりに表れてきます。、
「日本の建築技術の展開-1」で触れた如く、日本の原初的住居には一般に、一つの空間が分節化して諸室が形成される場合が多く見られますが、
この書が解説しいる「石造」事例のように、西欧には、主空間:hall に諸室を付加する場合が多いようです。構築法の違いによるのかもしれません。
古代ローマの住居址などがその好例です。
この書は、その場合の空間を付加する判断の根拠が、主出入口からの「心理的距離感」である、と解説しているのだと考えられます。
すなわち、外界→主出入口→ hall=focal point →諸室:「三人称の世界」→「二人称・一人称の世界」。
筆者の感想
このような「住居観」あるいは「論じ方」は、従前の西欧の建築関係書では稀有ではないでしょうか。
これまでの多くの「建築論」「住居論」は、西欧に倣った日本の場合も含め、「過程」を省いた「結果」だけで語る傾向が強いように思っています。
それゆえ、私は今回、初めてこのように「解説」する書に接し、大いに新鮮に感じ、いささか驚いてもいます。
そして、洋の東西を問わず、「人間の感覚=考えること」は同じなんだ、とあらためて思っています。
考えてみれば(考えるまでもなく)「感覚」は人間の根幹なのだから当たり前なことなのですが!
一方で、first-floor hall であることが確実な事例、first-floor hall ではないかと見なされる事例を検討してみると、両者ともに、その構成が先述のfirst-floor hall と異なることが分る。
たとえば、上階につくった glound-floor hall の単なるレプリカだったりする事例もある。14世紀の大主教の SOUTHWARK の官邸がその一例である。そこでは、サービス諸室は別の所にあり、暖炉は脇の壁のなかに設けられ、個室・私室群の場所の設置場所も多様で無原則である。サービス諸室への直接のアクセスの欠如、あるいはまた hall 中央舞台( dais :hallの正面・中心になる場所のことを指すと解します)の位置がはっきりしないなどは、そこにはまったく別の、より私的な(より privacy のある)場所を確保したいなど、別の役割・目的があったのではないかと思わせる。[文言補訂 25日10.25]
すなわち、一般に、家屋は、ground-floor hall形式とすることが、暮しを営む上で望ましいと考えられ、また、より大人数が生活する建物の場合には、更に多くの共用の室や個室を必要に応じて追加すればよい、と考えられていたのであろう。
つまり、単純な、ground-floor hall形式だけではなく、それを基本形として、いくつかの室を用途に応じ付加してゆくつくりかたが一般に行われていたのである。例えば、 ROCHESTER CASTLE では、領主は天守( keep )の hall の他に、城壁( bailey )の一郭にも第二の hall を有しているが、この方式は、他の城館( castle )城郭や司教の官邸( palace )の多くにも見られる。
冒頭でその言を紹介した THOMPSON 氏は、LINCOLN のように、二つの hall を有する場合、上階の hall は CAMERA と呼ばれることが多く、おそらく、領主のより私的な用務(いわゆる書斎か)に供せられたものと思われる、と述べている。
これらの事実は、確かにground-floor hallに代って設けられたのが上階の hall である、との説を強く印象づけるのではあるが、しかし、WINCHESTER 、HAMPSHIRE その他の事例に見るように、一般に、上階を持つ建物は、初期のground-floor hallを併設しているのが普通であって、現存する多くのground-floor hallは、それを引き継いだ hall であると考えられるから、必ずしも first-floor hall はground-floor hallの代役として設けられた、とは言い切れないのである。[文言補訂 25日10.25]
註 CAMERA : 辞書では「判事の私室」とあり。原義は、「アーチ形天井(の部屋)」とあります。
13世紀初期~中期にかけての(ケントの)家々・・・・その1 了
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次回は、次の二項を紹介の予定です。
Chamber blocks
Detached Chamber Blocks
註 Chamber blocks :私室にもなる数室の小室からなる建屋の意のようですので、あえて「個室群棟」と訳します。
Detached Chamber Blocks : 「本屋」から離れて建つ「数室の小室からなる建屋」の意のようですので、「分棟型個室群棟」と訳します。
次回までも、また、少々時間をいただきます。
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筆者の読後の感想
ケント地域を問わず、イギリスの農村では、住まいを木造の ground-floor hall形式で建てるのが一般的で、それが domestic なつくりであったと、
いくつもの局面で例証しながら、著者らが、言わば「執拗に」説くのを読み、最初は何故?と訝りました。
しかし、読み続けてゆくうちに、どうやら、ある時代から、イギリスでは、大陸から伝わった first-floor hall が「高級なつくり」として主流になり、
それが現存の農家住居のつくりとなったとの解釈がイギリス建築界の定説であったらしく、その根強く世の中にも根を張った「定説」に対し、
「現存の農家の建屋の構成は、農村の人びとがその生活・暮しの変容に応じて、つくり方を変えてきた結果に過ぎない」ということを説明するために、
どうしても必須な「作業」である、と著者らが考えたからだ、ということが分ってきました。それほど「定説」が根強かった!?
著者らの考え方に、当然ながら、私は同意します。エライ人だけが世の中をつくるのではないのだから・・・・。
あらためて、現代イギリスでも、いわゆる「文化伝播論」:「文化」は「高い」ところから「低い」ところへ伝わるとの「論」:が、根強かったのだと知りました。
「文化伝播論」の根にあるのは「優越・格差意識」、それは即、一般庶民には「創意」は存在しない、という見かたに連なります。
しかし、究極では、一般庶民は強い、私はそのように考えています。だが、日本の現在は、如何?