今日は朝からずうっと冷たい雨。東京では雪とのこと。暗い一日でした。
ヂンチョウゲの開花が待ち遠しい・・・。
近ごろ、メディアを賑わす「言葉」を目にして、これでいいのか?と思うことがいっぱいあります。
たとえば、「イスラム《過激》派」「イスラム《原理》主義」「《積極的》平和主義」・・・・。
どの用法も、《 》で括った部分の意味が伝わりにくい、というより不鮮明。どのようにも「都合よく」解釈できるいわゆる「玉虫色」(玉虫に申し訳ない!)。
意味するところを正確に表すためには、何行にもわたる「解説」が要る。しかし、多くの場合、毎回解説することは省略され、「解説」なしで使われる。そうすると、「都合よく解釈される言葉」が世の中に飛び交うことになりかねない。
このあたりを「上手に」使う人たちもいます。「イスラム《国》」などというのは、その典型ではないでしょうか。いつの間にか、そういう《国》が在るかの「錯覚」が世の中に生まれてもおかしくないからです。多分それが「狙い」なのでしょう。
そういう事態を危惧して、「IS(IL)」という呼称で表記し続けているメディアもあるようです。「ISIL」の IS は islamic state の略だから同じだとも言えますが、ただそのように略されると、いわばそれは単なる記号のごとくになり、 state :国の意が薄れます。つまり、そういう「国」がある、と人は思わないはずです。
「過激」という語も、私には気にかかります。
英語では radical という語があてがわれているようです。確かに英和辞書にはそのような訳が載っています。ただ、それは二番目の意味の一つ。第一義は、抜本的、徹底的な、根本的な、基礎的な、ということ。第一義に根ざすならば、急進的過激な考えになる、ということから、急進的、過激な、との意が派生するようです。元は、ラテン語の「根」という語だそうです。したがって、当然そこには「暴力的な行動」を伴う、というような意は含まれていません。
「イスラム《過激》派」=「イスラム《原理》主義」とも言われます。しかし、その「行動」が、イスラム教の「根本的な」原理」に拠っているとも思えません。私はイスラム教について詳しくは知りませんが、少なくともその発祥から考えて、他に「力」で接する、あるいは他を認めないというような教義があるはずがない、と思っています(それは、ユダヤ教、キリスト教も同じはず。もちろん仏教も。「宗教」が何故生まれるのかを考えれば、当然ではありませんか?)。
それゆえ「イスラム《原理》主義」という表現・表記も羊頭狗肉の類にしか見えてこないのです。
「《過激》派」の英訳語には、radicals の他に extremist があるようです。extreme :「極端な、過激な」という意味が第一義。そして、最も適切な語は、terror から派生した terrorism 、terrorist という表記のようです。
しかし、テロには屈しないと大見得を切ったわが宰相 の、「人道支援」をして「《積極的》平和主義」の一行動 であるいう「《積極的》平和」も「怪しげな用語」です。その危うさについては、先に「山椒言」紹介の記事で、触れました。
しかし、いったい、何故イスラム世界でこのようなことが多発するのでしょうか?
この点について、最新の(1月30日付)「リベラル21」に「キリスト教圏とイスラム世界の関係はややこしい」という貴重な解説記事が載っていました。
いわゆる「中東地域」と西欧、欧米との関係の「歴史的背景」が要約・詳述されています。問題の本質が、それこそ radical に分ります。大変参考になりました。病は重いようです。
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暗い一日、考えることも暗くなります。止まない雨はない・・・。明日は晴れるようです。
「中世ケントの家々」の紹介、難解な英語の読解に難儀しております。もう少し時間をいただきます。