経済が常に右肩上がりでなければならないという理由に、将来の高齢化社会へのため、という説明があります。たとえば、医療費や介護費をまかなうのだ、という理由。
私はいわゆる「後期高齢者」です。
「後期高齢者」とは、現行の「医療保険制度」の対象者の区分名と言えばよいでしょう。平成20年(2008年)4月からスタートした、新しい医療保険制度で、「75歳以上の健常者」が加入する保険制度を言います。
この制度案が担当機関から国会に上程されたとき、時の首相が(たしか宮沢氏だった)「では『末期』は何歳からですか」、と担当者に訊ねた、
という逸話があるそうです。因みに、「前期」とは65歳以上75歳未満を言います。
「後期・・」とは、たしかに「無神経な」呼称です。イヤな気分になる人がいて当然です。後に「長寿」に言い換えようという話もあったようです。
それだって、「お為ごかし(相手のためにしているように見せかける)」であることに変りはない。
「後期高齢者」は「後期高齢者医療保険」に加入し、保険料をいわゆる「公的年金」から徴収されます。「介護保険」も同じく、保険料は年金から徴収です。両方で、私の場合は、年約72万の公的年金から27万ほど徴収されています。
「(公的)保険」というのは、元はと言えば、かつてのいわゆる「頼母子講」「無尽講」だ、と私は思っています。つまり、一定の掛金を集め、集めた額を、加入者が順番に使用する権利がある。全員が利用し終えたら、「講」を解散する、それがかつての「講」であったようです。その基本は、「権利」が平等であること。そこが現在の「保険」と違います。現在のそれには、どうしても不平等感が付きまとう。高齢者のために若い世代の負担が大きすぎる・・・、などです。
現在「後期医療保険」加入者が実際に窓口で払う医療費は、実費の10%(いわゆる「国保:健康保険」は30%)です。私は、現在、脳出血発症後の検査のために、2~3か月に一度、「検診」に通っています。そのたびに思うのは、少なくとも私の場合、医療費の実費負担が少なすぎる、ということです。実費が少ないのは確かに助かりますが、あまりにも申し訳ない、せめて国保並に支払ってもよいのでは、といつも思うのです。
もちろん、そんなに払うことはムリだという方がたくさん居られます。週に何度も検診を受けることが必要な方にとって、それはムリです。そのあたりのことを考えた「実費の負担法」があってもいいのではないか、といつも思うのです。
私は、今年の賀状に「『健康であること』の『重さ』を感じています」との言を記しました。
これは、単に、「健康でありたい」、との私の「願望」である以上に、『健康であること』は病人の側の「責任」でもあり、「義務」でもある、との思いが含まれています。
私は、初めての「病院内」での「日常」の経験で、病人・患者に接する方がた:看護師・療法士・介護士・・・の方がたの「日常」を目の当たりにし、その方がたの仕事ぶりを詳しく見聞きし、「感動」と「敬意」を覚えました。
彼らは皆(もちろん全員ではありませんが、9割がたは)、病人・患者に思いを寄せた行動を採っている、そのように私には思えました。一方、病人・患者を「観察」していると、どういうわけか、自らの「意志」を失せてしまっている方が結構いるように思えました。その失ってしまった「意志」を気付かせ、「復活」させようと努める看護師・療法士・介護士・・・の方がた、その方がたが私には「輝いて」見えたものです。
ところが、病人・患者の側では、その折角の「努力」に応じない方が結構居られるのです。私は、傍で見ていて「歯がゆい」思いを何度もしたことを思い出します。やればできるリハビリをやろうとしない、「やりたくないという意志」だけは「明確に表現する」方がたに、療法士さんたちが苦労して接しているのを何度も見かけました。多分、介護施設などの介護士の方がたは、もっと大変なのではないでしょうか。
病人・患者の側は、もしも自らできることであるならば、そのできる範囲内ででも、自らで健常な時の様態に戻るべく努める必要があるはずだ。これが、「『健康であること』の『重さ』を感じています」に込めたかった意味なのです。
「精神論」と思われるかもしれませんが、そうではありません。もちろん、いわゆる偏狭な「自己責任論」でもありません。[追記19.00]
本来高齢者の「医療保険制度」というのは、高齢者の健康を維持するための施策のはずです。現行制度の前に、国民健康保険制度の中で、「高齢者の医療費の無料化」が行なわれたはずで、それが立ち行かなくなって、この制度が策定されたと記憶しています。
「高齢者医療費無料化」は、実は、その先進地域があり、国はその後追いをしただけだった。
先進地とは、岩手県の沢内村です。詳しくは「沢内村」を検索すると、いくつかの「資料」があります。実施するにあたり、多くの障害があったようです。国民健康保険法(1959年施行)では治療に必要な費用の半分を一部負担金として患者が支払うことを義務づけられているから、無料化は法律違反になるとして岩手県が認めなかったのです。それに対して、無料化を立案した当時の深沢村長は、次のように述べ、実施に踏み切ったとのこと。
・・・国民健康保険法に違反するかもしれないが、憲法違反にはなりません。憲法が保障している健康で文化的な生活すらできない国民がたくさんいる。
訴えるならそれも結構、最高裁まで争います。
本来国民の生命を守るのは国の責任です。しかし国がやらないのなら私がやります。国は後からついてきますよ。・・・・
その言の通り、国は後追いした。しかも、沢内村のような周到な「用意」なしに。それゆえに苦慮した結果生まれたのが現行の「高齢者医療保険制度」と言ってよいと思われます。
沢内では、周到な「用意」を行なわれた。「医療」だけではなく、「保健」にも意を尽くしたのです。「保健」:「健康を保つ」。
このあたりは、いくつもの「資料」に詳しい。
つまり、高齢者医療保険制度」が十分に機能するには、、先ずもって、高齢者の「生活」の維持が保障される世の中である、ということが「前提」にならねばならないのです。そして初めて「健康」も維持できるのです。このことを沢内村は真摯に考えたのです。
現行の「介護」の考え方も、実は既に沢内では存在し、その意味で、現行の国の「制度」も後追いなのです。
こういう「地域の保健」に対する真摯な「施策」は、長野県など、各地の小さな町村で先駆的に行われています。
国はいつも後手後手にまわり、しかも常に、肝心なところが抜け落ちるのです。
ところでを度の予算作成に当り、介護事業者に支払う「介護報酬」のマイナス改定(2・27%)を決め、介護報酬を減額することにしたそうです。
「介護報酬」とは、言ってみれば、「介護サービス」の「公定価格」。何故減額か?老齢化が進み、高齢者の介護費用がかさむから、ということらしい。
しかし、「理」で考えれば、これは、高齢化社会のいわば「必要経費」に他なりません。「社会福祉」のための「費用」。消費税は、その為だったのではなかったでしょうか。
もちろん、先にちょっと触れたように、サービスを受ける側の「自らの努力」が欠かせません。それでもなお「介護」が必要な場合がある。これを、おざなりにするわけにはゆかないのです。
介護報酬の減額がなされた場合、しわ寄せを受けるのは、先ず、「介護」にあたる看護師・療法士・介護士・・・の方がた、そしてそれは、介護を受ける高齢者の方がたにひびいてくる、これは目に見えています。
このあたりについての論評が、今日の毎日新聞の特集に載っていました。
その中に次のような一節があります。まったく同感です。全文を web 版からコピーし転載させていただきます。
・・・借金を返すために借金を繰り返しながら、派手な事業のあれこれに手を染めてゆく。腕力強化のためにむやみと買い物をする。その分、弱者救済を手抜きしたがる。逆らう者に対してリベンジに出る。このようなことがまかり通ってしまっていいのか。
私はいわゆる「後期高齢者」です。
「後期高齢者」とは、現行の「医療保険制度」の対象者の区分名と言えばよいでしょう。平成20年(2008年)4月からスタートした、新しい医療保険制度で、「75歳以上の健常者」が加入する保険制度を言います。
この制度案が担当機関から国会に上程されたとき、時の首相が(たしか宮沢氏だった)「では『末期』は何歳からですか」、と担当者に訊ねた、
という逸話があるそうです。因みに、「前期」とは65歳以上75歳未満を言います。
「後期・・」とは、たしかに「無神経な」呼称です。イヤな気分になる人がいて当然です。後に「長寿」に言い換えようという話もあったようです。
それだって、「お為ごかし(相手のためにしているように見せかける)」であることに変りはない。
「後期高齢者」は「後期高齢者医療保険」に加入し、保険料をいわゆる「公的年金」から徴収されます。「介護保険」も同じく、保険料は年金から徴収です。両方で、私の場合は、年約72万の公的年金から27万ほど徴収されています。
「(公的)保険」というのは、元はと言えば、かつてのいわゆる「頼母子講」「無尽講」だ、と私は思っています。つまり、一定の掛金を集め、集めた額を、加入者が順番に使用する権利がある。全員が利用し終えたら、「講」を解散する、それがかつての「講」であったようです。その基本は、「権利」が平等であること。そこが現在の「保険」と違います。現在のそれには、どうしても不平等感が付きまとう。高齢者のために若い世代の負担が大きすぎる・・・、などです。
現在「後期医療保険」加入者が実際に窓口で払う医療費は、実費の10%(いわゆる「国保:健康保険」は30%)です。私は、現在、脳出血発症後の検査のために、2~3か月に一度、「検診」に通っています。そのたびに思うのは、少なくとも私の場合、医療費の実費負担が少なすぎる、ということです。実費が少ないのは確かに助かりますが、あまりにも申し訳ない、せめて国保並に支払ってもよいのでは、といつも思うのです。
もちろん、そんなに払うことはムリだという方がたくさん居られます。週に何度も検診を受けることが必要な方にとって、それはムリです。そのあたりのことを考えた「実費の負担法」があってもいいのではないか、といつも思うのです。
私は、今年の賀状に「『健康であること』の『重さ』を感じています」との言を記しました。
これは、単に、「健康でありたい」、との私の「願望」である以上に、『健康であること』は病人の側の「責任」でもあり、「義務」でもある、との思いが含まれています。
私は、初めての「病院内」での「日常」の経験で、病人・患者に接する方がた:看護師・療法士・介護士・・・の方がたの「日常」を目の当たりにし、その方がたの仕事ぶりを詳しく見聞きし、「感動」と「敬意」を覚えました。
彼らは皆(もちろん全員ではありませんが、9割がたは)、病人・患者に思いを寄せた行動を採っている、そのように私には思えました。一方、病人・患者を「観察」していると、どういうわけか、自らの「意志」を失せてしまっている方が結構いるように思えました。その失ってしまった「意志」を気付かせ、「復活」させようと努める看護師・療法士・介護士・・・の方がた、その方がたが私には「輝いて」見えたものです。
ところが、病人・患者の側では、その折角の「努力」に応じない方が結構居られるのです。私は、傍で見ていて「歯がゆい」思いを何度もしたことを思い出します。やればできるリハビリをやろうとしない、「やりたくないという意志」だけは「明確に表現する」方がたに、療法士さんたちが苦労して接しているのを何度も見かけました。多分、介護施設などの介護士の方がたは、もっと大変なのではないでしょうか。
病人・患者の側は、もしも自らできることであるならば、そのできる範囲内ででも、自らで健常な時の様態に戻るべく努める必要があるはずだ。これが、「『健康であること』の『重さ』を感じています」に込めたかった意味なのです。
「精神論」と思われるかもしれませんが、そうではありません。もちろん、いわゆる偏狭な「自己責任論」でもありません。[追記19.00]
本来高齢者の「医療保険制度」というのは、高齢者の健康を維持するための施策のはずです。現行制度の前に、国民健康保険制度の中で、「高齢者の医療費の無料化」が行なわれたはずで、それが立ち行かなくなって、この制度が策定されたと記憶しています。
「高齢者医療費無料化」は、実は、その先進地域があり、国はその後追いをしただけだった。
先進地とは、岩手県の沢内村です。詳しくは「沢内村」を検索すると、いくつかの「資料」があります。実施するにあたり、多くの障害があったようです。国民健康保険法(1959年施行)では治療に必要な費用の半分を一部負担金として患者が支払うことを義務づけられているから、無料化は法律違反になるとして岩手県が認めなかったのです。それに対して、無料化を立案した当時の深沢村長は、次のように述べ、実施に踏み切ったとのこと。
・・・国民健康保険法に違反するかもしれないが、憲法違反にはなりません。憲法が保障している健康で文化的な生活すらできない国民がたくさんいる。
訴えるならそれも結構、最高裁まで争います。
本来国民の生命を守るのは国の責任です。しかし国がやらないのなら私がやります。国は後からついてきますよ。・・・・
その言の通り、国は後追いした。しかも、沢内村のような周到な「用意」なしに。それゆえに苦慮した結果生まれたのが現行の「高齢者医療保険制度」と言ってよいと思われます。
沢内では、周到な「用意」を行なわれた。「医療」だけではなく、「保健」にも意を尽くしたのです。「保健」:「健康を保つ」。
このあたりは、いくつもの「資料」に詳しい。
つまり、高齢者医療保険制度」が十分に機能するには、、先ずもって、高齢者の「生活」の維持が保障される世の中である、ということが「前提」にならねばならないのです。そして初めて「健康」も維持できるのです。このことを沢内村は真摯に考えたのです。
現行の「介護」の考え方も、実は既に沢内では存在し、その意味で、現行の国の「制度」も後追いなのです。
こういう「地域の保健」に対する真摯な「施策」は、長野県など、各地の小さな町村で先駆的に行われています。
国はいつも後手後手にまわり、しかも常に、肝心なところが抜け落ちるのです。
ところでを度の予算作成に当り、介護事業者に支払う「介護報酬」のマイナス改定(2・27%)を決め、介護報酬を減額することにしたそうです。
「介護報酬」とは、言ってみれば、「介護サービス」の「公定価格」。何故減額か?老齢化が進み、高齢者の介護費用がかさむから、ということらしい。
しかし、「理」で考えれば、これは、高齢化社会のいわば「必要経費」に他なりません。「社会福祉」のための「費用」。消費税は、その為だったのではなかったでしょうか。
もちろん、先にちょっと触れたように、サービスを受ける側の「自らの努力」が欠かせません。それでもなお「介護」が必要な場合がある。これを、おざなりにするわけにはゆかないのです。
介護報酬の減額がなされた場合、しわ寄せを受けるのは、先ず、「介護」にあたる看護師・療法士・介護士・・・の方がた、そしてそれは、介護を受ける高齢者の方がたにひびいてくる、これは目に見えています。
このあたりについての論評が、今日の毎日新聞の特集に載っていました。
その中に次のような一節があります。まったく同感です。全文を web 版からコピーし転載させていただきます。
・・・借金を返すために借金を繰り返しながら、派手な事業のあれこれに手を染めてゆく。腕力強化のためにむやみと買い物をする。その分、弱者救済を手抜きしたがる。逆らう者に対してリベンジに出る。このようなことがまかり通ってしまっていいのか。