夜来の雨にも負けずに元気でした。
庭先の山椒の枝先で育つ何匹ものキアゲハの幼虫。
この子のすぐ下の枝にもいます(ぼんやりと写っています。
画面の一番上のまんなかあたりの丸い葉の中の長さ1センチほどの黒い線も、生まれたばかりの子です。
そういえば、夏の盛りに、キアゲハが数羽群がっていました。
鳥に襲われないよう気にしながら、蝶になるまで見とどけようと思ってます。
いつもの年なら、今頃はまだ暑さが厳しいはず。こういう気候の急変には、体がついてゆかないな、と思うときがあります。
犬に引っ張られて、リハビリを兼ねて、朝1キロほど(歩数で1500歩ほど)、夕方2〜3キロほど歩いていますが、この夕方の2〜3キロがきつく感じられるときがあります。2キロほど過ぎた頃、体が重くなるのです。そして、自宅が見え始めると、一気に疲れが出ます。すがすがしい季節ではそんなことはありません。夏の暑い頃や、寒暖の差が激しいこういう気候のときに著しいようです。
こういうとき、目的地が見えてくると、かえってくたびれるように思います。まだ、あんな遠くまで歩かなければならないのだ、と思うからのようです。普通だったら、もう直ぐだ、と思うのでしょうが、そうではないのです。
そこで最近は、そういうときは、極力10mほど先を見て、そこを目指して歩く歩くことにしました。目的地の方は見ないのです。あの坂の上り端まで、あるいはあのマンホールまで、何歩ぐらいで行けるかな、などと歩数を予測し数えながら歩くのです。言うなれば、時どきの目標・目的地を近い所に置くのです。そうすると、その10mを過ぎると「安心する」のです。これを繰り返しているうちに、帰り着いています。疲れた、くたびれた、という「感じ」を抱かないですむのです。
先日、歩きながらふと思いました。くたびれたから、といってその場に座り込んで休んだらどうなるか、と。
そのとき思い至ったのは、いわゆる「行き倒れ」というのは、そうしたときに起きるのではないか、ということでした。
座り込んで休めば疲れがとれる、と普通は思います。
しかし、そうではない。それは、体力・気力が温存されているならば、の話なのです。
ところが、私のような場合、体力は未だ昔通りではありません。「気力」は体力に関係します。
普通だったら目的地を目にしたら、「もうすぐだ」、と思うのに、「まだあんな遠くなんだ」と思ってしまうことにそれは表れています。
だから、そういう時、一旦腰を下ろしたら、もしかしたら、腰を上げようという気が起きないかもしれないのです。そうしない方が「楽だから」です。そしてそのまま眠ってしまうかもしれません。
雪山の中を歩き続けると眠気を催すと言います。しかし、そこで眠ってしまったらダメ、凍死する、だから決して眠ってはならないそうです。
多分それと同じ、くたびれたからといって、安易に座り込んでしまうと、そこですべてが終わる破目になるかもしれない、多分、そうなるのが「行き倒れ」ということに違いない、そのように思ったのです。
散歩から帰って、この話を家内に話したところ、すごくリアリティがある、と妙に感心されました。
今回の病気とリハビリを体験して以来、自分の体の上に起きる「現象」を、常に観察している自分を発見しています。
気象の様態が体の様態に関わっていることにも敏感になっているようです。
実際、主治医の勧めで再発予防のため、血圧測定を朝夕行なっていますが、寒い朝は、てき面に高くなるようです。寒さに対するために、血流を増やすためなのでしょう。
もちろん、血圧の高低までは自覚できませんが、寒くなると体の動きが鈍くなるのは明らかです。遺っている「しびれ」の程度にも微妙な変化があるように感じています。そういうときは要注意なのです。
何ごとでも「観察」は「認識の基本」だ、まさに、「転ばぬ先の杖」なのだ、と感じている今日この頃です。