Quantcast
Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
Viewing all articles
Browse latest Browse all 514

広島土砂災害被災地は、古代遺跡:古墳:の密集地域でもある

$
0
0
[各所文言、言い回し 改訂 14.55]

今回の広島の土砂災害、そのすさまじさに驚愕しています。
亡くなられた多数の方に哀悼の意を表するとともに、被災地の皆様にお見舞い申し上げ、これ以上災禍が拡大することのないよう祈念しております。

広島という大都市の市街地でこのような規模の土砂災害とは?と、最初は信じられませんでした。
というのも、私は広島の街を訪れたことがなく、今回の報道で、名前だけは知っていた安佐南区、安佐北区が、これほどまでに山に迫った場所であるとは考えてみたこともなかったのです。
広島の市街というのは、太田川のつくりだしたデルタ地域に拡がっている、とばかり思っていたからです。

そこで、各種の地図と「日本歴史地名体系 広島県の地名」で調べてみました。
この二つの区、安佐南区と安佐北区は、広島市が昭和55年(1980年)に政令指定都市になった際の誕生で、広島市のもともとの市街ではなかったようです。

下に国土地理院発行の「20万分の1地形図」から当該区域を転載します( non scale ですが、ほぼ同一縮尺です)。
左は平成元年(1988年)編、右は明治21年(1888年)編の地図からです。両者の間にはちょうど100年の開きがあります。
   明治の地図は「広島県の地名」の附録で、国土地理院の前身、陸軍陸地測量部作成の「迅速図」(急いで作成という意)と呼ばれている地図です。[追補]



明治の地図から、安佐南、安佐北一帯は、広島城下からおよそ10数?北に位置し、太田川が山地を離れて最初につくりだした沖積平野の縁:山裾に生まれた集落:村、町であったことが分ります(現太田川の西に旧水路「古川」が蛇行しています)。

そして、現在の地図から、今回の被災地、安佐南区・八木(やぎ)、同・緑井(みどりい)のあたりは、近世には大きな集落(いわゆる町場を含みます)に発展していたことも分ります。街道が通り、それをなぞるように鉄道が敷設されているからです。
   いわゆる街道は、大きな集落をつないで生まれます。そして、近代初頭の鉄道は、その街道の人や物の流れの代替を意図してつくられるのが普通でした。
   今は、道路、鉄道を先ず敷設し、そこに人を集める、人が集まる、と考えるのがあたりまえですが、それは「現代の《求利》的な発想」に拠るものです。
    このあたりについては下記で触れています。
     「建物をつくるとはどういうことか−16
     「鉄道敷設の意味・その変遷−1
     「鉄道敷設の意味・その変遷−2
     「鉄道敷設の意味・その変遷−3」 
   地図にある可部線は、山陽本線の横川駅(広島駅の一つ西側の駅です:地図参照)を基点として明治42年(1909年)に民間の手により創設された鉄道です。
   この鉄道が、横川を起点とするのは、多分、横川が、街道や水運(太田川)の拠点の街だったからではないでしょうか。
   なお、横川の西側にある河川は、太田川放水路で、昭和7年(1932年)広島中央市街地の洪水防止のために設けられたもので明治にはありません。
                                                                            (以上は「広島県の地名」などに拠る)

「広島県の地名」によると、この緑井、八木一体には古代遺跡:貝塚や古墳が多数存在することが紹介されています。特に古墳は、想像を絶する数に上ります。
いささか驚きました。このことは、どの報道でもまったく報じられていません。

そこで、広島県の遺跡地図を広島県教育委員会のHPから検索しました。「広島県の文化財」から閲覧できます。
下に、「広島県の遺跡地図」から、当該地域の「遺跡分布図」と国土地理院の「5万分の1地形図・広島」(昭和45年:1970年:編・平成元年:1988年:修正版)を転載します。縮尺は同一に編集してあります。

右図が「遺跡地図」の抜粋、その右上の赤い字で埋め尽くされているところ、つまり遺跡が密集している一帯が緑井と八木の地にあたります。
左図が「地形図」の抜粋です。図上部の鉄道・可部線と横一文字に川を渡る道路の交点あたりに緑井の駅、そして、鉄道を右上にたどり、地図を出たあたりが八木駅、地図を出る直前に梅林(ばいりん)駅があります。集落:町は、鉄道の左側:北西側の山裾に拡がっています(地図参照)。



このように古代遺跡:古墳などが多数存在する、ということは、一帯が、古代、きわめて豊饒な地であったということの証左にほかなりません。
以前、小出 博 著「利根川と淀川」に、古代、西南日本:簡単に言えば関西地域:が東日本よりも早く繁栄したのは、西南日本の地質が真砂(まさ:花崗岩の風化してできる土)主体であるため、広大な天然の良田:豊饒な地が多く、それゆえに、一帯が繁栄した、権勢を誇り得たのだ、とあることを紹介しました。
   けれども、そういう土地は限られています。それゆえ、利用が隅々にまでゆきわたれば、先がありません。繁栄に限界がありました。
   それゆえ、天然の耕地を利用し尽した以降(古代末〜中世以降)、東国に繁栄の座が移るのです。
   それは、東国は天然の良田は少ないけれども、「可耕地(手を加えれば耕地化できる土地)」は多く存在したからです。
   このあたりの事情については、下記で触れています。
    「関東平野開拓の歴史−1
    「関東平野開拓の歴史−2
この緑井、八木の南東、山裾から太田川に至るまでの土地は、火山灰土が主体の関東なら湿地帯になり、排水の手立てを講じないと良田にはなりませんが、真砂ゆえに豊饒な土地だったのです。
「広島県の地名」によれば、それゆえに、一帯には幾つもの「(水田の)条里制遺構」があったようです(「あった」と過去形表現になっていますから、多分、現在は知ることができないのだ、と思われます)。
このような豊饒な土地であるならば、当然、豪族が誕生してもおかしくありません。
そして、彼ら一族が、おそらく、広大な耕作地を前面に見渡せる後背地の南東向きの緩斜面(この緩斜面も、真砂の地質ゆえに生まれた地形です)に居住地を構えたことも容易に想像できます。
そしてまた、これも当然のように、権勢のシンボルとして、墳墓をも一画に設けたのです。それがいわゆる「古墳」です。
   私の暮す茨城県の出島は、火山灰地、典型的な関東ローム層の地。赤茶色をしています。
   ただ比較的水はけはよく、谷地田は良好な水田です。谷地田を囲む関東ローム層の台地は、層が厚く、堅固です。気候も温暖。
   この水田と周辺の山の幸と霞ヶ浦の幸で、この地は古代大いに繁栄し、常陸国の一画となります。国府は、出島の付け根に在ります。今の石岡です。
   一帯にも縄文期〜古墳時代の古代遺跡が多数あります。その立地も、緑井や八木と同様の小高い丘陵状の地です。
   しかし、出島は、周辺に比べ遺跡群の多い地域ではありますが、緑井や八木のように密集はしていません。

「広島県の遺跡地図」には、別表で、各遺跡が一覧表にまとめられています。その中から、緑井、八木の一部を下に転載します。

この表は最新のもので、この原本になった「旧表」があるようです。「旧表」の遺跡番号がこの表の右辺にある「旧番」です。「旧番」があるけれども、備考欄に「消滅」あるいは「全壊」とあるものは、最新の地図(前掲の「遺跡分布図」)には載っていないようです。

私がこの一覧表をみて不思議に思ったのは、これだけの数の古墳がありながら、集落・住居址が少ないことでした。
これはおそらく、古代の集落・住居址は、その後も引き続いて各時代の居住地となったからなのではないでしょうか。
あくまでも推測ですが、たとえば、近世の住居を調査・発掘すると、前代までの住居遺構が重なっているのが見られるかもしれません。
   前掲一覧表のトップにある375番遺跡(集落跡)は、詳しく知りたい遺構です。概要欄の「テラス状遺構」が気になるからです。
   これは、傾斜地に無理なく構築するための古代人の工夫ではないか、と思います(ただし、盛土面ではなく切土した面の利用と思います)。
     現在は、土地の「有効利用」として、盛土面の利用も当たり前ですが、古代の人びとは、盛土面に建物をつくることは考えなかったようです。
     この点については、東大寺の伽藍配置を例に以下で触れています。
     「再検:日本の建物づくり―2

もう一つ、一覧表で驚いたのは、遺跡番号405番〜408番の備考欄の「宅地造成により、全壊、消滅」という記述です。
先の遺跡番号375の集落跡も、発掘調査後、「住宅団地造成で消滅」とあります。
他にも「消滅」と記された例がかなりありますが、いずれも似たような経緯ではないかと推察します。
   古代人が、今回の土砂災害を知ったならば、彼らは「山が怒った」と思ったにちがいありません。
遺跡・遺構所在地に手を付けるにあたっては、最低限、発掘調査を行い「報告書」を作成するのが「常識」ではないか、と思いますが、その調査が行われたとの記述事例はきわめて少ないようです。
   出島一帯の古墳、住居址などで、調査もされず消滅し、という事例はないようです。私の居所にも竪穴住居址がありましたが、調査済とのことでした。
   と言うより、私の暮す近在では、あの畑の中のこんもりした小山は何か、と思って調べてみると、大抵は墳墓の跡です。時代は中世、近世さまざまです。
   古墳なども、周囲が畑地として多少削られてはいても、消滅、全壊というのは見かけません。祠があったり、指標となる樹木が一本立っていたりします。
   近在に暮す方がたが、祠を建て、樹木を植え、「尊重」してきたのです。
   この経験から言って、この一覧表の記述には大いに驚きました。

古墳時代とは、通常、4世紀から7世紀頃のことを指します。最短でも今から1300〜1400年前のことです。古墳は、その頃の人びと・工人が築いたのです。

今回の土砂災害の因は、一つに地域の土質:真砂(まさ)にある。そういう地質の地に異常な豪雨があって表層崩壊・土砂災害は起きた、と解説されています。

しかし、この地域が一大古墳密集地域であることを知って、私は、この「解説」に疑問、違和感を感じました。
そうかもしれない。しかし、古墳が築かれてからの1300〜1400年の間に、土質に変化があったとは考えられず古墳時代も真砂の地であったはずだ。また、1300〜1400年の間に、今回のような異常な降雨が一度もなかった、などということも考えられない。
むしろ、この長い年月の間には、この真砂の地域は、数多くの天変地異に遭っている、と考える方が無理がない。
であるにもかかわらず、古墳時代につくられた古墳は、この1300〜1400年間健在だった、天変地異による破壊消滅はなかった、ということです。

遺跡番号375番の集落跡や405番〜408番の古墳群も、「人為的に壊されなければ、現存したはず」なのです。
つまり、消滅、全壊という事例は、いずれも、人為によるもので、自然の力に拠るものではない、と言い切ってよいのではないでしょうか。
   もちろん、中には自然消滅した例もあるでしょう。そうだとしてもなお、これだけ多数の事例が、1300〜1400年間健在だったのです。

この地に、遺跡群を壊して多くの宅地造成が行われた、という事実を知り、私が報道で感じていたもう一つの疑問が解けました。
その疑問とは、被災地が歴史のある地域・街であるのに、被災映像には旧い建物や旧い街並の被災例を一つも見かけないのはどうしてなのだろう、という疑問です。
現地を見ていませんから、あくまでも推測ですが、被災は、おそらく大半が、造成宅地と、そこに建てられた建物だったのではないでしょうか。

私は、安佐北、安佐南全域について、何処が被災し、何処が被災しなかったのか、旧い街並や建物、あるいはまた数多くの遺跡群・古墳群が被災したのか、どの程度被災したのか、あるいは被災しなかったのか・・・を含み、知りたいと思っています。
それは、「被災状況」だけを知るのでは片手落ちだと考えるからです。「被災しなかった状況」を知ること、実はそこにこそ大きな「示唆」があるはずだからです。
   残念ながら、非被災地域の状況はもとより、遺跡・古墳群の状況は、一切報道されていません。ご存知の方、ご教示いただければ幸いです。
   なお、被災事例だけを見て、非被災事例を見ない「悪しき習慣」の問題点については、以下の記事でも触れています。
    「地震への対し方−1・・・『震災調査報告書は』事実を伝えたか

このような被災・非被災の具体的な状況のデータをも踏まえ、次の「何故」を考えるとき、単に「真砂」と「異常気象」にだけ因を求めて済ますのではなく、今回の災害の真因に迫れるのではないか、と私は考えています。
 〇 何故、古墳は、1300〜1400年の間、天変地異に拠っても消滅することがなかったのか?
 〇 何故、現代の人びと・工人は、古代人の構築物:しかも墳墓:を壊してまでして、この地に住宅地をつくろうとしたのか? 
 〇 何故、現代の人びと・工人がつくった「造成宅地」は、数十年も経ずして、容易に崩れ去ってしまったのか?

以上、今回の「災害」について、考えたことを、雑然と書き並べました。
現地はまた雨のようです。無事を祈ります。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 514

Trending Articles