いつも散歩の時の通り道です。
ここしばらくの雨で、荻(オギ)が一気に繁ってしまいました。
人の丈ほどあります。朝は露で通れません。
近日中に、刈払いの予定です。刈りがいがありそうです!
8月15日の新聞の社説を、web 版で読み比べました(毎日、朝日、読売、東京、信州毎日)。
その中で、私の印象に強く残ったのは、朝日が引用していた次の文言でした。
・・・・政治家が意見を具体化して説明することなしに、お守り言葉をほどよくちりばめた演説や作文で人にうったえようとし、
民衆が内容を冷静に検討することなしに、お守り言葉のつかいかたのたくみさに順応してゆく習慣がつづくかぎり、何年かの後にまた
戦時とおなじようにうやむやな政治が復活する可能性がのこっている・・・(原文のまま転載)
これは、哲学者 鶴見俊輔氏が、敗戦の翌年に発表した論文にある一節、とのことでした。
「お守り」とは、「新明解国語辞典」によれば、「それを持っている人を、神仏が災難から守るという札(物)」のこと。
「お守り言葉」とは、社説の文言をそのまま引くと次のようなこと(段落を変え、一部を太字にしてあります)、
・・・・「お守り言葉」とは、社会の権力者が扇動的に用い、民衆が自分を守るために身につける言葉である。
例えば戦中は「国体」、「八紘一宇(はっこういちう)」、「翼賛」であり、
敗戦後は米国から輸入された「民主」、「自由」、「デモクラシー」に変わる。
それらを意味がよくわからないまま使う習慣が「お守り的使用法」だ。
当初は単なる飾りに過ぎなかったはずの言葉が、頻繁に使われるうちに実力をつけ、最終的には、自分たちの利益に反することでも、
国体と言われれば黙従する状況が生まれる。
言葉のお守り的使用法はしらずしらず、人びとを不本意なところに連れ込む。・・・・
社説は、現下の首相が、「特定秘密保護法」「集団的自衛権」あるいはまた首相が多用する「積極的平和主義」なる「概念」について、何ら具体的な説明を施すことなく、たとえば、それに異議を唱えると「見解の相違」として突き放す、その「行為」を批判的に論じ、ぞの文脈の中で、鶴見氏の論文を引用していたのです。
この論調は、東京、毎日、信毎にほぼ共通していたと言ってよいでしょう。「説明して理解を得る努力をする」とは、首相の口から何度も出された言ですが、未だに聞いたことはないように思います。
一方、訳の分からない「積極的平和主義」を「集団的自衛権」とからめて「丁寧に解説」してくれたのが読売の社説でした。「首相の代弁」と言えるかもしれません。
読売は、社説を次のような文言で締めくくっています。
・・・・・
軍事と外交を「車の両輪」として機能させ、(テロや紛争などの)抑止力を強めることが肝要だ。
それこそが、8月15日以外に、新たな「終戦の日」を作ることを防ぐ道となろう。
註 ( )内は、前後の文意をもとにした筆者の加筆。
私は、「独特の論理」の文章にてこずりながら、やっとの思いでこの文言に辿りついたとき、すぐさま、先に紹介した白川 静氏の「字通」の「安全」の解説にあった次の文言を思い出していました。
「安全」 : 危うげなく、無事。[顔氏家訓、風操]兵は凶にして戦ひは危し。安全の道に非ず。・・・・
だいたい、武器を片手の「外交」とは、いったい何なのでしょう?
武力を持つ諸国が、武力の増強に努めるのは何故でしょうか?
それは、「武力」を示すことで「外交」を有利にすすめようという思惑、端的に言えば、腕力の強い者が勝つ、という《思考》を強く持っているからではありませんか?
そういう諸国と肩を並べて武力を競う国、それが「普通の国」なのか?そういう国に再びなること、それが「日本を取り戻す」ということなのか?そんなことを思いました。
このあたりを「やんわり」と皮肉っていたのは、13日の東京新聞の「私説・論説室から」の「歴史までコピペするのか」という一文。
・・・・
コピペ行為には思考停止に陥る危うさがある。他人の意見やアイデアを都合よく盗み取り、自分の頭では考えないからだ。
そこには努力や真心の結晶はかけらも残らない。
広島と長崎の原爆の日。安倍晋三首相のあいさつは核や原爆症をめぐる内外の動きを紹介したくだりを除き、去年のコピペに等しかった。
平和の尊さに思いをはせた痕跡は感じられず、安易に官僚任せにしたに違いない。
立憲主義を骨抜きにし、日本を戦争ができる国に変える。負の歴史までコピペするのは無邪気では済まされない。
誰の悪知恵の盗用なのか。厳しく審査しなくては。 (大西隆)
そしてまた、13日の毎日朝刊「水説」(毎水曜日に載る論説の名称)でも、同様の論を「視点」を変えて論じていました。これは全文を web 版から転載します(段落変え、太字化は筆者)。
水説 :「民」はどこへ=中村秀明
広島と長崎の「原爆の日」の式典で、安倍晋三首相のあいさつの冒頭3段落分が、昨年とほとんど同じだったことが議論になっている。
6日の広島。「68年前」が「69年前」になり、雨だったので「セミしぐれが今もしじまを破る」は削られた。それ以外は一字一句同じである。
「使い回しなんて被爆者に不誠実だ」という抗議を受け、3日後の長崎ではどうするのかと注目した。だが、やはり「68年前」が「69年前」になっただけだった。
平和と核廃絶への重い決意が感じられない、と首相への批判は根強い。
一方で、慰霊の場が時々の権力者のパフォーマンスに利用される方が問題だ、との声も聞く。
実は、使い回し以上に気になったことがある。違ったところ、変えた表現である。ほとんど同じだった部分の後、4段落目が微妙に違う。
広島も長崎も、昨年はこうだった。
「私たち日本人は、唯一の、戦争被爆国民であります。そのような者として、我々には、確実に、『核兵器のない世界』を実現していく責務があります」
今年は違った。
「人類史上唯一の戦争被爆国として、核兵器の惨禍を体験した我が国には、確実に、『核兵器のない世界』を実現していく責務があります」
核なき世界を目指す主語が「国民」から「国」になった。「民」は消えた。
どっちでも同じじゃないか、というかもしれない。国民が国になり、働きかけが強くなった、というかもしれない。そうではない、と思う。
作家・村上春樹さんのあいさつを思い出す。2009年2月、エルサレム賞の授賞式。
「卵と壁」にたとえ、私たち生身の人間と、国家や組織、社会制度という強固なシステムとの対立を語った。
「私たちはみな、形のある生きた魂を持っています。システムにはそんなものはありません」
「システムに自己増殖を許してはなりません。システムが私たちをつくったのではなく、私たちがシステムをつくったのです」
5年たって、村上さんの問いかけは重い。
今、世界のあちこちで「民族」や「自衛」、「宗教」、「経済発展」といったもっともらしい装いをまとい、国家や組織が自己増殖しつつある。
そして、個が押しつぶされそうな息苦しさが広がっている。
それは、この国も決して例外ではない。首相あいさつの同じではなかった部分にそう思った。(論説副委員長)
考えてみるまでもなく、自分にも理解できない、ゆえに自分で説明もできない、そういう言葉で、書いたり、あるいは、話したりすることは、できない、してはならない、私はそう考えています。