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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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近時雑感 : 「ユマニチュード」の語に思う

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8日の雪は25?ほど積もり、吹き溜まりでは長靴が埋まるほどでした。
柿の木にも写真のように北西側に積もっています。9日朝7時過ぎです。
9日は午後から集落の方が総出で重機を使い道路の雪搔き。
掻ききれない雪を除くには手作業。微力ながらお手伝いをさせていただきました。
午前中から家のまわりもやっていたので、さすがに左脚がこたえました。
今日11日も雪がちらついてます。

先日、「ユマニチュード」という言葉を初めて耳にしました。
NHK「クローズアップ現代」で、「いわゆる認知症」の「新療法」として、日本の医療・看護・介護の世界で「ユマニチュード」が最近話題になっている、と報じていたのです。
それによりますと、「ユマニチュード」というのは、35年ほど前にフランスで始まり、ベルギー、ドイツなど西欧でも最近採りいれられるようになった「療法」とのこと。フランス語の「造語」では?
その「基本」として、?「見つめること」、?「話し掛けること」、?「触れること」、?「立つこと」の四つが挙げられていました。「見つめる」というのは、相手の目を見ながらという意味のようです。「話し掛ける」ときは、上から見る、見下ろす位置ではなく、相手と同じ高さに居ることが要点のようでした。「触れる」というのは、いわゆるスキンシップ、「立つこと」とは、「歩ける(ようになる)こと」の意のようです。
要は、「いわゆる認知症」の方は、この基本に立って接する(看護・介護する)とき、医療者・看護者・介護者に対して心を開き、結果として、容体は格段に向上する、ということのようでした(これは、あくまでも、私の「理解」です)。

今、「専門」「専門家」の世界では、「医療を行なう人―医療を受ける人」、「看護する人―看護を受ける人」、「介護する人―介護を受ける人」、・・・、つまり「「専門のサービス行為を行う人―そのサービスを受ける人」という「関係」の存在が、「あたりまえ」になっているはずです。そしてそのとき、この「関係」の様態は、常に、専門のサービス行為を行う人>そのサービスを受ける人」となっているのが現代の常態ではないか、と思います。
更に、こういう「現在の様態」を、「いわゆる健常者」の世界では、人は別段気にも留めないでしょう。というより、気に留めなくなってしまっている。そういう風に馴らされてしまっている。そういうものだと、いわば「諦めている」。。
ところが、「いわゆる認知症」の方は、自分にとって理不尽(に思えるような)ことには、唯々諾々として従わない、従わなくなる。
多くの医師・看護師・介護士の方がたが、医療・看護・介護を頑強に拒否された経験があるようでした。ベッドに拘束する、などというのは「出歩かないように」と言っても「言うことは聞かない」から、嫌悪感・罪悪感を感じつつも「介護のためにやむを得ずなのだ、と自らに言い聞かせながら」拘束するのだそうです。
ところが、「ユマニチュード」の方法に留意して「いわゆる認知症」の方がたの看護・介護にあたると、容体は目に見えて格段に向上する。たとえば、歩けなかった方が自ら進んで歩くようになったり、無表情だった顔の表情が豊かになる、話し掛けに一切応じなかった方が懸命に話をしようとする・・・などの感動的な姿が映像で伝えられていました。
おそらく、「いわゆる認知症」の方は、「いわゆる健常者」が「馴らされてしまっていたこと」から、解放されているのだ、人本来の姿に戻っているのだ、と私には思えました。「ユマニチュード」で接するとき、人本来の姿で接してくれていることが分り、心を開くのだ、と思われます。
別の言い方をすると、「医療を行なう人−医療を受ける人」、「看護する人−看護を受ける人」、「介護する人−介護を受ける人」の関係が、現在は普通「三人称の世界」になっているのに対し、「ユマニチュード」では「一人称〜二人称の世界」になる、と言えるかもしれません。「私と彼・彼女」ではなく、「私たち」あるいは「私とあなた」の関係になるのです。
「三人称の世界」とは、言い換えれば、「人」を、この場合は「いわゆる認知症」の方を、「一つの対象として見なし扱う世界」と言えるでしょう。
そして、実は、このような見かたは、「近代」が進んで取り入れてきた「人の世、世界の事象全般に対する見かた・思考法」だった、と言えるのではないでしょうか。それはまた、「いわゆる近代科学」の拠って立つ「地盤」でもあった・・・。

私は、この番組を見ていて、「ユマニチュード」の考え方・人への接し方は、なにもいわゆる「認知症」の方への接し方ではない、人と人との関係、更には人と事象・事物との関係、その基本的・根本的見かたにかかわる話であって、少し大げさに言えば、現代の大方が拠って立つ「近代的思考法」にいわば挑戦しようという考え方なのではないか・・・、と思いました。
そして更に、近代以前の日本人の事物・世界への対し方は、考えてみれば、たくまずして「ユマニチュード」の考え方そのものだったのではないか、しかるに、日本は、近代化の名の下で、人びとにとってごく自然であたりまえであったこの考え方を捨てることこそ近代化である、と見なして捨ててきた。今も変わらないどころか、一層ひどくなっている・・・。
ところが、彼方の近代思考法・思想の源泉の地では、周辺諸国も含め、その radical な「再考」が始まっている・・・。

番組を見て、私は、明るい気持ちと暗い気持ちの両方を抱き、複雑な気分でした。

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