これまで書いたシリーズものへは、今までの「カテゴリー」ではアクセスしにくいと思いましたので、
シリーズのタイトル(あるいはその要旨)で一式括る形に変更しました(単発ものは従前のままです)。
ただ、最終回から第一回へという順に並びますが、その点はご容赦。
少し早く咲いた白の侘助です。ときおり、ヒヨドリが蜜を吸いにきています。
[蛇足 追記 8日 19.50]
十二月八日が何の日か、身をもって知っている人は、今70代以上の方がたのはずです。
昭和十六年十二月八日、日本が対アメリカの戦いを始めた日。
今、新聞等への投稿で、「秘密保護法案」に危惧を覚える旨書かれている方がたに70、80代の方が多いのは、「戦時中」あるいは「戦前」の様子をよく知っているからです。
私はそのとき4歳、当日のことはうっすらとしか覚えていませんが、小学校(当時、「国民学校」と称するようになっていました)に入ってから、毎年、この日に《記念式典》があったのは覚えています。
そして、敗戦。
それから、教科書を黒く塗って学び、まわりの大人たちの「変節」を見ながら大人になりました。もしかしたら、それが今の私の素地をつくったのかもしれません。
しかし、こういう「反面教師」は無用、不要です。
当然ながら、現在の政権党の方がた:戦争を知らない大人たち:が「戦時中」「戦前」を知る由もない。彼らが「戦時」で辿りつけるのは「靖国神社」だけ?
しかし、現在彼らがやろうとしていること:「取り戻す」ことの中味は、どう見ても「戦前」願望。なぜ「戻りたい」のだろうか。
今の政権は、ことあるたびに、「《有識者》に判断を任せる」旨の言を弄しています。
また、政権党の憲法改変案では、「『個人』の権利・・」と言う文言を「『人』の権利」に変えています。
そこから何が見えるか。
それは、彼らのなかに厳然として在る「認識」、すなわち、「人びと、つまり一般の国民は愚かである」、あるいは「人びと、つまり一般の国民は愚かでなければならない」、あるいはまた「人びとは『個人』であってはならない」、という「認識」の存在です。
「個々人」に、これ以上「権利」を云々されては厄介だ、だから「個」ではなく「人一般」で括る。十人十色ではなく、十人一色が好ましい・・・。
「人一般」とは、かつての《期待される人間像》!すなわち「一色に染められた《人びと》」。
「戦前」には、それがあった。《一色》に染まらない人びとを《取締り》《矯正する》こともできたではないか。だから、人びとは為政者の言うこと、やることに従い、戦争もできたのだ。
それに反し、今は何かと言えば「反対する」、だから簡単にできない。できるようにしようではないか・・・。
折しも、意図的に奪われた個々人の権利・尊厳の「回復」に生涯をかけたマンデラ氏が亡くなられました。
その今、地球の反対側の《先進国》で、その逆を望む人びとがいる!
では、《期待される人間像》とは、どんな「人間像」か?それは《有識者》が《評価する》・・・。
それではいったい、《有識者》とは、どういう「者」か?それも《有識者》が《決める》?
こういう「論理」を平然と使うとは、あまりにも人びと:国民を見損なっていませんか。
どうしてこんな「思考回路」になるのでしょうか。
一言で言えば、それは、彼らの、如何ともしがたい「エリート意識」に因がある、と思います。
《有識者》として「選択された」人びとも、それに甘んじているようです。かつて、そういう人たちは「御用学者」と呼ばれたものですが、今でもすすんでそうなりたがる方がたがいるようです・・・!
御用学者:政府や有力な企業の言いなりになって真実をゆがめ、時勢の動向を見て物を言う無節操な学者。(「新明解国語辞典」)
では、「エリート意識」はなぜ生まれるのか。
それは、日本の歩んできた「近代」の様態にある、と私は考えています。
何度も書いてきたことですが、「人の上に人をつくる」ことによって、「人びとを『分別する』こと」によって、「近代化が進む」と思い込んでしまったのです。そして、そうすることに励んできてしまった・・・。
その「思い込み」は、大学などで《専門》を学べば《専門家》になれる、という「誤解」を蔓延させてきた。
たとえば、建物づくりの世界では、現場で鍛えた職方たちを、学卒の者の下に置いてきた。
「そういう現場の実際を何も分らない肩書きだけの人たち」が、建物づくりにかかわる法律をつくる・・・。
註 このあたりのことについては、下記で書いています。[追記 9日 9.55]
日本の「建築」教育・・・・その始まりと現在 どこで間違ったか
「実業家」・・・・「職人」が実業家だった頃 滝大吉著『建築学講義録』について
「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築−1
「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築−2
「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築−拾遺
学問の植民地主義 《権威》の横暴
今や、各界でその気配が濃厚です。変る気配もありません。
そして、変えるべきだ、という意見・見解は《権力者》《有識者》に潰される。
「公聴会」や「パブリック・コメント」への対処の実態で明らかです。
同様に、選挙で選ばれた以上は何をやってもいいのだ、という「誤解」が、国会議員をはじめ各議員に在る(関西のとある知事:今は市長:がその典型)。
この「誤解」に抗議すると、たとえばデモをすると、恐怖感を煽るからテロと同じだ、と言う!
十人十色の人びとが、一つにまとまって「反対・廃止」の意向を示す、おそらくこれは、彼らにとって、この上なく怖い、《想定外》の事態。その怖さを、彼は音響の大きさのせいにした・・・(音が小さければ、聞こえない振りをするでしょう・・・)。
一昨日六日、秘密保護法が強行成立してしまいました。時計の針が一歩、「戦前」側に戻ったようです。
原発再稼働や新設の動きも露骨になっています。
時計の逆回しの《願望》は更に加速しそうです。のど元過ぎれば熱さを忘れ・・、人の噂も75日・・、これが彼らの《願望》の「拠りどころ」。
だから、私たちは、決して「歴史」を忘れてはならないのです。
時計の逆回しにブレーキをかけられるのは、十人十色の私たちです。
「王様はハダカだ」と言い続けたい、と思います。あきらめは禁物です。
求利より求理を!
蛇足
「十人十色」ということについて、だいぶ前に書いた文章から抜粋して再掲します。[8日 19.50追記]
なお、同じ趣旨を、ここでも書いています。[追加 9日 9.05]
「・・・・十人十色ということは、ものに対する人の感覚が人によってまったく異なる、ということではない。
むしろ、ものに対する人の感覚は人によらず共通であり、
しかし、そこでそれぞれが捉えたものに対してのそれぞれの反応・解釈に、十人十色の違いが生まれる、と考えた方がよいだろう。
そうだからこそ、人の世界に互いに通じる「言葉:言語」が生まれたのだ。
けれども日常、得てして、「ものに対する率直な感覚」と、「感覚で捉えたものへの反応・解釈(簡単に言えば「好き嫌い」)」とを混同してしまいがちだ。
そこの見極めのためには、素直にならなければならない、先入観を捨て去るようにつとめなければならないのだが、これが難しい。・・・・」
秘密保護法案に対する「反対、廃止」の声は、人びとが、この案件について感じていることに対し、共通の見解を持った、ということです。
誰かによって、一色に染められた、というのではないのです。法案成立に躍起になった方々には、この厳然たる事実が分らないのです。
「有識者」について書いた記事があります。「この国を・・・13」[10日 19.45追加]
シリーズのタイトル(あるいはその要旨)で一式括る形に変更しました(単発ものは従前のままです)。
ただ、最終回から第一回へという順に並びますが、その点はご容赦。
少し早く咲いた白の侘助です。ときおり、ヒヨドリが蜜を吸いにきています。
[蛇足 追記 8日 19.50]
十二月八日が何の日か、身をもって知っている人は、今70代以上の方がたのはずです。
昭和十六年十二月八日、日本が対アメリカの戦いを始めた日。
今、新聞等への投稿で、「秘密保護法案」に危惧を覚える旨書かれている方がたに70、80代の方が多いのは、「戦時中」あるいは「戦前」の様子をよく知っているからです。
私はそのとき4歳、当日のことはうっすらとしか覚えていませんが、小学校(当時、「国民学校」と称するようになっていました)に入ってから、毎年、この日に《記念式典》があったのは覚えています。
そして、敗戦。
それから、教科書を黒く塗って学び、まわりの大人たちの「変節」を見ながら大人になりました。もしかしたら、それが今の私の素地をつくったのかもしれません。
しかし、こういう「反面教師」は無用、不要です。
当然ながら、現在の政権党の方がた:戦争を知らない大人たち:が「戦時中」「戦前」を知る由もない。彼らが「戦時」で辿りつけるのは「靖国神社」だけ?
しかし、現在彼らがやろうとしていること:「取り戻す」ことの中味は、どう見ても「戦前」願望。なぜ「戻りたい」のだろうか。
今の政権は、ことあるたびに、「《有識者》に判断を任せる」旨の言を弄しています。
また、政権党の憲法改変案では、「『個人』の権利・・」と言う文言を「『人』の権利」に変えています。
そこから何が見えるか。
それは、彼らのなかに厳然として在る「認識」、すなわち、「人びと、つまり一般の国民は愚かである」、あるいは「人びと、つまり一般の国民は愚かでなければならない」、あるいはまた「人びとは『個人』であってはならない」、という「認識」の存在です。
「個々人」に、これ以上「権利」を云々されては厄介だ、だから「個」ではなく「人一般」で括る。十人十色ではなく、十人一色が好ましい・・・。
「人一般」とは、かつての《期待される人間像》!すなわち「一色に染められた《人びと》」。
「戦前」には、それがあった。《一色》に染まらない人びとを《取締り》《矯正する》こともできたではないか。だから、人びとは為政者の言うこと、やることに従い、戦争もできたのだ。
それに反し、今は何かと言えば「反対する」、だから簡単にできない。できるようにしようではないか・・・。
折しも、意図的に奪われた個々人の権利・尊厳の「回復」に生涯をかけたマンデラ氏が亡くなられました。
その今、地球の反対側の《先進国》で、その逆を望む人びとがいる!
では、《期待される人間像》とは、どんな「人間像」か?それは《有識者》が《評価する》・・・。
それではいったい、《有識者》とは、どういう「者」か?それも《有識者》が《決める》?
こういう「論理」を平然と使うとは、あまりにも人びと:国民を見損なっていませんか。
どうしてこんな「思考回路」になるのでしょうか。
一言で言えば、それは、彼らの、如何ともしがたい「エリート意識」に因がある、と思います。
《有識者》として「選択された」人びとも、それに甘んじているようです。かつて、そういう人たちは「御用学者」と呼ばれたものですが、今でもすすんでそうなりたがる方がたがいるようです・・・!
御用学者:政府や有力な企業の言いなりになって真実をゆがめ、時勢の動向を見て物を言う無節操な学者。(「新明解国語辞典」)
では、「エリート意識」はなぜ生まれるのか。
それは、日本の歩んできた「近代」の様態にある、と私は考えています。
何度も書いてきたことですが、「人の上に人をつくる」ことによって、「人びとを『分別する』こと」によって、「近代化が進む」と思い込んでしまったのです。そして、そうすることに励んできてしまった・・・。
その「思い込み」は、大学などで《専門》を学べば《専門家》になれる、という「誤解」を蔓延させてきた。
たとえば、建物づくりの世界では、現場で鍛えた職方たちを、学卒の者の下に置いてきた。
「そういう現場の実際を何も分らない肩書きだけの人たち」が、建物づくりにかかわる法律をつくる・・・。
註 このあたりのことについては、下記で書いています。[追記 9日 9.55]
日本の「建築」教育・・・・その始まりと現在 どこで間違ったか
「実業家」・・・・「職人」が実業家だった頃 滝大吉著『建築学講義録』について
「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築−1
「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築−2
「実業家」たちの仕事・・・・会津・喜多方の煉瓦造建築−拾遺
学問の植民地主義 《権威》の横暴
今や、各界でその気配が濃厚です。変る気配もありません。
そして、変えるべきだ、という意見・見解は《権力者》《有識者》に潰される。
「公聴会」や「パブリック・コメント」への対処の実態で明らかです。
同様に、選挙で選ばれた以上は何をやってもいいのだ、という「誤解」が、国会議員をはじめ各議員に在る(関西のとある知事:今は市長:がその典型)。
この「誤解」に抗議すると、たとえばデモをすると、恐怖感を煽るからテロと同じだ、と言う!
十人十色の人びとが、一つにまとまって「反対・廃止」の意向を示す、おそらくこれは、彼らにとって、この上なく怖い、《想定外》の事態。その怖さを、彼は音響の大きさのせいにした・・・(音が小さければ、聞こえない振りをするでしょう・・・)。
一昨日六日、秘密保護法が強行成立してしまいました。時計の針が一歩、「戦前」側に戻ったようです。
原発再稼働や新設の動きも露骨になっています。
時計の逆回しの《願望》は更に加速しそうです。のど元過ぎれば熱さを忘れ・・、人の噂も75日・・、これが彼らの《願望》の「拠りどころ」。
だから、私たちは、決して「歴史」を忘れてはならないのです。
時計の逆回しにブレーキをかけられるのは、十人十色の私たちです。
「王様はハダカだ」と言い続けたい、と思います。あきらめは禁物です。
求利より求理を!
蛇足
「十人十色」ということについて、だいぶ前に書いた文章から抜粋して再掲します。[8日 19.50追記]
なお、同じ趣旨を、ここでも書いています。[追加 9日 9.05]
「・・・・十人十色ということは、ものに対する人の感覚が人によってまったく異なる、ということではない。
むしろ、ものに対する人の感覚は人によらず共通であり、
しかし、そこでそれぞれが捉えたものに対してのそれぞれの反応・解釈に、十人十色の違いが生まれる、と考えた方がよいだろう。
そうだからこそ、人の世界に互いに通じる「言葉:言語」が生まれたのだ。
けれども日常、得てして、「ものに対する率直な感覚」と、「感覚で捉えたものへの反応・解釈(簡単に言えば「好き嫌い」)」とを混同してしまいがちだ。
そこの見極めのためには、素直にならなければならない、先入観を捨て去るようにつとめなければならないのだが、これが難しい。・・・・」
秘密保護法案に対する「反対、廃止」の声は、人びとが、この案件について感じていることに対し、共通の見解を持った、ということです。
誰かによって、一色に染められた、というのではないのです。法案成立に躍起になった方々には、この厳然たる事実が分らないのです。
「有識者」について書いた記事があります。「この国を・・・13」[10日 19.45追加]