11月3日(「文化の日」)付東京新聞社説、相変わらず論旨明快です。「『文一道』の精神に立つ」」、是非お読みください。[11月3日 9.30追記]
冷たい雨が上がりましたが、空気は少し湿りがちです。筑波も、今日は霞んでよく見えません。
すっかり葉を落とした柿の木が朝日に映えています。欅の黄葉はまだです。
「言葉」とは何か、あらためて問い直したくなるようなニュースが溢れています。
辞書をひいてみました。
「言葉」とは、
「その社会を構成する人びとが思想・意思・感情などを伝え合うための記号として伝統的な慣習に従って用いる音声。また、その音声による表現行為。・・」これは、「新明解国語辞典」の解釈。
人は、「言葉」を見たり聞いたりすると、その「言葉」の「普通に示すあるイメージ」を描きます。同辞書の「イメージ」の項に、「その言葉(名前)を見たり、聞いたりした人が(直ちに)頭の中に思い浮かべる、そのものの具体的な姿・形。」とある通りです。
通常、私たちが言葉を用いるときには、このイメージが自分の思いを出来うる限り正確に伝えるものであるように、意を尽くすはずです。
ところが、世の中にはそうではない方がたが居るのです。しかも、かなり増えているようです。
簡単に言えば、言葉の生み出すイメージだけを信じ込ませよう、という使い方をしたがる方がたです。
昨今世を賑わせている《メニュー誤表示》騒動などは、その最も簡便形。
メニューの記載事項もさることながら、《誤表示》という言い方もそれに該当します。「偽装ではない」、というイメージを抱かせるための使いかたに他ならないからです。
こういうのを「甘言」と言います。口先だけの言葉。用例に「甘言に釣られる」とあります。「メニュー《誤表示》」は、世の中に「甘言に釣られる」人びとが多いからこそ多発するのかもしれません。
昔からよくあるのが「商品の売り込み」文句。「メニュー《誤表示》」はその系統。
ところが、昨今、政治の世界の「用例」に同様の傾向が多く見られるように思います。
「秘密保護法」などの制定や「集団的自衛権」などについて政治家の語る言葉の数々は、その典型。「メニュー誤表示」の「思考法」と何等変りはない。
宰相が口にする《積極的平和主義》とは何ぞや?どうやら、武力行使をもって平和を維持することを意味するらしい。
こういう言葉遣いを平然とできるのは、ことによると、心身の成長期を、悪しきCMの流行った時期に過ごしたからかな、と思いたくなります。そういえば、偽装ではなく誤表示であると言い張る経営者と、時の宰相は、同じ年代のよう・・・。だからこそ、汚染水は完全にブロックしている、などという言葉を平然と使えるのでしょう。更には、福島を経験したから日本の原発は安全だという《論理》で原発売り込み行脚も行なっている・・。「責任」どうとるのだろう?
「新明解国語辞典」の「言葉」の項の用例に、「「言葉だけが踊っている」というのが載っています。「空疎な表現に終始する」ことです。我が現下の宰相は、「国民など、簡単に言葉で躍らすことができる」、と思っているのもしれません。そんなに人びとは「甘い」でしょうか?「世界」は「甘い」でしょうか?
近くの国道わきに、半分ちぎれた《日本を取り戻す》と書かれたポスターが雨ざらしになっています。昨年の選挙の時の現政権党のポスターです。幸いなことに、宰相の顔の部分は色が褪せてよく見えません。
「取り戻す」という語には、所有権を取り戻す、という意と、「以前の良い状態」に帰る、という意の両義あるようです。しかし、この惹句だけでは、詳細は不明です。しかし、最近の様態からすると、取り戻すのは、どうやら、敗戦前の日本の姿、あのときは弱肉強食で「強」のアメリカに負けた、だから「強」になりたい・・・、「力」を蓄えたい、武力行使ができるようになりたい、つまりは、「合法的に」戦争がしたい、ということらしい。「原発維持」もそのためかも・・・。
言葉は、「言い繕う」ためにあるのではありません。
私たちは、「言葉」:「その社会を構成する人びとが思想・意思・感情などを伝え合うための記号として伝統的な慣習に従って用いる音声。また、その音声による表現行為。」の本当の使い手にならなければならない、と思います。
冷たい雨が上がりましたが、空気は少し湿りがちです。筑波も、今日は霞んでよく見えません。
すっかり葉を落とした柿の木が朝日に映えています。欅の黄葉はまだです。
「言葉」とは何か、あらためて問い直したくなるようなニュースが溢れています。
辞書をひいてみました。
「言葉」とは、
「その社会を構成する人びとが思想・意思・感情などを伝え合うための記号として伝統的な慣習に従って用いる音声。また、その音声による表現行為。・・」これは、「新明解国語辞典」の解釈。
人は、「言葉」を見たり聞いたりすると、その「言葉」の「普通に示すあるイメージ」を描きます。同辞書の「イメージ」の項に、「その言葉(名前)を見たり、聞いたりした人が(直ちに)頭の中に思い浮かべる、そのものの具体的な姿・形。」とある通りです。
通常、私たちが言葉を用いるときには、このイメージが自分の思いを出来うる限り正確に伝えるものであるように、意を尽くすはずです。
ところが、世の中にはそうではない方がたが居るのです。しかも、かなり増えているようです。
簡単に言えば、言葉の生み出すイメージだけを信じ込ませよう、という使い方をしたがる方がたです。
昨今世を賑わせている《メニュー誤表示》騒動などは、その最も簡便形。
メニューの記載事項もさることながら、《誤表示》という言い方もそれに該当します。「偽装ではない」、というイメージを抱かせるための使いかたに他ならないからです。
こういうのを「甘言」と言います。口先だけの言葉。用例に「甘言に釣られる」とあります。「メニュー《誤表示》」は、世の中に「甘言に釣られる」人びとが多いからこそ多発するのかもしれません。
昔からよくあるのが「商品の売り込み」文句。「メニュー《誤表示》」はその系統。
ところが、昨今、政治の世界の「用例」に同様の傾向が多く見られるように思います。
「秘密保護法」などの制定や「集団的自衛権」などについて政治家の語る言葉の数々は、その典型。「メニュー誤表示」の「思考法」と何等変りはない。
宰相が口にする《積極的平和主義》とは何ぞや?どうやら、武力行使をもって平和を維持することを意味するらしい。
こういう言葉遣いを平然とできるのは、ことによると、心身の成長期を、悪しきCMの流行った時期に過ごしたからかな、と思いたくなります。そういえば、偽装ではなく誤表示であると言い張る経営者と、時の宰相は、同じ年代のよう・・・。だからこそ、汚染水は完全にブロックしている、などという言葉を平然と使えるのでしょう。更には、福島を経験したから日本の原発は安全だという《論理》で原発売り込み行脚も行なっている・・。「責任」どうとるのだろう?
「新明解国語辞典」の「言葉」の項の用例に、「「言葉だけが踊っている」というのが載っています。「空疎な表現に終始する」ことです。我が現下の宰相は、「国民など、簡単に言葉で躍らすことができる」、と思っているのもしれません。そんなに人びとは「甘い」でしょうか?「世界」は「甘い」でしょうか?
近くの国道わきに、半分ちぎれた《日本を取り戻す》と書かれたポスターが雨ざらしになっています。昨年の選挙の時の現政権党のポスターです。幸いなことに、宰相の顔の部分は色が褪せてよく見えません。
「取り戻す」という語には、所有権を取り戻す、という意と、「以前の良い状態」に帰る、という意の両義あるようです。しかし、この惹句だけでは、詳細は不明です。しかし、最近の様態からすると、取り戻すのは、どうやら、敗戦前の日本の姿、あのときは弱肉強食で「強」のアメリカに負けた、だから「強」になりたい・・・、「力」を蓄えたい、武力行使ができるようになりたい、つまりは、「合法的に」戦争がしたい、ということらしい。「原発維持」もそのためかも・・・。
言葉は、「言い繕う」ためにあるのではありません。
私たちは、「言葉」:「その社会を構成する人びとが思想・意思・感情などを伝え合うための記号として伝統的な慣習に従って用いる音声。また、その音声による表現行為。」の本当の使い手にならなければならない、と思います。