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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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近時雑感・・・・暮しのカレンダー

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気候がおかしなせいか、柿の色づきがわるいようです。これは渋柿。


通院リハビリを終了して半月以上になります。そこであらためて気付いたのは、退院後、週一回の通院リハビリの日を、いわば「起点」にして一週間がまわっていた、暮しのリズムができていた、ということでした。
通院リハビリがなくなってから、ふと、今日は何曜日だったけ、と自問することがありました。「起点」が具体的にないからだと思います。まだ、本当には発症前に回帰できていないのです。
こういう「感覚」は、「退職」したときにも味わったように思います。要するに、「他動的に」与えられていた「起点」がなくなり、新たな「起点」がつくられていないことによる違和感とでも言えばよいかもしれません。別の言い方をすれば、自らを律する、あるいは、自らが差配できる(と思える)カレンダーがつくれていない、ということでしょうか。


私の暮している集落は、8割以上が農家です。そして、その大半は高齢者、私と同年代かそれ以上の方がたです。若い世代に代替わりしているお宅もあります。その場合は、かつての「主人」は、いわゆる「隠居」。この地域では、大抵、屋敷の中に「母屋」と「離れ」があり、隠居者は「離れ」に住まわれるのが普通です。
隠居は、のんびり暮らせている、と傍からは見えるかもしれませんが、私の印象は少し異なります。もちろんすべてではありませんが、隠居された方は、早く「老いる」ように見えるのです。
夕暮れ時、門前にぽつんと座り込んで、あたりを何を見るというのでもなく眺めている姿を見ることがあります。しばらくして、最近姿を見かけないな、などと思っていると、今は、どこそこの施設に入っている、などという話が伝わってきます。
農家の方がたは、季節の移り変わりを身をもって感じながら、その季節なりの農事を決めています。その「差配」を、長年、ご夫婦でやってきた、それが、隠居で、いわば失せてしまったのです。何も自分のやることがなくなってしまった。その「喪失感」は、余人には想像できないほど大きいのではないでしょうか。門前に佇む姿に、それが表れているように私には見えました。隠居と言えば恰好よいですが、もしかしたら、これでは姥捨てと変わらないのかも・・・、などと思ってしまいます。

私が散歩に行く一つのコースの折り返し点に、200?程度の小さな畑があります。まわりは、それとは違い大面積の耕地です。今は一面落花生(ちょうど収穫期です)。しかしその小さな畑では、季節の色とりどりの草花や、多種多様な野菜が育っています。
この畑を営んでいるのは、この集落の大地主の奥さん。私と同年代かと思います。腰が曲がっています。この方が、途中はちょっとした坂道なのに、何とバイクに乗って!自宅から500mほど離れているこの畑に通って育てておられるのです。広大な所有地のほんの一画なのですが、ここだけはすべてこの方の差配に委ねられているようです。そして、この方は、腰が曲がっているのにバイクに乗っているように、非常にお元気なのです。いつも溌剌としています。近在には、同年齢の腰の曲がった女性が多数おられます。多くは、デイサービスに通っているようです。
この違いは、自ら自らの日々を差配できる、差配できていると思えることが有る、自分の暮しのカレンダーを持てている、かどうかに起因しているのではないか、と私には思えます。
そして、このことは、「高齢者を『介護する』」とはどういうことか、示唆しているのではないか、と考えています。
隠居された方には、何もさせない、のではなく、例えば、代替わりした家人:若い世代の方が、農事にについてのノウハウを訊ねる、教えを乞う、それも、いや、それこそが「介護」なのではないか、と思えるのです(そういう「能力」は、シルバー人材センターに登録すればいい、なんていうものではないはずなのです)。
自ら差配できることがある、差配できていると思えることが有る(これは、世にいう《生きがい》などというようなものではない)、そうであれば、「老いる」度合いも小さくなる、そして、いわゆる「狭義の介護(身の回りの世話など)」の必要も減るのではないか、そのように感じています。

小さな畑では、今、菊が満開です。


私も、自主トレも含めた暮しのリズムを安定させなければなりません。


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