福島県の一番南に位置するのが「いわき市」です。直ぐ隣りは茨城県・北茨城市。
「いわき」には、原発事故により、原発周辺の町・村から、多くの方が避難されています。
今、その方がたと「いわき」市民の方がたとの間で、軋轢(あつれき)が生じている、という報道がありました。ときには、「出てゆけ」などの差別的内容の落書き:いわゆる hate speech も見られるそうです。「いわき」の知人からも、そういう話を聞いたことがあります。
以下は、その実情を見てきた記者が書いた5月30日付「毎日新聞」朝刊の「記者の目」の全文です。
記者は、この事態を解消する糸口は、お互いの状況を直視することではないか、と記しています。
しかし「お互いの状況」は、すでに以前から報道などで報じられているはず、つまり「知られている」はずです。
なぜ、何ををあらためて直視しなければならないのだろうか。
その理由は、文中のいくつかのエピソードに見つけることができると思います。
いわき市に避難した富岡町民が、最初はいわきの知人に厚遇されたが、賠償金の差などから気まずくなった。一時帰宅の際、その知人もカメラをもって同行したが、知人は撮影することはなかった。そして、それ以来、わだかまりが薄れたという。
惨状を自分の感覚で実際に感じ知った「知人」は、傍観者・観察者としてカメラを向けることをためらったのです。その状況を平然として撮るなどということはとてもできない、そう「感じた」のでしょう。
そして、記者が4人のいわき市民と同行して富岡町をた訪れたとき、帰りの車内では無言が続いたというもう一つのエピソード。
これも、「実情」を自分の感覚で感じ知ったとき、伝え聞いていたこととは別のことが「分り」、何も言えないほどの衝撃を受けたからだと思われます。
つまり、「身を持って感じて分ったこと」は、報道などを通じて、「単なるデータとして分ったこと」とは、まったく異なる、ということなのです。
これは、「異常なことへの感覚が鈍麻して・・・きてしまったのではないか」という弁護士の方の発言に連なります。
要は「感覚」の鈍麻、「感じること」がなくなっていたことが問題だったのです。
先回「歴史のなかの大地動乱」の紹介の際、その著者の次のような言を転載しました(再掲)。
「・・・・最近、危惧をもっているのは、ほとんどの人が「安全神話」という言葉を、
原発について何の疑問もなく使っていることである。
実態は《安全宣伝》としかいいようのないものに神話という用語を使うのは、人文学者としては大きな抵抗がある。
・・・・
大学が、社会的な要請を正面から受け止めて、本格的な文理融合に進むためには、
ここらへんの感じ方から議論しなければならないのではないだろうか。」
おそらく、理系を任じる方がた、とりわけ工学系の方がたの多くは、「感じ方」などという《情緒的》なこと、《非科学的》なことにかかわるのは御免だ、と言うに違いありません。
けれども、私は、この「感じ方から議論しなければならない」という考え方に全面的に賛意を表します。
なぜなら、およそ概念なるものは、すべからく、人が自らの感覚を通じて生みだしたものだからです。いわゆる「(自然)言語」は、まさにそれです。
そこで、すでに何度も紹介してきた物理学者の言を再び紹介します。
・・・・
現代物理学の発展と分析の結果得られた重要な特徴の一つは、
自然言語の概念は、漠然と定義されているが、
・・・・理想化された科学言語の明確な言葉よりも、・・・・安定しているという経験である。
・・・・既知のものから未知のものへ進むとき、・・・・我々は理解したいと望む・・が、しかし同時に
「理解」という語の新たな意味を学ばねばならない。
いかなる理解も結局は自然言語に基づかなければならない・・・・。
というのは、そこにおいてのみリアリティに触れていることは確実だからで、
だからこの自然言語とその本質的概念に関するどんな懐疑論にも、我々は懐疑的でなければならない。
・・・・ ハイゼンベルク「現代物理学の思想」富山小太郎訳(みすず書房)より
註 このあたりについては、「『冬』とは何か」でも書きました。お読みいただければ幸いです。
実は、「『感じること』、『感覚』が一番重要なのだ」、という言を、最近、「意外」なところでも耳にしました(もっとも、意外などというと、怒られるかもしれません。何も分っていないんだから・・・!と)。
それは、リハビリテーションの治療を受けているとき、療法士の方に言われたのです。
私の左手は、握力が回復できていません。指先も不器用のまま。
この状況を療法士の方に話したところ、ソフトボールのボールを持ってきて、それを左手でつかんでごらん、と言う。
そこでボールを5本の指でつかみ持ち上げようとする、しかし、ボールは指から滑り落ちる。今の私の手指では、指先の力加減をうまく調整できないからです。
彼女は、ボールを机の上に置き、手のひらと5本の指でボールを「くるんで」みなさいと言う。そして手を机の上を左右に動かすと、ボールはくるんだ手の中でスムーズに動く筈だ、そのとき、ボールはいわば手に馴染んでいて、手の中でスムーズに回転しているはずだから、「そのボールの動いている様子を手のひらと指先の『感覚』で覚えこみなさい」と言う。
次に、ボールがスムーズに動かないように圧力を加えて、そうしながら肘を上げてみなさい、との指示。どうなるか?ボールが糊でつけたかのように、吸付いたように、くるんだ手・指とともに上がってきた・・・。
彼女いわく、これが、ボールをつかむ、ボールを持ち上げるということだ、この「感覚」を、よく覚えておいてください。ボールをつかむには、ただ指に力を入れてもだめなのだ・・・ということを分りなさい!
別の療法士との会話のなかでも、同じようなことがありました。
自転車に乗れるようになった、そのときのことを思い出してみてください。
何度もコケているうちに、突然、バランスよく乗れる瞬間が来る。
そして、「その瞬間の状況の『感覚』が身につく」と、後は自由自在になる。
その「感覚」の「発見」が「要点」なのだ、ということを分ってください、とその方は言われました。
つまり、いわゆる「機能回復」が進展するかどうかは、
自らの「感覚」による会得次第だ、ということです。
最新のリハビリテ−ションは、
「人の存在はすべて『感覚』が基本である」という「認識」の上で成立っているらしい、
これは凄い、と私はそのとき思いました。
そしてこういう「認識」を身につけておられる療法士さんたちも、凄いと思いました。
なぜなら、皆さん20代〜30代の方がた。
他の分野での20〜30代の方がたには、多分、こういう「認識」はなく、もちろん、「感覚」などという概念は無視されるのがあたりまえ・・・。
こういう認識を身につけた療法士さんたちは、
単なるトレーナーではないのです。
そのことが知られていないのは残念だ、と私は思いました。
今は、データで語ることが最も「科学的な分り方」であるというように思われています。しかし、「分る」ということは、本当は、「感覚で分る」「感じて分る」ことなのです。
それゆえ、私たちに必要なのは、ある事象がデータで伝えられたとき、それを、「感覚で感じて分るように変換すること」ではないか、と思います。
「想像力」というのは、おそらく、この「能力」のことなのです。
この点について、これも何度も紹介してきた文言を再掲します。
・・・・
私が山と言うとき、私の言葉は、
茨で身を切り裂き、断崖を転落し、岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、
そしてついに、絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、
山を言葉で示し得るのだ。
言葉で示すことは把握することではない。
・・・・
・・・・
言葉で指し示すことを教えるよりも、
把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。
ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。
おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、
それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同様である。
・・・・ サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より
「いわき」には、原発事故により、原発周辺の町・村から、多くの方が避難されています。
今、その方がたと「いわき」市民の方がたとの間で、軋轢(あつれき)が生じている、という報道がありました。ときには、「出てゆけ」などの差別的内容の落書き:いわゆる hate speech も見られるそうです。「いわき」の知人からも、そういう話を聞いたことがあります。
以下は、その実情を見てきた記者が書いた5月30日付「毎日新聞」朝刊の「記者の目」の全文です。
記者は、この事態を解消する糸口は、お互いの状況を直視することではないか、と記しています。
しかし「お互いの状況」は、すでに以前から報道などで報じられているはず、つまり「知られている」はずです。
なぜ、何ををあらためて直視しなければならないのだろうか。
その理由は、文中のいくつかのエピソードに見つけることができると思います。
いわき市に避難した富岡町民が、最初はいわきの知人に厚遇されたが、賠償金の差などから気まずくなった。一時帰宅の際、その知人もカメラをもって同行したが、知人は撮影することはなかった。そして、それ以来、わだかまりが薄れたという。
惨状を自分の感覚で実際に感じ知った「知人」は、傍観者・観察者としてカメラを向けることをためらったのです。その状況を平然として撮るなどということはとてもできない、そう「感じた」のでしょう。
そして、記者が4人のいわき市民と同行して富岡町をた訪れたとき、帰りの車内では無言が続いたというもう一つのエピソード。
これも、「実情」を自分の感覚で感じ知ったとき、伝え聞いていたこととは別のことが「分り」、何も言えないほどの衝撃を受けたからだと思われます。
つまり、「身を持って感じて分ったこと」は、報道などを通じて、「単なるデータとして分ったこと」とは、まったく異なる、ということなのです。
これは、「異常なことへの感覚が鈍麻して・・・きてしまったのではないか」という弁護士の方の発言に連なります。
要は「感覚」の鈍麻、「感じること」がなくなっていたことが問題だったのです。
先回「歴史のなかの大地動乱」の紹介の際、その著者の次のような言を転載しました(再掲)。
「・・・・最近、危惧をもっているのは、ほとんどの人が「安全神話」という言葉を、
原発について何の疑問もなく使っていることである。
実態は《安全宣伝》としかいいようのないものに神話という用語を使うのは、人文学者としては大きな抵抗がある。
・・・・
大学が、社会的な要請を正面から受け止めて、本格的な文理融合に進むためには、
ここらへんの感じ方から議論しなければならないのではないだろうか。」
おそらく、理系を任じる方がた、とりわけ工学系の方がたの多くは、「感じ方」などという《情緒的》なこと、《非科学的》なことにかかわるのは御免だ、と言うに違いありません。
けれども、私は、この「感じ方から議論しなければならない」という考え方に全面的に賛意を表します。
なぜなら、およそ概念なるものは、すべからく、人が自らの感覚を通じて生みだしたものだからです。いわゆる「(自然)言語」は、まさにそれです。
そこで、すでに何度も紹介してきた物理学者の言を再び紹介します。
・・・・
現代物理学の発展と分析の結果得られた重要な特徴の一つは、
自然言語の概念は、漠然と定義されているが、
・・・・理想化された科学言語の明確な言葉よりも、・・・・安定しているという経験である。
・・・・既知のものから未知のものへ進むとき、・・・・我々は理解したいと望む・・が、しかし同時に
「理解」という語の新たな意味を学ばねばならない。
いかなる理解も結局は自然言語に基づかなければならない・・・・。
というのは、そこにおいてのみリアリティに触れていることは確実だからで、
だからこの自然言語とその本質的概念に関するどんな懐疑論にも、我々は懐疑的でなければならない。
・・・・ ハイゼンベルク「現代物理学の思想」富山小太郎訳(みすず書房)より
註 このあたりについては、「『冬』とは何か」でも書きました。お読みいただければ幸いです。
実は、「『感じること』、『感覚』が一番重要なのだ」、という言を、最近、「意外」なところでも耳にしました(もっとも、意外などというと、怒られるかもしれません。何も分っていないんだから・・・!と)。
それは、リハビリテーションの治療を受けているとき、療法士の方に言われたのです。
私の左手は、握力が回復できていません。指先も不器用のまま。
この状況を療法士の方に話したところ、ソフトボールのボールを持ってきて、それを左手でつかんでごらん、と言う。
そこでボールを5本の指でつかみ持ち上げようとする、しかし、ボールは指から滑り落ちる。今の私の手指では、指先の力加減をうまく調整できないからです。
彼女は、ボールを机の上に置き、手のひらと5本の指でボールを「くるんで」みなさいと言う。そして手を机の上を左右に動かすと、ボールはくるんだ手の中でスムーズに動く筈だ、そのとき、ボールはいわば手に馴染んでいて、手の中でスムーズに回転しているはずだから、「そのボールの動いている様子を手のひらと指先の『感覚』で覚えこみなさい」と言う。
次に、ボールがスムーズに動かないように圧力を加えて、そうしながら肘を上げてみなさい、との指示。どうなるか?ボールが糊でつけたかのように、吸付いたように、くるんだ手・指とともに上がってきた・・・。
彼女いわく、これが、ボールをつかむ、ボールを持ち上げるということだ、この「感覚」を、よく覚えておいてください。ボールをつかむには、ただ指に力を入れてもだめなのだ・・・ということを分りなさい!
別の療法士との会話のなかでも、同じようなことがありました。
自転車に乗れるようになった、そのときのことを思い出してみてください。
何度もコケているうちに、突然、バランスよく乗れる瞬間が来る。
そして、「その瞬間の状況の『感覚』が身につく」と、後は自由自在になる。
その「感覚」の「発見」が「要点」なのだ、ということを分ってください、とその方は言われました。
つまり、いわゆる「機能回復」が進展するかどうかは、
自らの「感覚」による会得次第だ、ということです。
最新のリハビリテ−ションは、
「人の存在はすべて『感覚』が基本である」という「認識」の上で成立っているらしい、
これは凄い、と私はそのとき思いました。
そしてこういう「認識」を身につけておられる療法士さんたちも、凄いと思いました。
なぜなら、皆さん20代〜30代の方がた。
他の分野での20〜30代の方がたには、多分、こういう「認識」はなく、もちろん、「感覚」などという概念は無視されるのがあたりまえ・・・。
こういう認識を身につけた療法士さんたちは、
単なるトレーナーではないのです。
そのことが知られていないのは残念だ、と私は思いました。
今は、データで語ることが最も「科学的な分り方」であるというように思われています。しかし、「分る」ということは、本当は、「感覚で分る」「感じて分る」ことなのです。
それゆえ、私たちに必要なのは、ある事象がデータで伝えられたとき、それを、「感覚で感じて分るように変換すること」ではないか、と思います。
「想像力」というのは、おそらく、この「能力」のことなのです。
この点について、これも何度も紹介してきた文言を再掲します。
・・・・
私が山と言うとき、私の言葉は、
茨で身を切り裂き、断崖を転落し、岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、
そしてついに、絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、
山を言葉で示し得るのだ。
言葉で示すことは把握することではない。
・・・・
・・・・
言葉で指し示すことを教えるよりも、
把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。
ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。
おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、
それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同様である。
・・・・ サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より