岩波新書から「歴史のなかの大地動乱――奈良・平安の地震と天皇」(保立道久著)という書が刊行されています(上の写真)。
著者から贈呈いただき、入院中に読ませていただきました。
奈良・平安期、平城京、平安京周辺をはじめ、日本各地で多くの地震や火山の噴火が頻発したようです(著者はそれを「大地動乱」として表記しています)。
この書は、この天変地異、およびそれに拠った「災害」に対して、時の為政者:権力の座にあった天皇がどのように対応したか、各種史料を基に解き明かした書である、と言えばよいでしょう。
古代の為政者たちは、これらの頻発した「大地動乱」:天変地異は、「天譴(てんけん)」である、または、敵対しあるいは放逐、殲滅した政敵の「呪い」である、と解釈していたようです。
「天譴」とは、時の政治に対して天が下した「譴責」:戒め。
先の東日本大地震の際、これは人びとに対する天罰だ、と言ったのは時の東京都知事でした。しかし、古代の為政者は自らに責がある、と認識していた・・・。
そのあたりを同書の解説をそのまま紹介します。
天平6年(734年)4月、河内、大和一帯をM7〜7.5の大きな地震が襲った。その前後にも地震が頻発。
時の天皇は聖武。地震の三ヵ月後に発布された聖武の勅に、次のようにあるという。
「このころ、天すこぶる異を見せ、地あまた震動す。
しばらく朕の訓導のあきらかならざるによるか。民の多く罪に入るは、その責め、予一人にあり」
この勅は、中国の周の文王の故事が下敷きになっている、とのこと。
すなわち、周の文王が病臥中に地震に遭う。地震は四方で起き、郊外に避難もできなかった。
そこで家臣たちが、「地震は君主をおびやかすもの。
だから地震を他所に「移す」ためには(安全な場所を確保するためには)、
国城を増す:版図の拡張:などの事業を起すことが必要だ、と進言したが、
文王は「我必ず罪あるが故に、天これをもって我を罰するなり」と言い、応じなかった、という故事。
これに類似の故事は中国には多いようです。
著者は、この点を踏まえて、次のように述べています。
・・・たとえば災害からの復興を名目にして実際上は利潤を追求したり、
事業や改革と称してそこに危機を「移す」というようなことがあってはならない
ということであろう。
大災害が社会の危機をもたらし、その中で、国家の正統性が問われることは
何時の時代でも起こることであるが、
その危急の機会にこそ為政者の側の自己責任が問われねばならないという訳である。
「責は予にあり」。これは、為政者の責任の取り方の問題としては、
どの時代の政治にも通ずる正論であると思う。
このような「天譴(てんけん)」に対して聖武天皇の採った対応の一つが国家と民の安泰を祈願した東大寺の「大仏」造立です。
一方、政敵の呪いを鎮めるためには、政敵の墳墓を聖地化する:神社を設けるなど:の策を採っています。
このあたりの詳細については、同書をお読み下さい。
以上のような古代の為政者の災害に対する対応の諸相もさることながら、私にとって最も印象深かったのは、そこに詳述されている「地震研究者」と「歴史研究者」の「研究に対する姿勢」でした。
なぜか。
それは、この方たちの研究が、事実・事象をありのままに認識すること、そこから始まる、これを基本にしているからです。
至極「あたりまえ」のことなのですが、これは、現在の工学系の研究ではまったくと言ってよいほど、見られない、と私には思えたからです。
地震が頻発する国土であるという事実を軽視して安全を説く原子力工学や、机上の計算・論理で耐震を説く建築工学の実情を一瞥するだけで、それが分ります。
歴史研究の資料となる諸文献・史料には、各地域で起きた天変地異(地震や噴火など)、それによる被害などが記されています。もちろん、必ずしも正確ではなく、伝聞に近い場合もあります。
それゆえ、工学系の研究者は、多くの場合、これら資料・史料を、信憑性に欠けるとして無視するでしょう。
しかし、歴史研究者、地震研究者たちは違うのです。
たとえ描写・記述が正確さに欠けていたとしても、何ごとかが起きたからこそ記録に残したのだ、と考えることから始めるのです。
歴史研究者は、諸史料を対照分析し、記録された事象:天変地異を特定する作業を行い、
地震研究者は、資料・史料に示されている地域の地物に存する痕跡を徹底的に調べ上げ、そこから、史料に記されている天変地異の存在とその実態の構築:シミュレーションを試みるのです。
昨今徐々に明らかにされてきている東日本大地震と同規模、類似の地震であることが明らかになってきた9世紀に起きた「貞観(じょうかん)地震・津波」の様態も、これら研究者たちの実地調査を含めた緻密な研究の成果なのです。
それらの現段階の集大成としてまとめられたのが「『古代中世』地震・噴火史料データベース」で、当然「理科年表」に載せられているデータより、最新かつ詳細です。
このデータは、静岡大学防災総合センターより公開されています(下記)。これが、どのような経緯で編まれたかについては、本著の「あとがきに」載っています(今回の 最後に転載します)。
『古代中世』地震・噴火史料データベース」
そこで知ったのは、それまで何となく地震には縁が薄い地域だと勝手に思い込んでいた奈良盆地、京都盆地周辺が、実は、断層の集積地であり、いわば地震の巣である、という厳然たる事実でした。盆地と言う地形・形状の謂れを考えれば当然かもしれません。
そして、私の更なる関心は、この地震頻発の地に、古代以来の多くの建物が、地震で壊れることもなく現存しているという「事実」に向かいます。
たとえば、東大寺の初代大仏殿は、建立後、平家の焼き討ちに遭うまでのおよそ400年間、地震に拠って被災したという記録はありません(この点については、以前に「古代の巨大建築と地震」で触れました)。
何故被災しなかったのか。
工学研究者は、大仏殿がどんな架構であったかが不明だから、検討することができない、と言うでしょう。
しかし、大仏殿の範型と言われる唐招提寺金堂も、地震では壊れていないのです。
けれども、その理由も解明できていないはずです。
工学系の研究では、専ら《机上の論理》で構築された《理論》が先行する、つまり、事実・実態(歴史上の事実も含む)に目を配ることをせず、《先験的論理》あるいは《功利的論理》(簡単に言えば《都合のよい論理》)で事象を解釈し、その《論理》で解釈できない「事象」は、その存在自体を無視するのです。
工学研究者は、地震災害があると、壊れた建造物にのみ目を遣り、壊れなかった建造物には目もくれません。
これは、明治年間に建築学者が誕生して以来、日本の《建築工学界》の《伝統》と言ってよいかもしれません。
この件についてはかなり前に下記で触れました。
「地震への対し方−1・・・・『震災報告書』は事実を伝えたか」
「地震への対し方−2・・・・震災現場で見たこと、考えたこと」
「地震への対し方−3・・・・『耐』震の意味すること」
実際、唐招提寺金堂では、その理由の解明もされないま、耐震性の確保のためと称し、明治の修理では、棟の位置にトラスが組まれ、最近の修理では、鉄骨が組み込まれたようです。
巷で増えている《耐震補強》同様、これは、禍根を残す処理ではないか、と私は考えています。
古代の建造物だけではなく、中世、近世につくられた建物(社寺に限らず住居を含みます)にも、地震で倒壊を免れている事例は多数あります。
しかし、それらがなぜ倒壊を免れたのかについてはまったく解明されていません。それどころか、そのような事例が多数在ることさえ、公表されていないのです(もしかしたら、知らないのかもしれません)。
いくつか実例を挙げます。
京都:東福寺・龍吟庵方丈、大徳寺・大仙院、西本願寺などなど
兵庫:古井家、箱木家 奈良:今井町・高木家などなど
これらについては「日本の建物づくりでは、壁は自由な存在だった」シリーズで触れています(下記8回シリーズ)。
これは、《耐震理論》が説く「耐震・耐力壁」などまったくないのに、
数百年健在の事例が多数在ることに触れたシリーズです。
1)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/0e5f84e9e6a05960941c6bf7addf0784
2)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ba65df2182d48e8c06cddb11d35cac23
3)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/79463d3e28a18d29713ccade385bbec1
4)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/53341d0e4ef1e1ead5a20475be1bd6e7
5)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/ff5c01cb975024f20a6c378226019f10
6)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/69179419bccd3d1ef2663bee5dc88f1c
7)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/643e57cf3fa000d41843c853830dc1d3
8)http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/af0e7b3f276b1782f4697e8dc2eea94a
現在、この「事実」を無視して、文化財建造物においても、
「耐震・耐力壁」を設けようといういわゆる2×4化が押し進められているのです。
本著の「はじめに」および「おわりに」で、著者は次のように記しています。
「私は2010年に書いた『かぐや姫と王権神話』で、『竹取物語』について考えた。その結論は、かぐや姫は火山の女神であり、『竹取物語』はより旧い時代の火山神話を物語風に書き直したものではないかという、自分にとっても意外なものとなった。
そして、その執筆の中で、この時期の地震・噴火についての文献史料が豊かな内容をもっていること、にもかかわらず、ほとんど研究が行なわれていないということを知った。
この経験によって、地震史料に興味を持ちはじめていたところに、2011年3月11日の東日本太平洋岸地震がおきた。
その中で、これまで歴史地震の研究が手薄であったことを知った私は、地球科学・地震学の基礎勉強から始め、8・9世紀、つまり奈良時代と平安時代初頭の地震・噴火の史料を読み込んでいった。そして、この時期の地震・噴火を、国家・王権の対応をふくめて説明することは、歴史学者の責務であろうと考えたのである。・・・」(以上「はじめに」より
「さて、研究を始めた当初、私は、歴史学の側の地震研究の遅れに驚いたが、しかし本書を執筆する中で、それは地震学のこれまでの努力への驚きにかわっていった。・・・本書は、宇佐美龍雄、石橋克彦、寒川旭、郡司嘉宣、小山真人、早川由紀夫、林信太郎など、地震学・火山学の研究者の仕事に依拠することによって可能になったものである。・・・右にお名前をあげた地震学のほとんどのメンバーが参加する科学研究費グループ(代表 石橋克彦)が作成した(先に挙げた)「『古代中世』地震・噴火史料データベース」を利用できたことが決定的であった。・・・・この研究は「中世史」の歴史研究者と地震学・火山学の人びとによる学際的な人員構成をもっており、大学・アカデミーの世界がとり組んだ文理融合型のプロジェクトの中では確実な成果を残したものとして特筆すべきものである。・・・(「おわりに」より)
なお石橋克彦氏は、地震国日本での原発設置の危険性をかねてより発言されてきた方です。
註 石橋克彦著「大地動乱の時代――地震学者は警告する」(岩波新書)参照
しかし、利潤追求第一の企業関係者と、それと連携する工学者たちは、耳を傾けようとはしませんでした。
これまで折に触れて書いてきたように、工学は理系ではなく「利」系になってしまっているのです。
現下の政権も、この工学者たちの説く「安全神話」の下で、原発の再稼動、原発の輸出を画策しています。
また、本著者は、別のところで、次のようにも述べています。
「・・・・最近、危惧をもっているのは、ほとんどの人が「安全神話」という言葉を、原発について何の疑問もなく使っていることである。
実態は《安全宣伝》としかいいようのないものに神話という用語を使うのは、人文学者としては大きな抵抗がある。
これでは、民族的な遺産としての神話のもつ力は台無しである。
大学が、社会的な要請を正面から受け止めて、本格的な文理融合に進むためには、
ここらへんの感じ方から議論しなければならないのではないだろうか。
私たちが責任をもつべき時間は、神話の時代をふくんでほとんど永遠に近い過去から未来まで続いているのだから。」(東京大学広報誌「淡青」26号2013・04所載「文理融合への歴史学からの接近」より)
本著を読んでの私の最大の感想は、著者がここで語っていることと同じであったと言ってもよいと思います。
あえて蛇足を加えるなら、
工学および工学研究者は、「研究」「研究者」のあるべき姿について、
今からでも遅くはない、あらためて、問い直すことから始めるべきではないか、ということになります。