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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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続・「分ること」と「感じること」

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原発再稼動推進の動きが目に付きます。
ある県の知事は、県内の原発敷地内の断層が活断層であるという調査報告に対して、別の専門家に調査させろ、と語ったそうです。電力会社幹部も同様の「反応」を示したらしい。
簡単に言えば、「再稼動に支障のない調査報告書がほしい」、ということです。
これは、「これまでの調査、調査報告書なるものが、いかなるものであったか」を、端無くも語ってくれています。つまり、「科学的」を装った単なる「ためにする作文」だった、ということです。
しかし、原発立地で降り注ぐ「金」の「魅力」は「地域振興」を望む地域では、未だに大きいものであるようです。この点について11日の毎日新聞「記者の目」(下記)は、青森県東通村(ひがしどおり・むら)の現状について述べています(読み難いときは右記web版をどうぞ「記者の目:青森・東通村『核のゴミ』誘致問題」。


   東通村は下北半島の付け根にあります。だいぶ前に、一帯を歩いたことがあります。
   ちょうど「やませ」で、深い霧の中に家々が浮かんでいたことを覚えています。
   安定して農業を営むには厳しい風土に感じられました。しかし、そこでも人は暮すのです。
   かつて「経済」とは、そういうところでの暮し向きについて考えることだったと言います(経世済民)。
おそらく、福島原発事故で村や町を離れざるを得ず、しかも、いつになったら帰れるのか、それさえも分らない多くの人びとが現実に「居る」ということ、多くの森林や農地が死の大地になっているということ、しかも、同じような事態がこれから起きないという保証はないということ、この事実を「感じる『力』」を、「降り注いでくる『金』の『力』」は、人びとから奪い去ってしまうのです。「感じる力」が喪失し、紙の上の数字に一喜一憂するだけになるのです。立派な建物が建ち並び、帳簿上の数字が大きければ「経済的に豊かだ」と思うのでしょう。
しかし、それは財政難の地域に於いて著しいのではなく、中央政府の《経済観》自体が同じ構図のようです。その一つの例が、エネルギー事情の厳しい国々への原発(技術)の輸出で「経済再生」といういかんとも許しがたい「計画」。そこで生じる廃棄物:核のゴミ:はどう処理するつもりなのでしょうか。
日本の原発技術は、福島の事故の経験を活かしているから安全だ、というのが売り込み文句らしい。こういう「発想」のできる方々は、生まれ育った村や町を離れざるを得ず、しかも、いつになったら帰れるのか、それさえも分らない多くの人びとが現実に「居る」ということ、この厳然たる事実を、そして人びとの心情を「感じる」ことができない人たちだ、簡単に言えば無神経な人たちだ、と断言してよいでしょう。彼らに感じられるのは、唯一、懐に入ってくる札束の感触だけなのに違いない。
「こういうことを『感じることができなくなった世』の先行き」についての論考が10日の毎日新聞の夕刊に載っていましたので転載します(字が読みづらいときはweb版でお読み下さいパラダイムシフト・2100年への思考実験:「残り続ける『核の墓場』」)。


世界中から核のゴミを集め、その預かり料を糧にそのゴミの墓守をして暮す、そうなるようにすることが「『経世済民』策」だ、とでも言うのでしょうか。

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