Quantcast
Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
Viewing all 515 articles
Browse latest View live

「Ⅱ-2 石場建て後の架構方式」 日本の木造建築工法の展開

$
0
0

PDF「Ⅱ-2 石場建て後の架構方式」 A4版10頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

Ⅱ-2 礎石建て後の架構方式・・・・古代の典型

 1.架構の基本形

 現存する礎石建てに移行後の古代の建物の大半は寺院の建物で、一般の建物の例はありません。ただ、法隆寺には、大陸伝来の寺院様式の建物だけではなく、一般の建物づくりを思わせる建物も現存し、その一つが、下図の法隆寺に学ぶ学僧たちとその従者の宿舎であった東室(ひがしむろ)と妻室(つまむろ)です。

    

東室 妻面、 右 妻室:妻面、内部 写真と図は、奈良六大寺大観 第一巻 法隆寺 一、文化財建造物伝統技法集成から転載・編集

   平面図 上:妻室 下:東室 

東室 断面図

  平面図の上が東面にあたります(57頁寺域図参照)。東室と妻室は、中庭を挟んで対になっています。図のように、東室では主たる部屋の二面に庇:下屋が付き、妻室には庇:下屋は付いていません(なお、東室の右:南側の点線部は、現在、別の用途の建物に変っている)。

 これらの建物は、寺院建築の形式をとっていません。この二つの建物は、つくりかたがきわめて単純で、柱に円柱が使われていること以外は、当時の一般の建物のつくりかたと同じであったと考えてよいでしょう。


 A部分解図           B部分解図              C部分解図  写真と図は、奈良六大寺大観 第一巻 法隆寺一、文化財建造物伝統技法集成から転載・編集

 

 二つの建物とも、初めに柱に梁をかけて門型をつくり並べ桁を載せるのではなく(42頁の無庇建物がこの方法で、折置組おりおきぐみと言います)、初めに長手方向に桁を載せた2列の柱列を立て、それに梁を架ける方法をとっています(これを京呂組きょうろくみと呼んでいます。桁露:桁が露出する:の意、という説があります)。

 桁は長くなるので、何本かの材を途中の柱の上で継いでいます。2材を長さ方向に伸ばす方法を継手(つぎて)と言いますが、B部の分解図のように鎌継ぎ(かまつぎ)を使っています。  

 このように何本もの柱の頭に横材を載せると、木製の梯子(はしご)を横にした形:門型の連続:になって、1連の門型よりも、柱列方向には変形しにくくなります。おそらくこの利点を考えて、桁を先に架ける方法をとったのでしょう。

 柱と桁は柱の上につくられた凸型:枘(ほぞ)あるいは太枘(だぼ):で取付けられています。このように、交わる2材を組み合わせる方法を仕口(しくち)と言います。

 次に、桁を載せた2列の柱列に直交して梁を架けます。

 梁は、2列の柱列が垂直の姿勢を保つための重要な役割があります。ただ載せ掛けただけでは、柱列は安定しませんが、B部分解図のように、桁と梁に互いに欠き込みをつくって載せると、両者がかみ合って簡単には動かなくなり、門型が維持されます。そして、柱列の各柱の位置ごとに梁が載ると、トンネル状の上屋の骨組ができあがります。

 なお、ここで桁と梁の取付けに使われている方法:仕口は、現在でも、直交する2材を確実に取付けるときに用いられる渡りあご:渡り腮(あご)と呼ばれる方法です。   

 下屋の柱列上にも桁を載せ、その桁と上屋の柱の間に水平に梁をかけて繋ぎます(この梁を、その役割の名をとって繋梁つなぎばりと呼びます)。その方法を示したのが、A部分解図です。繋梁の桁への架け方は上屋と同じです。

 繋梁の上屋の柱への取付け方は、梁の端部に枘(ほぞ)をつくりだし、上屋の柱に彫った穴:枘穴に差し込みます。枘の上と下側には前下がりの傾斜が付けられていて、穴も奥に向って下向きに彫られています。そのため、ここに枘を差し込むと自然に落ち込み、梁に横向きの力がかかっても、枘が穴に引っ掛かって、簡単には抜けなくなります。下げ鎌(さげかま)と呼ばれる簡単ですが優れた仕口です。 

 こうしてできあがった上屋+下屋の架構に又首を載せて建物の骨格ができあがります。

 なお、妻室の場合は、小屋組は又首ではなく、梁の上に束柱を立てて棟木を支える束立組(和小屋組)をとっています(45~46頁参照)。

 妻面および内部の写真で又首のように見えるのは、束柱が倒れないように横から支えるための材で、方杖(ほうづえ)と呼んでいます。ただ、この方杖が支える役割をはたすのは工事中だけで、垂木が架けられると、垂木自体が棟木を左右から支える役割を担うため、棟木は動くことがなくなります。 

 

 

2.中国式架構・斗拱(ときょう)、その弱点とそれへの対策・・・・長押(なげし) 

 東室、妻室は寺院の付属屋のため、材料をはじめ丁寧に仕上げられていますが、一般の建物でも、同じような架構法が行われていたと考えられます。 

 一方、寺院そのものの架構法は、複雑な方法をとるのが普通です。下の写真は29頁に内部の写真を載せた新薬師寺本堂の正面です(詳細は56頁参照)。 

 このように、桁を直接柱に載せないで、柱の上に頭貫(かしらぬき)という横材を落とし込み、その柱位置に大斗(だいと)を据えて梁を架け、その上に肘木を据えて、肘木(ひじき)で桁を受けています。大斗肘木(だいとひじき)と言います。それを図解したのが下の図です。

  新薬師寺本堂 正面

軒の写真:上が法隆寺東院伝法堂、下が新薬師寺本堂    図、写真は日本建築史図集、日本建築史基礎資料集成より          

 

 この新薬師寺本堂に使われている大斗肘木は、寺院の架構法の中では最も簡素な例で、同じ方法は法隆寺東院(とういん)・伝法堂(でんぽうどう)でも使われています(上図ならびに55、56頁参照)。

 なお、法隆寺東院・伝法堂は上層貴族(橘夫人)の住居の転用と考えられています。 

 寺院では、軒を深く出すことと軒裏を豪華に見せるために、一般に次の図のように、大斗肘木よりも複雑な方法がとられています。これは大斗肘木も含め、中国の寺院建築の技法にならったもので斗拱(ときょう)と呼びます。斗拱(ときょう)も中国の呼称です。

 

①平三斗(ひらみつと) ②出三斗(でみつと) 

 

   

 ③出組(でくみ)(一手先ひとてさき)            ④三手先(みてさき)      図は日本建築図集より

 

 斗拱(ときょう)の形によって名前が付けられていて、その形式・様式で建物建設の時代判定の指標などにも使われますが、要は、軒を柱列位置から外側前方へ迫り出すための方法です。

 なぜ中国ではこのような方法がとられたのでしょうか。参考のために、現在中国に残っている最古の寺院:仏光寺(ぶっこうじ)の断面図を載せました。

 

  中国現存最古の仏教寺院 仏光寺(857年)断面図  図像中国建築史より                     

 

 日本の古代文化に影響を与えた隋や唐は黄土高原に栄えた国家です。黄土高原は乾燥地帯に近く、その地域の建物は純粋の木造ではなく、版築(はんちく)でつくった壁の上に木造の屋根を架ける方法が主です(19頁参照。日本では古い土塀に見られますが、乾燥地域では現在でも行われています)。

 土壁の上に木造の屋根:小屋組を設けるためには、土壁上に、木造部を載せる台が必要です。

 頭貫は、台として土壁の上に据える材で、柱頭相互をつなぐ役割はなかったと考えられます。

 わが国でも、当初は柱の頂部に落し込むだけで(法隆寺金堂など)、風や地震などの横揺れで頭貫が容易にはずれて落ちるため、柱に固定する方法が工夫されます。下図は、法隆寺内の建物の、頭貫の取付け方の変遷図です(左から右へ時代順。一時頭貫の柱頭への固定のために打たれた鉄製の大釘は湿気を呼んで木を腐蝕させることが分り使われなくなる。なお、頭貫は日本語、中国語では闌額と記している)。

 

 この頭貫の上に、梁を受けるための座として置かれたのが大斗です。 

 当初は、上の図の①のように大斗に直接虹梁(こうりょう)(虹の形をしているので虹梁と言う。中国では月梁:三日月型の梁)を架けていますが、②や③のように大斗に肘木を据えた上に梁を架ける方法がとられるようになり、さらに④のように、梁の上にも肘木を据えることで軒の出を深くする方法も生まれます。

 ④は最も格の高い方法とされ、唐招提寺金堂に使われていますが、当初の東大寺大仏殿にも使われていたと考えられています(平安時代末に戦火で焼失したため、詳細は分っていません)。 

 また、梁、桁と柱の間に大斗、肘木など、いくつもの部材を積んでゆくため、柱と桁、梁との取付き方にかなりのガタがあり、頭貫を柱に固定しても、先の法隆寺・東室、妻室の架構法に比べ、横からの力、特に風の圧力:風圧で倒壊することもあったようです。

 そのため考え出されたのが、外周の柱列を内外から横材で挟み込み、柱列の変形を防ごうとする方法でした。これは日本独特の方法で、この横材を長押(なげし)と呼んでいます(西欧の方式は49頁参照)。 

 下の図・写真は、法隆寺東院・伝法堂の背面です。柱の頭貫の下と足元に設けられている水平の部材が長押です(図の網をかけた部分)。これは長押を2段設けている例です。

 

   

 法隆寺東院伝法堂背面  奈良六大寺大観法隆寺より      同詳細図同書より

 

 唐招提寺金堂では、下の写真のように格子窓の下にも設けられ、計3段の長押がまわっています。 

  

 唐招提寺 東面  奈良六大寺大観 唐招提寺より        唐招提寺 北面 日本建築史基礎資料集成 仏堂Ⅰより

 

 唐招提寺金堂の軒は最も格の高い三手先(みてさき)(52頁図④)でつくられていて、東大寺大仏殿も唐招提寺金堂をいわば拡大コピーしたような建て方であったと考えられています。

 しかし、東大寺大仏殿の巨大な瓦葺き屋根の深い軒は、三手先(みてさき)では支えられず、751年の完成直後から、副柱(そえばしら):支柱で軒を支えています(形は違いますが、法隆寺金堂の斗拱も軒を支えられず支柱があります)。

 興味深いのは、大仏殿は1180年に焼失するまでの約430年間、マグニチュード6以上の地震に何回も遭遇していますが、梵鐘落下の記録はあっても建物自体が被災した記録はありません。軒は下がっても地震では平気だったのです。一方、大風による建物の被害は頻繁に記録されています(次頁参照)。

 これは、風と地震の性格の違い、つまり、風の場合は風そのものが建物を押すのに対して(風圧)、地震で建物に生じる衝撃は慣性によるものだからだ、と考えられます(下註参照)。 

 註 地面が揺れたとき、地上に置かれた物体は、直前の現状位置を保とうとします。その程度は物体の重さに比例します。そのため、巨大で重い屋根と相対的に軽い軸組部分では、現状位置を保とうとする程度に差があり、両者の間の動きにズレが生じます。多分、逃げの多い斗拱(ときょう)が、この動きのズレを吸収し、衝撃が低減されたのではないでしょうか。風の被害が多いのは、高い建物のためビル風の発生があったのかもしれません。

 

(Ⅱ-参考 に続きます。) 


「筑波通信 №11」 1982年2月

$
0
0

PDF「筑波通信 №111982年2月 A4版10頁   

    「筑波通信 №11」  1982年2月

      「今昔」の評釈について

秦恒平著「梁塵秘抄」

 〈熊野へ参るには 紀路と伊勢路とどれ近し どれ遠し 広大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も達からず〉

〈熊野へ参らむと思へども 徒歩より参れば道遠し すぐれて山峻し 馬にて参れば苦行ならず 空より参らむ羽賜べ若王子〉

結局はどっちも「遠い」ということを歌っている・・・・  

 和歌山県南端の紀伊熊野の本宮、新宮への参詣は十二世紀ごろにわかに盛んとなりとくに後白河院は生涯に三十三度もはるばる往来されたと申します。‥‥

 熊野へ参る道は、京都から、大きく分けて三通りほどございました。が、いずれを通っても難路峻路。途中、「――王子」と申しまして宿舎にもあてられるいくつもの末杜があった。一行は王子ごとに神前に歌を献じたり、今様の遊びを楽しんだり、そこへ遊び女たちも寄ってきたりして、信仰と物見遊山との入り混じった行楽気分もたしかにあったわけです。が何しろべらぼうに遠い。・・・・・・・・

・・・・私どもは飛行機も新幹線ももっている。そのためにかえってせかせかしています。歩いて三十分などという距離を昨今の都会人なら決して歩こうとせず、乗物を求め、乗物がない場所を称して不便な場所という。

 その感覚で昔のものを続みますと、例えば京都から熊野まで生涯に三十三度も通う人物がいるのが信じれない。現代人にはただの一度でさえそんなことを試みる人はいない。物理的に違いどころでない、心理的に迫っつかない遠さを感じてしまいます。

 むろん「うた」にもあるように昔の人にも遠かった。そして危険で不便で難儀でした。のに、くりかえし往反する。・・・・

 西行や芭蕉の漂泊感覚と、それを現代から想いやる漂白への想像とには、よほど時間感覚や距離感覚に違いがあったことをよく弁えないととんだ錯覚を生じます。現代の論者はやたら彼らの漂白を過大に評価しすぎます。一度家を出れば生涯帰らぬかもしれぬ中国人の長旅とは違います。そのまねなのです。その実はちゃんと用向きのある旅をけろっとした顔でしていたわけです。

 歩くしかない時代に時間をかけて歩いて行くことは、乗物万能の時代の人間には分らないタチの当然という感覚が働いていたはずです。私は熊野路をバスや車で二度通っています。遠いなあ、よくこんな処を歩いたものだとあきれ返ったものですが、それは比較してものを言うのであって、昔の人にはせいぜい大空の鳥の翼を想うしかなかった。自分の脚しかなかったのだから、行きたければ歩いて行き、歩いて行ける処までは遠くても構わず疑いもせずに歩いて行った。・・・・・

 

 この正月休み、本を読むことに徹してすごした。といって、そんなに重い本ではない。ここに引いたのは、そのなかの一冊、秦恒平著「梁塵秘抄」のなかに見つけた文章である(NHKブックス311)。全般に、この著者の評釈は、私にもよく分り楽しかったのだが、丁度№10で峠道のことを書いたばかりでもあったから、この部分が私の目をひいたのである。

 実際、古文をこういう形で評釈している本には初めてぶつかったような気がする。高校あたりで習った古文は、考えてみれば実につまらなかった。こういう類の評釈も混えて教えられたならば、それは単に古きものという趣味を越えて、より生き生きとしたものとして私たちに吸収されただろう。得るところがもっともっと多かったに違いないとつくづく思う。(本当に、何故古文が教えられているのだろうか。)

 私はいま、この文章を「遠さ」のはなしにひかれて引用したのだが、実は著者は、時間感覚の時代による違いについて述べんがためにこの一節を書いている。「梁塵秘抄」に集められている「うた」は、どれも本当に「うたう」もの、つまりただ文字を目で追い読むものではなかった。著者は、それがどういう調子、どういうテンポでうたわれるのか知りたかった。残念ながらレコードも録音機もない時代のはなしである。「秘抄」には楽譜が示されているようだけれども、しかしそれだけでは調子もテンポも分らない。一度、「秘抄」の「うた」の復元の試みがなされ、著者もそれを聴いたのだが、あまりにも悠長で納得がゆかなかった。だが、納得がゆかないと思っているのは、あくまでも現代の自分であって、彼等の時代はこれでよいのかもしれない。それでもなおかつ、「うた」のなかみから考えると、いま一つその復元だという「うたいかた」に対して疑念がわいてくる。つまるところ、分らない。このことにからんで著者は上記の評釈を書いたのである。そしてその節のおしまいごろで著者は次のように書いている:「この時間感覚(上記引用部分で書かれたことを受ける)を思えば、「秘抄」の「うた」がどういうテンポで歌われたかを議論するより、それが当時の人には十分新鮮に面白く、妙味も分って楽しまれていたことを信じるので、足りているのだなと私は思うのです。」

 

 この評釈に誘われて、今回は、時代の違い、あるいは違う時代につくられたものを「分る」ということについて、少しばかり考えてみようと思う。

 いま私自身この「秘抄」に集められている「うた」の数々を読んでいると、素直にすんなりと分る(という気になる)もの:〈遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さえこそ動がるれ〉などはその一例:と、うたわれていることつまり文意は分るけれどもなかなかそのリアリティにはたどりつき難いものとがある。引用した文の頭初の「うた」はこの後者の例だ。そのリアリティに到達するには、その状況をつかむために相当の想像力を働かせなければならない。

 そして、そのリアリティへの近づきかたの程度によって、その「うた」の分りかたの深浅もまた変ってくる。かといって、このリアリティなるものも、これがそれだというような絶対的な確としたものがあるわけではなく、それもまた想像力の産物以外のなにものでもない。その「うた」が言おうとしていること、その概念はすぐ分る。遠かっただろう、それは分る。そのとき、極力それが詠まれたであろう(と思われる)状況を想定して、そこへ我が身をのめりこませていったとき、その「速さ」が単なる言わば抽象的な「速さ」ではなく、「その遠さ」としてみえてくるような気になってくる。つまるところ、その状況に実際にいたわけでもない私にできることといえば、そこまでである。

 それ故、それから先、考えかたが二つに分かれてしまう。すなわち、古のものあるいは古の状況は「だから絶対に分らない、分り得ない」とするか「それでも相対的に分る。分り得る」とするかである。古の状況がいま見られるわけはないし、そのとき人々がなした営為、その過程は、あたりまえだが、その場ですぐ見えなくなる性質のものだ。残っているのは「結果」だけ。具体的に目に見える形で在るものにしか信がおけないとするならば、前者の立場になるだろう。そのときそれは、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」として扱い済ます立場にもうすぐだ。

 私は無論後者の立場をとる。人々のなした営為は、それが目の前に形をなして存しなくても見えるとする。つまり、決して絶対ではないが、相対的に分るのだとする立場をとる。私は人間の感性を信ずるからである。その普遍性を信ずるからである。

 いまの私たちの時間感覚、距離感覚をもって先の「うた」を分ろうとしたら、到底信じられない、ばかなことをやったもんだと思うのがおちだろう。しかし、彼等のいたと思われる状況が想定し得たとき、その想定した状況に放りこまれた私が思うことは、彼等が思ったことと、ほとんど変りないはずなのだ。感性を信ずるというのは、そういう意味だ。(なにもいまと昔とのはなしに限らず、いま私たちが互いに話ができるというのも、私たちが互いの状況を想定しそこで思うだろうことを想定し得るということに裏打ちされているのだ。互いの感性に信がおけるからこそ言葉というものが存在するのではなかったか。少なくとも日常的に私たちが使っている言語:自然言語はそれ故に存在すると言ってよいだろう。

 しかしいま、数式に代表されるような科学言語の方に信がおかれ、自然言語をも、従って人間のやることをも、科学言語的に扱おうとする気配がありはしないだろうか。自然言語つまり普通の言葉はあいまいで絶対的でなく相対的だからに違いない。しかし、自然言語というのはいわゆる科学的分析により保証されたものでなく、私たちそれぞれの感性に保証されているわけであるから、その自然言語に信がおけないということは、すなわち私たちの感性に信がおけないということに他ならない。つまりいま私たちは、日常的に自然言語は使っているのに、互いに互いの感性を信じなくなったということだ。

 「自然言語の概念は、漠然と定義されているが、知識を発展させる際には、制限された現象の群からの理想化として作られた科学言語の明確な言葉よりも、いっそう安定しているように思われる。これは事実驚くには当らない、というのは自然言語の概念はリアリティと直接結びついて形成されているからで、これらはリアリティを表している。なるほど非常にはっきりとは定義されていないが、従ってまた数世紀の間にリアリティそのものと同じように変化を受けるかもしれないが、しかしいつになってもリアリティとの直接の連絡を失うことはない。・・・・科学言語は、理想化の過程と明確な定義とを通すことにより、リアリティとの直接の連絡は失われる。その概念は研究の対象であった自然の部分においてはリアリティとやはり非常に密接に対応しているが、しかし他の現象を含む別の部分においては、対応が失われるおそれがある。」これは、いまや人文科学の分野の人たちまでもが理想の形式としてそれへの傾斜を深めているところの、当の自然科学の一つ、ある物理学者の言である。:ハイゼンベルク「現代物理学の思想」1958

 

 先にも書いたが、およそ人のやることは、それはある状況において人がやることなのだが、「結果」は残っても、その状況はもとより、そこにおいて人がやった「過程」は残らず消えてしまう。そして、考えてみれば、いま私たちのまわりをとり囲んでいるものの大部分は、そういった「結果」の群なのだと言っても決して言いすぎでないだろう。言いかたを変えれば、過去の「遺物」にとり囲まれているのである。しかし私たちは、よほどのものでない限り、それらを「遺物」とは思わずに暮している。ということは、それらの過去の「結果」が、少なくともいまのところ、私たちの日ごろの暮しに何らかの係わりを(十分かどうかは別として)はたしていてくれることを認めているということだ。

 それはすなわち、それらの過去の「結果」が、いまの私たちによって(それが過去になされたことであるにも拘らず)分るということに他ならない。つまり、その「結果」の私たちにとっての意味が分るということだ。しかし、その分りかたが、それらの「結果」をあらしめた人たちの分りかた(あるいはその状況)とまるっきり同一であるとする絶対的保証は残念ながらない。というより、あたりまえなこととして存在しない。だからといって短絡的に、それ故過去のものは絶対に分らないとするのは早計というものだろう。私たちには、その分りかたの深浅はともあれその本質は、いつの時代であれ、相対的に分ることができるのだ。私は、そう見たい。

 

 常陸風土記をはじめとする風土記において、それを編んだ人たちの生活に何の係わりもない得体の知れない「遺物」(彼等にも、得体は知れないが、自然のものでなく人為的なものと見えたのだ)に対して、彼等が彼等なりの説明を懸命に(現代の目から見ればこっけいに)施そうとしているのを読むことができる。」

 この「遺物」それは例えば、現代の考古学的知識で言えば、縄文の堅穴住居跡や貝塚である。彼等がそこら辺に住みだしたとき、それらは既にそこにあった。明らかに人為的だ。だれかが何かをやったのだ。が、彼等の生活とは何の係わりもない。「遺物」でしかない。けれども彼等はそれを放っておかなかった。彼等はそれら「遺物」と自分たちのいまとの間の空白を埋めるべく、壮大な物語を案出する。いわゆる巨人伝説につながる話などがそれだ。(当時の)海岸よりはるか離れた、それ故運ぶのさえ大変だと思われるような所に海の貝がらが山と積まれて捨てられていて、近くには大きな穴があたかも足跡のように残っている。そこで人々は、海岸とその土地を一またぎするような巨人がいて、そこで貝をとっては食べたのだという壮大な物語をつくりあげたのである。そういう人々のなかに伝わっていた話などを基に編まれたもの、それが風土記なのだ。

 そこには、こういう話の他にも、土地の名前の由来だとか、ものの由来だとか、思わず楽しくなるような大らかな解説が書かれている。言うならば荒唐無稽な話ばかりだ。しかし、壮大な物語だとか荒唐無稽だとか評しているのは、やはり、あくまでもいまの私たちの状況に身をおいての見かたなのであって、それは彼等の、その得体の知れな人為的な「遺物」と自分たちとの間の断絶を埋めようとする、彼等にあってせいいっぱいの合理化作業:科学的営為だったと見るべきだろう。(私たちが、当時の状況にいたとしたら、私たちもまた同じような話をつくったに違いないと私は思う。)

 私はいつも思う。彼等は、「それはそれ、昔は昔、いまはいま」として済ましてしまういまの一部の人たちよりも、数等秀れて健全な精神の持主であったと。なぜなら彼等は過去といまとの連関を問おうとした。

 しかしいま、「結果」と他の「結果」の間の連関を問おうとさえしなくなりつつあるし、ましてそのそれぞれの「結果」を成らしめた状況:人々のおかれた状況そしてそこで人々の思った情況:を想像力を駆使して思いやるなどということもなくなりつつある。むしろ、いまでは、科学的であろうとすればするほど、そんな不確なこととばかりに忌みきらわれるのがおちである。

 しかしながら私たちをとり囲んでいるものの多くが、過去の「結果」であるというのは厳然たる事実のはずなのだ。それらを、いまの私たちが分るか分らないかが、だから問題なのだ。そして普通は、日常的には分っているのである。それが意識されていないだけなのだ。だから、よほどのことでもない限り、そういう過去に成されたものに対して、それを「遺物」だとは思わずにいまのもの同様に扱っている。これは、古来人々がやってきたことと、何の変りもない。そして、これは既に何度も言ってきたことだけれども、人々はそれらのものがよほどのことになってくれば、つまり状況が変ってもはや「遺物」になりかかりそうになってくれば、すすんでつくりかえを試みるのである。それは部分的な改造であるかもしれないし、あるいは全面的な更新であるかもしれない。その行動の拠りどころになっていること、それは「分る」ということであった。しかしそれは、新しいものあるいはいまが分るということではなく、既に在ったもの、とりこわそうとしているもの、それをも「分る」ということである。すなわち。ものの(私たちにとっての)意味が、時代を越えて、私たちに(相対的に)分るということが前提にあって可能であったのだ。そしてそれは、つまるところ、ものに対する人の感性に信をおいていたということに他ならないだろう。

 しかしながらいま、分るということが、目に見えるものを知ることのみであるかのように誤解される傾向が強いから、目には見えないそれを成した人々の営為が黙殺されてしまう。ある時代の結果は、ある時代の人々の成した結果であるにも拘らず、そして人々の成したことは相対的に分る性質のものであるにも拘らず、単純に古くて役にたたないもの、せいぜいある時代の記念碑としてのみ扱い済まされてしまうのである。

 確かに一方で、古いもの、伝統(的なもの)を大事にする人たちがいるけれどもその人たちの多くは、言わば骨とう趣味的に古いものに興味を示しているに過ぎないと言ってよく(先号で書いた例のように)、構造的には、上述した役たたずとして無視する立場を裏返した見かたでしかないと、私は思う。ともに、人の営為を見ず、見ようとせず、見えるもの:結果だけをあげつらう点において何の違いもない。先号の言いかたで言えば、What だけで問うようになってしまっているのである。そして、こういう傾向が強くなったからこそ、過去と現在の間に、どうしようもない裂け目が入り、そしてそれがますます大きくなってゆくのである。「伝統」などという言葉がことさらに言われるようになるということは、その裂け目に目が向きだしたことには変りないけれども、しかしそれをWhat だけで問うている限りでは、これもまた、あの風土記の時代の人々よりも数等質が悪いように、私には思えてならない。

 

 私はいま、ある住居の設計で、現場で大工さんと接している。三十代後半の人たちのようだ。私は驚いたのだが、いわゆる建築用語で言うところの見えがかりのおさまりについて、私の方がよく知っているのだ。

 見えがかりのおさまりというのは、二つ以上のもの(材料)がぶつかったときの、そのぶつけかたの作法だと言えばよいだろう。私は設計屋ではあっても大工さんではない。作業の手順だとか材料の加工だとか、たとえ知るように努めたところで、所詮それは知識の域を出ることはない。だからいつも設計図を描いて、いま一つ頼りなく、大工さんに一目おかざるを得ない、そう思いつついままで過してきた。おさまりについても、自分でいろいろ見て学んだこともあるけれども、大工さんによって教えられたことも数多くあったのである。だから、大工さんなら、いろんな場面に見合った手練手管を知っているものだ。そう私は思っていた。見えがかり、できあがったときの見えかたについても、大工さんというのは非常に神経を使うものだ、そう思ってきた。

 ところがそうでなかったのだ。至極当然だと思えること(常識的だと思えること、あるいは普通の感覚ではあたりまえなこと:それらは当然のことだと思うが故に強いて図面としては描かない)、それが当然ではなかったのである。私は困惑した。非常に安易なやりかたで、見てくれをごまかそうとするのである。表面だけつくろおうとする言うならばつくろい仕事なのだ。そこにおかれる材料に対しての(大工さんなら持っていて当然の)感覚・感性というものがまるでない。(といって、別にいわゆる技術面で下手だというわけではない。もっとも、技術というのにそこまで入れるべきだとすれば別だが。)大工さんならいろいろな実例を仮に自分がやったことはなくても当然知っていてよいと私は思うのだが、知らないのである。

 どうしてなのだろう。いろいろ考えてみると、どうも最近はそういうことを気にする仕事をしないようなのだ。なぜかと言えば、いわゆる多種多様の新建材が出現して以来、それらを表面にぺたぺた張りつけるやりかたが増え、もののおさまりと言えばそれらの化粧シートの張りつけかたのおさまりだけになってしまったと言ってもよいくらいになっているからだ。れんが積を写真で撮りそっくりに印刷したシートなどがあるから、到底れんが積があり得るはずがない(と れんがを知っていれば思う)ようなところ:例えば、か細い木の柱に支えられた壁面だとか、ときには天井:に平然と張られたりする。これは大工さんだけが悪いのではない。設計屋さん自体もそうなのだ。もののあたりまえな在りかたが分らなくなっている。道の舗装に使う御影石の切石が、舗装をそのままひっくり返してぶらさげたように張られた天井を実際に見たことがあるが、これには二の句がつげなかった記憶がある。この設計屋さん、いい神経しているとつくづく思う。科学技術が進歩すると(というのはどんな重量物だって天井につるすことぐらい何でもない)私たちの石というものに対する感性までも変ってしまうとでも思っているのだろうか。そうだとしたら、それは人をばかにしたはなしである。

 ものごころついたときが戦前で、以後、戦前の様を辛じて、そして戦中、戦後とめまぐるしく変ってきた時代を通して過ごすことのできた私たちの世代、その世代に属していることが幸せであったと思うことがときどきある。なぜなら、私は、戦前、戦中、戦後の生活:三代のめまぐるしく変った生活を辛じて知っているからである。もちろん、町や村、家々、つまりそれぞれの時代につくられたもの、も知っている。しかもそれは日常のなかで知っているのであって、歴史の教科書で知ったのとは訳が違う。もののつくりかた一つをとってみてもそのやりかたの変遷を身をもって知っていると言ってもよいだろう。大きく変った生活の変遷、それを幸か不幸か知っている。だから、別に子どものころから建築に関心があったわけではないが、いろんな空間、いろんな場面、(それも現代的なやりかたによるものに限らない)を体験としてもっている。そして、思いだしてみると、設計をしているとき、そういった体験のいくつかが必らず頭をよぎっている。過去の体験というなら、だれにもあるではないかと思われるかもしれないが、私たちの世代のそれには、いまのような画一化したものでない、つまり現代のものだけでないそれだ。変遷自体が体験になっている。

 ところが、この大工さんの世代だと、戦前は戦中によって断絶させられた「遺物」にすぎず、戦後のやりかたしかその体験のなかにはないはずだ。おまけに戦後、戦前は意識的に切り捨てられたし、近代的・合理的やりかたが主流となる。建物も、昔からのつくりかえの理論でないやりかたのものが多くなる。言うならば、相互の連関を見失った独立・突発型とでも言うべきやりかたの建物だらけとなる。材料もまた、先に触れたような状況となる。いずれにしろそういった戦後の様は、人々の一貫して筋の通った感性によって裏打ちされたものではない。人々の感性は、むしろそうした感性を無視した大量のもののなかに埋められてしまう。人々は自らの感性に信をおくことが不安になる。この大工さんたちも、体験もなく、自らの感性に拠り考えることもしない、やることといえば、別に深くも考えずに、どこかにあったやりかたでお茶をにごす。

 そして、この大工さんたちがこうなったもう一つの考えられる理由。それも戦争のせいだ。唐突にきこえるかもしれないが、明らかにそのせいだと私は思う。この大工さんたちの上にたつ大工さんたちがいないのだ。全然いないのではない。相対的に少ないのだ。その世代の農民や職人たちは、お国のために、死んでいったのである。つまり、戦前と戦後をつなぐなかつぎの世代が欠けている。それは全く人為的な、無用な断絶に他ならない。この大工さんたちには、大工さんたることを教えてくれる先輩つまり妙なことをしたときチェックする役割をもったうるさい人たちがいない、少ないのである。いつの世でも、若手の人たちは、このうるさい人たちに一定の反発を感じながら、そしてまた一定程度そのうるささの理に納得しつつ、そのなかで引き継がれるべきものは継がれ、乗り越えられるものは越えられ、その時代時代の技術として成熟していったのだ。だからそれは、前に「つくりかえの論理」と私は呼んだけれども、より正確に言うなら「乗り越えの論理」と言う方がよいかとも思う。ただそれは、決して、乗り越えるからといって「無視の論理」ではないということなのだ。そして、そういう論理を保証していたものが何であったかといえば、それは、その時生きていた人々のものを見る目、もののとらえかたの確かさであったのだ。そしてそれは、その確かさは何であったか。それは決して他から与えられた理論や理屈に頼った、いま流に言えば専門家によって与えられた確かさではなく、人々それぞれの、それぞれの感性によって裏打ちされた自前の確かさであった。私は、そう思う。(いま、各地にある職業訓練校には、大工さん養成の課程がある。ところが、聞いたところによれば、そこで教えられていることは、各土地土地で培われたその土地の大工技術ではなく、むしろそれを無視黙殺した全国一律の教科書によっているのだそうである。)

 いま私が、この大工さんたちとのつきあいで感じたことは、なにも大工さんの技術に限ったはなしではないように思う。全ての局面で同じことが言えるように思う。どこにおいても、それぞれの感性に、それによって裏打ちされた自らのものの見かた、とらえかたに、自信をもてなくなってきている。もたなくなっている。裏を返せばそれは、(他)人(の感性)を信じないということに他ならない。つまり、自らのではなくもちろん他人のでもない、それとは全く別のいわゆる客観的と称する物指しで計らないと、ものが見えた気になれない、そういう状況になっているわけだ。そして、その物指しを唯一持っていると自称する人たち、それが今様の専門家 なのだ。

 そしてまた、そうであるが故に、どの局面においても、「つくりかえの論理」「乗り越えの論理」すなわちあたりまえの「創造の論理」が「無視の論理」に置き代えられてしまっている。まさに風土記の作者たちの時代以下である。

 

 おそらくいま、私の属する世代の人々は、その過ごしてきた時代体験を無視あるいは捨てることなく、自らの感性に裏打ちされた私たち自らのものの見かた、とらえかたを、より強く打ちだすべきであるように、私は思う。それはなにも、私たちだけがものごとをよく分っている、そしてそれをひけらかす、などという思いあがった意味でではない。そうではなく、つくりかえられる、乗り越えられるその対象として、その対象を強く打ちだすことだ。(もし私たちの世代自体が「無視の論理」だけでことを処理することをやり続けるなら、私たちもまた無視の対象とされてしまうだろう。)私たちが、そしてそれぞれの時代が、つくりかえられ、乗り越えられるものであったとき初めて正当な世代交代が行なわれるはずなのだ。私たちは、(若い人たちから)もっともっとうるさく思われる人たちでなければならないと、私は思う。そして、そのように身構えたとき、私たちそれぞれは、自らの感性に裏打ちされたものの見かた、とらえかたに、自信と責任を持たざるを得なくなるのである。そしてまた、そのように身構えない限り、私たちのものごとの「分りかた」自体、極めてひとりよがりな、あたかも幼児語的段階に止まり、決して「自然言語」としては通用しないだろう。

 

あとがき

〇前号あたりから、「感性」ということばを表にだすようにしてきている。このことばを表に出すには少しばかりためらいがあった。しかし、いろいろ考えてみて、やはりこのことばを表に出した方がよいと思うようになったのである。なぜためらったかといえば、「感性」などという言わば個人的なことばをもちだしたとき、通常ひきおこすであろうある種の誤解を気にしたからに他ならない。けれども、つまるところ私が言い続けたいのは、現在あたかも常識の如くに言われ行なわれていることどものおかしさについてであり、そのおかしさに気がつくには私たちの「感性」に拠るしかないのであるから、そのことばをもちださないということは私の考えかたから見て、つじつまのあわないことになってしまうのである。もちろん、ここでもちだす「感性」が、皮相的な、言わば皮膚感覚的な意味あいでないことはお分りいただけると思う。

〇ところで、ふと私にちのまわりを見まわしてみたとき、自らの感性に拠って(おかしさについて)思うところを述べる人たちが、私の経験では、いつでも、またどこでも、小さくなっているように思えてならない。そんなこと言って、先例があるの?とか、それが正しいという(目に見える)証拠は?などと言われてビビるのである。考えてみれば、王様の裸を(見えた通りに)指摘したのは子どもであって、王様に対して裸でないと思わせた(信じこませた)のも、見えている裸を裸として見なかったのも大人であった。そしてまた、(多少とも思うところのあった)大人は、自分の家の他人に知られないところで、つぼに向って「王様の耳はロバの耳」とどなるのがせいいっぱいだった。

〇久しぶりに、中野の人にちに会うために東京へ出た。その帰りの列車のなかで読んだ新聞の評論が私の目をひいたので、その一部をそのまま次に書き写してみる〈毎日1月23日夕刊山田宗陸〈虚国〉日本を撃つ:現代短歌に寄せて)。

 俳句と短歌は全く別物だが、主として俳旬を例に、日本の伝統的な短詩形を第二芸術として批判しさった論は、たしかに鋭利明快で、戦後の一つの性格であった近代主義においてきわだった説であった。  しかしいまになって、戦後を死なせ、あるいは日本を死なせたものが、ほかならぬ近代主義による近代化であったことも、また明白である。

 そして短歌の世界で、近代化機構の乾燥度に対する感性の批判、情念によるプロテストが存在することは、上に見てきた(注:引用略)とおりである。 なにも近代だけではない。どの時代にもその時代の合理主義があった。 時代がゆきづまったとき、合理のパラダイムに挑んだのは、感覚の反乱であった。

 すべての短歌がそうであるとは、もとより言わない。 道浦母都子『無援の抒情』(では)六八年の全共闘運動に参加し、やがてその新左翼の「党」の荒寥に傷つき、ひとり時にその傷をこするように、時になめるように〈無援の抒情〉を、一首一首、紡ぎだしている。

 人憎まねば立ち直れぬのか弾きて不意に涙あふるる

 生きて会う人の苦しみ悲しみの極みのごとき原色を見つ

 蒼ざめし馬にまたがり逃がれゆく雪の降る夜のわが幻は

  新左翼の向こうには当然に旧左翼がある。後者から前者への過程が、近代の生んだ革命党のマイナスの面のひきつぎにすぎなかったことは、だれの目にもあきらかである。〈無援の抒情〉は、たんに特殊な政治的ラジカリズムの局面にだけうかんでいるのではない。それはあきらかに近代のパラダイムヘのーいまは〈無援〉かもしらぬが一感性の反乱の一部である。 無援の抒情だからこそ、あげて近代のパラダイム機構である現代日本を、普遍的に撃つところに立っている。

・・・・・・・・ たんに現代を、前衛を、論じ歌うものを、わたしは信じない。たんに古代を、原始を、論じ歌うものを、わたしは信じない。その二つを結ぶ「もがり縄」こそが、「虚国(むなぐに)」日本を撃つのである。

 〇中野の人たちとの雑談のなかで、先号の峠道の話にからんだ話題になった。その人は諏訪の人で、小さいころ八ヶ岳のふもとを歩きまわったとき、山と山の聞の切れこんだところを「きれと」と呼ぶということを教わったのだが、そういうところに建っている山小屋が、知らない間に「キレット小屋」などと、あたかも外国語のように言われているのに気がついたというのである。私もそう言われて、山と山の切れ目の呼称にそういうのがあったのを思いだした。大学に戻って二三の人に尋ねてみたところ、ドイツ語じゃないの、という答がかえってきた。手元にあった国語辞典をひいたところ、「きれっと、きれと:切れ処」としてひらがなでちゃんとでていた。

〇碓氷峠のふもとへ出かけた。早春のようなうららかな日和が再び冬型へと急変するときに丁度ぶつかったらしい。平野のまんなかで風が急に荒れだし、いままで遠くに春のようにかすんでいた赤城山をはじめとする平野を囲む山々に、それこそ見る見るうちに一見して雪雲と分る灰色の雲がかかりだし、それもうずを描くように激しく動いている。碓氷峠:妙義山に近づくと、風はますます強く、ときどき日差しが雲にさえぎられるようになり、風花も舞いだし、ついにすっかり雪雲の下に入りこんでしまった。雪片が斜めに無数の筋を描いて吹き飛んでゆく。ついさっきまでの小春日和がうそみたいである。一瞬のうちの吹雪模様。妙義ももうすっかり見えない。私がいささか驚いているのに気づいた訪問先の奥さんの、「ふっこしだから直ぐやみますよ」ということばをきいて私は思わず、「これ、ふっこしって言うんですか?」と尋ねつつ、ほとんど同時に「吹っ越し」という字が頭のなかに浮んできた。どうやらそれで間違いないようであった。山あいの「きれと」から、山の向うの冬が疾風(はやて)の如く「吹き越し」てきたのである。気象学的に言えば、寒冷前線が山なみを越えるときの一時的現象なのに違いない。この辺のこどもたちは、こういうとき、「はーて(あるいは、はあて)が来た」とも言うのだそうである。これはおそらく「はやて」のなまりではないだろうか。私は、あたりの光景に感嘆するとともに、こういうことばの根ざすリアリティへの確かさに驚嘆した。

 〇いずれ、皆様がたそれぞれの「通信」も載せさせていただければ、などとも考えています。

〇寒いなか、皆様のそれぞれなりのご活躍を祈ります。

    1982年2月1日                       下山 眞司         

 

「Ⅱ-3 参考, Ⅱ-4 貫で軸組を縫う」 日本の木造建築工法の展開

$
0
0

(「Ⅱ-3」より続きます。)


参考1 桔木と筋かい―――古建築と斜め材の使用  

 ・・・・鎌倉時代(1200年代)には、柱間に筋かいを設け、間渡し材(塗壁の下地)を密に入れ壁を塗ることが行われたが、間もなく使われなくなり、主に小屋束まわりの補強に用いるだけになる。

 中世以降、軒まわりに桔木を使い、桔木上に小屋束を立てる小屋組が増える。

 桔木には1本ごとに形状の異なる丸太が使われるため、桔木上の小屋束の寸法が決めにくく、屋根の反り・流れを決めて母屋を所定位置に仮置きし、束を1本ずつ現場合せで切断、桔木、母屋に、枘なしで釘打ちとする粗放な手法が増え、その転び止めとして筋かいが使われた。

 ・・・(その後)、あらかじめ地上で梁、桔木ごとに墨付けを行う技術が確立、梁、桔木、母屋に枘差しで束を立て貫で固める小屋組が普通となり、筋かいの使用はなくなる。・・・・文化財建造物伝統技法集成より                                 

 

参考2 現存古建築で唯一の斜め材使用例 

 銀閣寺東求堂(とうぐどう)(1490年ごろ)で使われているたすきがけ

 銀閣寺東求堂の東面(2間+1.5間が全面開口部)の鴨居(内法)上の小壁に、力板を併用したたすきがけの例が遺されている(下図参照)。斜め材は、相欠きで交叉している。

 はつりは塗り壁の付着をうながすため(ただし、塗壁面に、筋かいに沿って亀裂が生じたものと思われる)。

 写真の竹小舞の裏側に、小壁の2/3程度の丈まで力板(厚約1寸:30㎜)が仕込まれ、筋かいは竹小舞の上に組まれ、力板は貫(厚約7分:21㎜、丈約2寸7分:80㎜)と継手で継がれる。小壁全体を合成梁として、東面の内法:鴨居下を、全面開口にするために考えられた工夫である。このような仕様は他に例を見ない。 全面開口にすることを第一に考え、それを可能にするように考えられた技術的な工夫。  

   

 

 

図は文化財建造物伝統技法集成より

 このほかの現存古建築には、又首、方杖以外、斜め材使用の例がない(49,50および60頁参照)。 

 

 

 

PDF「Ⅱ-4 貫で軸組を縫う」 A4版3頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

4.貫(ぬき)で軸組を縫う・・・・大仏様(だいぶつよう)の出現

 二重屋根で桔木(はねぎ)を使い、天井を張り、寺院のシンボルとして化粧の斗拱を取付ける建て方は、平安時代を通じて寺院建築に用いられます。その間、技術面では大きな進展は見られませんでした。

 この寺院建築の技術的な停滞を打ち破ったのが、鎌倉時代の初頭(平安時代の末期)に表れる大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる架構法です(なお、ここでは、鎌倉時代以降を中世として呼ぶことにします)。

 大仏様とは、源平の争乱の末、治承4年:1180年、平重衡の焼き討ちで焼失した東大寺の再建にあたって使われた架構法:工法のことを言います(東大寺大仏殿再建に使われたために付けられた呼称です)。

 それは、古来の寺院建築の形式にこだわらず、二重屋根をつくらず、化粧のための細工をせず、長押の代りに柱列を何段もの横材:貫(ぬき)で貫き固め、必要とする空間を架構だけでつくる方法です。

 その意味では、架構=空間という建物をつくることの原点へ戻ったつくりかたと言えるでしょう。 

 大仏様は、東大寺の再建を委ねられた僧重源(ちょうげん)の下で、中国宋の技術者、とりわけ中国南部の福建省出身の技術者によって伝えられた工法で、日本にはなかった工法である、と言われています。

 たしかに福建省には、下の写真のような貫を多用した一般の人びとの建物が残っていますから、福建省あたりでは普通の工法であり、当然寺院建築にも使われていたと考えてよいでしょう。 

  

    

永安槐南 安貞堡内の建物(年代不詳)貫が多用されている 老房子(江蘇美術出版社)より 

  しかし、それは中国・宋だけに特有の技術で、それがこの時代に日本にはじめて伝来した、とは思えません。 なぜなら、木造軸組工法が主体の地域では、開口部などをつくるときに、柱の間に横材を取り付けることは日常的にあるからです。

 その場合、横材の大きさより大きめの孔を柱に彫り、そこに横材を差し、横材と孔の隙間に埋木をすることは、あたりまえに行なっていたと考えられます。

 その孔を貫通させ、横材を通して埋木をすると丈夫な枠ができあがることにも気がついていたと思います。 

 つまり、木造軸組工法が主体の地域では、貫状の部材を柱の間に組み込むことは早くから行なわれていたと考えられるのです。現在の歴史観では、文化や技術が一発祥地を起源として下流へと伝播する(いわゆるルーツ論)とは考えず、同じような状況では同じような文化が生まれる、と考えます。

 佐賀県で発見された弥生時代の巨大な集落・住居遺構吉野ヶ里遺跡で発見された数多くの巨大な掘立て柱痕に対して、貫状の部材を使った櫓(やぐら)状の建物が推定復元されていますが、これは、弥生時代でも、柱に孔をあけ横材を差す仕事ができた、という判断が復元者にあったものと思われます。 

 日本でも、宋の技術者に教えられるまでもなく、貫状の材を柱と柱の間に設ける技術は身につけていたと考えられます。寺院建築で、この技術を使わなかっただけなのではないでしょうか。 

 また、東大寺再建という大仕事は、宋の技術者がかかわったとしても、宋の技術者だけで行なったのではなく、わが国の技術者も多数協働していたと考えられます。後で詳しく見るように、大仏様の工法は、細部の設計から施工手順に至るまで、きわめて精緻に考え抜かれた仕事がなされていますから、この工法:仕事の仕方に技術者たちが手慣れていたと考えられます。

 それゆえ、同じような工法が当時の一般社会ではあたりまえに行なわれていて、その方法・工法に慣れた技術者がまわりに多数いた、そしてそれが寺院建築にも応用された、と考えられるのです。  

 この技術者たちは、多分、一般の人びとの建物づくりに従事してきた人たちだと思われます。

 一般の暮しには、形式はいりません。彼らは、より実質的な、現実の暮しに合い、環境にも合った丈夫な建物をつくることに努めてきた人たち、と言ってよいでしょう。

 平安時代の末期は、それまでの公家・貴族に代って武士が台頭し始め、一般の人たちが力をつけて、それを表すことができるようになった時代ですから、そういうことが起きてもおかしくないのです。同様の現象は、後の戦国時代の城郭建築においても見ることができます。

 では、大仏様とは、どのようなつくりかたなのか、具体的に見てみます。

 大仏様の名の由来になっている再建された東大寺大仏殿は、その後ふたたび消失してしまいましたから、その姿は、そのとき同じ工法で再建された東大寺南大門(36頁参照)や兵庫県小野市にある浄土寺・浄土堂(下の写真参照)の姿から想像するしかありません。

 浄土寺・浄土堂の上棟は、東大寺大仏殿の上棟後の1194年、南大門の上棟の5年前にあたり、浄土寺・浄土堂については、詳細な「国宝 浄土寺浄土堂修理工事報告書」(浄土寺)が刊行されていますので、その調査・報告を基に、大仏様のつくりかたを紹介します。 

  

正面外観 日本の美術 №198 鎌倉建築(至文堂)より        堂内上部  国宝 浄土寺浄土堂修理工事報告書より     

    堂内東側 日本の美術 №198 鎌倉建築 より

  浄土寺・浄土堂は、写真のように、軒先は水平で、垂木の端(鼻)は、鼻隠し板があるため、見えません。また、斗拱も外に向かっては一方向しか出ていません。そのため、従来の寺院建築とは、外観が大きく異なります。多くの人が、この外観から受ける感じと、堂内に入って受ける感じの落差に驚嘆します。

 

 

参考 浄土寺・浄土堂、東大寺南大門以外の現存する大仏様の主な建物(86頁参照)

                            図・写真 奈良六大寺大観 法隆寺一、文化財建造物伝統技法集成より

 

東大寺・法華堂(ほっけどう)(三月堂) 

 

 

  左側の正堂は、奈良時代:749年(天平宝字3年)以前の建立で、基壇を版築で設け、亀腹に仕上げている。右側の礼堂は鎌倉時代、1199年(正治元年)大仏様により建替えられた。なお、小屋裏の筋かいは後補。

  西立面(右写真)では、奈良時代の長押と鎌倉時代の貫の違いを観ることができる。

 

 

東大寺・鐘楼(しゅろう)

 

 1207~10年(承元年間)ごろ、栄西によって建てられた。 横材は、下から地貫、飛貫、内法貫、そして頭貫。組み方の手順を間近で観ながら考えることができる。

  

 

東大寺・開山堂 

 

 

 当初、1200年(正治2年)ごろ、1間四方の内陣が建てられ、1250年(建長2年)現在地に移築、外陣を増補。内陣は重源による。 大仏様の手法が各所に見られ、右図の柱-頭貫-繋虹梁の取合いはその一例。

  

「Ⅱ-3 二重屋根の発生と新しい架構法」 日本の木造建築工法の展開

$
0
0

PDF「Ⅱ-3 二重屋根の発生と新しい架構法」 A4版6頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

Ⅱ-3 二重屋根の発生と新しい架構法・・・・斗拱(ときょう)に代る桔木(はねぎ)による小屋組

 日本は雨が多く、しかも風をともなう吹き降りの雨が多いのが特徴です。そのため、日本の建物では、屋根は勾配を急にして、降った雨を早く外に流し去る(水はけをよくする)必要があり、また、できるかぎり雨が壁に吹き付けないようにするために軒の出を深くすることも必要でした。

 しかし、雨の少ない中国から伝来した緩い勾配の屋根は、日本の気候に適さないこと、そして、軒を深くするには中国風の斗拱(ときょう)では限界があることが少しずつ分ってきます。 そこで、当初中国風の緩い勾配の屋根で建てた建物は、急な勾配の屋根に改造されてゆきます。

 現在、中国風の緩い勾配の屋根の建物は、新薬師寺本堂などしか残っていませんが、唐招提寺金堂も当初は同様の緩い勾配で、後世に急な勾配に改造されています(53頁の写真は改造後の現在の姿です)。 

 しかし、屋根の勾配が急になると、屋根の下にできる室内空間の高さが不必要に高くなります。そうかといって、それを避けるために軒先を低くすると室内が暗くなります。

 そこで、軒の高さはそのままにして屋根を急な勾配に変え、室内には天井を設けて室内空間の高さを調節する方法が考えだされます。当初の中国風な椅子式の生活が座式中心の生活に変ってゆき、そのために室内の高さの調節が必要になった、とも言われています。

 小屋組の下に天井を張ると、小屋組の架構は人の目に触れなくなり、天井と小屋組の間に小屋裏・天井裏が生まれます。(以上は、日本の美術245:浅野清 日本建築の構造を参考にしています。) 

 この天井裏を利用して、斗拱(ときょう)に代り軒の出を深くするため考案された方法が桔木(はねぎ)です。 桔木(はねぎ)を使った建物は、すでに奈良時代末に現われ、その好例が秋篠寺です(下図、右頁図・写真参照)。

 

 

秋篠寺 復元断面図 左が南 当初、南1間は吹き放しだった       西側側面 いずれも日本建築史基礎資料集成 仏堂Ⅰ より

 

 図のように、母屋:上屋部分の組入天井(くみいれてんじょう)は堂内の高さ調節のための天井、庇:下屋の化粧垂木の部分は、従来の垂木の見える小屋裏を装った天井で、垂木の太さも細身になっています。斗拱(ときょう)や虹梁もありますが、この役割は化粧が主で、天井裏に別に設けた小屋組が屋根をつくります。天井裏の隠れた部分を野屋根(のやね)、そのうちの軒を支える部材を桔木(はねぎ)呼び、これは梃子(てこ)の原理の応用です。

 桔木(はねぎ)の上に束立てで母屋桁を組み、実際に屋根を受ける垂木:野垂木(のだるき)を架けます。桔木(はねぎは、軒を確実につくる手法でしたが、後に、軸組と小屋組を立体的に組む上でも有効なことが発見されます。 

 なお、新薬師寺本堂(56頁断面図)も化粧屋根と野屋根からなっていますが、化粧屋根を、従来の小屋組同様の太目の材料でつくっているため、一見したところ、化粧屋根には見えません。 

 平安時代になると、寺院建築では、桔木(はねぎ)を使う野屋根と化粧屋根による二重屋根が一般的になり、斗拱が構造上は不要になります。しかし、斗拱は寺院建築の象徴になっていたため、野屋根・桔木を使った上に、構造的な役割を失った形式的な斗拱を取付ける方法が普通になります(平安時代には長押も一般化していたので、この二重屋根架構と長押を使う建て方への変化を一般に国風化と言い、そういうつくりの建物を和様と呼んでいます)。そしてこの傾向は、上層階級の建物では、後世まで引継がれます。

 

秋篠寺(あきしのでら) 8世紀末~9世紀初頭 所在:奈良市 秋篠町  日本建築史基礎資料集成 仏堂Ⅰ より

 復元断面図  当初、南面庇部は、唐招提寺金堂のように、吹き放しだった。 

  現状平面図

    

 現状堂内 南面庇部も囲われている        現状堂内 身舎部          現状堂内 西面庇部

現状断面図

 

 法隆寺の回廊北側に位置する大講堂の解体修理によって、平安時代の野屋根による小屋組架構法が明らかになりました。ここでは、室内から見える地垂木上に束立てで野垂木を架けて二重の架構にしていますが、地垂木が束柱を介して野垂木上の屋根の重さを支えることになるため、地垂木と野垂木は同寸の太めの材料が使われています。これは、新薬師寺の二重の垂木に似た架構法です(56頁)。

 桔木(はねぎ)が野垂木を受ける形を採るようになると、地垂木は屋根の重さを受ける必要がないため、断面の小さな細身の材でよく、化粧垂木になってきます(60、61頁の諸例参照)。 その意味では、秋篠寺は、先駆的な架構法を採っていたことになります。  

  

                                            △ 茅負と野垂木の取合い

部材の名称 繋虹梁(つなぎこうりょう):構造材兼化粧材  地垂木(ぢだるき):構造材兼化粧材  飛檐(ひえん)垂木:同左  大梁:構造材  二重梁:同左  野垂木:同左  茅負(かやおい):野垂木の受け材  組入(くみいれ)天井:化粧 

 

平安時代の桔木(はねぎ)を用いた建物    日本建築史基礎資料集成(中央公論美術出版)からの図版を編集 

浄瑠璃寺(じょうるりじ)  1107年 所在:京都府 木津川市 加茂                                                        

 梁行断面図

 平面図 方位:下が南

 全景

九間四面の建物。屋根は入母屋ではなく、寄棟。   下:堂内  下右:化粧天上見上げ

  

 

 

室生寺 金堂(むろうじこんどう)  平安初期、江戸時代礼堂増補にともない改造  所在:奈良県 宇陀市 室生区 室生

  現状梁行断面図

註 身舎(もや) 庇(ひさし) 孫庇(まごひさし)

現状平面図・天上見上げ図   断面図共に 日本建築史基礎資料集成(中央公論美術出版)より

 現在の外観 寺社建築の鑑賞基礎知識(至文堂)より

 

  

 写真左:内部 左手「身舎(母屋)」右手「庇」 日本建築史基礎資料集成(中央公論美術出版)より  写真右:内部 礼堂 孫庇 1672年の増補、虹梁の意匠が異なる 古建築入門(岩波書店)より

  寛文12年(1672年)、南面に礼堂(らいどう)を増補して、屋根を葺き下した。 当初の屋根は入母屋で、小屋組は又首組で天井はなかったと考えられている。 平面が整形ではない。  本堂部分の床は、地盤に据えた礎石に直接大引を転がし、根太を掛け床板を張る方法を採っている。それゆえ、大引は、側面では地覆を兼ねることになる。 

 

(「Ⅱ-3 参考」へ続きます。)

「筑波通信№12」 1981年度

$
0
0

PDF「筑波通信 №12」1982年3月 A4版8頁   

     「筑波通信 №12」 1982年3月

      冬の情景  ・・・・それぞれの冬・・・・

 北国から便りがあった。

 寒い。夜になると気温は急激に下り、寒いという感じを通り越し、ぴりぴりとした無数の冷たい細い空気の糸をひっかきながら歩いているような感じになる。朝、バスに乗れば、乗客の吐く息が窓ガラス一面に氷となってはりついて、外は何も見えない。ときどき、外を見ようとして恥しげもなく(と便りの主は書いている)息を吹きかけてみるのだが、それもたちまち凍ってしまう。あきらめてガラスの上の氷の模様などながめいるうち、ふと気がつくと、先きほどまであった氷模様が、ほんとに一瞬のうちに水滴に変っている。いつも、その変容の瞬間を見たいと心しているのだけれども一瞬いつもおそすぎるようだ。

 これは、ある一人の人の、言わば全く個人的な、その人の情景の描写にすぎないのであるけれども、氷点下〇〇度あるいは積雪〇〇センチなどという表現より、よっぽど確実にその地の冬のありさま:リアリティを私に伝えてくれる。私に伝ったと私が思っていること、それがこの人の情景と全く寸分違わず同一のものであるという保証はない。しかし、分る。この人の直面しているリアリティそのものには決して直面できているわけではないが、極めて近くまで近づいていることだけは確かである。

 筑波も寒い。凍える、という感じである。そうは言っても、この便りのようにぴりぴりした感じには程遠い。しかし夜空はあくまでも透明に凍てつき、星がおそろしいほどにまたたいている。そんな夜、車から降りて身をちぢめて小走りに戸口へ向うときなんとも言い表しようのないにおいに気づくときがある。冬のにおい。冬のにおいとしか言いようのないにおい。澄んで冴え冴えとしたにおい。そういうとき私は、思わず立ち停って深くその空気を吸いこんでいる。冷い空気が内側に浸みわたる。風はない。あたりは森閑としてただひたすらに冷えきっている。それは、雪が降り積もって森閑としている様とは違い、言うならば底ぬけの森閑さだ。こういう冬を筑波に来るまで、私は久しく忘れていた。そうなのだ忘れていたのだ。その昔子どものころ、東京でこういう冬を味わったことがあるような気がする。

 こういった私のなかに「冬」というものを形づくってきた諸々の冬の体験を、いつのまにか私自身みな忘れさってしまい、ただ「冬」の存在だけが残ってしまっていた、そんなことをこの筑波の冬は、そしてこの北国からの便りは、私に思い起こさせてくれる。

 

 こう言ってしまえばなんていうこともなくきこえるかもしれないが、私たちが「冬」というものを知っている根には、その地その地のそれぞれの冬の事象が存在するということだ。それを忘れて、ただなんとなく「冬」が分ってしまっていたような気になっていた身には、例えば先号のあとがきに書いた「ふっこし」という冬独特の、しかもあの地域特有の現象、そしてそれにあてがわれた「ふっこし」ということばに出くわしたり、この北国からの便りを受けとったりすると、それまで持っでいた「冬」の概念も吹っとんでしまい、あらためて冬が新鮮に見えてくる。

 私たちは普通、冬になったとか冬が終って春が来たとか簡単に言って済ましてしまっているけれども、いざ「冬とはなにか」などとことあらたまって問われでもしようものなら、冬とはこれこれだなどという明確な定義などできはしないだろう。数行まえで「冬の概念」などと書いたけれども、それがどういうものかと尋ねられたところで極めて漠然としていて定かにはその抽象的イメージを伝えることはできないのだ。私たちが具体的に伝え得るイメージは、つまるところ私たち自身のそれぞれの冬でしかないのである。

 私たちそれぞれが、その地その地での冬の事象、イメージをもっている。それらは具体的には皆お互い違ったものだ。だからと言って、お互いに「冬」が伝わらないかと言えば、そうではない。先ずおそらく、いまは冬だ、と共通に認めあうだろう。認めあえるだろう。だから私たちは、お互い違う事象に巡りあいながらも、決して明確な線では区画できないけれども、「冬」というあるあいまいな概念は共有していると言うことができるだろう。と言うよりもむしろ、そういう、決して定かではないあるかたまりに対して、私たちは〈冬〉という字をあてがってきたのである。そしてまた私たちは、私たちそれぞれの冬の事象・イメージを〈冬〉の字に託してきたのでもある。

 しかし私たちが、私たちそれぞれの冬の事象・イメージを忘れてしまったり、気づかなくなったり、あるいはそういう事象がそれ自体存在しなくなったりしたときには、そのときには、「冬」の概念だけが独り歩きをはじめてしまい、そういった概念の根にあったはずの私たちの冬自体の存在さえも、はじめからなかったの如くに扱われだしてしまうのだ.

 私が「ふっこし」のことばに感嘆し、北の便りに心ひかれ、夜気のにおいにたちどまったのも、冬=寒い、厳しい、などと簡単に済ましていたのが、そんな他愛ないものではない、もっともっと生々しいリアリティがその裏に隠されているということに思いを至らしめてくれたからなのだ。それぞれの冬が在ってはじめて「冬」があるのだということを気づかしてくれるからなのだ。

 

 ここに書いたのは、言わば形のないものの理解のしかたについてであった。しかし形あるものに対しては、形ある故に、より一層その理解のしかたが拙劣になってきている。ものの私たちにとってのリアリティ:ものの名の名づけ親としての私たちを捨て去った。辞書に書かれている解説文的ものの理解があたりまえになっている。

 最近のこと、いまは造園関係の設計事務所に勤めている卒業生がたずねてきた。いま、学園都市につくる歩行者用道路の設計をしていて、現地を見にきたのだという。きいてみると、計画ではその道のそちこちに、昔の道の四つつじなどによく見かけた石の道しるべをたてるのだそうである。私は思わず道しるべ?とききかえした。

 おそらくこの設計者たちは、歩行者道ということで昔の街道すじでも思い起こしたのだろう。昔の街道は人:歩行者が主人公だった(そんなことは言うまでもない、車がなかったのだから)。そしてそういう街道すじには、そちこちに〇〇へ〇里〇丁などと記した道しるべがたっていた。いまでも古い道沿いなどにこけむした道しるべを見つけることがあり、人々はそれを見てある感懐を抱く。それは現代の標識に比べたらずっと人間的だ。だから(実は、これからあとの展開のしかたがおかしいのだが)この人間優先の街道すじを成りたたしめていた重要な人間的要素であった道しるべを、現代の人間優先の道:歩行者道にも、それをより人間的であらしめるべく、導入・復活させようではないか。これが、この設計者たちが考え思ったことのなかみだと断言して先ずまちがいないだろう。

 

 ここには、二段構えの誤解がある。先ず昔の道しるべに対しての、現代からの思い入れがある。自然石やざっくり切った切石に刻まれた筆書きの字。人間味あふれる道しるべ。しかし、そう思いを入れるまえにもう少しさめてものを見ることができないものだろうか。彼らが彼らの時代、道しるべを何でつくろうかと考えたとき、彼らの手にすることのできる材料のなかで、全く当然の帰結として石が選ばれたにすぎないのである。ペンキもプラスチックも活字印刷技術もなかったのだ。別にそういう道しるべの材料や形、あるいは筆の運び、そういったものに人間味があるからという理由でそうしたわけではないのである。それが人間味があっていいなあ、などと思うのは(思うのは全く自由だけれども)現代の人の他の現代的なものとの比較において勝手に思いこんだ思い入れにすぎず、当の道しるべをつくった人たちがそんなはなしをきいたらただただ仰天するだけだろう。

 ところが、こういう思い入れによる理解が、かの道しるべの本質であるかに思いこむと、そこに二段目の誤まりが生れてくる。つまり。道すじを人間味あるものにしているのは、こういう人間味あふるる要素をあしらってあるからだ、という思いこみである。既にそこには、最近よく言われる「人間のための街路」の概念が、そこはかとなく見えてくる。人のための道は、人間味あふれるいろいろな要素を組み合わせることでできあがる。あちこちにべンチなどのいわゆるストリートファニチュアーを置き、樹木をそれらしく植えこみ、路面には色つきタイル・ときには絵なども焼きつけ、歩く部分は直線をきらって人間的な曲線として・・・・これがいま流行りの「人間のための街路」概念を具体化した姿であり、実際にいま、あちらこちらの公園だとか〇〇モールとかで目にすることができる。そういう「人聞のための街路」を歩いていて、歩いているつまり私が自分で自分の意志に従って歩いているのではなく、歩かされているという気分になって白けてくるのは、私が少しばかりひねくれているせいなのだろうか。設計者の親切な人間的配慮にただ従順に従うのが人間的ということなのだろうか、ばかにしないでよとつぶやきたくなるのだ。私には、歩けば足もとから土煙りのあがるような田舎道の方が、よっぽど人間的に思える。

 

 おそらくこういう設計者の頭のなかには、道だとか道しるべだとかを成りたたせ、あらしめてきた、人々の営みの存在は忘れ去られ、ただ、そういった営みの結果成りたった道だとか道しるべを、単にWhatとHowの問いだけで問うてつくりあけた道や道しるべについての概念があるだけなのだ。それは丁度、先々号において書いた、蔵とは物をしまうところ、という理解で済ましてしまうのと同様の理解に他ならない。道とは交通の空間であり、人のための道は人間味のある交通空間である。道しるべとは、人のための道を人間的にあらしめている重要なアクセントである。こういう概念が、多分大かたの設計者には通用しているはずである。言うなれば、道とか道しるべとかいうことばが、その本義とは無縁なところでとびかっているわけで、そういう字に、実にいいかげんなイメージを託して済ましているのである。

 この文のはじめに私は、私たちは、私たちそれぞれの冬の事象・イメージを〈冬〉の字に託してきた、と書いたけれども、いまここで書いた普通一般になってしまっている道や道しるべという字:ことばへのイメージの託しかた、そのなかみは、それとは全く比較さえもできない根なしぐさの虚像である。一言で言うならば、そこには、「私」「私」たち、がぬけおちていて、あるのは「他人」の目、局外者の目、観察者の目、だけなのである。

 考えてもらいたいのは、私たちのことばは、かならず「私」「私」たち、に根ざしていたということだ。ことばが抽象的概念を託されているというのは事実ではあるけれども、しかしそれは、決してこの根と縁を切ることではない。

 

 ほんの一寸たちどまって考えてもらえば分かることだと思うが、道しるべとは道案内いま風に言えば道路標識、そしてそんなものはなければないに越したことはない、そういうものではなかろうか。

 しかし、それがないと迷って困るときがある、場所がある、あるいはあとどのくらいあるのか知りたいことがある。そういったことへの対処として、道しるべはたてられた。だから道しるべは、そういう道行く人々の場面に即応したかたちで、最少必要限でたてられている。決してやたらにあるのではなく、もちろん人間味を付与するためのアクセントなんかでもない。もし強いてそこに人間味を見るとすれば、それは、先ず道というものが道行く「それぞれの人」にとっての道であり、道しるべはその「それぞれの人」にとっての案内であった、そうなるべくつくられていた、という点にある。

 それぞれの人、つまり道行く人々には旅なれた人も旅なれない人も、その地が初めての人も、もう何度も訪れた人もいる。よく知っている人は、道しるべなどに用はない。先ず見向きもしないだろう。しかし、よく知らない人が、ふと不安になったとき、そういう場所は限られるものだが、尋ねて確かめたいと思ったとき、そこに道しるべがたっている。書かれていることはと言えば、まさにそこで尋ねられるだろう当然のことが記されている。尋ねられて応える人の代りにそれはたっている。人ならば、尋ねる人の立場立場に応じた応答ができるだろう。道しるべはそうはゆかない。そうなると、そこに記されることが吟味されねばならないことになる。尋ねられるだろう当然のことその吟味である。そしてそれは当然のことだけれども、道ゆく人々として不特定多数的にくくられた人々ではなく、それぞれの人に思いをはせなければできないのである。そして、そうやってそれらはつくられていたのである。だから、道しるべを不要な人にまで、決して道しるべがしゃしゃりでることはないのである。(いまはどうかといえば、不要な人にまで見えたがる。)

 道そのものにしたって同じである。道がなにゆえに道として成りたつのかは既にして忘れられ、勝手な概念のもとに人間的と称していじくりまわされている。道行く人々、それは、先にも書いたとおりそれぞれの人だ。先を急ぐ人もいるだろうし、あわてる必要のない人もいる。悲しみにくれている人もいるし、有頂天の人もいるだろう。それが人生というもの、人間というものではないか。だから、一本の同じ道を、それぞれの人がそれぞれなりの歩みをもって歩むのだ。道ばたの草木一本一本に見入る人もあろうし、光景にしばし歩を息む人もいる、わき目もふらずしゃにむに歩き続ける人もいるだろう。一本の道、道すじの諸々施設は、そのそれぞれの人に適宜応えていた。人々は、それぞれなりの判断で歩をすすめたのだ。道は、それに応えていた。

 ところがいまの「人間的街路」はどうだ。曲る必要を認めない人も、無理に人間的曲線なりに歩かされ、見たくもない人まで強引に、用意された光景を見させられ、見る用もない道しるべを読まないと通れない。この「人間的街路」では、人々は一つのパターンの歩みだけ用意されている。それに基いてのみ考案されている。人々は、それぞれの人ではなく、あるいは、それぞれの人であってはならず、設計者の設定したところの「期待される人間」でなければならない。そして、あろうことか、人々の多くもまた、そうすることが、そうすることのみが現代的であるとでも思うのか、唯々諾々とその期待に従っている。いや、自らの感性に拠る判断、あるいは感性そのものを押しころすことがよいことのように思って済ましている。道や道しるべというもの、あるいはそういうことば、そして歩むということ自体、それが個々人それぞれにとって何であったか、何であるかが省みもされず、リアリティとの直面をきらい、いつの日にかに(他人の手により、あるいは目によって)つくられてしまっていたできあいの虚像のことばでことを処理して済ますのに慣れきってしまっている。

 

 なるほど確かに一つ一つのことがらについてその根:リアリティへの直面:にまでさかのぼってみるということは、できあいのことばで済ましてしまうよりも、しんどくて時聞のかかることであり、その意味では(とにかくことを一見早く片づけてしまうという意味では)決して効率的とは言い難く、忙しい日常では一々そんなことやっていられるかと思いたくもなり、あるいはせっかくそういうできあいのことばが既にあるのだからそこからスタートする方が効率的だと思いたくなるのも人情というものかもしれない。しかし、おそらくこれがー番(人間にとって)危険なことなのだ。特に効率的=合理的=望ましきこと、と見なしがちな現代において最も危険なことなのだ。そして特に、ものを考えたり行動したりすることに対して、一定の定型・規範が提起されるようになってきているいま:教科書を一定の型に整えようとする動きなどはその最もたるものだ:極めて危険がことなのだ。

 なぜなら、人間の係わることも含めて一切のことがらが、効率的であらんがため、そしてまた(勝手につくられてしまった)一定の定型・規範に則らせようとして、一定、特定の「機構」のなかに封じ込められてしまうからだ。そして、そうするために、個々の特殊:それぞれの人のありかたが、徹底的に切り捨てられてしまうからだ。一般的あるいは普遍的であるがためには、個々の特殊は切り捨てなければならぬとする空恐ろしくもものすごい神話が、まるであたりまえのようにはびこっている。人間的であるということさえも、人間的であると称するある一つの定型のうちに押し込められてしまうのだ。

 

 私たちの身に降りかかってくるこのような危険を避ける唯一の方法は、私たちが私たち自らの判断をする権利を留保することでしかないだろう。もし仮にいまの体制をくつがえす革命が成就したとして、しかしそれの目指すものが別種のよき定型であるならば、あの空恐ろしい神話は不滅であり私たちには相変らず危険が降りかかる。だから、つまるところ、私たちがしなければならないことは、個を捨ててよき定型を探し求めることなのではなく、私たちが私たち自らによるとことんつきつめた判断を積み重ねることなのだ。先ず初めに抽象的な冬を語るのではなく、先ず初めにそれぞれの冬を語らねばならないのだ。そして、それぞれの冬を語るためには、私たちは私たちそれぞれの感性に信をおかねばならない、それぞれの感性を研ぎ澄ませなければなるまい。

 

 春を待ちこがれる想いが、美しい言葉をつくりあけた。あざやかな日本の自然が生んだ「言葉の宝庫」、すなわち「感性の辞典」。 これは最近見かけたある「歳時記」の広告にあったキャッチフレーズである。そして、陽春・芳春・・・春寒し・おそ春・春めく、といったいくつかのことばが例記され、更に、「四季を知る。言葉を知る。日本を知る。〇〇歳時記」とある。

 私も歳時記を見るのがきらいではない。見事なことば、鋭い感性に圧倒される。四季を知る、言葉を知る、日本を知る、確かにそれはうそではない。感性の辞典、それも確かである。

 しかしふと思う。こういたことばまでもが、既にして「文化財」になってしまっているのではないか。あるいは、日常の世界においてではなく俳句の世界においてのみ、しかも既にリアリティとの対応は失い、ただリアリティとの対応のあった時代にそのことばにこめられてきたイメージ:いまではもう仮構のものでしかないイメージ:にのみ頼って、それらのことばが使われているのではないか。もちろんそれをやみくもに否定するつもりはない。それはそれで一向に構わない。それもことばというものの宿命なのだから。

 けれども、もとをただせば、これらのことばは皆、日常のことばであった。決して特殊な世界のことばでなかった。日常における感性の発露であったのだ。そしていま、私たちは私たちの感性を、どうして詩の世界にのみ押しこめてしまうのか。日常の世界からしめだしてしまうのか。「文化財」にしてしまうのか。私たちの日常に、感性の発露の場面がないとでもいうのだろうか。そんなことはない。何も感性が季節あるいは季節の移り変りに対してのみ向けられていたのではない。それは日常の生に向けられていたのだ。ただ、その日常の生活が、いまよりも、より季節とともにあった、だからそういう感性の発露:ことばを季節でもって括ることができた、それだけのことだ。いま、私たちには私たちの、いまの日常がある。

 私が「ふっこし」ということばに感嘆したのは、そこに、他のだれのでもない、まさにそこにいま生き住まう人たちの感性を見るからなのだ。そしてそのことばは、そこに往きあったその土地の者でない私にも瞬時にして「分る」ことばだからなのだ。そのことばが「本質」を示してくれるからなのだ。冒頭に引いた北国からの便りにあった言を借りるならば「大地と風と生あるものと。そこには、形をなすものたちの根源的な係わりあい、係わりかたがある」からなのだ。

 北国からの便りは、次のように終っていた。「冬は厳しい。しかし、冬の厳しさには甘えがあります。」

 

あとがき 

〇季節はずれの題目なのは、これを書きはじめたのが二月初旬のことだったからである。

〇先号あとがきの「ふっこし」のはなしも、先号の本文を書き終わったあとでの体験であり、もう少し早くその目に会っていたら、当然本文中で触れただろう。辛うじてあとがきに間にあった。

〇あまりに私がこのはなしにこだわるものだから、まわりの人は少しばかりけげんな顔をし、私もこれは少しばかり感激のしすぎかなと思っていたのだが、どうもそうでもないらしく、本文よりもこのあとがきのはなしに関心を示した感想がいくつかきこえてきた。今号に引いた北国の便りもその一つである。

〇ついでに言えば、「ふっこし」ということばが通じるのは極めて限られた地域のようだ。そこから東に二十kmほどはなれた前橋で育った人は、このことばをきいたこともないという。北に十数km行った榛名町(榛名山南ろくの町)の人は、たまたま電話したとき「いまちょうどふっこしでうっすらと白くなっています」と言っていたから、そこでは通用するのである。このことばの通用する土地を地図上に色塗りしてゆくと、おそらく、ほんとの意味の風土地図が描けるだろう。それは人と土地との係わりあいを示す地図である。このことばは言って見れば「方言」なのだが、しかしそれは、そういう事象の起きない場所には絶対輸出されないことばなのだ。

 〇試みに手もとの辞書で「ふゆ」とひくと。四季のー、秋の次の季節、四季のうちで一番寒い季節。通常十二月から二月までを言う、旧暦では・・・・などとでている。こうなれば、「あき」とひくとどう書かれているか、ひかなくたって分ってしまう。

〇「みち」とひくと、人や車の往来するところ、「みちしるべ」は、道すじを示すもの、道案内。これが辞書の解説である。

〇これらの辞書の解説は決してうそではない。まちがってはいない。しかし私が今号で言いたかったことは、こういう辞書的理解で全てを律することは危険である、少なくともものをつくる、あるいは私たちの生活を考える場面において、こういう辞書的理解から出発することはまちがいだ、ということだ。

〇ものをつくる、あるいは私たちの生活を考えるということは、すなわちそれらの存在の(私たちにとっての)意味を考えることだ。そうであるとき、〈冬〉も〈道〉も〈道しるべ〉も、どれも皆そのことばが先に在ったのではなく、それらは全て私たちが(古来人々が)名づけ、つくり、そしてまた妥当な名づけであるとして、妥当なものとして、認めてきたものなのだ、こういう視点で理解をすべきことなのではないだろうか。私はこのことを言いたかったのだ。そして。名づけること、つくること、すなわち生活の営み、それを根底的にとりしきってきたもの、それはつまるところ私たちそれぞれの感性なのだ、このことを言いたかった。うまく伝わる文になったか、いささか心もとない。

 〇今号でちょうど一サイクルが閉じる。来号を1号にして、また出なおして続けさせていただきます。今後もご笑覧、そしてご批判ください。

〇それぞれなりのご活躍を祈ります。そして、そのそれぞれが共有されることを!

     1982.3.1                     下山 眞司 

「Ⅲ-1 参考 東大寺南大門」

$
0
0

(Ⅲ-1 より続きます。)

 

参考 東大寺 鎌倉再建 南大門

 

 垂木先端には、鼻隠しを取付け。鼻隠しは、垂木先端に数本おきに刻まれた蟻型で取付けられている。図・写真共に奈良六大寺大観 東大寺より

 

   

 同面で納まる貫(仕口は下図)                 挿肘木に架かる通肘木(仕口は下図)

 

 

文化財建造物伝統技法集成(文化財建造物保存技術協会)所載の図版を基に作図

 

 貫は柱の内部で継がれ、同一高さで交叉している。 継手は、材端部を縦に二分し、鉤型(かぎがた)の付いた相欠きに刻み、直交交差する貫に鉤型を引っ掛ける方法で継がれている。つまり、直交する材を介して継がれている。その結果、柱、直交する貫2本が、立体的に編まれることになる。

 通肘木は、突き出た肘木群の振れ止めで、下方への動きは斗で受け、挿肘木に大入れ蟻掛け(全蟻)で架けている。

 

 

参考 東大寺 鎌倉再建 大仏殿 想定図

 

黄:貫、先端肘木  赤:挿肘木(両側) 白:挿肘木(片側)

 

 

参考 東大寺寺域内に現存する大仏様建築

 

「Ⅲ-1 浄土寺 浄土堂の建て方手順」

$
0
0

(Ⅲ-1浄土寺 浄土堂の壁仕様 より続きます。)

 

 浄土寺 浄土堂の建て方手順 (「国宝 浄土寺 浄土堂修理報告書」極楽山浄土寺発行より抜粋要約)

 

 

 

 浄土寺浄土堂の場合、修理工事調査担当者は、いろいろ検討の結果、柱を立て、先ず飛貫(ひぬき)を通し、軸組を固めることから始めた、と判断しています。

 その理由は、四周全体に取付く胴張り付きの飛貫は、側柱内で鉤(かぎ)型付きの相欠き(あいがき)(略鎌りゃくかま)で継ぎ、しかも隅柱内での仕口も相欠きであるため、柱を立てながら取付けて行かねばならない:つまり建て込みにしなければならないからです。

 たしかに、飛貫が組まれると、軸組:柱列が固まります。これは、古代の寺院建築では考えられないことです。 註 足固(あしがため)貫は、後から差し込むことができます。  胴貫(どうぬき)は数が少なく、飛貫とともに組めばよく、頭貫(かしらぬき)は、貫と言っても、柱を貫通してないので上から落し込めば済みます。

 次に、どこから始めるかを考えるにあたり、調査者は、最後の飛貫を、どこに、どのように建て込むかを考え、正面の入口部で飛貫が方立(ほうだて)(建具:扉を納めるための縦枠)で二分されているので、ここで逃げられる、と判断しています。

 更に、入口左側の[柱3]か、隅の[柱4]か、を考えた末、飛貫が柱内で交叉する東南角の隅柱[柱4]から時計まわり:右まわりで進めるのが妥当、と判断しています。 註 [柱1]から、反時計まわりで進めることも可能です。

 以下、順を追って、「報告書」の内容を、先の図を参照しつつ、要約紹介します。 

 図中の赤い〇で囲んだ数字(ex①、①イ・・・)は、建て方の順番を示し、また①イ・・・は、①の工程の中の順番を示します。その工程ごとの説明が、以下の①・・・に対応します。

 

第1工程 

①・・・・[柱4]:東南隅柱を据える。この柱内で、飛貫+肘木が相欠きで交叉する。 南側の飛貫+肘木が上木(うわっき)、東側:正面側が下木(したっき)

①イ・・・南側の飛貫+肘木(上木)を[柱4]に差す。

①ロ・・・差した飛貫+肘木(上木)を1.05尺高の差口(さしくち)いっぱいに押上げ、その下側に東側の飛貫+肘木(下木)を通す。  上木を落して下木に噛み合わせる。 註 仕口は先に下木を据え、上木を噛ませるのが普通。

  ・・・ 上木を先行させる理由の解説図が、「柱4飛貫仕口分解図」です。  普通、相欠きの噛みあう部分:高さは上木、下木同寸。つまり、噛みあい部の高さの1/2ずつにします。ところが、この例では、上木の欠き込みは4寸、下木は3寸になっています。また、下木の差口が7.5寸×4.8寸であるのに対して、上木の差口は、幅は下木と同寸ですが、高さは飛貫の高さ1.05尺のままになっています。通例どおり下木を先に据えると、上木の差口の残りは6.5寸×4.8寸しかありませんから、高さ7寸の上木を差すことができません。それゆえ、上木を先に差し、高さ1.05尺の差口上端まで目いっぱい持ち上げ下木を差す、という手順になるわけです。

  ・・・欠き込み寸法を2等分ではなく差をつけたのは、おそらく、下木の欠き残りをなるべく大きくして、下木が欠き込み部分で折れる危険を避けるためではないか、と考えられます。上木側は、欠き残りが小さくても折れる心配はありません。

  ・・・正直のところ、欠き込み寸法の差の影響が分るまで、そして、上木側の差口が大きい理由、埋木:楔の高さが3.5寸もある理由が分るまで暫しの時間を要しました。 

 ②・・・・[柱5]を飛貫の継手分(1.6尺)定位置より西側に仮に立て、[柱4]からの飛貫を[柱5]に差しながら定位置に戻します。 この場合、下に割竹を敷いて滑らします。別の方法として[柱4](東南隅柱)を、飛貫を通したまま継手分東に傾け、傾きをもどしつつ[柱5]に飛貫を差す方法があります。     

      これは、上木側差口の3.5寸の埋木の余裕を使う方法で、調査者は、これが正統の方法かもしれない、と見ています。たしかに、3.5寸の「余裕」の意味も分ります。

③・・・・飛貫を[柱4]に差します:①ロと同時の作業。

④・・・・[柱3]を、[柱4]からの飛貫を差しながら据えます。

⑤⑥・・・飛貫を差しながら[柱6]を立てます。 次の西南隅の[柱7]がやっかいです。 [柱7]を定位置に立てたのでは、南側最後の飛貫+肘木が差せません。そこで、

⑦イ・・・飛貫の[柱6]への挿入分(1.6尺)[柱7]を西にずらして仮に立て、

⑦ロ・・・更に図のように南側に少し回転させ飛貫+肘木を[柱7]に差し、

⑦ハ・・・回転して戻しながら[柱6]に飛貫東先端を差口にあてがいつつ、

⑦ニ・・・[柱7]を、飛貫を[柱6]に差しながら、定位置に戻し固定します。この作業は、[柱7]の下に割竹を敷いて行ないます。 なお、②で触れた「別方法」も可能です。

⑧・・・・これからは飛貫と同時に胴貫も建て込みになります。 [柱7]へ飛貫を①イ、ロと同様の方法で差します。

⑨・・・・胴貫を[柱7]へ差します。

⑩・・・・[柱8]を、②の[柱5]と同じ方法で、[柱7]からの飛貫、胴貫を差しながら立てる。

⑪・・・・次の間の飛貫、胴貫を[柱8]に差す。

⑫・・・・⑩と同じ方法で、[柱8]からの飛貫、胴貫を差しながら[柱9]を立てる。

次は[柱4]と対称位置の隅柱[柱10]なので、①と同じ方法を採ります。

⑬イ・・・[柱10]を飛貫の継手分北側(右外側)にずらし仮立てし、

⑬ロ・・・はじめに北側面の飛貫+肘木を差します。飛貫+肘木を差したまま北側に回転させ、 [柱10]に差した上木の飛貫+肘木を差口上端目いっぱいに押上げ、

⑬ハ・・・西面北の間に入る飛貫、胴貫を、押上げてある[柱10]の飛貫+肘木の下に差し、飛貫+肘木を落し飛貫に噛ませます。

⑭・・・・北面、西面の各貫をつけたまま、回転を戻し、西面の飛貫、胴貫を[柱9]に差します。

⑮・・・・[柱11]を、[柱10]からの飛貫を差しながら、定位置に据えます。

⑯・・・・[柱11]に、北側中の間の飛貫を差します。

⑰・・・・[柱11]からの飛貫を差しながら[柱12]を定位置に立てます。

⑱イ・・・[柱1]を東側にずらし、時計まわりに少し回転させて仮に立て、

⑱ロ・・・北側面の飛貫+肘木を[柱1]に差し、

⑱ハ・・・回転を戻し、

⑱ニ・・・全体を西に戻しながら飛貫を[柱12]に差し、[柱1]を定位置に据える。

⑲・・・・北側の飛貫+肘木(上木)を押上げておき、正面北の間の飛貫を[柱1]に差します。

⑳・・・・[柱2]を、[柱1]からの飛貫を差しながら立てます。

最後に、[柱2][柱3]の足元を左右に開いておき、胴貫を入れた後、柱を定位置に戻します。

 

第2工程 次の工程は、頭貫の据付けですが、これは落し込みでできるので簡単です。

 

第3工程 内陣については、この修理では解体をしなかったそうです。内陣も建て直すとするならば、内陣から先に建てるのが普通です。当初も、当然内陣を先行したと思います。内陣は1間四方ですから継手はなく、どこからでも工事は行えます。

図上の順番は、一つの方法です。

 

第4工程 内陣の頭貫を据付。これも簡単な仕事です。

第5工程 足固貫を入れる。南面、北面の下木を先に、次いで東面、西面の上木を入れます。これは、飛貫に比べれば簡単です。 ただ、足固貫1本の長さが柱間芯々寸法より長いため、柱間に入れるとなると、材を柱径一つ分以上反らせなければ穴に入りません(通常の「貫」では、反らして貫通させています)。しかし、この場合は平角材ほどの寸法の材ですから、簡単には反りません。貫穴が横にも広く開けてあるのは(横にも埋木:楔を入れたのは)、このことを考えたのかもしれません。

 ところで、解体してみたところ、足固貫材は、ほとんどが湾曲していたため、柱間に通すのに都合がよかったそうです。もしかしたら、意図的なものだったのかもしれない、と調査者も考えています。註 自然の収縮では、そんなには湾曲しないのでは、と思います。

  以上、言葉で工程を説明するのは難しく、「報告書」に書かれていることも理解するには時間がかかりました。それにしても、きわめてよく練られている「設計」です。

 

 得てして現今の設計は、できあがりの姿に固執するあまり、その姿に至るにはどのようにするのかを考えてある例は、きわめて少なくなっています。しかし、「設計」する以上は、「工程」まで考えられていてあたりまえです。

  浄土寺浄土堂や東大寺南大門などの工事にあたって、どのような図面が用意されていたのか(それともなかったのか)分りませんが、建て方前、木材を加工する:刻む前に、ありとあらゆることが考えられていなければ、このような建物づくりを実行することは不可能です。 註 工という字には、本来、つくるにあたって必要なありとあらゆることを考える、という意がある。

 しかも、使われている継手・仕口は、原理的には相欠き(埋木:楔締めも含む)1種類のみ。相欠きの原理を、場所ごとで応用し* 、すべてを律しています。 * 単なる相欠き、鉤型を付けた相欠きなど、大きさ、形状を場所ごとに変えている。 

 また、一人でこの仕事をしたはずがなく、協働者がいたはずです。そのためには、「事前に考えたこと」つまり「設計内容」を、工人同士が「共有」していたと考えられます。その方法は詳らかではありません。

  東大寺大仏殿の後に建設されたとしても、その4年後に、このような熟達した仕事がこの地で行われたことを見ると、大仏殿の再建が、宋の技術者の指導だけで行なわれたと考えるのは、かなり無理があるように思えます。


内陣正面 木造阿弥陀如来及両脇侍立像(国宝) 「国宝 浄土寺 浄土堂修理報告書」極楽山浄土寺発行 より:昭和34年発行、平成5年重版


(Ⅲ-1 参考 東大寺南大門 に続きます。)

「Ⅲ-1 浄土寺 浄土堂の壁仕様」

$
0
0

(Ⅲ-1-5 より続きます。)

 

浄土寺 浄土堂の壁仕様――壁に耐力を求めていない

 

 

  

当初の小舞 竹小舞ではなく木小舞               当初の土壁

 

 「国宝 浄土寺 浄土堂修理工事報告書」より

 ・・・・(浄土堂では、)建具の入る部分以外の壁面は、飛貫より下の比較的面積の大きいところは横板壁とし、面積の小さい飛貫・頭貫間および頭貫・母屋間とは土壁としている。

 註 横板壁嵌板(はめいた):幅1.35尺×厚0.16尺(約41cmx4.8cm)程度    外周 隅柱:直径2尺(約60cm)。 平柱:直径1.8尺(約54cm)

 壁下地は、間柱(まばしら)・横間渡(よこまわたし)・小舞(こまい)よりなる。

 間柱は見付0.20尺×見込0.25尺(約6×7.5cm)の断面をもち、飛貫・頭貫間では3等分して2本、頭貫・母屋間には柱間中央の遊離尾垂木(ゆうりおだるき)によって2分された区画内に1本ずつ立てる。 この間柱の上下両端はともに枘(ほぞ)を造り出し、下端は枘穴にすべり込ます。

 横間渡は、この間柱の上下方に各1本ずつ、計2本通し、それぞれ楔締め(くさびじめ)とする。その断面は0.20×0.05尺(約6×1.5cm)。 小舞はすべて割り肌そのままの木小舞で、当然のことながら寸法は一定せず、ほぼ幅は0.05~0.10尺(約1.5×3cm)、厚さは0.02~0.03尺(約6×9mm)程度である。 小舞の掻きつけは、先ず幅広のものを間柱1区画内に4本あて間渡に縄がらみし、これを支持体として横小舞を一定間隔に間渡側に掻きつける。 そして後、縦小舞を両面にあてがい、小舞縄を前後に出し入れしながら千鳥に順次掻きつけて行く。

 この縦小舞を留める縄は、上間渡の上方と下間渡の下方にそれぞれ1通り、および両間渡間に2通りの計4通りである。結局、小舞は中央に横材を、その両面に縦材を用いるいわゆる三重小舞で構成されることになる。

 この結果、小舞としての厚みは、すべてで約0.10~0.12尺(約3~3.6cm)程度となり、先の間柱の見込み0.25尺(約7.5cm)の範囲内に納まる厚さである。 これらの小舞材は、すべて杉材を用い、また小舞縄は、稲藁を4~5本より合せた直径約1分(約3mm)程度の太さのものであった。

 ・・・・ 当初の壁は、前記壁小舞に荒壁を塗立て、その上に直接仕上げの上塗りを施しただけの単純なもので、後世のようなむらなおしや中塗りなど工程を重ねるものではなかった。壁厚も比較的薄く、上塗りを含め全体で0.30尺(約9cm)程度で、このことは、荒壁土の組織が粗でしかも藁苆(わらすさ)の混入も少ないこともあって、亀裂や剥落のしやすい状態にあった。

 ・・・・当初の上塗り材は・・・いわゆる白土(はくど)と呼ばれるもので・・・あった。 註 白土:火山灰または火山岩の風化した土。二酸化珪酸・珪酸アルミニウム。

 

 現在、木造軸組工法による架構の耐力は、軸組間に設けられる壁によって得られると見なされ、それゆえ、文化財建造物についてもその考え方によって補強・補修等が行なわれています。

 しかし、浄土寺浄土堂、東大寺南大門など約800年を越える年月を建設時の姿を維持してきた大仏様:貫工法の建物では、上記解説のように、壁は軸組間の充填材にすぎず、構造耐力は架構それ自体によって得られる、と考えていることは明らかです。大仏様以前でも、寝殿造など壁の少ない建物が古代以来可能であった事実から推察すると、古代以来、壁はあくまでも軸組間の充填材に過ぎないと考えられていたものと思われます。そして、壁は軸組間の充填材であるという考え方が日本の軸組工法の基本であったことは、古今を問わず、軸組間を壁あるいは開口に、随意、任意に置換している事例が多々ある事実に示されています(壁に耐力を期待していたならば、このようなことは不可能です)。

 

(Ⅲ-1 浄土寺 浄土堂の建て方手順 に続きます。)


「Ⅲ-1 中世の典型ー1:浄土寺 浄土堂」 日本の木造建築工法の展開

$
0
0

PDF「日本の木造建築工法の展開 Ⅲー1」A4版19頁  (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

「日本の木造建築工法の展開  Ⅲ  中世」 

 

・・・・現代物理学の発展と分析の(結果得られた)重要な特徴の一つは、自然言語の概念は、漠然と定義されているが、・・・理想化(された)科学言語の明確な言葉よりも、・・・安定しているという経験である。・・・既知のものから未知のものへと進むとき、・・・我々は理解したいと望む・・・が、しかし同時に「理解」という語の新たな意味を学ばねばならない・・・。

いかなる理解も結局は自然言語に基づかなければならない・・・。というのは、

そこにおいてのみリアリティに触れていることは確実だからで、だからこの自然言語とその本質的概念に関するどんな懐疑論にも、我々は懐疑的でなければならない。             

ハイゼンベルク「現代物理学の思想」より

 

・・・・かつて、存在するもろもろのものがあり、忠実さがあった。

私の言う忠実さとは、製粉所とか、帝国とか、寺院とか、庭園とかのごとき、存在するものとの結びつきのことである。その男は偉大である。彼は、庭園に忠実であるから。

しかるに、このただひとつの重要なることがらについて、なにも理解しない人間が現われる。

認識するためには分解すればこと足りるとする誤まった学問のあたえる幻想にたぶらかされるからである(なるほど認識することはできよう。だが、統一したものとして把握することはできない。けだし、書物の文字をかき混ぜた場合と同じく、本質、すなわち、おまえへの現存が欠けることになるからだ。事実をかき混ぜるならば、おまえは詩人を抹殺することになる。また、庭園が単なる総和でしかなくなるなら、おまえは庭師を抹殺することになるのだ)。・・・

サン・テグジュペリ「城砦」より

 

 ・・・・彼の言葉のなかで、私にいちばん強い印象をあたえたのは、・・・廊下を歩きながらスタインバーグが呟くように言った言葉である。  その言葉を生きることは、知識と社会的役割の細分化が進んだ今の世の中で、どの都会でも、殊にニューヨークでは、極めてむずかしいことだろう。  「私はまだ何の専門家にもなっていない」と彼は言った。「幸いにして」と私が応じると、「幸いにして」と彼は繰り返した。   

加藤周一「山中人閒話・スタインバーグは言った」より

 

  

主な参考資料 原則として図版に引用資料名を記してあります

日本建築史図集(彰国社)  日本住宅史図集(理工図書)   日本建築史基礎資料集成(中央公論美術出版)  奈良六大寺大観(岩波書店)  国宝 浄土寺 浄土堂修理報告書(極楽山浄土寺)  重要文化財 龍吟庵方丈修理工事報告書(京都府)  文化財建造物伝統技法集成(文化財建造物保存技術協会)  古井家住宅修理工事報告書(古井家住宅修理工事委員会)  箱木家住宅(千年家)保存修理工事報告書(重要文化財 箱木家住宅修理委員会)  日本の民家(学研 絶版)  日本の美術 (至文堂)   滅びゆく民家 川島宙次(主婦と生活社 絶版)      

          

 

 Ⅲ-1 中世の典型-1:浄土寺 浄土堂・・・貫工法の詳細、その原理

 浄土寺 浄土堂は、1194年に上棟した東大寺の荘園内に重源の指図でつくられた堂で(大工:豊後介紀清水と記録にあります)、1間20尺の3間四方(60尺四方)の整然とした平面で、屋根は方形(ほうぎょう)です。

 堂内の阿弥陀如来、観音などの立像は快慶作で、堂と同時につくられました。

 浄土寺 浄土堂については、詳細な「国宝 浄土寺 浄土堂修理報告書」極楽山浄土寺 発行 が刊行されています。その修理報告書を基に、大仏様を紹介します。 (ここでの図版・写真は「国宝 浄土寺 浄土堂修理報告書」からの転載になります。)

 その特徴は、古代以来の寺院建築の形式にとらわれず、それまでの寺院には見られなかった柱を何段かの貫で相互に縫うことで架構を立体的に強固に固める架構法を採っている点にあります。

 浄土堂では、下から、足固貫、胴貫、飛貫(ひぬき)そして三段の虹梁で固められています。頭貫は貫ではありませんが、古代寺院とは違い柱頭を固くつなぐ方法を採っています。 註 飛貫(ひぬき)は近世以降の建物では見かけない。また、浄土堂では、胴貫の箇所は数箇所。   

[図は左が南]

柱の太さ(径):柱は下から上へと細まり、径は1本ごとに異なるが、平均すると以下のようになる。 外周隅柱:柱頭1.9尺 柱底2.0尺  外周側柱(平柱):柱頭1.7尺 柱底1.8尺  内陣柱:柱頭1.9尺 柱底2.1尺

図の着色箇所は、飛貫および頭貫。

 

 

 架構の見上げ 下図矩計図に対応する部分

主要部矩計図

 

各架構部材の組立て分解図・解説

 以下に各レベルの横材(貫、肘木、虹梁など)の平面・分解図(伏図)を、下から順に掲載します。

 伏図は、左が南、右が北です(分解図は、国宝浄土寺浄土堂修理工事報告書から転載・編集した図です)。ただし、図の掲載順は建て方の順ではありません。建て方の順は、伏図・壁仕様の次の頁を参照ください。

 継手・仕口には、きわめて簡単な相欠き(あいがき)(合欠き)が継手、仕口双方に使われています(下図説明)。

 

1)足固貫(あしがためぬき)

 柱の脚部を相互につないで固める役割。近接して胴貫のある箇所を除き、各柱を平面格子状に繋いでいます。

 

 

 足固貫は、南北方向、東西方向とも断面は4.3寸×3.0寸の平角材で、柱~柱間で一材としています。したがって、各方向とも柱内で長さ6寸落差0.5寸の鉤型(かぎがた)の付いた相欠き:略鎌:で継いでいます。 双方は、3.5寸の段差を付けて柱内で交叉します。それゆえ、二材は0.8寸の相欠きで噛み合うことになります。 

 柱に彫られる貫孔は、下図のように、南北方向は4.5寸×3.5寸、東西は5.0寸×3.5寸、したがって埋木(楔くさび)の寸法は異なります。埋木(楔)を打込まない段階は、ガタガタです。

 

外周側柱(平柱) 柱頭:1.7尺 柱底:1.8尺

 

内陣柱 柱頭:1.9尺 柱底:2.1尺

 

 普通、貫に使われる継手は略鎌と呼ぶ。相欠き(合欠き)とは、材の双方を同型に欠いて嚙み合わせることを言い、継手・仕口両方で使われるが、特に継手で材の先端に鉤型(かぎがた)を付けた場合が略鎌。下図は略鎌の各種の変形。

 

  

文化財建造物伝統技法集成より編集 略鎌の語源は不祥

 

 

2)飛貫(ひぬき)(樋貫)・肘木    

 飛貫(ひぬき)は、柱列の上部を固める役割。飛貫(ひぬき)は近世の建物では見られませんが、中世の住居には使われています。

 鳥居の二段目の横材を飛貫(ひぬき)と呼びます。鳥居が門型を維持できるのは、そのためです。

 浄土堂には、足固貫と飛貫までの間に胴貫(どうぬき)があるが、使用箇所が少ないために省略します。

 飛貫は、隅柱では柱を貫通し、柱を飛び出す部分は、上端を3.5寸欠きとり、南北方向を上木、東西方向を下木として柱内で相欠きで噛み合せ、肘木として使う。

 なお、秋篠寺(8世紀末~9世紀初頭建立)は、当初南面の庇部が吹き放しで、その際、頭貫の下に横に入る長押の取付く横材を飛貫と呼んでいる。

 

 

 

  側柱位置での肘木は、最下段は柱を貫通、下から2段目:飛貫と同高位置:は柱に大入れ、3段目は柱を貫通、4段目は堂内側だけで柱に大入れ、最上段は堂内外に伸び、頭貫に相欠きで載っている(上掲の断面図および大虹梁仕口分解図を参照)。

 

 

3)頭貫(かしらぬき)  貫と呼びますが、本来、貫ではありません。

 「古代寺院」の頁で触れましたが、寺院建築では、古代以来、柱頂部に柱相互を結んで載る部材を頭貫と呼んでいます。  浄土寺 浄土堂でもその呼称を使っています。

 ただ、浄土寺 浄土堂の場合は、隅柱上で直交する頭貫が、互いに相欠きで噛み合い、柱頂部に固定されるような工夫がされ、古代の寺院建築の頭貫とは異なり、柱相互を固く結ぶ梁のようになっている。

 

 柱底は平坦で、礎石上に据え置かれているだけである。 各段の貫で固めれば、架構全体が一つの立体となり、その立体が礎石からはずれることは容易には起き得ないことが分っていたため、柱底を平坦のままにしたと考えられる。

 柱底には、15mm角ほどの大きさの通気口(通気溝)が彫られている。防湿のためと考えられている。

 柱 底部の通気口(通気溝)

 

解体時、礎石と柱底との隙間に、上図のような深さで、調節のための飼い物(ヒノキの木片)が挿入されていた。数字は飼い物の厚さ。内陣の柱:四天柱は解体しなかったため、厚さだけで長さは不明。

 

 

4)大虹梁および各部材の取合

一つ置いた次の図は、この部分の、飛貫、肘木などと柱との取合い分解図

 

 

 木鼻があると組むことができないため、分解し後付けにしている(埋木:楔により、ほぼ一材と同様になる)。

 

 

bは柱に差してあるだけだが、a、c が埋木(楔)によって固定されると、同時に固定され、肘木の役割を果たす。同じく d も、c、e に挟まれ固定され、肘木として働くことになる。下図もおなじような考え方。

 

 

 5)遊離尾垂木(ゆうりおだるき)と母屋(もや)、その取合

 

 

 

  

  

   

 

 

図版・写真は「国宝 浄土寺 浄土堂修理報告書」極楽山浄土寺発行 よりの転載になります。

(Ⅲ-1 浄土寺 浄土堂の壁仕様 に続きます。) 

1882年4月 「筑波通信№1」

$
0
0

PDF「筑波通信 №1」1982年4月 A4版10頁   

     「筑波通信 №1」 1982年4月

      十人十色・・・・人それぞれ、それぞれの人

 降ったとも知らずにいた夜来の雨で、乾ききっていた地面も生気を帯び本来の土の色にもどっていた。空気も湿り暖かく、あたりもかすんでいる。もう少し日ざしが強まれば陽炎の季節だ。山々の葉の落ちきった木々も、いつの聞にか、冷たい灰色から暖か味を増した灰色に変っている。しかし、ふと目を遠くにかすむ少しばかり高い山の方に向けると、そこには未だ冬が残っている。昨夜の雨もそこでは雪だったらしく、新雪がまばゆく輝いている。そちらの方から下りてくる風も、心なしか冷たく感じられる。

 こういうころ、山あいの村々を歩くのが私は好きだ。ここ二年ほど、ある仕事のため、関東平野を東西に、もう数えきれないほど往復してきた。平野のそれぞれの季節の情景も、そして季節が少しずつ移り変ってゆくさまも、一見の客の目に映るようなものとしてではなく、より確かな目で見れるようになってきたように思えている。全く同じ一つのものも、見るたびに新鮮に見え、それとともに、そのものが、その存在のさまが、より確かなものとなって私のなかに定着してくるようなのだ。今日もまた、夜来の雨が新しい情景を描きだしてくれたせいか、全てが新鮮に見えてくる。いま私は、後方:東の方に広くかすんだ関東平野を遠く望みながら、平野の西端、言わゆる関東山地のふもとの町や村の中を車で走っている。

 昔ながらのつくりの店や現代風なそれがごちゃごちゃとならぶ街なみをはずれ、道は多分地形なりについているのだろう、微妙に曲りくねりあるいは小さな起伏をくりかえし、気がついてみると川沿いに少しずつ山あいへと向って登っている。

 そういうとき、突然目の前に、実に見ごとな屋なみ:屋根の重なりあいがつくりだす村の風景が拡がることがある。思わず、いいなあ、ということばが口をついてでる。ほっとする。安心して見ていられるのだ。このあたりの家々は大概切妻づくりの総二階、屋根は瓦ぶき。と言ってもてらてらとは光っておらず、どちらかと言えばにぶい色を放っている。切妻づくりの単純な形とその勾配のせいか、重くもなく軽すぎるでもなく適度な重さをもって見えてくる。ときおり混じる土蔵の白壁が、やけに白く目に映る。家々のまわりに遠く近く、屋なみの背景をなすあの温か味を帯びた灰色の山林のなかに散らばるぼやっとした白いかたまりは、あれは多分いまが盛りの梅の花だ。

  こういう見ごとな屋なみの光景は、別の季節にも、もう何度となく見てきているのだけれども、木々が葉をつけているときは、屋なみもまた木々の緑に埋もれてしまい、こうはくっきりと見えないのである。もちろん四季折り折りの光景もそれぞれがそれなりの風情をもってはいるのだが、例えば真夏の暑さのなかでじわっと静まりかえっているのもきらいではないけれど、ちょうどいまごろの、冬の静けさからさめ、これから先のにぎわいを予感させるような風光が、私は好きなのだ。

  

 おそらく、こういう屋なみを初めて見る人には、家々がどれもこれも同じ家のように見えるはずである。先にも触れたように、この辺の家は四寸か四寸五分勾配の総二階切妻づくり、大体東西に長い長方形の平面で棟も東西に走る。庇の出は四周とも深く、ときには六尺近くもあろうかと見えるものもある。二階の長手には:つまり南面ということになるのだが:出し桁づくりと通称する手法による出窓様のつきだしが延々と全面にわたってついている。先ずどの家も同じだと言ってまちがいではない。屋根面も従ってかなり大きい長方形となる。そういった家々が、南へ向いたゆるい斜面に、ほぼ等高線に平行に長辺をそろえてならんでいるので、山はだは同じ向き、同じ形をした瓦屋根で幾重にも重なったようにおおわれてしまうことになる。自然、同じ家が同じ向きにひしめきながらならんでいるように見える。だから、ときおり混じる寄せ棟や入母屋づくりの家は、何か異様のものに見えてしまうほどだ。

 けれども、このどれもこれも同じように見える家々も、二度三度と見てくると、あるいはじっくりとながめてみると、実は一軒として同じもののないことに気がつく。同じようでいながら、一軒一軒にそれなりの顔がある。だから、そういう村うちの道を歩いていて、目の前に次々と表われる家々は、一軒一軒違っていて、我が筑波研究学園都市の公務員住宅のなかの道(一般的な例で言えば、各所の公団住宅団地内の道)で体験するような、ここもあそこもみな同じに見える、などということはまずない。ここでは、一見同じようでいて、十軒十様の顔をしているのである。

 この山あいの村に入りこむ前、町の街なみをはずれたあたりで、向いの山の斜面に、最近関発されたらしい住宅地を見かけた。そこにも、建設中のも含め、住宅がひしめいていた。と言っても、都会周辺のそれとは違い、かなりゆったりと建ち、ことによるとその家々の混みかたは、この辺の村々のそれと大差ないのかもしれないと思えた。しかし、これが村々の屋なみと全く違う点なのだが、この住宅地の屋なみは、まさに見るからに一軒一軒が異なり、はっきりと十軒十様のさまを呈している。

 ここで私は、同じ十軒十様ということばを用いているのだが、明らかにその内容はそれぞれ異なっている。この二つの風景は、質が違うのだ。いったい、この違いは何なのか。何故なのか。単に、社会が変り、生活が変り、技術が変り・・・・そして人が変った、そのせいなのか。そして、だから、昔といまで違いがあってあたりまえ、昔のもの、それは消えてゆくもの、違いは何なのか何故なのかなどと問うこと自体無意味なことなのか。私はそうは思わない。むしろ、この違い、この違いを生じさせているなにものか、そこに重要な問題があるはずなのだ。この違いは、一考に値するのだ。

 

 結論から先に言えば、このいまと昔の風景の違いは、その成りたちの違いであり、それは、唐突に聞こえるかもしれないが、「人それぞれ」ということ、つまり個人ということ、に対しての、いまと昔の理解のしかたの違いに拠るのだ、そのように私は思う。

 私はいままで度重ねて「人それぞれ」ということに対して、あらためて見直すべきだと書いてきた。なかには、何をいまさら、と奇異に感じた方もあったのではないかと思う。あの戦前、戦中の八紘一宇の時代ならいざしらず、この戦後の民主主義の時代では、そんなことは言うまでもないではないか。個人は個人、人はそれぞれ、それはあたりまえであって、いまさらことあらためて言うこともない、と。

 しかし、人それぞれということは、そんなに単純なことなのだろうか。人それぞれということ、それはいったいどういうことなのか、考えなおしてみる必要もないほど、それは分りきったことなのだろうか。

 

 いったいいま、私たちの極く一般的な設計や家づくりの場面では、この人それぞれということに対して、どのような態度がとられているか。

 あたりまえだと思われているのは、個人が建てる言わゆる個人住宅はその個人個人に応じてそれぞれなりに建てられる、しかし、現代の都市化社会の必然として生じた大量供給の住宅づくりの場面では、個人個人に対応するというわけにはゆかなくなる、つまり、対象の個人を特定するわけにゆかず、言わば不特定の多数を相手にすることになる、だから一人一人に対してそれぞれの住宅を用意することは現実間題として不可能である、そうかと言って住宅の形が決まっていなければ建てられない、そこで、ある一つの形を決め、それをその多数に対応させざるを得なくなる、ざっとこういう考えかただと言ってよいだろう。要するに、その根底には、人はそれぞれそれぞれがまるで違うのだから、本来、その家も一軒一軒人それぞれに応じて全く違う形をとらなければならない。あるいは別々の形をとって然るべきなのだ、とする考えがあるのだ。そうであるから、個人が特定できない大量供給の住宅や、あるいはその利用者・使用者を特定の個人に限定することのできない言わゆる公共建築の設計の場面では、この不特定多数の数だけある使用・利用のさまをどう一つに括りこむかが大問題である、と考えられるようになる。

 実際ここ三・四十年、この不特定多数の人々:使用者・利用者のニーズをどうとらえるか、あるいはどうやってその最大公約数を算出するか、これこそが個人の建てる住宅のようにはその対象が限定できない言わゆる公共住宅、公共建築の設計の場面で(そして全く同様に大量生産品言わゆる工業製品の設計の場面で)設計者・デザイナーそして関係の研究者たちの頭を占領していた問題だったのだ。

 そしてこの間、この考えかたに対し、さしたる疑問をだれも抱かなかったと言っても、決して言いすぎではないだろう。使用者・利用者あるいは注文者としての普通の人たちもまた、こういう考えかたにいささかも疑いをもたず、それ故、個人で住宅を建てることができる場合には、せいいっぱいその個性:それぞれの違いという意味での個性:を具体化するものだ、そう思ってきたと言って、これもそれほどまちがっていない。これは、いま新聞その他ではなやかに宣伝されている〇〇ハウス、〇〇の家‥‥などの、その買い手に対するセールスポイントを見れば、そこに明らかだろう。これらは個人で家を建てるその個人を対象としているわけで、その底に流れているのは、いかに人それぞれであることを発揮せしめるか、言い換えれば、いかに他人との違いを(そうすることが人それぞれを示す近道であるとするが故に)形あらしめるか、という考えに他ならない。

 まるでそれは、人それぞれということは、人それぞれがその見えがかりに表われる違いを競いあうことにより表出するものなのだ、とでも言うかのようだ。(実際にいま、大量生産品のデザイナーの最大の関心事は、その買い手である個人の、人と違うという意味での人それぞれ感を個々人にいかに抱かせるかにあるのだそうである。となりの〇〇が小さく見える!とか、これには〇〇がついてます、とかいう宣伝は、まさにこのことを示していると見てよいだろう。)

 大ざっぱに言って、これがいま普通にものづくりの場面で考えられている人それぞれだとみてよいと私は思う。

 

 そして、端的に言って、こういういまの普通のやりかた、すなわち、人はそれぞれまるで違うのだから、それに対応するものもまた本来それぞれ全く違って当然で、しかし対応相手が特定できないときは止むを得ず何らかの形で一つにしぼりこむという考えかた、その結果が現代の街並み・屋なみをつくりだしたのである。一方で全く画一的で同一の文字どおり寸分違わぬ建物が建ちならぶかと思えば、その一方では全く逆に見るからに十軒十様の建物が建ちならぶ、こういう全く対極の風景が次々にこの同じ考えのはてに生みだされ、そしてこの二つの分極した風景のはざまに、まさに所在なさげに、昔ながらの村々の風景が残っている、これがいま私たちの目のあたりにする街なみ・屋なみの全景に他ならない。

 それでは、このはざまにはさまれて、もはやその存在さえも危うくなりつつあるあの昔ながらの村々の風景:よく見ればそれぞれの顔を持ってはいるが、一見する限り同じように見える風景:これはどう解釈したらよいのだろうか。それを成りたたしめた時代、人それぞれがそれぞれであるという考えがなかったからなのか。封建時代・制度のもと、人々はその個性の表出を制限されていたからか。しかしいずれにしろ、いまあたりまえの考えかたでは、その解釈はできないだろう。過去の遺産、そう切って捨てるしかないはずで、現にそうしつつある。価値を認めるとすれば、文化財として、そして観光資源としてのみだ(いま、文化財=観光資源となっているのはまことにいまをよく象徴する興味ある現象だと私は思う)。

 

 十人十色ということばがある。辞書によれば、人の好む所、思う所、なりふりはそれぞれに違うこと、とある。人はそれぞれだということである。しかし、それは単純な意味でさまざまだということなのだろうか。

 そこで、私たちがこの十人十色という言いかたをする場面をいろいろと考えてみると、それは決して単にさまざまだとかいろいろあるだとかいう場合に使われるのではなく、かなり限定された場面においてのみ使われるということに気づく。さまざまな国のさまざまな人が集まっているからといって、あるいはスキー場でいろとりどりのスキーウェアが花咲いているからといって、それを言うのに十人十色だとはまず言わないと思う。このことばが私たちの口をついてでるのは、ことあらためて人それぞれということを、私たちが意識させられたときなのだ。

 つまり、普段は人それぞれだとか、あるいは互いに互いを意識するなどということもなく、まずなにごともなく平然とすごしていたのが、あることをきっかけに、急に互いに互いの違いが目に見えてくる、そんな場合にこのことばが使われるようなのだ。例えば、ある目的のための具体的な行動の方針を決めようとするような会合で、目的自体はなにごともなく了解されているのに、具体的なやりかたについていろいろな案がだされ、それぞれ一理あって決め手を欠き、どうにも一つに決めあぐね、まとまる見通しもたたないままお開きとなり、なんとなく白けた気分で、似た考えをもったもの同志、あらためて考えの多様さに気がつき、先を思い、なかば嘆くようにぼやく、そんなとき「十人十色だからなあ」などという具合にこのことばはとびだすのだ。辞書の説明の言う「思う所」の違いである。

 あるいはまた、これは辞書に言う「好む所」の違いにあたるのだろうが、ある場面で、そういう場合めったに見かけないような格好の服をきた人が現われ、それが意外とその人にも場面にも合ってさまになっていたりして、そんなときにも、これもなかば感嘆の気もちをこめて、このことばを口にする。つまり、このことばには、互いに互いの違いをあらためて発見し、感嘆、驚嘆、あるいは慨嘆する、そんなニュアンスがこめられていると言えるだろう。

 ここで注目しなければならないのは、この十人十色ということばが意味する人それぞれのそれぞれの人というのは、決してその人それぞれが互いに無関係なのではなく、むしろ全く逆で、互いに関係しあう「お互い」の一員である、という点である。すなわち、互いにある場面・局面を共有していて(しかもそのことは普段意識しておらず)、その上で、人それぞれのふるまいかた、思う所、好む所がそれぞれに違う、そういうことをこの十人十色という成句は言っているということだ。

 こうしてみてくると、私たちはそれほど深く考えもせずにあっさりと「人それぞれだ」と思っているけれども、人それぞれである、ということばの意味には、そのそれぞれの解釈のしかたにより、明らかに二様あり得るのだということが分ってくるように思う。すなわち、無関係のものが多種集まっているが故のそれぞれ:多様という意味と、同種のものが集まった上でのそれぞれ:多様という意味、この二様である。簡単に言えば、根っから違うのか、それとも根は同じであるか、この二様である。そして、十人十色で意味するものは、先に見てきたとおり、明らかにこの後者の意味に他ならない。

 そして、あらためて考え直してみるまでもなく、いまの私たちにとってはなかばあたりまえになっている言わゆる現代的な考えかたでは、人それぞれということ、あるいは個人ということについて、明らかにこの前者の意味、すなわち、多種でありそれ故の多様であるという意味で考えられているのである。人は互いに、もう根っから違うものなのだ、これが当然のごとくに前提となっている。従って、人の集団とは、この根っから違う個人の群れであり、だから互いに無関係であり、互いに共通の場面というものは、そもそも存在しない、それぞれが独自の場面をもっている、そういうことになるはずだ。ただ、現代的な考えかたのなかみがこういうものであるということについて、そのなかに埋もれこんでしまっている私たちは、少しも気づいていないのである。

 

 私たちは、よく対話あるいはコミュニケーションが不足しているとか、だからそれを回復しなければならない、ということを言ったり聞いたりする。しかしいったい、互いに無関係な間がらの人と人の間のコミュニケーションというのはどうしたら可能と考えるのか。コミュニケーションを回復しなければならないということは、言うまでもなくそれが存在していないからこそ言われるのであって、そうであるならば、ただ単に回復させようと説いたり唱えたりさえすれば済むわけがなく、いったい何故それが存在しないのか、しなくなったのか、それをこそ先ず問われて然るべきだろう。そうすれば直ちに、互いに無関係な人の集まりなのだという前提を私たちが固持している限り、コミュニケーション:対話というものは、そもそも存在し得ないのだということに、私たちは気づくはずである。それは、ある局面を共有できるという前提があってはじめて成りたつものなのだからである。

 つまり、現代的な人それぞれ観を持つ限り、対話は存在しなくてあたりまえなのであり、コミュニケーション不足を嘆くこと自体が矛盾したはなしなのだ。であるにも拘らず、私たちはその不足を嘆き、回復を望み、そしてその必要を説く。

 ならば、私たちは、その前提を問いなおさなければなるまい。

  いったい、私たちにとって、「人それぞれ」ということの正当な意味は何なのか。


 和辻哲郎がその著書「風土」の冒頭で、私たち(日本人)がよく交わす時候のあいさつについて触れ、次のように書いている。

 ‥‥寒さを体験するのは我々であって単に我れのみではない。我々は同じ寒さを共同に感ずる。だからこそ我々は寒さを言い現わす言葉を日常のあいさつに用い得るのである。我々の間に寒さの感じ方がおのおの異なっているということも、寒さを共同に感ずるという地盤においてのみ可能になる。この地盤を欠けば他我の中に寒さの体験があるという認識は全然不可能であろう。‥‥‥(太字は原文)

  人それぞれとは、言い換えれば個々の私ということだ。私と他人の関係について述べたこの文章ほど、人それぞれということについての、簡にして要を得た、そして説得力のある説明はないと私は思う。人それぞれというのは、本当はこういうことなのだ。先に、十人十色ということばの使いかたを検討したときに見えてきたそのことばの意味、すなわち互いにある共通の基盤を認めあった上で、それに対する個々のふるまいかた:身の処しかた、つまり「思う所」「好む所」はそれぞれに違うのだということ、それこそが「人それぞれ」ということなのだ。そしていま、私たちは、そもそも人と人との関係はこうであったということ、いや人であるということはこういうことなのだということ、それをすっかり見失い、忘れてしまっているのではなかろうか。

 考えてみれば、もしこうではなく、私たちが何の共通の基盤もない、持たない、持とうとしないそれぞれであったのならば、私たちの間にはもはや、ことば:言語など存在しないはずであるし、そもそも存在しなかったはずだろう。先号でも書いたように、私たちが〈冬〉ということばを持っているのは、私たちそれぞれがそれぞれの冬の事象にめぐりあい、それぞれ違うイメージを抱きながらも、「冬」という概念を共有し得ているからなのだ。だからこそ、互いに冬を語ることができる。

 そして、このことを更に理解しようとするならば、「方言」というものの存在、あるいは「地名」のつけかた、などを思い浮かべていただければよいだろう。まさにそれは、ある土地に住む人たちの共通基盤の存在をもの語るものだからである。

 

 このように考えなおしてみると、あの昔ながらの村々の風景の成りたちが、よく理解できる。

 その土地に住む人たちは、その土地に対して共通の認識を持っている、ひらたく言えば、同じものを見ているし感じているのである。そして、その上で彼らは生活をしている。その土地との係わりかた、彼らにとってのその土地の意味、そういう所で生活を営むことの意味、それは共通なのだ。互いに違う点は、その共通に認識していることの、個々人の言わば運用のしかたの違い、あるいは、そのとりこみかたの違い、つまりその共通の基盤に対しての思う所・好む所の違いにすぎないのである。

 家の間取り、屋根のかたちも、屋敷の構えかたも、そして敷地の選定についても、長い間のその土地での体験の蓄積のなかで、その土地で生活してゆく上での適切なやりかた:方針(それは思想と言ってもよく、必らずしも目に見える形をなしているわけでないから、一見の客には直ちに見えるとは限らない)というものが共通に認識されていて、違ってくるのは、個々人のそれぞれの家でのその方針の具体化の場面においてなのだ。だからこそ、同じようなものはあっても同一のものはなく、逆に同じような点が何一つないなどというものもないのである。場合がそれぞれ違うからといって、方針を崩すわけではなく、あくまでも同じ方針のもと、個々それぞれの場合に応じて、言わば臨機応変にその具体化にあたっている、と言ってよい。

 そしていまは、ある土地に家を建てる人たちは、その土地に対しての共通の認識を持たず、また持とうともしないのだ。それぞれは、それぞれの地面としてのそれぞれの土地:敷地に対してのみ、しかも彼だけにのみ分る、認識を持つだけなのだ。

 

 「突然目の前に、実に見ごとな屋なみ、屋根の重なりあいがつくりだす景色が拡がることがある。思わず、いいなあ、ということばが口をついてでる。ほっとする。安心して見ていられるのだ。」 私はこの号の初めで、こう書いた。私のこの感想は何か。私はそこに何を見たのか。私はそこに、単に美しい絵を見たのではない。言ってみれば、そこに私は、そこに住む人たちの共通基盤を見たのである。より正確に言えば、その土地に私が住むとしたら、私がその基盤とするであろう、同じものをそこに見たのである。私がその土地を見て得たものが、そこに住む人たちの得ているものと変らない、私もまた彼らと共通の基盤を共有できる、つまり私がやるだろうと思われることと、彼らがやっていることが一致する、すなわち、分った(という気になれた)のである。だから素直にその世界になじんでゆけ、それがあの感想となるわけなのだ。

 しかし、現代の住宅地の風景には、残念ながら私は、私と共通になる基盤はもとより、そこに建っているそれぞれの家の間の共通基盤をも、全く見ることができない。けれどもそれは、私に見る力がないからなのではない。それらがもともと共通基盤の存在を否定したところで生まれたものだからなのだ。最初から、互いに分るということが拒否されているからなのだ。人それぞれとは、根っから違うこと、そう思うことに根ざしているからなのだ。だから、他人は絶対にその世界にはなじめない。

 大抵の場合。こういう風景は雑然としてめちゃくちゃな印象を与え、それを前にすると必らずと言ってよいほど、「環境との調和」ということが説かれるのであるが、私には、このことばをそのまま素直に受けいれる気には少しもなれない。なぜなら、調和があるとか、調和がないとかいうことは、単純にその見えがかり:表に現れた形の上だけでの話であるはずがなく、従って当然、よく言われる修景などという表面的な処理だけでことが済むようなことであるはずもなく、そもそもその因は、先に書いたように、その表面にあるのではなく、その成りたちの根底にひそんでいるのだからだ。

 

 おそらく、設計という作業において基本的になされなければならないことは、ある場面・局面における(人々あるいは私たちの)この共通の認識となるもの:共通の基盤を探すことなのだ。それは先ず、いかなる局面におかれているかを見ることであり、そこにおける十人を、根っから違う十人としてではなく、その局面におかれている十人だとして見ることからはじまるだろう(昔はこれがあたりまえだったから、意識せずしてそうしていた。いま私たちは、意識してやらねばならない)。従ってその十人に対して、根底から違う十品を用意するのではなく、その十人にとって共通の認識たり得る一品を探すことが、この作業の主たるなかみとなるのである。(そして、ふと考えてみれば、この共通の認識となるものこそ、私たちがつくるものの言わゆる機能というものなのではなかろうか。)それから先の個々の違いは、それは全く臨機応変的に言うならば応用問題を解くことにより生ずることでしかない。そこにおいて、好む所・思う所の違いがでてくる、これが正当なことなのだ。

  しかし、ここで誤解されては困るのだが、この共通の認識、共通の基盤というのは、あの戦前・戦中の八紘一宇的に、私たちの外から一方的一元的に与えられるものではない。決してそうではなく、また決してそうあってはならず、そして決してそうなるものではない。それは、あくまでも、私たちのもの、私たちの内から生まれるもの、前号の言いかたで言えば、私たちが私たちそれぞれの冬を語るうちから生まれるものなのだ。私たちが私たちの感性に自信をもって依拠することによって生まれるのだ。

 戦後、あの八紘一宇の崩解を目ざして、根っから違うという意味での人それぞれが強調されたのも、それは歴史のゆきがかり上、むしろ当然であっただろう。しかし、この対極へ走ったために生じた互いの共通基盤の無視は、それがためにまたいつ八紘一宇的共同意識の効用が説かれるきっかけとなるか、しれたものでない。反動がまた反動をよぶのだ。対極へ走ったものは、また容易に対極へ走るだろう。既にその徴候が各面で現れている。

 だからこそ、私たちは「私」たちであり「私たち」でなければならないと私は思うのである。それ以外に、どうしたら人がそれぞれであり得ようか。人間的であるということがあり得ようか。



あとがき ・・・・通信続行のことばに代えて

〇一年が過ぎ去るのは速い。私がこういうことをやってみようと心に決めたのが、ちょうど昨年の今日であった。その一週間ほどまえであったか、卒業する学生が私を訪ね言いおいていったことばが、その数日間というものずっと私の頭にこびりついていた。なにかしなければだめです、そう言われたって、いったい何ができるだろう。そしてその日、その学生が再び、筑波を離れるあいさつのため寄ってくれた。そうか、今後は何か疑問が生じても、こういう貝合に話しあうなどということができなくなるのだな、そう思ったとき、実はこの通信という方法が頭にわいてきたのである。そして、深くも考えずに、あとはご承知のとおり、無我夢中のぶっつけで一年が飛び去った。

〇それにしても、私の拙い文章、勝手な言い分を我慢してお読みいただいたことに対しては、お礼の言いようもない。

〇それに甘えてことしも、少しはましな文章、内容をと心がけつつ、続行しようと思う。昨年同様、ご批判いただければ幸いである。

 〇・・・・学生時代は、物にはその物がそうあらねばならない形(機能?)というものがあり、そしてそれにより美しい形:スタイリングを与えると考えていました。・・・・(しかし)人間が自分の趣味・好みを超えて美しいと思うものというものはなく、その物がよいとかいう意識は、すべて個々の人間の好みによっているのではないでしょうか。・・・・

〇だとしたら、デザインとはどういうことか。これは、いまある家電メーカーのデザイン部に勤めているインダストリアルデザインを専攻した卒業生からの便りの一節である。

〇今号のテーマは、この便りを読んでいるうちに思いついたのである。しかし問題は多岐(の局面)にわたり、一回で済みそうもなく、今回はそのうちのほんの一部についてしか考えてみることができなかった。それが「人それぞれ」ということなのである。けれどもそれは、根本的な問題なのではないかと私は思っている。

〇昨年度最終号「冬の情景」に対しては、かなりの人から〈それぞれの冬〉が寄せられた。冒頭の冬の情景の描写が、それぞれの方の内にあった冬の情景を呼び起こしたもののようである。あるいは、日常の忙しさに紛れて見失っていたことを思い起こさせたもののようである。それは全くこの冬の情景の便りを寄せてくれた人の描写:感性のしからしむるところであって、残念ながら私の文章のせいではない。私はただ、それを使わせてもらっただけだ。先号のテーマは、実は、この便りに触発されたのである。

 〇それぞれなりのご活躍を! そして、その共有されんことを!

    1982年3月25日                   下山 眞司 

「Ⅲ-2 大善寺 元興寺 明王院」

$
0
0

(「Ⅲ-2 三十三間堂」より続きます。)

 

大善寺(だいぜんじ)本堂 1286年(弘安9年)建立  所在 山梨県 甲州市 勝沼

 平面図

桁行・梁行断面図 建築史基礎資料集成七仏堂Ⅳより

 床組伏図(文化財建造物伝統技法集成 より)

 密教:真言宗の寺院。 鎌倉時代には、畿内だけではなく、全国各地域に密教系、禅宗系の寺院が建立されている。概して西国に多いが、大善寺は東国進出の一例。

 基本的には、二重屋根でつくる平安期に多いいわゆる和様の建築であるが、床まわりに足固貫を入れてある点に、大仏様の影響がうかがわれる。四周の軸部の横材は、足固貫、長押、頭貫で構成。 ただ、長押は床位置の切目長押(きりめなげし)は四周全部、内法位置の内法長押は開口部上のみで、古代の方式にならっている(56頁、新薬師寺本堂参照)。  なお、足固貫は、外周だけ四周に入れ、内部では梁行方向だけ入れ、桁行は根太が代行している(上図床組伏図参照)。

 鎌倉時代の仏堂には、内法長押を用いず、頭貫の下に飛貫を通す大仏様の方式にならう事例もあるが、数は少ない(次 元興寺参照)。

 

 

元興寺(がんごうじ) 極楽坊(ごくらくぼう) 本堂および禅室 1244年(寛元2年)再建   所在 奈良市 中院町

  

外観     日本建築史基礎資料集成 七 仏堂Ⅳ より      詳細 長押に代り飛貫を仕込む。日本の美術198 鎌倉建築 より

 飛鳥時代に蘇我氏により飛鳥に創立、平城京遷都に際し移設された寺院。 後に僧房を残し消滅。 鎌倉時代初期、本堂と禅室に分離され、さらに1244年(寛元2年)現状の姿に改修。 長押に代り飛貫を入れ、頭貫の端部は、大仏様風。

  

左:禅室 右:本堂 平面図  日本建築史図集より


 

明王院(みょうおういん)本堂 1321年(元応3年)建立  所在 広島県福山市草戸町

 真言宗の寺院。 頭貫の一段下に飛貫を入れ、長押はない。足固貫も採用。  大仏様の技法と、禅宗様の意匠が見られる。

 

 桁行断面図

梁行断面図

 

 平面図                     

 

 

 外観 頭貫の下に見える横材は飛貫

図・写真は、日本建築史基礎資料集成 七 仏堂Ⅳ より 

 

 鎌倉時代の寺院建築では、大仏様の技法は局部的に用いられるが、架構の造成をもって空間とするつくりかたは、まったくみられない。

 

 

 以上のいわゆる和様の寺院建築のほかに、鎌倉時代には、中国から移入されたとしか考えられない建築様式があります。禅宗とともに入ってきたいわゆる禅宗様の建築です。 

 禅宗様の建築は、その装飾的な形式に特徴があり、明らかにわが国の建築にはなかった形です。ただ、禅宗様の建築も基本的には貫工法ですが、工法・技法の面で他の建物に大きな影響を与えたわけではなく、禅宗寺院にのみ用いられたと言ってよいでしょう。

 なお、現存する禅宗様の建物で鎌倉時代につくられたものは少なく、禅宗様の代表とされる円覚寺舎利殿も15世紀初め:室町期の建設です。 

 禅宗様の建築は大仏様とはちがい、下の写真のように、中国にそのモデルが存在します。   

  

 浙江省 延福寺大殿 1324~1327   図像中国建築史より    円覚寺 舎利殿 15世紀前半      日本建築史図集より

 

 禅宗が武士階級に好まれた結果、禅宗様の寺院は鎌倉幕府の所在地である鎌倉だけではなく、京都にも建てられます。そのうち、京都五山(きょうとござん)と呼ばれた臨済宗の天竜寺、相国寺、建仁寺、万寿寺そして東福寺には、壮大な伽藍が建立されます。下はその一つ京都の南部、宇治の近くにある東福寺の三門と禅堂の外観および三門の断面図です。  

  三門正面

   禅堂          写真は日本建築史図集より

 断面図         文化財建造物伝統技法集成より

 

 三門の架構は大仏様に類似しているが、柱に割裂が生じていることが解体修理時に判明した。これは、浄土建寺 浄土堂、東大寺 南大門の架構に比べ、貫、挿肘木の間隔が近接しているためである(69頁~86頁を比較参照)。

 各層の小屋組を二重にしていることから見て、貫、挿肘木も、構造よりも意匠に重点が置かれ、それゆえ、割裂の危険性への配慮が欠けたものと考えられる。                                                                                                                                      

「Ⅲ-2 中世の典型ー2:鎌倉時代の寺院」 日本の木造建築工法の展開

$
0
0

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅲ章ー2」A4版7頁  (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

Ⅲ-2 中世の典型-2:鎌倉時代の寺院・・・大仏様は継承されなかった

 木造架構を貫で強化する工法:貫工法は、中国から伝来した大仏様に始まり、その後普及する、とりわけ、一般庶民の建物に使われるのは近世以降である、と考えられています。

 しかし先に触れたように、きわめて計算しつくされ完成度が高い浄土寺 浄土堂の設計・施工から考えて、中国から導入された工法・技術が僅かな時間で花開いたとは考えられず、また実際、中国の建築史図集等にも、大仏様を想起させる寺院建築は見あたりません(住居には見られます。65頁参照)。

 これらのことから、先に触れたように、貫を用いて架構を固めることは、古来工人たちにとっては手慣れた工法であったにもかかわらず、中国伝来の工法を重視する古代寺院に於いては使われることがなく、それが平安末期(鎌倉初期)になり、古代的な権威の凋落ともあいまって、東大寺の再建という大事業に採用されたために脚光を浴びるようになった、と考えた方が無理がありません。 

 

 一般に、いわゆる大仏様は貫工法のみが注目されますが、より重要な点は、その空間のつくりかたにあると考えられます。

 すなわち、中国伝来の工法・技法にならった古代の寺院建築は、屋内の空間は架構そのものによって形づくられていましたが、すでに見たように、その架構方式を日本の環境に馴化する過程で生まれた二重屋根(野屋根)の工法:桔木(はねぎ)の活用:の普及により、平安時代に入ると、架構と空間上部の意匠を分離して考える建物づくりが「常識」になってきます。  

 それに対し、東大寺再建事業で採られた建物づくりの方法:いわゆる大仏様は、この「常識」をくつがえし、単に貫を駆使しただけではなく、建物の原初的なつくりかた、すなわち、架構そのもので空間をつくるというつくりかたを復活してみせたのです。それは、日本の環境に適合し、なおかつ空間の構成のために、化粧だけが目的の付加的部材は一切必要としないつくりかたにほかなりません。 

 しかし、東大寺再建以後、つまり鎌倉時代、大仏様が全面的に寺院建築で継承されたわけではありません。鎌倉時代はそれ以前の時代に比べ多くの建造物遺構が現存していますが(1980年代で、重要文化財建造物が約333棟、そのうち寺院157、神社53、石塔等123、住居の遺構はない)、その大半は先に紹介した秋篠寺や浄瑠璃寺と同じく、桔木を用いた二重屋根で、空間上部を化粧屋根・天井で覆い、化粧斗栱を付し、古代寺院を想起させる形体の建物です。

 たしかに東大寺再建の仕事を通じて世に広く示された貫で架構を固める方法は、寺社建築でも長押に代り徐々に使われるようになりますが、大仏様の重要な特徴であった架構=空間とするつくりかた:空間を架構だけでつくりあげる方法:を継承した事例は、皆無と言ってよいでしょう。 

 大仏様が全面的に継承されなかった理由は、一つには、架構=空間のつくりかたは、その実現に熟考を要するのに対して、化粧でいかようにも繕える野屋根によるつくりかた(いわば書割かきわりのつくりかた)は容易だったからと考えられます。以下に、鎌倉時代の特徴を示す寺院建築事例を挙げます。                   

 

 

大報恩寺 本堂 1227年(安貞元年)建立  所在 京都市上京区    

 

 全景 日本建築図集より

 平面図・断面 日本建築史図集より

 

   

  隅 部 見上げ    文化財建造物伝統技法集成より    内 陣          日本の美術198 鎌倉建築より

 大報恩寺は、京都市街に現存する最古の建造物。通称千本釈迦堂。密教系の寺院。

 一間四面堂に前庇を付加し、その四面にまた庇を設ける、という形を採っている。 四周庇部は、念仏を唱えながら巡るための場所という。部分的に引戸が使われている(後補?)。ここでの桔木(はねぎ)は、軒を支えるためのもの。

 東大寺再建後間もない頃の建設ではあるが、大仏様工法の影響は見られない。 

 下の断面図の頭貫(図の赤色部分)の継手および根太(黄色部分)の継手は、原理的には目違い付き相欠き(下図継手詳細)。 これらは、当時、常用される方法であったと考えられる。 赤丸部は、主たる梁上の小屋束を挟んで取付いている二重梁。断面図の次に分解図。束柱を優先。見えがかりを気にしないで済む野屋根ゆえにできる方策。

   桁行断面図

梁行断面図

  

 全般に貫の使用は見られない。柱~柱をつないで大引が入っているが、足固の意識は感じられない。組入れ天井上の屋根がさらに二重になっている。その理由は不詳。

 

 

                        根太の継手は大引上か。 目違い付き相欠き栓打ち。

 

 

棟木の継手は、下側の棟木。肘木を束柱上に設けることで、継ぎ位置を柱直上:芯に置ける。これは、古来の方法。 梁は、束柱の箇所だけ、束を挟み、他の箇所では、片側だけに通る。束柱を介しての継手と考えることができる。

桁行断面図・梁行断面図・継手詳細は、文化財建造物伝統技法集成より

 

 

蓮華王院本堂(三十三間堂) 1266年(文永3年)再建(創建1164年) 所在 京都市東山区

 三十三間四面の堂 二重屋根・桔木を駆使した典型的な例。 柱に繋梁を挿して取付ける、大引きを足固め扱いにするなど、大仏様の技法が部分的に使われている。

  平面図 

 

   桁行断面図 

 

梁行断面図

梁行断面図 正門部

  庇部(外陣)

 

 南東からの外観                 図面・写真:日本建築史基礎資料集成五仏堂Ⅱより

 

(「Ⅲ-2 大善寺」に続きます。)

1982年度 「筑波通信 №2」

$
0
0

 PDF「筑波通信 №2」1982年5月 A4版10頁 

     「筑波通信 №2」 1982年5月

      善知鳥によせて・・・・土地・土地の名・・・・ 

 信州塩尻の近くに善知鳥峠という名の峠がある。松本平から伊那谷へぬける道すじ:三州街道にある中央高地に別れをつげる峠である。上代の東山道もここを通っていたのだという。問題は、これを何と読むかである。全く読めずに、私はしばし途惑った。

中央本線に並行しているのが三州街道。両者はこの地図右側(南方)辰野町で分れ、鉄道は諏訪へ、街道は伊那へ向う。

 

 「うとう」峠と呼ぶのだそうである。あちこち歩いていて、およそ土地の名ぐらい読むのに苦労するものはない。連取町と書いて何と読むか。「つなとり」町というのだそうだ。これは伊勢崎市内で見かけた名前である。たまたま入った喫茶店のマッチに書いてあったローマ字のおかけで判ったのである。この場合には、言われてみれば、ああそうか、そう読めないこともないなと思うけれども、善知鳥はどうやったって「うとう」とは読めない。「うとう」という音があって、それに漢字の音をあてだ、そういうあて字かとも思ったけれども、それは無理というもの。どうひっくりかえしたってそういう音はない。まして、ひらがなで「うとう」などと書いてみると峠道を越えるのが疎ましいというので「うとう」なのかな、などと全く勝手な想像が頭のなかをかけめぐるのだけれども、それにしたってそれが善知鳥となるには合点がゆかない。要するに分らない。

 ところが、もし私に能楽の素養でもあったなら、すらすらと読めたに違いない。というのも、手元の辞書によれば世阿弥の作に善知鳥(うとう)というのがあるのだという。そして善知鳥(うとう)という名の鳥がいるのだそうである。海鳥の一種で、中部以北の海岸にすむ鳥だそうである。その鳥の生態か何かにからむ物語があって、それが善知という意味の字を与える何かのきっかけにでもなっているのではあるまいか。

「大言海」昭和7年発行 合資会社冨山房

  

 そこまで判ってきたとしても、海鳥の名が、この海とはおよそ縁もゆかりもない中央高地の地名になるというのは、さっぱり分らない。そのとき、その辞書の「うとう」の書きだしに、アイヌ語で突起していることをいう、とあるのが目についた。「うとう」という鳥の口ばしのつけ根ちょうど鼻のあたりに、こぶのような突起がある。それが識別の示標になるらしい。(私は実物を全く知らない。百科事典の解説と図によっているのである。〉そうだとするとこれは、形状を形容するアイヌ語からきているのかもしれない。「うとう」峠は、地形の形状かな、アイヌが中央高地にまでいたという話もきいたことがあるし。そこで思いついて、百科事典の地図の地名索引で「うとう」と引いてみた。引いてみて一寸驚いた。善知鳥という字がつく地名が、この峠を含めて、少なくともこの地図による限りでも、三つあるのである。善知鳥崎、これは青森湾に面する海岸:ここにはこの鳥がいてもおかしくない。善知鳥そのものずばり、これは秋田の山の方:海より離れている、平野から山へかかりだす尾根のとっぱなにある場所のようにも見えるけれども詳しい地図ではないから分らない、そしてこの善知鳥峠。この他にもその索引には「うとう〇〇」という読みかたで別の漢字をあてる地名がまだかなりあった。

 別の本によれば、全国各地に「うとうざか(坂)」という所があり、謡坂と書いたりして、そこを越えるときにはうたをうたってはならないなどという言い伝えがあったりするという。これなどは、ことによると、謡の字を「うとう」にあてたことから逆にそうなったのかもしれない。また、もしやと思って、漢字の音どおりに「ぜんちちょう」と辞書を引いてみたところ、なんとちゃんとあるではないか。ぜんちちょう:うとうという鳥のこと、そうでている。    

 閑にあかせて、こういう「知識」を拾い集めていると、その量に応じて段々と何かが分ってきたかのような気分になってくるのだけれども、実は、別に何かが分ってきたわけでは少しもない。むしろ、考える材料が増えただけであって、「うとう」はさっぱり分らないままだ。強いて分る足しになることといえば、各地の山中、それも坂や峠のような所の名としてあるらしいということだけである。それだって、あくまでもらしいである。

 

  私がこの「うとう」峠に興味を持ったのは、先日塩尻近くの宿場町や民家を見て歩いたとき、そのとき持ち合わせた地図がすっかり役たたずで(というのも、やたらにバイパスやら新しい道がついてしまって、出だしからして勘が狂ってしまったのだ)筑波に帰ってから地図を見なおしていたときのことである。はじめ、全く読めなかった。というより、いろんな読みかたをしてみて、そのどれにも自信が持てなかった。そこで地名大系を引っぱりだしてみて、初めて「うとう」と読むのだと知りなかば驚嘆したのである。漢字だけでさえいささか驚いていたのに、その読みがその漢字にあてられていること、そして純粋にその「うとう」ということばのもつ響きにも心ひかれたのである。なかなか心地よい響きのことばでないか。いったいどういう意味なのか、そう思ったのが運のつき、いろんなものを次々に拾い読みする破目になったのである。

 そしてつまるところ、「うとう」という心地よい響きをもつことばは、その意味がよく分らないまま残ってしまい、相変らず気にはなっているわけなのだが、そうこうしているうちに、ふとおかしなことに気がついた。つまり、例えば「うすい」峠などといった場合、少なくともいま、そして少なくとも私は、それが何を意味しているのだろう、などとは少しも思わずにいるということに気がついたのだ。言ってみれば、そういう名のついた峠、それで済ましている。思いめぐらしてみると、明らかに、その意味を知りたく思う場合と、ただ単にそういうものとして済ましている場合とがあるのである。こういう二つの場合があるということ、これは明らかに私の側の問題である。私がその意味を気にするか、していないか、それによるのだといってよい。

 その名前がすっかり私の身についてしまっているような場合、それにも色々な場合があって、具体的に身についている場合、具体的には知らなくてもそういうものなのだということ:知識が身についてしまっている場合、そういうような場合には、あまりことばの意味など気にはしないようだ。「うすい峠」などは、私にとっては、この例である。子どものころから「うすい」峠という名の難所のあることは(知識として)身についてしまっていて、具体的にどんな様相なのか全く知らないままでも「うすい」峠は私のものになっていた。もちろんそうだからといって、分っていたわけではない。しかし、もし子どものころ、「うすい」峠って知ってるか、などと言われたり、関東から信州に向う中山道あるいは信越線の最初の難関は何、などと尋ねられたりしたら、それこそしたり顔で「知ってるよ」だとか「うすい峠!」などと競ってこたえたものだろう。単に、そういう難関につけられている名前として知っているわけで、極端に言えば、別の呼称でもよかったはずである。そして私の場合、その名前よりも、難関であるという(教えられた)知識が言わば印象に残っていて、どんな所なのか実際に知りたく(つまり実際に経験するという意味で知りたく)思っていたに違いない。中学生のころであったか、遠足で連れていかれて(もっとも汽車に乗ってなのだが)「これがあの碓氷峠か」と思ったことをいまでも覚えている。そして、実際に道で峠越えをしたのは、自動車に乗るようになってからであり、未だに歩いてはいない。こういった私の「うすい」峠とのつきあいのなかで、「なんでうすいなのか」「うすいってどういう意味なのか」とか、それほど深く思いをめぐらしたことはないように思う。

 ところが、同じ遠足で(これは小学校でのことだが)相模湖へ連れていかれたとき、昔の遠足はほんとに遠足で、最寄りの駅から目的地まで峠越えの道を歩かされた。多分甲州街道だったはずである。みんなあごをだしはじめると「もうすぐオオダルミだ、峠だ、そこからは下りだ」と元気づけられる。峠に石碑が建っていた。大垂水峠とあった。「おおだるみ」と読むと教えられたのか、自分でそう読めたのか、そこのところは覚えていない。そばの山の岩はだから水が少しばかりしたたりおちているのを見て、それで大垂水?もっと水がでているところあるんじゃないの?などと言いあったような覚えがあるから、そのときは子ども心にもそのことばの意味を考えたのだ。この場合は全く突然、何の予備知識もなくそのときはじめて「おおだるみ」に出くわしたのだ。このことばは、そのときまでの日常では全くききなれないことばであった。だからそのことばの意味に思いがいったのだと思う。もし日常のことばのなかにあったなら(例えばその近くに暮していたり)そしてあるいは予め知識として(そういう名の峠があるということを)知っていたならば、やはりその名の由縁に思いをはせるなどということはしなかっただろう。

 

 こうして考えてみると、私が日常慣れてしまっている名前に対しては先ずその名の由縁など気にしないと言ってよさそうだ。そこのところをもう少し詳しくみてみると、その場所を私なりに具体的に知っているような所に対しては、その名前を見たり聞いたりした瞬間、すぐにその場所の具体的な姿が頭のなかに浮かんでくる。言ってみればそれは交通信号の色みたいなもので、極端に言えば別の名前だったっていい。上野、新宿、渋谷‥それらはみな、私なりのその名をもつ町の具体的な姿をすぐ目の前に浮かび上らす。その名の由縁が気になったりするのは、他の場所で同じ名を見つけたりしたときだ。例えば同じ都内で別の新宿を見つけたり、伊賀上野などという名のあることを知ったりしたとき、あらためて新宿は新・宿だったか、などと気がついたりする。

 そしてまた、私のなかに(どういうわけでか)つめこまれ教えこまれた「知識」の体系を形成するための言わば一要素として土地の名が表われてくる場合にも、それはその「知識」体系を表示する記号のようなものでしかない場合が多い(学校の地理の時間に教えられたことなどは多分これだ)。利根川という名をきけば、「利根川」という川を具体的に知らなくても、関東平野をうるおす重要な河川という「知識」が浮かびあがる。それは、どちらかと言えばそういう河川についての抽象的なイメージを呼び起こすのだといってよい。それが「知識」なのだ。平野:関東平野とはこれこれ、利根川という川はこれこれ・・・・それについて具体的に知らなくても「知識」は集積できる。(少なくとも日本の場合、地理の教科での優等生とは、これらの「知識」をできるだけたくさん忘れずに覚えこんだ者をいう、というのは大分まえに書いた通りである。)そして、実際に、具体的にその土地を知らないのに、「知識」として教えられたことが、あたかもその土地の姿であるかのように思いこんでしまっている場合さえある。津和野などは、私にとって、まさにそれであった。二年ほど前に初めて尋ねてみて、聞くと見るでは大違い、私が「知識」として持っていたイメージは、もろくも潰え去った。ただ、どちらかと言えば、「知識」だけあって自分は具体的には知らない場合には、その「知識」の周辺に、その名前そのものが私のなかにつくりだすイメージがまつわりついている場合がある。萩、津和野・・・・こういった名前は、その「知識」に加えて、その名前の字そのものの持つイメージがとりついていたりするのである。字の意や読みの響きが一つのイメージを独自に生起させ、それがその土地のイメージへ(理由もなく)かぶさってしまうわけだ。萩などは明らかにそれで、その字そのものがある風情をどうしても思い起こさせてしまう。私が住む桜村の桜は、しかし、少なくとも私にとっては、そういう風情を抱かせない。それは、現実に私がそこに住んでいて頭に思い浮かべるなどという場面にいないせいもあるかもしれないけれども、やはり桜という字:ものの抱かせるものが(私にとっては)萩ほどではないからだろう。

 こういうような字や響きが一つの情景を何となく思わせてしまうというのではなく、その名前を構成する字が、一般的なもの(例えば野のような)ではなくてある特定のものを具体的に示すような場合にも(とりわけその名前しか知らず、具体的にその土地を知らない場合はもとより知識もない場合には)その名前の由来が気になりはじめる。先の塩尻などはその例で、塩尻、塩の尻ってなんだろう、と問いただしたくなってくる。もしそれがその土地に住んでいたりよく実際に知っていたりしたならば、先に書いたように、その名前で直ちにその具体的な町の姿を思い浮かべてしまい、名前の由来を問おうなどという気は、まずほとんどわいてこないだろう。ただ、そういうような場合でも、この塩尻などという字の名前のときには、例えば中野などという名前に対するときとは違って、ふとさめて考えてみたりしたような場面で、やはりその由縁を尋ねてみたい気が起きてくるのは確かである。塩と尻がそれぞれあまりにもある特定のものを指し示す字だからである。塩といえば海のもの、ここは海岸ではないのだから岩塩でもあるのだろうか、尻というのは終りか果ての意か・・などといろいろ思いたくなるのも人情というもの。だから一時、塩尻とは、太平洋でとれる塩:南塩と日本海産の塩:北塩の輸送路の終点:尻にあたる地点だからで、というもっともらしい説明がなされたりしている(もっともらしいと書いたのは、そうではないという説が最近言われているようだからである)。

 

 古今の地誌や地名考で、その名前の由来について語られたりしているのも、その多くは、こういった類のその名前そのものが何らかの特殊なイメージをわかせたり特定のものを指し示したりするような場合ではないだろうか。言わば平凡な、あるいは一般的な名前の場合は、そのまますんなり気にもかけずに済ましてしまう。もっとも、風土記のように、その地に住み慣れた人でなく、どこかよそからきた(中央から派遣されてきたような)人たちが編んだような場合には、名前が自分より先に、自分と係わりないかたちで存在していたせいだろうか、やたらに地名の由来が書かれている場合もある。

 それは、いま私たちが初めての、知らない土地の、初めて目や耳にする名前、とりわけ興をそそる名前にぶつかって、その意味を問いたくなる心境と似ているだろう。なにしろ初めての所なのだから、目の前に拡がる当の土地の他の手がかりといえば、その名前しかないのである。土地のことが分る手っとり速い方法としてその地につけられた名前の(ことばの)解釈にとりかかりたくなるというのも、これも人情というものだ。まして風土記の場合には、中央からの命令の、嘉き字二字をもって土地の名を整え報告することと関連していたはずであるから(ということは、それまでは漢字のあてがわれない土地の呼び名があったわけだ)名前に漢字を与えるために、なおさらその呼び名の由来(というよりそういう漢字をあてがう理屈)を考えざるを得なかったのである。

 「大言海」より


 ちょうど明治のころ北海道のアイヌ語の地名に漢字をあてたのと同様のことが行なわれたのである。もっともこの場合にはまずほとんどの場合、漢字の音や訓があてがわれたわけで、漢字の意味を考えだしたらわけがわからなくなる。(私の知っているので元のアイヌ名にも土地の状況にもあっているように思える漢字名はカムイコタン:神居古潭ぐらいである。)

 

 考えてみれば、このように、地名のほとんど全部を漢字の組み合わせで書き表すようになったというのがくせものなのだ。しかもそれが、もう千年以上の昔から、それぞれの土地にそれぞれの土地の呼び名があった。呼び名をつける側の立場について考えてみれば当然なのであるけれども、それらの呼び名がその土地につけられるには、それなりの理由:つまりその呼び名に意味があっただろう。そこへよそもの(つまり呼び名が何を意味するものであったか、なぜそういう呼び名で呼ぶようになったか知らない人たち)が来て、その呼び名に対して(苦労して)漢字の音や訓をあてがってしまった。ところが幸か不幸か、漢字は表意文字一字一字に独自に意味を持つ。漢字にした名前が、その字から出る意味を担ってしまうのである。それが元の呼び名の意味することと同じであるならばまだしも、まずそうなることの方が少ないと見てよいだろう。

 そして、一旦漢字に置きかえられたものは、それこそ随時同じように読める別の漢字にまた置きかえられるなどということが、極端に言えばひっきりなしに行われてきたのである。春日部という町が埼玉にあるが、ほんの少し前までは、粕壁と表記されていたはずである。信州の千曲川も筑摩の地を流れる川筑摩川がちくま河と書かれたり千熊河と言われたりしてきて、千曲川に落ちついたのは江戸期の初めごろらしいという。ちくまがわという呼び名だけは変らなかったわけだ。多分筑摩という地名が先行しただろうが、そういう変遷の過程に気がつかないと、千の曲りか、なるほどね、などと納得しかねない。これなどは、あて字にしては、川の様相にぴったりなのだ。そして、こういう具合に一且漢字で表記するようになると、元々の呼び名はさておいて、漢字の持つイメージが独り歩きをはじめてしまう。あたかも連想ゲームをやっているようなものだ。

 甲州の塩山という所を笛吹川という川が流れているが、そのあたりの地図を見ていたら、その小さな支流に琴川(ことがわ)というのがあった。琴川とはまた優雅な、と思っていたら、いえ鼓川(つづみがわ)もありますよ、と教えてくれた。要するに、笛・琴・鼓とそろえたというわけで、おそらくそう名づけてにやにやした人がきっといるに違いない。笛吹という漢字名が先行して、琴・鼓がそれにひきずられて生まれたのではないかと思う。(このあたりの学校や農協の名称では「笛川」と書かれている。もともとは「吹」の字がないのかもしれないが、不明。)

 私の住む桜村に、松見・竹園(これは私の現住所)・梅園という地名があるのだが、これも似たようなもので、原野が開拓されたときの拠点に松竹梅のめでたき字を配ったのにはじまるのだという。そう旧いはなしではなく、戦後の入植だったようだ。北から順に松竹梅で並んでいる。もうこうなると、単なる記号と同じで、要はその漢字の持つイメージだけが問題にされ、その土地に根ざした呼び名とは全く無縁になってくるのである。住居表示で改名された名前や、新しく開発された所の地名は、ほとんどこれである。

 

 冒頭に書いた「うとう」峠は、命名の過程が更にこみいっている。おそらく「うとう」という呼び名は相当旧くからあったのだろう。一方で「うとう」という鳥がいた。それにまつわる伝説がある。調べていないから詳しくは分らないが、その鳥の親子の情愛の深さについてのものらしく、それを基にした能楽が書かれているようだ。そういう解釈がおそらくあったのだろう。これには「善知識」という仏教語の意味がからんでいるかもしれない(これは全く私の勝手なあて推量である。善知ということばを調べていたら、善知鳥の一つ前の項目にでていたのでそう思ったにすぎない)。そこで、うとうという鳥は「善知」鳥だということになった。以後「うとう」は「善知鳥」、「善知鳥」と書いて「うとう」と読む、そのようになった。おそらく、細部はまちがっているかもしれないが、そういう漢字に置きかえた名づけの構造は、こういうものだったはずである。こうなったら、話を知らない限り、読めといったって読めるわけがないのである。いま一寸思いつかないけれども、こういった類の名前も沢山あるに違いない。

 

 要するに、ついそうしてみたくはなるのだけれども、漢字で書かれた地名の由来を、その漢字の意味にこだわって考えだしたりすると、多くの場命、それはとんでもない結果に陥ってしまうということだ。旧い呼び名を相続しているような名前の場合(それがそうであるかどうかの判別はなかなか難しいと思うが)その漢字をとっぱらって元の呼び名に戻してみてそのことばの意味を考えてみるというぐらいが、せいぜいできることなのだ。

 第一、確かにその呼び名:名前の意味を分ろうとすること、分ることに意味のある場合もあるかもしれないが、より大事なのは、この言わば無限に拡がる大地の上の特定の場所を、そこを区切りとってある呼び名で呼ぶようになった、人々のそういう営為のなかみに思いを至らしめてみることではなかろうか。なぜそこにある呼び名を人々共通のものとして(というのは、ある一人にだけ通用する呼び名では地名にならないから)つけなければならなかったか、そうさせたのは何であるかということだ。すなわち、物に名をつける、物に名がつけられる、物がある呼び名で呼ばれる、そのつけられた名前そのものに対してではなく、名を与える、名づけるということは(私たち:人々にとって)いったいどういうことだったのか、どういうことなのか、これに思いを至らしめる方がよっぽど大事だということだ。そうしなければ、物あるいは土地の、私たち(=人々)にとってのほんとの意味が分らなくなるはずだからである。私たちにとって土地や物は、あくまでも私たちにとっての土地や物なのであって、私たちと土地や物なのではないからである。

 

 いままでにも何度か私は、私たちのものについて考えるのならば、そのものの辞書的解説からはじめるべきではないと書いてきた。それもこういうことなのである。辞書にあるものの解説は、それは決してまちがっているわけではない。しかしそれは、辞書というものの性質上、そのものについての言わば抽象的な説明に終始し、そのもの(の名)の名づけ親としての私たちの存在、私たちにとってのそのものの(存在すること)の意味を、(それはもう当然のこととして)その背後に隠してしまっている。そして私には、この背後に目を注ぐこと、注いでみること、これが、その辞書的な解釈の範囲にとじこもって右往左往するよりも、先ずなされなければならないことだと思えるのだ。

 

 善知鳥峠にはじまって、慢然と思うところを書いてきたのだが、ふと私たち漢字:表意文字表記の国でなく、表音文字表記の国では、書かれたものの名前に対して、どういう感じかたをするのだろうかと、少しばかり気になってきた。たまたま故あって手元に置いてあった本をぱらぱらめくっていたところ、土地の名について述べている箇所が目にとびこんできた。少し長いけれど、そのまま一部を書き写してみる。

  ・・・・こうした町なり旧跡なりはその名によって、それ自身だけのもつ名:人名と同様に固有な名によって指示されるがために、更に個性的な何ものかをいかにたくさん持ったことであろう。言葉というものは、それの指し示す事物の明瞭にして尋常な一一たとえば仕事台、鳥、とはいかなるものかという例を児童に示すために教室の壁にかけておく絵、あの同一種類のすべてのものの標準として選ばれたもののように、明瞭にして尋常なあるささやかな映像をわれわれに思いうかばせる。ところが、名というものは、人なり町なりのーーというのは、町もその名で呼ばれるために、われわれにはいつも人物同様個性的な独自のもののように思われがちなものだから一一その町のある漠とした映像を思いうかばせる。この映像は、その名とその名の音の明朗とか沈鬱とかの響きによって色彩を導きだす。映像はこの色彩によって、ちょうど全紙が青または赤の一色で描かれているビラのように一一それも材料の都合や手を省かねばならぬためとか、装飾画家の気まぐれのために、空や海のみならず小舟も教会堂も通行人も、みんな青か赤の一色になっているあのビラのように、一様に塗りつぶされているものなのだ。「パルムの僧院」を読んでからまず行きたい町の一つになったパルムの名は、私には緻密な、滑らかな、すみれ色の、そしてやわらかな感じとして思いうかべられていたから、私の宿になるかもしれぬパルムのどんな家の話がでても、私には、清らかな、緻密な、すみれ色の、そしてやわらかな感じのする住居に住むのだろうと思う喜びがひきおこされた。そして、そうした住居は、イタリアのどの町の住居とも似もつかぬものなのだ。というのは、なんの抑揚もないパルムという名のあの重いシラブルと、スタンダール風な甘美さやパルムすみれの花びらの光沢から、パルムという名に私の含ませたすべての心象との助けをかりて、初めてその住居を想像したからである。・・・・    プルースト:失なわれた時を求めて、土地の名・名 より

 

 おそらく、未だ具体的に知らない土地のイメージが醸成されてくる構造は私たち日本人とさして変っているわけではなく、違う点は、その名前の音の響き:語感が前面にでてくることぐらいだろう。もしここに引いた例の場合、「パルムの僧院」が読まれていなかったとしたら、その名前のつづりと発音だけが頼りとなるわけである。考えてみれば、私たち日本人が表音文字圏の町の名に思うことは、ここに引いた例とそんなに違っていない。文学や人の話や、そういったことを通しての諸々の知識が、その町の名前にとりついて、イメージがどんどんふくらんで、それと町そのものとどちらがどちらだか分らなくなったりさえしてしまう。その辺のことについては、ある日本人の書いた次の文章が的をついている。      

  ・・・・一年前に、あるいは二年前に、芸術と思想との充ちた町パリは、私を歓喜の念でいっぱいにした。

 その時私のしたことは、私がこれらの美しいと思ったものに、私の知っている名前や言葉をやたらにつけたことである。ノートル・ダムは崇高だ、重厚だ。・・・・セーヌは静穏で、ほのかないぶし銀の照り返しのように輝いている。等々・・・・。そしてそれには必ず自分がそれが「好き」だという甘い感傷が伴っていた。しかしこれらの言葉は何か。それは全然別の内容をもって私の過去の生活経験を通して与えられ、あるいは教えられたものであった。言葉とその言葉に対する感激、もちろんそればかりではない。私は実物に接した以上、それから感動の幾分かはうけていたに相違ない。しかしそれは安易な言葉と感激によって、たちまちうすめられ、混乱させられてしまっていたのではなかったか。私は自分の貧しい過去の色ガラスを通して映るパリの姿をよろこんでいたのである。これは錯覚以外の何だろうか。しかしこの色ガラスそのものは、一つの感覚的経験の蓄積され形成されたものである以上、私が一つの生活圏を場所的にはなれた時、徐々に崩解しはじめていたはずである。それがある程度以上になったとき、私は、私の主観的な錯覚から次第に分離してくる、そこに在る、パリそのものの姿をみ、その複雑な裸形の姿の厳しさに茫然とするばかりである。それはまずその硬い物理的性質をもった石の町として、更に冷たい町として迫ってきた。・・・・      森 有正:砂漠に向って より

 

 私たちが、私たちそれぞれの色ガラスを通してものを見ているということは否定し得ないだろう。しかし、だからといって私たちにとっての問題は、どれだけの色ガラスがあるのかと数えあげることでもなく、ましてそれらのなかのどの色ガラスが好ましいかと論ずることでもない。言葉とその言葉に対する感激をとやかくあげつらえばよいということではないのである。

 

 あとがき

〇私が「うとう」を気にしているのを伝えきいて、その語源について触れている本を見つけて、わざわざコピーをとり寄せてくれた人がいた。それによれば、「善知鳥」と書き「うとう」と呼ぶ地名の場所が、同じ信州のなかに他に三・四ヶ所もあるのだそうである。それはいずれも、川の源泉のようなところで小川(水深三~五寸、偏二~五尺ほど)のまわりが湿地状になっている、そんな様相の所の地名だという。そういう所はどこも、かなり早い時期から稲作が行なわれていた形跡がある(つまり、稲作に拠って早くから人が住みついた所である)。そういうような初歩の技術でも稲作が可能のような(言いかえれば人が先ず住みつけた)土地は「ぬた」「のた」「やち」あるいは「うだ」など各地それぞれの呼びかたがあり、「うだ」は関西に多い言いかただという。そして、この人に言わせると、「うとう」はこの関西系の「うだ」のなまりではないか、というのである。そして、そういう地形は当然傾斜しているわけで、それゆえ後になって「うとう坂」というようになるのだと。

〇そして、わが「善知鳥峠」のあたりもまた、山間の地で早くから水田が開けていた所なのだそうである。

〇ことほどさように、語源考というのは尽きるところをしらない。唯一確かなことは、同じような呼ばれかたをする場所というのが、同じような様相を呈しているということだ。

〇しかし、その本には、「うとう」がなぜ「善知鳥」になるかについては触れられていなかった。(以上「信州地名新考」という本による。)

〇なお、この人の「うとう」考のなかで、「うだつがあがる」というのは、「うだ」が水田に仕上ること、それゆえ「うだつがあがらない」=水田に成し得なかったこと:一人前の生活が営めないこと、なのではないかという説が語られている。私がきいてきたのはそうではない。町家(つまり商家が多いわけだが)で、「うだつ」と称される隣家との境をなす壁が屋根を越えてたちあがるかどうか(権勢が一定程度を越えるとそうすることができた)からきているのだ、あるいは、「うだつ」と呼ばれる棟木を支える柱は、いつもおさえこまれていて思うようにはならないから、それに例えたのだ、とかいうものだった。もっともこの私がきかされてきた話では、なぜそれらを「うだつ」というのかについては明らかにされていなかったように思う。こんな新説をきくと、なんだかこの方がずっと生活に密着しているようにも思え、「うだつ」の意味もなんとなく分かったような気にもなり、ほんとらしくきこえてくるから面白い。これは言ってみれば、農民的発想の解釈である。

〇私の住んでいる公務員宿舎には小さな庭がついている。色々な花の盛りである。その名を知っているものもあれば、名を思いだせない花もある。そして、名も知らず従ってその名を忘れたわけでもない、しかし見たことのある花もあり、全く初めての花もある。そういう意味で色々だ。ふと、その昔の小学校の夏休みの宿題の一件を思い出した。ある女の子が植物採集をやってきた。一通りそれぞれの草花の名前が記してあるなかで、一つだけ「名もなき草」と書いたラベルが添えてあった。その時は皆笑いだしたのであったけれど、いま考えてみると、その子は(そして多分その子の母親も)大変に衝撃的なことをやってくれたのだと私には思えてくる。そのとき私たちは笑ってはいけなかったのだ。それは、「名がある」「名を知る」ということがどういうことか、子どもたちがそれを知る絶好の機会だったのである。しかし、私がいまだに尊敬してやまないそのときの担任の先生も、そのときそこまでは気が付かなかったようであった。その子はちょっと近より難くすてきな子であった。

〇それぞれなりのご活躍!そして、その共有されんことを!

    1982・4・23                     下山 眞司

 

投稿者追補

「カムイコタン 神居古潭 北海道旭川市西部、上川盆地を出た石狩川が夕張山地を横切る峡谷。函館本線の神居トンネル付近約10kmの間は、いわゆる神居古潭系の各種の岩石(ジャ紋岩、輝緑片岩等)が早瀬をつくり、鬼神の足跡といわれる深さ2~3mにも及ぶ甌穴(おうけつ)や夫婦岩などの奇岩怪石も多い。岩や川や産物にちなんだアイヌ伝説があり、神と悪魔の争いの地としてカムイ(神)コタン(住家、世界)とよび、神聖視している。下流は淵(ふち)をつくり、春の桜、秋の紅葉は美観で、地名の別儀〈美しい所〉の名にふさわしい。左岸の林中に竪穴(たてあな)住居あと(コロボックルの住家とも伝える)が50余り散在する。旭川や札幌の人々の行楽地で、怪石は庭石に利用される。なお同義の地名は小樽、日高支庁三石ものある。」  世界大百科事典 平凡社より 

「Ⅲ-3 東福寺 龍吟庵 方丈 」

$
0
0

(「Ⅲ-3-1」より続きます。) 

 

  

室中しっちゅう(方丈)内部 見えているのは上間(じょうかん)南室     室中(方丈)使われている状況   日本の美術より 

 仏堂が別にあるため、龍吟庵方丈には仏壇がない。 天井際を回る白壁(大壁)部分を蟻壁(ありかべ)と呼ぶ。これは、竿縁の割付のための工夫。天井を浮かせて見せる効果がある。   

 蟻壁と真壁との見切りの横材は蟻壁長押(ありかべなげし)と呼び、鴨居レベルの長押を内法長押(うちのりなげし)と言う。いずれも付長押(つけなげし)。室中には、蟻壁長押と内法長押の中間にも長押がまわり、この長押は、上間(じょうかん)、下間(げかん)の蟻壁長押へ連なる(後述)。

 

  

室中(方丈)南面を見る 襖は下間南室境             上間北室 上間南室から見る。右手は方丈(室中)  白黒写真3枚は日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより 

 

  竿縁天井の竿縁は、南側3室の南北部屋境間に架かる大梁から吊木で吊られ、竿縁の向きはそれによって決まっている(下図参照)。

梁行断面図 日本建築史基礎資料集成十六 書院Ⅰ より転載・編集

 

梁行断面図 着色部分:小屋裏 引き渡し勾配:4寸5分   右が庭側(南側)  赤丸箇所に貫が入る。貫の仕様は詳細図参照。桁行の足固は、根太が代行。小屋の貫は図の通り。 広縁の側柱通りでは、柱間を飛ばすため、柱・化粧垂木受けの桁・化粧垂木・桔木受けの大桁・桔木・野母屋・野垂木の構成。

参考 諸事例の屋根    引渡し勾配 法隆寺伝法堂:約4寸  新薬師寺本堂:約4寸5分  唐招提寺・当初:約5寸  秋篠寺:約5寸  浄瑠璃寺:約6寸5分  法隆寺大講堂:約5寸5分  浄土寺浄土堂:約6寸  東大寺南大門:約6寸  

 

 

龍吟庵方丈 各所の詳細、継手・仕口  各詳細図は文化財建造物伝統技法集成(発行 文化財建造物保存技術協会)より

1)大引兼足固貫の継手、柱との仕口

 

  

 

 

 上図は、断面図赤枠内の大引兼足固の詳細。黄色部は埋木(楔)。 室中部では丈5寸×幅3寸の大引・足固材を、北側の柱間が1間になる箇所からは丈3寸×幅1.5寸に削り、次の柱内で相欠き・埋木(楔)締めで継いでいる。胴付を設けたと同様の効果がある。これは、浄土寺 浄土堂で使われていた技法と同じである。註 胴付(どうづき)(附):枘の根元まわりの平面をいう。英語ではshoulder。

 

2)切目長押隅部仕口、切目長押(きりめなげし)と室内側床板の仕口、床板の矧(は)ぎ(例示箇所:上間南室・西南隅柱)

  

  

 

柱:大面取り、仕上り4寸8分角 。  室内床と縁との見切りに設けられる横材を、切目長押と呼ぶ。構造材ではない。 室内に畳を敷く場合は柱通りに敷居を置く。 床板の厚さは0.8寸 太枘(ダボ)の厚さ0.3寸 これらの細工は、不陸を避ける目的

 

3)小屋束~母屋の仕口、小屋貫の継手

     

              

 

上左図 小屋束と母屋の仕口:小屋束に枘をつくらず、束柱、母屋双方を刻み、母屋を束柱に落し込んでいる。この方法を、一般に輪薙(わなぎ)込み(む)と言う。 註 一の木を他木に食ますこと  日本建築辞彙による

上右図 小屋貫の継手:相欠き部の全長が3寸(片側1.5寸)であるため、図に示されていないが、束柱は3.5寸角程度で、小屋束内にて埋木(楔)締めと推定される。

                                    

4)蟻壁長押、内法長押の詳細、長押と吊束の仕口

 

   

 

 断面図の赤枠で囲んだ箇所の詳細図。 左側が室中、右は下間南室。室中側上段の付長押は蟻壁長押、中段は下間側の蟻壁長押と同一レベル、下段が内法長押。蟻壁長押は天井長押とも呼ばれる。内法長押と中段の付長押の裏側に、貫が入る。

 吊束は天井裏の梁から下がり、柱と同寸(4.8寸)面取り。束の下端を長押に当たる部分だけ面をとらず図のようにバチ型に刻み、長押側も図のようにバチ型に刻み長押を取付ける。鴨居は上反り加減に材を使い、柱両端に納める。

 現在は、先に吊束で鴨居を寄せ蟻で取付け、長押は鴨居に載せ釘留めにするのが普通の方法。なお、鴨居は溝を彫らず、樋端(ひばた)を隠し釘で取付ける付樋端(つけひばた)。 この図から、貫の断面寸法が分る。

 

5)内法長押の継手 

 

 

 長押は、柱、吊束位置で継ぎ、継手は鎌継ぎ(図は、吊束位置の場合)。鎌継ぎの使用は、材を密着させるためと考えられる。  幅1寸3分、丈3寸5分の中に、丈2寸4分の鎌継ぎを刻む精緻な仕事が室町初期には可能だった。

 

6)広縁の桁と広縁端部の片面虹梁づくりの側桁との仕口(図は、東端部の場合)

 

天井見上図 断面 平面共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより    

 

 側桁は、外壁面で角、広縁側では虹梁(こうりょう)を装う。 図は東端部を描いているが、西端部も同じ。前出の西面外観写真で、広縁上部の側桁の内側は虹梁型につくられている。これは、意匠のために無理をした仕事。 後出の慈照寺 東求堂参照。

各詳細図は文化財建造物伝統技法集成 発行 文化財建造物保存技術協会 昭和61年より

「第Ⅲ章-3 中世の典型ー3:方丈建築」 日本の木造建築工法の展開

$
0
0

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅲ章ー3-1」A4版6頁  (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

Ⅲ-3 中世の典型-3:方丈建築・・・柱間はすべて開口装置

  禅宗様の寺院には、他の寺院とは異なり、住職・住持の居所的建物:塔頭(たっちゅう)に、方丈(ほうじょう)建築と呼ばれる独特の形式の建物が設けられるようになります。これは古代の寝殿造の姿をのこし、後に客殿建築、書院造(しょいんづくり)へと連なり、さらには近世の武士階級の住居に大きな影響を与えるつくりの建物です。 

 註 塔頭:禅宗で大寺の高僧の没後、その弟子が師徳を慕って塔の頭(ほとり)に構えた房舎。 転じて、一山内にある小寺院。大寺に所属する別坊。  方丈:(一丈四方。畳四畳半の広さの部屋。)寺院の長老・住持の居所。(広辞苑による) 

 方丈建築には、中世初頭までの、特に上層階級の建物づくりで見られた技術的な展開が、すべて注ぎ込まれていると言っても過言ではありません。

 さらに特筆すべき点は、鴨居、敷居に溝(樋端ひばた)を設けて建具を滑らす画期的な技術の発案により、間仕切を、壁ではなく建具、特に引戸に置き換えていることです。その事例を古い順に見てみます。 

 

1.東福寺(とうふくじ) 龍吟庵(りょうぎんあん) 方丈 1428年頃建立  所在:京都市 東山区 本町15丁目

 現存最古の方丈建築。杮葺き(こけらぶき)。 応仁の乱(1467年~1477年)以前は、基準柱間は1間:7尺前後が普通で、その後は6尺5寸程度になると言われる。

 この建物は基準柱間が1間:6尺8寸で計画された、応仁の乱以前の工法の貴重な遺構である。

  

東福寺 地域 航空写真      google earth より   円で囲んだ箇所が龍吟庵 その西南が東福寺の境内          

 

方丈を南西から見る(竣工写真) 土塀の右手が玄関 玄関の屋根(唐破風)は、方丈の屋根とは独立し、軒下に入り込む。 重要文化財 竜吟庵方丈修理工事報告書より 

 

                  

玄関       日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより     修理前の南面全景   修理工事報告書より      

 玄関:独立の屋根が、軒下に入り込む。杮(こけら)葺き。寝殿造の中門廊(ちゅうもんろう)~主屋の接続法の継承と考えられる。なお、近世の客殿建築になると、玄関の位置が変り、屋根も主屋と一体に取込まれるようになる。

  方丈の南面 広縁 修理工事報告書 

 基準柱間が6尺8寸のため大らかな感じを受ける。柱径は広縁側柱(がわばしら)以外、仕上りで4寸8分角。広縁の側柱は、2間+4間+2間の構成。(平面図参照)

 室中(しっちゅう)の中央2間が戸口で、双折(ふたつおり)両開き桟唐戸(さんからど)。 室中の残りの両端1間、上間(じょうかん)・下間(げかん)の室中寄りの1間は、外側に1間幅の蔀戸(しとみど)、内側に明り障子2枚引違い。(平面図参照)

 

 原色 日本の美術10より

 方丈西側:破風の壁は、木連格子(きづれごうし)(桁行断面図参照)。

 桁の継手は肘木上柱芯位置。上間3間のうち中央部1間は、外側に両開き板戸、内側に明り障子4枚引分け。その他は、北面開口も含め舞良戸(まいらど)2枚+明り障子1枚の構成。(平面図参照)

  舞良戸(まいらど)2枚+明り障子1枚の開口装置は、雨戸が発案されるまでの標準的な仕様。

  日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより              

 平面図 基準柱間は6尺8寸。 空間は、下間(げかん)南~室中(しっちゅう)~上間(じょうかん)南の3室と、北側の3室の2列で構成。北側の3室は、私的な用途に使われたと考えられている。 室中北面の壁は、縦板張りの壁(写真参照)。

 

 桁行断面図 断面図で色を付けた部分は小屋裏 桔木と登り梁は、室中(方丈)を囲む諸室の小屋裏四周に設ける。破風(はふ)には木連格子(きづれごうし)が入っている(西側写真参照)。  

 実線赤丸箇所:貫、破線赤丸箇所:大引兼足固@1間。足固以外の貫は、付長押の内側。小屋貫は図の通り。 

 貫寸法は、内法位置:厚1.2寸×丈3.0寸、蟻壁位置:厚1.1寸×丈2..8寸(後の詳細図参照)。

  

 (「Ⅲ-3-1 室中  写真」へ続きます。) 


1982年度 「筑波通信№3 水田の風景」 

$
0
0

PDF「筑波通信 №3」1982年6月 A4版12頁 

     「筑波通信 №3」 1982年6月

       水田の風景・・・・ものの見えかた・・・・ 

〇水田風景、それは驚異的である

 筑波の近在では、ちょうど四月末から五月初めへかけての連休の前後が田植えの季節である。(茨城に隣りあう利根川の向う側の埼玉県では五月九日でもやっと田をおこしているだけだった。) いま、水の張られた田んぼが、少し大げさに言えば、はてしなく延々と続いている。その昔、私の小さかったころ、田植えどきには、これも大げさに言えば、田んぼという田んぼは人で埋まっていた。しかしいまは、田植え機という機械がそのおかしげな手を振りまわして、あっという間に植えてしまう。それはそれなりに見ていて面白い。(人の手によっていたとき、苗は実にみごとな直線をなして植えられていたものだが、機械によるようになってからというものは、ぎくしゃくした平行線が描かれるようになってきた。ぎくしゃくというのは、すなわち機械の走った軌跡なのである。こんなに不ぞろいの線でも構わないのなら、人手にたよっていたときの、糸を張ってまで一直線に植えようとした、あの努力はいったい何であったのかと思わずにいられない。)こういう田植えのやりかたのせいで、見まわしても、人はあちらに二人、こちらに三人といった具合にほんとにまばらにしか見あたらない。昔の活気あふれる田植えどきを見知っているものの目には、まるでうそのような、なにか気のぬけた、妙な言いかたかもしれないけれども「これで大丈夫なのかね」という不安感さえわいてくる、そんな光景である。中国の畑作地帯で見かけた、これも大げさに言えば、地面が見えなくなるほど人が群がりながら土地を耕していた姿、これで農業の機械化をしたときこの人たちはどこにゆきつくのかと考えた、そんな光景が対比的に私の頭をよぎっては消えた。とにかくそういうわけで、この人のいない水平面の連続は、なお一層広々と見える。

 いつもこの水の張られたときの水田を見て思うことなのだが(というのも、他の季節、たとえば刈入れどきにはそのように見えないからなのだが)およそ人間のやってきたことのなかでなにが一番驚異的といってこの水田開発ぐらいすごいことはないのではないかと思う。

 この水平面これは天然自然の海原や湖水ではない、全くの人工の水平面なのだ。それもただの水平面ではない。ただの水平面なら、大きな穴でも掘って水をためればすぐできる。しかし、水田のそれはそんななま易しいものではない。水平面の連続と先に書いたけれども、それは決して一つの水平面なのではなく、言わば無数に近い異なった水平面で構成されているのである。それぞれの水平面が一定の水深を保ちつつ、水上から水下へと微妙な段差で隣りあう。水は、幅広い水面を成しながら、わずかな落差のひな段形の滝を落ちつつ時間をかけて流れてゆく。その落差なのだが千分のー、つまり千メートル行って1メートル落ちるという程度の場合などざらにある。建物などの排水の場合のそれは、どんなにゆるくても百五十分の一程度なのだから、水田のそれがいかにゆるいものなのか分るだろう。しかも、水田をゆっくりと流れ下ってきた水の末端は、いまでこそ排水ポンプがあるからどうにでもなるけれども、そういう便利なもののない時代では、自然の流下で河川に戻らなければならないのだ。

 つまり、末端は河川より少しでも(しかも河川の増水で逆流しない程度に)高くなければならない。大規模住宅団地の土地造成で排水計画をたてたところどうやっても末端で排水ポンプで吸み上げることになってしまうのに、ふと隣りあう水田はと見てみれば、そこでは平然と自然流下にまかせてあり、あらためてその水田造成技術の卓越さに舌をまいたという話をきいたことがあるが、ことほどさようにこれはそんなに簡単なことではないのである。自然の流下にまかせたまま延々と続く水田風景は、だから、ただ単にのどかな水田風景として見て済ましてしまうにはまことにおそれ多い、人間が成した一大偉業なのである。驚異的なのである。

 もっとも、いま私が目にしているのは、もともと自然流下にたよって開かれたものを、農業の近代化により改善した、機械による給排水に切りかえた水田である。田んぼの水の源になる河川は深く掘り下げられ排水を容易にし(それによりずぶずぶの深田も適度になる)その代り給水はポンプで吸み上げることになる。そして、河川は掘り下げられたのだから全長の高低差はつじつまが合わなくなり、ところどころで排水ポンプの厄介にならざるを得なくなる。こういった近代化にたよれば、いままでは到底考え及びもしなかったようなところにも水田をつくることが可能になり、だから丘のてっぺんに田んぼがあっても別にそう珍らしくもないし、山林の一部が伐採されて田んぼが突如できていたりする。昔からの田んぼを知っているものの目には、こういう風景は異和感を伴って映ってくる。しかしその異和感は、単に私自身のなかにできあがってしまっていた田んぼというものについてのイメージと比べてのそれだけではなく、よくまあそこまで割りきって機械にたよれるものだ、機械が動かなくなったら(たとえば台風などで停電でもしたら)どうするのだろう、そういうような思いを抱かせるような、機械に対する絶大な信頼に対しての異和感でもある。

 

〇水田風景、その成りたちの背景

 このような機械力にたよる近代農法が水田の拡大・整備をそれなりにすすめたことは確かではあるけれども、しかし、その基になっていた、普通私たちが「田んぼ」ということばでイメージする広々とした水田地帯の風景自体もまた、その成立の時期はそんなに旧いものなのではないのである。たとえば、関東平野の中央部、利根川の南(埼玉県の北部にあたるが)その一帯に見ごとに拡がる一面の水田風景:夏の午後ともなればむんむんとした草いきれに充ちじとっと汗ばんでくる、そして収穫期ともなればその夏の姿がまるでうそのように軽快な一面の黄金色の大地になる、その背後の遠景に、それぞれの季節それぞれの風情をかもしだしながら村々の森がここそこにぽっかりと浮いている、こういった典型的とも言える農村風景:これは高々三百年、徳川の世になってから徐々に開かれその基ができあがってきたのである。水を引き、その自然流下にまかせた幡広くそして延々と続く水田の開発という一大農業土木工事が営々として行なわれてきたのである。しかも、かくも見ごとになったのは:全面的に埋めつくされるようになったのは、むしろ最近ということばの範囲に入る時期の話だと見てよく、明治期にはまだあちこちに手のつけられない湿地帯:池沼が残っていたようである。初期の機械化はそういった湿地の解消すなわち排水に向けられたのである。各地の排水機場のそばに行くと、いかにその地の農事が水とのたたかいであったかなどということを綿々と書き記した石碑がよく建てられているけれども、それはある施設が完成したことを単に記し残しておくという以上の思いがこめられているはずなのだ。(これは、明治以来数度にわたり編集しなおされてきた国土地理院の地図を、その年代順に見比べてみると極めてよく知ることができる。

(こういった見かたでは、日本図誌体系など種々の地理学の成果があるが、残念ながら、地理学の範囲外では問題にされないようだ。地理は地理学のためにのみあるのだろうか。)

 

 つまり、いま私たちが目にする水田風景が成りたつ少し前に、あちこちに池沼を残したままの状態、何度もしつこくその水田化をはかりつつも一進一退を余儀なくさせられていた時期が、しばらくの間続いたのである。それを、単に技術がなかったからだと見るのは簡単な話である。技術というのはそうやたらに天から降ってくるものではない。本来的に技術というものは、間題の解決のためにあみだされる。問題意識の高まりが新らしい技術を生みだす下地となる。だから、むしろこの時期は、それなりの問題はかかえていても、解決のための技術が思いつかない時期だったと見るのが素直なのだ。彼らには、排水をすればよいのだということは分っていても、水は高きから低きへ流れるといういかんともしがたい原理を大々的にくつがえすやりかたが見つけられなかっただけなのだ。だからこそ、排水ポンプという機械の導入とともに、問題意識の高まりをおさえていたせきが切れ、あっという間に低地水田化が進んだのである。

 いま私たちは、とかく、技術というものがあって、それをいかに利用するかという発想をとりがちなのだが、そのやりかたで全てを律してしまうのは、当然のことながらまちがいである。技術の意味をほんとに知ろうとするならば、そのときどきの問題とその意識がどう高まり、それがどう解決されてきたか、その過程を見なければならないだろう。技術の利用というのも、本来、それを利用する側にある解決すべき問題が確として存在していて初めて可能なのだ。(そうであるにも拘らず、現在では、多くの場合それが逆転している。)

 もしも、いまの私たちが更地(手のつけられていない土地)の関東平野を目の前にして、そこに水田を開こうとしたらどうするだろうか。おそらく、私たちはもう実に色々な水田つくりについての知識を持っているから、私たちはそれらの知識を総動員して、低湿地の解消:乾地化から手をつける、あるいは手はつけなくてもそのことを念頭において事をすすめるだろう。(というのは、更地としての関東平野には、もともと自然現象としての湿地・低地が各所に散在しているのである。) つまり、平野全体を総体的に見まわした上で、低・高のつじつまを考慮に入れ、低地から高地へと攻め上ってゆく発想法を採るだろう。なぜなら、最低部は東京湾の海面に他ならず、そこを基準面にして上へ上へと考えてゆくのが合理的というものだ。

 

 しかし、現実にこの平野で行なわれてきたことは、全くこれとは逆であった。高地から低地へと攻めてきたのである。しかも、高地から低地、そして更に次の低地へと、順次そのつどその局面での高低のつじつまだけを考えて攻めてきたから、低地がより低地になればなるほどつじつま合わせが苦しくなるのは明らかで、最終的には既存の自然現象として在った湿地帯に行きつき、そこで足踏みしてしまうか、あるいは、その自然の湿地帯を、更に輪をかけた形で拡げ、一層始末におえない湿地帯にしてしまったのである。江戸期末、明冶の初め、多分平野はこういう状態であったと思って、まずまちがいない。当時までの考えつくされた技術(それは、高地から低地へと攻め下るに際し順次獲得されてきたのだが)では、そこまでだったのである。しかし、そこで手をこまねいていたわけではないことは先にも書いたとおりであり、一進一退の状況つまり、それまでの比較的順調な水田面積の増加がしばらく足踏み状態となる状況が、初期的な機械の導入がはかられるまでのしばらくの間続くのである。

 

〇なにが合理的か

 先に述べたいまの私たちならするであろうやりかたと比べたら、この現実にやられてきたことは、極めて非合理的である。しかし、それをして合理的でないと見なすのは容易なことだ。だが、そう思うことは、むしろ根本的に誤まりだろう。それは結果論にすぎない。結果を見てどうこう言うことぐらい楽なことはない。

 現実にこの平野の開拓に係わってきた人々は合理的ではなかったのだろうか。「合理的」なることを、いまの私たちならするであろうことで全てであると見るならば、確かに彼らはそうではない。しかし、私たちにとって「合理」であると見なされているやりくちというものは、あくまでもいまの私たちにとってしか意味がないということは忘れるべきではないだろう。彼らもまた、彼らにとって合理的なやりくちをしてきたという意味でも合理的であったのだし、ことによると、ことの本質的な意味では、いまの私たちよりもずっと合理的であったのかかもしれないのだ。彼らは、いま私たちが機械にたよって水の流れのあの単純な原理:高きから低きに流れる:にさからってまでして(しかも自然の良田を一方で休耕田と称して荒地に変えながら)開田をしている様を見たら、なんという無茶な、非合理な、と言うにちがいない。


・・・・研究者は近代合理主義と経済合理主義を強く押し出して、解釈しがちになる。しかし河川開発は、時に思わぬ猛威をふるう自然現象に対する人間の挑戦である。とくに江戸時代初期の自然河川に相対したとき、いわゆる近代科学を足場とする近代合理主義で理解できない部分が非常に多い。・・・・(小出博「利根川と淀川」より)

 

 では、関東平野の開田で、何故低地から高地へと上るのではなく、実際には高地から低地へと下りてくるやりかたがとられたのか。おそらくその理由は簡単な話なのだ。人は、そのとき抱いている所期の目的を達成するために、そのときの状況において最もよき結果を生むだろうと予測され、しかもそのときの状況で最も彼らにとって容易なやりかたをとろうとするものだからである。

 この原理は、いまの私たちだって変りあるまい。稲を栽培することに拠って生きることを見つけた人たちがいたとする(実際、縄文時代の後期にそういう人たちがいたわけだ)。彼らは初めに稲作に適する土地とはかくかくしかじかなりという研究をしつくし、それによりしかるべく土地を造成し、しかる後いよいよ稲の栽培にうつる、などということをやるだろうか。いまの私たちなら、おそらくそうするかもしれないが、彼らはそんな気長なことはしなかった。もっと手っとり早く、既存の自然現象としての地形のなかで適当な所を探しだした。深すぎもせず浅すぎもせず、洪水ですぐ洗われることもない、ほんのたまり水程度の湿地帯、つまり先号のあとがきで記した「ぬた」「のた」「やち」「うだ」などと呼ばれるようなちょっとしたわき水や小川のそば、そういうほんのちょっとした山あいのねこの額ほどの谷状の所をそのまま(手も加えずに)利用することから始まったのである。そういう所を探しまわっては、住める所に人は定住しだしたのだ。何故なら、彼らにとっての所期の目的は、そういう土地で十分に達せられるからである。そしてそこから、実にそういう場所から、人々の開田という壮大なドラマは始まったのである。人々が定着し、人口も増え、従って拠るべき水田も増やさなければならなくなる。所期の目的のなかみが変ってくる。人々はそこで初めて、彼らがかつて自然地形のなかに探し求めたと同じような状況の土地を「造りだす」ことを覚え(そのための技術を覚え)かつての自然田に続く下流へと、徐々に平野へ向けて下りだすのである。自然利水の段階から、次々に利水の技術が、人々の目的の変化に応じて生みだされる段階へと変っていったわけである。(これは何も関東平野についてだけ言えるのではなく、およそどこの平野・盆地においても同様の経過を見ることができる。)

 つまり、人々が最初に定着したのは、平野をとりかこむ山々のへりの部分からだったということだ。それが、人々にとって極めて合理的な営為だったのである。だから、古代から中世にかけての関東平野では、いまでこそ全体万遍なく手がつけられ人々は最低地部に集中しているけれども、いまの県名で言うと埼玉西部、群馬、栃木にかけてが中心になり栄えたのである。これらいま書いてきたようなことは、(遺跡)地図上に、初期の稲作依存に拠った人々の住居・村跡、水田の条里制遺構、古墳、国府の所在地、東山道の道すじ(道とは先ずもって人が住む所をつなぐ。まして支配を企てたものがつくる道:官道は、そのとき最も栄えている所を通ることに意味がある)、有力荘園の所在、古代豪族の拠点とした地、あるいは中・近世の村の位置、等々の分布性向を、時代をおって確かめることによって、自ずと明らかになることだろう。

 (関東北辺の古代文化などは、普通、学校の歴史ではあまり教わらないだろう。飛鳥・大和がクローズアップされる。ところでこの飛鳥の地もまた、この関東の辺地の古代の中心と同じような、言わば山あいのねこの額のような所なのである。大和平野のまんなかではない。)

 

 

 遺構・遺跡、それは人間がなにかを考え、なにかをやった、その名残りだからである。けれども私は、そういったことについては門外漢である。そこで、こうした平野開発の常道について述べた専門家の解説を掲げておく。この人の著書は大変勉強になった。

 

・・・・(鎌倉時代、埼玉平野の)古利根川筋、中川筋の湖沼・沼沢地帯に大規模な開発工事を行なうことは、たとえ鎌倉幕府の強い権力を背景とし、関東武士団が・・・・多くの農民層の労役を駆使したとしても、技術的に不可能であったと思われる。技術的にという意味は、当時この低地を乱流する利根川、渡良瀬川、荒川を治めることがむずかしいため、開発ができなかったということではない。この考えはいかにももっともらしく、良識的である。しかしわが国水田の開発経過をみると、治水が利水に先行して行なわれた場合はほとんどなく、治水を前提としなければ水田開発ができない場所はごく限られ、河畔の局部にわずかに分布するにすぎない。農民による水田開発がある程度すすんだ段階で、はじめて治水が取り上げられ、生産の場の安定と整備の役割を巣すというのが普通であって、これが沖積地低地開発の常道であった。この意味で、利水は常に治水に先行する。従ってこの場合、問題は利水(水田化)のむずかしさにあったといわなくてはならない。湖沼・沼沢の開発は、技術的に非常にむずかしい多くの間題をもっている。まず湖沼・沼沢の排水をどうするか、排水に必然的に伴う用水の確保は可能か、ということは開発に当って直面する重要な課題である。その解決は、当時まだ経験的に知られていなかっただろうし、ことに水田農業ですすんだ技術をもつ西南日本で(も、そういう場面はほとんどないから)、ほとんど経験のないことである。従って広大な湖沼・沼沢に(対し、その水田化へ向けて)深い関心をもったとしてもただちに大開発をすすめることはできなかったにちがいない。湖沼・沼沢を取り囲む自然堤防に居を構え、地先を部分的に排水して低湿田とし、可能な場合にかき上げの囲堤を設け、不安定な水田を開くことがせいいっぱいで、まず農民の発想でこれが行なわれたのではないだろうか。・・  太字著者 (小出博「利根川と淀川」より)

 

〇風景の見えかた

 都会の雑踏をのがれ、あるいは日々の生活をはなれ、言わゆる田舎に出向いたとき(いま都会型の生活をしている私たちを想定しているわけだが)私たちの目の前に拡がる山々や川や湖沼や森や林、そして田園風景。考えてみると、最近私たちは、そういった風景を単に映像としての風景:景観としてしか見ないようになっているのではないか。いまここで書いてきたような見かた、つまりそののどかな風景、すばらしい風景の背景とその奥行の深さについて思いをめぐらすような見かたを、私たちの大部分はしなくなってしまったのだ。

 人と大地の係わりだとか風土と人間の関係などについては確かにあちこちで語られてはいるけれどもその多くは観念的でリアリティを欠いている。水田と言った瞬間から既に稲を植えるために仕立てた土地のことというが如き辞書的説明が頭に描かれ、それは実は人間がつくったのだという事実についての思いはついぞ頭にひらめかない。そこで見えていることは、まさに映像としての風景にすぎず、それと人間一般とをただつきあわせたところで、人と大地、風土と人間の係わりが分る道理もないのにも拘らず、相変らずそういう見かたが横行している。

 稲を植えるために「仕立てた」のは、その稲で、稲に拠ってその土地で生きなければならなかった(一般的な意味のではなく特定の)人々であったという理解が見失なわれてしまったのである。私にとってもこのことが身にしみて分ってきたのは、というより分るいとぐちが見えてきたのは筑波に移り住んで実際にそういう風景の一画に身をおくようになってからのことだった。おそすぎたなあと何度思ったかしれない。いままで何度も私は、いまの小・中・高の学校教育で教えられている地理や歴史の教えかたに対して文句を連ねてきたけれども、その文句のなかには、そこにおいて単に「知識」を並べたてるのではなくそれらの「見かた」について触れられていさえすれば、もつと早く気づいたのに、という私の愚痴が半分以上含まれている。

 

 もしも私たち全般に、一つの風景を単に映像としての風景としてのみ見て終らすのではなく(まして、それを一つの思いいれの見かただけで見て済ますのではなく)その背景にまで思いを至らしめて見ようとする習慣があたりまえになっていたならば、たとえば畑や山林一つをとってみても、単にそれを〇〇が栽培されている畑、〇〇の植わっている林、として扱い済ますのではなく、これはあの村の、そしてこれはこの村の人たちが営んでいる畑でありまた山林である、あるいは、それがいまのような形になるまでにはかくかくしかじかの過程があったにちがいない、といったまさに人と風土との係わりが目に見えてくるはずなのだ。そして、そうであれば、仮にそこを貫いて新しい道を一本通さなければならない場面にぶつかったときでも、いい加減なことはできないという正当な「ためらい」が心にわき上ってくるはずなのである。

  町村合併の促進がまた言われだしている。しかし、村の拡がり、村塊、あるいは村という単位:まとまりは、決していま言う行政区画:行政単位としてあったのではなく、むしろ、もともとは村が先にあった。村をなして入々はこの太地の上に住んでいた。その単位を行政の巣位として利用したのである。いったいだれが行政のために(支配されて)生きることを、はじめから望むだろう。村と村の間の合議というのはしばしばあったろうが、自らすすんで合併しようとすることは、おそらくなかったろう。合併の発想は、支配し易さ、つまり行政の発想なのである。行政にとって掌握し易くなる合併は、逆に人々にとっては村を掌握し難くする。

 

 この連休、憲法記念日、それほどよい天気ではなかったが、久しぶりに自転車で散歩に出た。かねてから土浦市の自然保護団体がその保存を叫んでいる宍塚(ししづか)大池を見に行ってみようと思いたったのである。いま私が住んでいるあたり一帯は、全般的に霞ヶ浦に続く低地なのであるけれども、そのなかにもあちこちに小高い丘陵が谷地(やち)を刻みこみながら点在している。そういう丘陵地のなかに、谷地に水のたまった池が数多くある。宍塚大池というのはその一つなのだ。

 その池は私の住んでいる所から東に四・五km行ったあたり、わが桜村と土浦市との境にある。舗装された道で近道をするのも面白くないからわざわざ集落の点在する丘陵地をぬって自転車を走らせた。微妙にひだが入りくんでいるから、道は激しく上ったり下ったりする。それとともに林があり、田んぼがあり、池がある、また林があり畑が拡がる、といった風景が次々に展開する。そんな山林のなか、草でおおわれて辛うじて道らしいとしか思えない言わばあぜ道風な道が交又していて、はてどちらに行こうか、まあいい、いずれにしろ大したまちがいはないだろう、などと思って自転車を草を分けてこぎだそうとする。と、その草のかげに、なんと道しるべ、石の道しるべが立っている。宍塚へ〇丁、古来〇丁、古瀬へ〇丁、上の室へ〇丁。因みに古来は「ふるく」、吉瀬は「きせ」、上の室は「うえのむろ」と読む(古来、吉瀬は土浦から学園都市へ通ずるバスの停留所名にあるのだが、初めてそのバスに乗って「ふるく」「きせ」と告げられても、どういう字か分らなかった覚えがある)。これはどれも集落の名前である。明治の町村合併以前は村の名前であった。

 いま私が目の前にしている道が草ぼうぼうで右も左も分らないからこんな道しるべが建てられたわけではない。そうではなく、いま私の目の前にある道は、ほんのついさっきまで、これらの集落をつないでいた主要な道だったのだ。ここを村の人たちは歩いたのだ。その人たちのための道案内。私にはあらためて、この丘陵地のこの地方でもつ意味、集落の立地、道の意味‥‥こういったことが実感をもって見えてきた。自動車の都合で低地のまん中を走るようになってしまった現代の道の上を走るバスの中からこの丘陵をながめていて、いったいどれだけの人が、あの丘の上をつないでかつて主要道が走っていたなどと思うだろうか。大抵の場合、いまも昔も変りなく、道はここを走っていたと思うだろうし、またそう思ってあたりまえなのだ。

 道しるべに従ってかなり無理して(というのも道はもう道の態をなしてないから)走らせると、右手下にほんとに静まりかえった水面が見えてきた。かなり大きい。まちがいなく目ざす池はこれだ。まわりをかなり濃く繁った森にとり囲まれ、木々の枝が水面にかぶさっている。季節には渡り鳥が安心して群れているというのももっともだ。つり人が数人糸をたれている。岸辺のあちらこちらによしが群生して枯れた幹をつきだしている。私は東京の井の頭(いのかしら)公園、しかも子どものころのそれを思いだした。井の頭の池もこんな感じだった。その池から小さな川:神田(かんだ)川が台地の間の低地を蛇行しながらゆっくりと流れ、低地一面が(いまは川もコンクリートのかたまりとなってまっすぐになり見るかげもないが)水田であった。この池も同じ、谷地がより低地へと続き、その頭の部分にあるのがこの池だ。わき水でもあるのだろう。これはそのまま「公園」になる。

 しかし、そう思った次の瞬間、そう思った私自身のなかに、ある種の異和感とでも言うべき思いがわいてきた。「公園」?「公園」って何だ。私に「そのまま公園になる」と思わせたわせたのは、いったい何か。いったいこの近在にながく住んでいた人たちも「これは公園になる」と思うだろうか。彼らはそうは思うまい。「しょうもない」沼地、むしろそんな風に見るのではないか、見てきたのではないか。私が「これは公園になる」と思ったのは、こういう景観:映像としての風景は「公園」のものだという見かたが、既にてんからあたりまえのものとして私のなかに在ったからなのではないか。一つの映像は、一つの見えかたでしか見えない、そう勝手に私は思いこんでいたのだ。これはまちがいだ。

 

 一つの映像としての風景が、見る人の見かたにより別の見えかたになる、こんなあたりまえなことはないではないか。この池を「しょうもない」沼地と見る(だろう)近在のいまの農民の見かたも、それはいまの見かたなのであって、古代の農民なら逆に、この沼地をもってこいの田だと(まわりが田になる所だと)見たかもしれないのである。それを、一つの見かたで一律に処理することがどんなに危険なことか。私たち、都会に育った私たちは、これまでどんなにまちがった見えかたを押しつけてきたことか。

 この池を見ていて私の頭のなかに去来したこと、思い至ったこと、それは久しぶりに私にとって衝撃的なできごとであった。

 帰りはバス道路を行こうと思い、往路と逆に谷地沿いに走りだした。谷地沿いに、これはもういまの通常の水田では目にすることも少なくった昔ながらの不整形の田が、見るからにほそぼそと(そう見るのも通常の田を見慣れているからだが)耕されていた。傍に苗代があり、田植えはこれからである。ふと見ると、苗代の端に向いあわせに二本の太めの竹がつきさしてあり、その先から何か黒い物がぶら下っている。遠くから見ると鳥のような形にも見える。何だろうか。近くに寄ってみた。鳥であった。カラスの死骸である。合点がいった。これは鳥よけなのである。これも衝撃的であった。といって、なんと残酷なことを、などという意味ではない。大げさに言えば、ここには近代以前がある。まわりの水田の形といいこのカラスといい、これは近代以前の姿ではないか。ゴンベが種まきゃカラスがほじくる、いまでこそそれは歌のなかでおかしげにうたわれるだけだけれども、考えてみれば、近代以前、田畑はずっと森に近く在り、従ってカラスも沢山いて、こんな状景も単なる戯歌のなかの話ではなく、日常的なことだったのだろう。自分の身うちの死体があればカラスも寄ってこないのではないか、そう考えたのかどうかは知らないが、言わばまじないに近い鳥よけが、近代農法とともに在る。この鳥よけは、おそらく先代から営々として引きついできたやりかたなのにちがいない。あるいはそうではなく、期せずして先代と同じような状況におかれて、その状況に対する解法としていまあらためて思いだしたやりかたなのかもしれない。いずれにしろ、近代が近代以前と同居しているのである。近代は突如として近代という形をなして私たちの目の前に現われたのではない。近代はそれ以前を、そしてまたそれはそれ以前の、常にその前代の人間の営為をひきずっている、そしてそれはことによると同じいまに共存することだってあり得るのだ、そのことをこのカラスは、まさに身をもって見せてくれているではないか。それが私にとって衝撃的だったのである。

 

 実は、この大池めぐりの自転車散歩においての私にとって衝撃的な体験、それが今回の一文を書く動機になったのである。

 

〇知ること、分ること、「ためらう」こと

 ほんの数ページ前で私は、現代の道の上をバスで走っていて、どれだけの人が昔はあの丘の上を道が走っていたと思うだろうか、大抵は、いま走っているこの場所を昔もいまも変らずに道は通っていたと思うだろうし、それであたりまえだ、と書いた。そうなのだ。それであたりまえなのだ。いまの日常の生活は、いまの現実との対応であけくれるのだから、それであたりまえなのであり、それは都会から新にここへ移り住んできた人にとっても、代々ここに住んできた人にとっても、現象としては同じだろう。第一昔はどうだったかなどとも思いはしまい。しかし、同じだというのは、あくまでも現象としてなのだ。都会からきた人たちは単純に知らないからそう思うのであり、代々住んできた人たちは知ってはいたけれども現実の生活のなかで忘れてしまったからなのだ。地つきの人たちは、言わば意識下にそういったことをしまいこんでしまっているのである。だから、やろうと思えばカラスの死体をぶら下げるやりかたを、この近代農法の世のなかで、持ちだすことがいつでもできるのだ。思いだす、つまり、しまいこんでいたものをほこりをはらって持ちだすことができるのだ。それを非合理だとか残酷だとか言って笑うのは、意識下になにもしまっていない人、近代・現代が突如として近代・現代という形をなして目の前に現われたと思いこんでいる人だ。

 考えてみれば、それぞれの土地で人々は、そのときのいまを、そのときの昔を意識下にしまいながら、生き、そしてそのいまを、そのいまでの生活を基におき、変えてきたのである。いや、それが人々の「生活」というものなのだ。そのときのいまに生きているそのさなかにある人々にとって、そのときの昔はさしづめ空気のようなものでしかない。だからそれらは日常的には眼中にないし、またよほどのことでもない限り頭に浮かんでこないだろう。それが先に言ったあたりまえだということだ。

 

 そしてまたおそらく、近代以前にあっては、その土地に新らしく移り住んできた人たちが先ずやったことといえば、その土地の空気のようなものを知ろうとすることだったろう。なぜなら、そうすることがいまその土地で生きることだということを、そこへ移り住む前の生活で身をもって知っていたはずだからである。そして多分、そこでなにごとかを行なうにあたっては、必らず、これでいいのだろうかという「ためらい」を抱いただろう。それはしかし単なる新入りの遠慮のそれではなく、正当な「ためらい」だったはずである。

(「昔」のことを知るのは歴史家だけに必要なのだろうか。歴史は歴史家のために、郷土史は郷土史家のためにのみ存在するのだろうか。彼らはそれでしあわせかもしれないが、私たちにとっては、環境破壊以上に恐ろしいことなのだ。)

 いま私たちは、ともすると、そのわずかな期間現代に暮した経験だけを基に(多くの場合、しかも都会で経験することこそが絶対だと思い)、一つの映像としての風景に一つの見えかただけをあてがい、一律に処理して済ましてしまっている。そしてまた、ともすると、いま現在の私たちがとる見かた、そしてその見かたを醸成した私たち自らの(現代における)経験に対して、私たちの意識下ある昔、空気のような昔、が大きな比重を占めていることに気づかず、なにごともみな自らがあみだしたかのように思ってしまっている。とりわけ、近代合理主義的な思考方法に徹すれば、むしろ卒先してこんな「空気のようなもの」は切り捨てようとするだろう。というより、そんなものの存在を認めてないのである。吸ってきた「空気」の存在を知らず認めず、現代が現代という形をして突然現れたと思っている、いかんともしがたくしあわせな人。考えてみると、いまや、多くの建築や地域の計画の専門家という人たちはこういうタイプの人たちだ。こういう人たちは、いまに生きているそのさなかにある人(彼らは「空気」を吸っている、しかしいまに夢中でそれに気づかないだけ)にはなり得ないし、まして、その人たちを知ることさえ、分ることさえ、できないのである。できるわけがないのである。彼らはそれでしあわせかもしれないが、私たちにとっては、環境破壊以上に恐ろしいことなのだ。

  いまに生きるそのさなかにいる人がその吸っている「空気」に気づかない、それは先にも書いたように、あたりまえだ。しかし、専門家は、専門家こそ、専門家である以上、このいまに夢中の人たちが気づかない「空気のようなもの」を積極的に、意識的に見ようとすべきなのではなかろうか。そして、そうであれば、専門家はなにごとかを成すにあたって、しばし、正当に「ためらう」はずなのだ。一つの風景を映像としてのみ扱い済ますはずもなく、一つの見えかただけで律しようと思うはずもないのである。

 

 あとがき

〇「風土:大地と人間の歴史」(平凡社選書30)の著者玉城哲氏の随筆「水紀行」のなかの一文を、ある人からわざわざコピーして送っていただいた。著者が奥入瀬(おいらせ)川のそばをバスで通ったとき、その川の管理上の名(建設省の呼ぶ名前)が相坂川であることを見つけ、いったい地元ではどちらの名で呼ぶのかと思って、乗りあわせていたおばあさんに尋ねたところ、そのおばあさん、知らない、よその人はオイラ・・とか言うらしいけど、と言う。いささか驚いて、川の名前知らないの?と重ねてきくと、知らない、そこに松の木があれば「松の木川」さ、というこたえがかえってきて二度びっくりした、そういう話である。要するに、一つの川には一つだけ名がある、そうでなければならない、いくつもあれば不都合だからーつに統一する、などと思っているのは、思いあがりもはなはだしいのではないか、そうやって当然と済ましているものの見かたは、実は根本的に誤まりなのではないか、というのである。私たちの足元をゆすぶる、非常にいい話である。おばあさん万歳!

〇しかし、あいかわらず、一つの風景を、―つの統一された、しかも期待される見えかたで見ることを教えたがる人がいる。内申書裁判判決。

〇ときどき私は、私が大学を出るまでに教えられてきたことを、ことごとくひっくり返してみようとしているのではないか、そんな気がしてならない。私は別に、そんなにへそまがりだとは思えない。ただ、教えられたことによると、つじつまのあわないことが多すぎる。それだけのことだ。教えられたこと、いったいそれは何だったのだろうか。

〇ひっくり返しついでにもう一つ。いま国鉄の経営改革が話題になっている。民営化への答申もでたようだ。しかしふと考える。いずれの議論も、国鉄は企業であるという前提を、当然のこととして設定している。くだいて言えば、商売だというのである。その前提をとっぱらったらどうなるか。つまり、企業でないとしたらどうなるか。自衛隊は企業である。そう悪う人がいるか?(もっとも自衛隊が企業だと空恐ろしいことになる。採算のために、戦争が商品になる。)国鉄職員の怠慢は、企業性の欠如のせいだ、というのと同様に、自衛隊員の士気はその企業性の有無による、などと言えるか?この前提を疑ったとき、初めて国鉄のほんとの意味が見えてくるのではないか。独立探算、どうしてそうでなければならないのか(と疑わないのか)。自衛隊への探算を無視した投資の何分のーかの投資で、国鉄は国鉄になる。その方がよほど国を守るからである。それに文句をつける国民が、どこかにいるか。

〇あと十日もすると、田んぼは一面の縁となって水面は見えなくなり、その代り、田んぼをわたるそよ風が目に見えるようになる。今夜、ほととぎすが鳴いた。

〇それぞれなりのご活躍を!そして、その共有されんことを!

    1982・5・19                                                         下山 眞司

 

「第Ⅲ章-3-2 参考 慈照寺東求堂 多層工法」

$
0
0

(「Ⅲ-3-2 鹿苑寺 金閣」より続きます。)

 

参考 慈照寺(じしょうじ) 東求堂(とうぐどう)  1486年(文明18年)ごろ建立 

 

 足利義政により建てられた山荘・東山殿の一建物。義政没後、慈照寺となる。後に、戦乱で東求堂などを除き、消失。 東求堂は、義政の書斎兼持仏堂。方形平面、入母屋、桧皮葺き、基準柱間:6尺5寸。柱:仕上り大面取り3.8寸角。

 平面図 平面・断面共に日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより

 

 

 

 南側2室は仏間、北東の4畳半は書斎:同仁斎(どうじんさい)。 同仁斎は、書院の原型とされる。 

 いわゆる和様の形体をつくりだすため、下図の化粧桁のように、構造体を傷める方策も採られている。構造・架構=空間というつくりかたは、上層階級の建物では継承されていない。

 

 

文化財建造物伝統技法集成より

 矩計図 日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより

 上分解図は、矩計図赤枠内の組立て分解図。 柱は天井裏まで延び、野屋根の桁を受けているが、同時に、その下方では、化粧地垂木、化粧桁、化粧肘木が柱を半分ほど欠きとって取付く。化粧のための無理。この方法は、近世の光浄院客殿などの建築でも使われる。 化粧桁の継手は、龍吟庵方丈の内法長押の継手同様鎌継ぎ(前出)。接続部を密着させるためで、構造的な意味はない。

 

参考 古代の多層工法

 古代寺院の塔や門、鎌倉時代末期の禅宗様の三門、楼閣建築、室町後期:戦国時代の城郭建築、そして近世以降の町屋など、日本には各種の多層建築がある。

 しかし、古代~中世の門、塔は、いずれも外観のみが多層であり、各層に床があったわけではない。東大寺南大門も同様である。

 

 古代の多層建築の構築法は、下図のように、下層の垂木上に土台:台輪(だいわ)(図の着色部分)を井桁状にまわし、その上に上層の柱・軸組を建てる方式であった。 五重塔では、これを二重、三重、四重、そして五重と4回繰り返す。 古代寺院の門や塔には外に欄干もまわるが、床はなく、実用に供用されてはいない。

  

法隆寺 中門 梁行断面図 奈良六大寺大観 第一巻 法隆寺一 より     法隆寺 五重塔 断面図

 

  

法隆寺 五重塔  三重 平面図および断面図        日本建築史基礎資料集成 十一 塔婆Ⅰより  図は転載編集

 

 上層に床を張り、用に供するのは、遺構では鹿苑寺 金閣が最初と考えられる。より実用性が強くなるのは、後の城郭建築。

 

               

参考 城郭建築の多層工法

 室町時代後期になると、中央政府の力が弱まり、各地の武士が群雄割拠の様相を見せはじめ、領地拡大の戦乱が頻発、その拠点として城郭建築が建てられるようになる。

 城郭の要件は、領地一帯を見渡すことができる望楼の役割を持ち、同時に万一の場合には立て篭もり防備に専念できること。 そのため、できるだけ標高の高いところを選び、防備のために石垣で基壇(天守台)を築き、その上に可能な限り高い建物:天守が建てられるのが普通であった。 なお、土台は城郭建築において考案されたと考えられている。

 

丸岡城  1576年(天正4年) 所在 福井県丸岡町 

 

平面図 下より一層、二層、三層   上:桁行断面図 下:梁行断面図 建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより

 

 丸岡城は、現存最古の城郭で、当初、石垣で天守台を築き、天守は掘立柱で建てられていた。

 二層、三層は同一平面で、四隅の柱は通し柱、三層の床梁は丸太で側柱(管柱)に差口で取付く(鹿苑寺 金閣に同じ)。三層では通し柱間の内法レベルに入れた飛貫で小屋梁を受ける。

 

 松本城  1594年(文禄3年)~1597年(慶長2年)

 松本城 平面図 断面図 建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより 

 松本城は、平地に天守台を築いた平城。 先ず、地盤面から天守の土台を支える支持柱を建て、それを埋めながら天守台が築かれている。 ここでも、通し柱、飛貫が活用されている。

 城郭建築では、各地域の職人も重用されたため、上層階級の建築技術と一般の建築技術が融合して用いられている。

                       

 ここまで、1200年代:鎌倉時代に入ってからの現存遺構について、主な寺院建築および禅宗寺院のなかに生まれた方丈建築について簡単に観てきました(住居の遺構は存在しません)。

 鎌倉時代の主な寺院は、平安時代から受け継がれた密教系(天台宗、真言宗)の寺院と、新たに移入された禅宗系の寺院です。このうち、密教系の寺院は、畿内だけではなく広く全国各地域に数多く建てられ、禅宗様の寺院は武家の帰依を受けたこともあり、政治の中心地に多く建てられます(時が経つと各地域にも広まり、また、形体上の影響も見られるようになります)。

 密教系の寺院の多くは、前代までに確立していた二重屋根・野屋根・桔木(はねぎ)の技法を用いた架構法を採り、それに寺院のシンボルとなっていた斗栱(ときょう)を装飾的に取付ける方法が一般的で、鎌倉初頭につくられた再建・東大寺のつくりかた:大仏様が継承された気配はうかがわれません。

 その点では、わが国の古代以来の寺院建築の建設の歴史の中では、再建・東大寺:大仏様は、むしろ特異であったと言えるでしょう。実際、大仏様の考え方:架構=空間を実施に移した建物は、東大寺以外、皆無に等しいのです。

 禅宗様の寺院の特色は部材各部の独特な形状にあり、そのためそれは一般に影響を与えるものではなく、禅宗系寺院に限られると言っても過言ではありません。また、技法的にも、意匠を優先し、構造的な視点を欠くきらいがあったことも否めません(前出、東福寺・三門参照)。

 このように、鎌倉時代の寺院建築は、禅宗様を含め、古代以来の「寺院」というしがらみを脱することができなかったのです。

 一方、禅宗寺院に生まれた方丈建築は、寺院の本堂とは異なる道を歩みだします。

 方丈は、すでに触れたように、どちらかといえば居所・住居的な性格の強い建物です。ここでは、寺院本体と同じく二重屋根・野屋根・桔木によるつくりかたを採っていますが、桔木の利用で役割をなくした斗栱を装飾的に付けることはしていません(前出の龍吟庵 方丈の例のように梁を虹梁風に見せかけることは行なわれます)。方丈建築で使われている古代以来の技法は、肘木だけです。肘木は横材:梁・桁を柱上で継ぐには不可欠な部材だからです。

 この方丈建築のつくりかたには、当時の寺院以外の一般の建物のつくりかたが関係していると考えられます(当時の住居など一般の遺構は存在しませんから推定です)。 そして、このような寺院イメージのない方丈建築は、その後の一般の建物にも影響を与える特徴を持っていたことはすでに簡単に触れました。

 そこで、方丈建築の架構の特徴をまとめてみると、次のようになります。

1)基準柱間6尺5寸~7尺、柱径約5寸、間仕切のほとんどを開口装置とする。

 平面図で明らかなように、方丈建築では、柱間は開口装置だけで内法:鴨居上の小壁以外にはほとんど壁がないことが分ります。しかも、寺院建築に比べ、柱は太くありません。このことは、壁を、架構の自立を維持するための不可欠な部分としては考えていないことを示しています。

註 これは、方丈建築に比べれば柱が太い古代以来の寺院建築にも共通する特徴です。古代寺院、中世寺院の平面図を見ると、方丈建築に比べると壁が比較的多くあります。ただ、それらの壁は、空間をつくりだすための壁:空間構成上必要な壁であって(たとえば、仏像の背面として、籠(こも)ることのできる空間をつくるため、など)、架構上必要とは考えられていないのです。

 このように、方丈建築が細い部材でありながら、間仕切を建具になし得たのは(柱間を開放的になし得たのは)、その架構法によると考えられます。そこで、その架構の特徴を詳しく見ることにします。

 

2)束立て小屋組の上屋+四面桔木の下屋からなる架構

 方丈建築も、平安期以降の寺院建築と同じく、二重屋根・野屋根・桔木による架構法を採っています。ただ、寺院建築とは、異なる点があります。

 方丈建築では、本体の四周に桔木によってつくられる庇部が、均等に設けられていることに注目する必要があります(重要なのは、四面にまわっていることです)。

 たとえば龍吟庵 方丈では、室中(しっちゅう)上部は大梁上に束立組の小屋を架けていますが、室中を囲む広縁、下間(げかん)、上間(じょうかん)そして北側の室の上部には、先の束立組の小屋組足元を基点として、これら諸室にかぶさる形で桔木による庇部が架かっています(基本的には、他の方丈建築も同じです)。

 

 これを三次元的に見てみると、室中をかたちづくる柱と梁・桁で構成された立体格子の四周に、桔木によって構成されたロの字型の鍔(つば)が設けられた形になり、建物上部の平面的な変形を防ぐ働きをしていることになります。

 しかも、この庇部は、垂直断面で見ると、桔木と繋梁あるいは化粧地垂木(天井)とで直角三角形を形成しています(下図)。その結果、室中部の架構上部を三角柱が取り囲むことになり、室中部の立体格子の各側面:垂直面の変形を防ぐ、つまり立体格子を垂直に維持する働きもしていることになります(庇が水平で三角柱をつくらなければ、この働きはありません)。これは軒の出の確保が主たる目的の寺院建築の桔木による庇部とは大きく異なる点と考えてよいでしょう。

 龍吟庵 方丈 桁行断面 

 

梁行断面図

日本建築史基礎資料十六書院Ⅰより転載・編集

 

 また、方丈建築では、建物全面に床が張られます。この時代の床組は、ほぼ現在と同じで、束立ての大引上に根太を転がし床板を張っています。床板の厚さは1寸程度が普通です(龍吟庵 方丈では8分)。そのため、床面自体が平面的に変形することは先ずあり得ません。

 さらに、柱通りの大引は柱相互をつなぐ足固貫として扱われ、直交方向では根太が繁く架かり、柱相互をつなぐ役割を担っています(後に、直交する柱通りにも足固貫を入れるようになります)。

 柱、束柱は礎石建てで礎石の上に置かれるだけですが、摩擦で一定程度は拘束され、さらに床面レベルを貫で縫われていますから、柱が礎石からずれることは簡単には起き得ません。

したがって、三次元的には、床から地面までの空間は単なる隙間ではなく、いわば地面と床面に挟まれた立体格子になっていることになります(上図)。 

 つまり、方丈建築は、主要部の立体格子の上部は桔木による庇部の働きによって、下部は床組の働きによって、立体的な形状が維持されていることになり、しかも、立体の側面にあたる間仕切部の軸組には数段の貫が設けられますから、立体格子はより一層安定し、それゆえ間仕切をすべて開口装置でまかなうことができるようになったと考えることができます。 

 以上のような方丈建築で練られた架構法は、近世の寺院建築、客殿建築、書院造に発展しながら引継がれてゆき、安土桃山~江戸初頭の西本願寺などの巨大な建築群も、この架構の考え方の発展系と考えることができるでしょう(ほとんどが、壁のないつくりになっています)。

 

「第Ⅲ章-3-2 大徳寺 大仙院, 龍源院」 日本の木造建築工法の展開

$
0
0

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅲ章-3-2」 A4版12頁

 

2.大徳寺 大仙院 本堂 1513年建立 所在:京都市 北区 紫野大徳寺町

 龍吟庵(りょうぎんあん)方丈に次いで古い方丈建築。龍吟庵方丈とは85年の隔たりがあるが、その間の事例がない。

 臨済宗 大徳寺の塔頭の一。方丈とは呼ばず本堂と言う。大徳寺には20を越える塔頭があるが、その中で最古。

 元は檜皮(ひわだ)葺き、現在は銅板葺きに変更。 基準柱間 1間:6尺5寸(芯々)。 庫裏(くり)、方丈、書院などを別棟で建て、渡廊下でつなぐ形式。 各建物間の石庭は、連続性をつくるため、後に整備されたと考えられる。 註 禅宗の思想を示した、と言われているが後付けの見方。  近世には、各棟を一体の建物として計画されるようになる(例:大徳寺 孤篷庵こほうあん)。

 配置図 重森三玲  実測図 日本の名園より

上の配置図は造園家の重森三玲氏による昭和初期の実測図。 樹木の種類も明記。

下は、建築家西澤文隆氏による実測図。空間の把握に力点。赤線は大仙院本堂へのルート(赤線は編集)。

 配置図 西澤文隆実測図集 日本の建築と庭園より 

 

 大仙院に向わず進むと真珠庵、南側は、道を隔て、大徳寺の本堂。

 方丈(本堂)の架構の基本は、龍吟庵方丈と同じように、方丈(室中)を囲む諸室(広縁を含む)上を桔木による架構としている。断面図参照。

 

  

左:玄関への路地 左側土塀の内側が石庭                右:玄関の扉見返り 右手は石庭

  

左:玄関~本堂の途中から本堂を見る。本堂前の広縁の柱は 約23尺飛ばしている。  右:室中しっちゅう(方丈)正面 外・両開き戸(外付)戸は二つ折り 内・明障子引違い4枚     写真 日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより  

 

 南側全景 すべての開口部を閉ざしたとき  屋根は銅板葺きに替えてある 玄関は本堂と独立  原色 日本の美術10より 

 

 室中の北側に仏壇 広縁東は庫裏への渡廊下、大書院北側の渡廊下は書院・茶室へ 基準柱間:6尺5寸 柱径:広縁側以外5寸弱。 

   

 

 桁行断面図 着色部分は梁行断面図とも小屋裏  実線赤丸:貫、梁行では蟻壁位置ではなく、内法~蟻壁の小壁内に入れている。破線赤丸:足固兼大引 大引は、@1/2間(龍吟庵は@1間) 破風は木連格子      平面図・断面図共に日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより 断面図は転載・編集

 

 室中 北面(仏壇側)建具を払ってあるので、大書院も望める。   

柱径:仕上り5寸弱 内法長押、蟻壁長押の内側に貫 貫は1.3寸×3寸程度(推定)。 

 

 

大書院と石庭  手前の室は礼間(らいのま)  外部建具を払った状態 北面は、平面図と多少異なる。 内法長押、蟻壁長押の内側に貫。   写真・図面共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより 図面は転載・編集

 

 

  

梁行断面図 左が庭側(南側) 引き渡し勾配:6寸5分  龍吟庵とは逆に、化粧地垂木を受ける桁を大寸にし、小屋裏の桁が小さい。 赤丸:貫(内法長押、蟻壁長押内側) ただし、a位置では柱外面に取付け、b位置室中中央の開口部上にはない。

  

 

3.大徳寺 龍源院(りょうげんいん) 本堂 1517年頃建立 所在:京都市 北区 紫野大徳寺町 

 大仙院 本堂とほぼ同時期の建設。

 

 平面図 玄関が南入りではなく、東から取付く。玄関の屋根が本堂屋根の下に入り込む点は、前2例に同じ。

    基準柱間は芯々6尺5寸(図はメートル法表記、1973mm=6尺5寸)。柱径:広縁以外仕上り5寸弱。

 

 

 桁行断面図 着色部分:小屋裏。 礼間らいのま~室中しっちゅう~檀那間だんなのまは、天井が同一高さで、内法上に欄間がない。

 実線赤丸:貫、破線赤丸:足固兼大引@1間。 赤の四角は、鴨居と付長押を一材で加工してあると思われる(次写真参照)。  

 

 

広縁~玄関を見る  広縁、落縁(おちえん)、沓脱(くつぬぎ)の関係が分る。 沓脱は通常は石。方丈建築では、  この方式が普通。 床は平瓦の四半敷(しはんじき)。雨落(あまおち)は玉砂利敷詰め。庭は苔。  雨落の設定位置を知る好例。

 

 室中(方丈)から礼間(らいのま)を見る。  間仕切は欄間がない。   同一高の竿縁天井が覆う。

 貫は内法長押内と、小壁中途の付長押(室中中央開口部内法位置)内に設け、蟻壁長押位置にはない。 礼間~室中境の鴨居は、付長押と一体加工(逆凸型断面)。

 

 

梁行断面図 右が南側  赤丸:貫  引渡し勾配:6寸  室中裏(北側)の小屋架構は、桔木が大梁に架かっていない。当初、大仙院と同じく、室中上の大梁の中心にあった棟位置を、後世に北側に移し屋根を南北対象に改修した際に生じたと考えられる。 写真・図面共に日本建築史基礎資料集成十六書院Ⅰより 図面は転載・編集

 

 

参考 鹿苑寺(ろくおんじ) 金閣  1398年建立 1950年焼失、1955年再建

 

 梁行断面                  桁行断面(部分)  日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより転載・編集

 鹿苑寺 金閣は足利義満が1397年から造営した山荘・北山殿で、義満の没後、鹿苑寺となる。金閣はその舎利殿。他の当初建築は現存しない。

 鹿苑寺 金閣は方丈建築ではないが、古代の寺院建築の技法、特に、二重屋根・桔木の下で発展したいわゆる和様の工法を基に、その後の諸技法をも駆使している。

 

 

 第一層(住宅風)と第二層(和様佛堂風)は同形平面で間仕切柱の位置を一致させ、側柱を二層までの通し柱として大梁を組み、第二層の床を張る。 柱はすべて面取り6寸角。 通し柱と大梁の仕口は、差口と思われる。基準柱間寸法は7.0尺。すべての柱は、7.0/2:3.5尺の基準格子上に配置。

 広縁では、通常は1間ごとに入る柱を省略しているが、これは、柱を省いた最古の事例という。 

 第三層(禅宗様佛堂)は、第二層上部の梁に直交する横材を土台にして別個の軸組を据える古代同様の工法(後述)を採る。基準柱間寸法は6尺。それゆえ、下階の柱位置とは一致しない。

 軒まわりには、禅宗様の繰型や、大仏様の挿肘木などが見られ、その意味で、当代までの諸技法の展示場的な建物である。

 

 

(「Ⅲ-3-2 参考 慈照寺 東求堂, 古代の多層工法」へ続きます。)

1982年度 「筑波通信№4 万が一の事態」 1982年7月

$
0
0

PDF「筑波通信 №4」1982年7月 A4版10頁 

     「筑波通信 №4」 1982年7月

      「万が一」の事態・・・・「正常」または「合理的」ということについて

〇脱線した特急

 五月の末、まだ梅雨入り前だというのに、まるでもう梅雨が明け真夏なってしまったかのように暑い日が続いた。そんなある日、中央東線で特急が脱線したというニュースが夕刊に載っていた。その日の昼すぎ甲府盆地のある駅のあたりで、暑さで延びてゆがんだレールにのりあげ脱線したのだという。明朝までには復旧する様子であった。盆地はとりわけ暑くなる。これが真夏なら、当然見まわって気をつけていたのだろうが、まだ五月。ことしの天候は少し異常なのかもしれない。事故はそれほどの事ではないらしいし、まして私の日常に影響がある事故でもなかったから、このニュースも私にとっては季節はずれの暑い日を印象づけただけで、普通なら、そのまま忘れ去られてゆくだけだったろう。

 中一日おいた朝刊で、再びこの事故がニュースになっていた。復旧に意外と手間どり、開通したのは丸一日以上もたった昨日の夕方であったという。復旧に意外と手間がかかったのは、その特急列車の車両と車両の連結が、連結器によってではなく鉄の棒でいわば固定されていたためその切り離しに時間がかかってしまったからのようだ。

 この記事を読んで。一度は忘れかけていたこの事故のことが、私のなかで、再びある重さをもちはじめた。

〇列車の編成、連結器の変遷

 その昔子どものころ乗物好きだった人なら大抵は知っていることだと思うが、車両の連結のしかたには「ねじ」式。(いまでもヨーロッパをはじめ諸外国では主流をなしているやりかた。言うならばフックのついた鎖を引っかけるようなやり方だから、これと対をなしてバネの入った丸型のバンパーが二個つくことになる。(日本では博物館にでも行かなければ見られない。)「自動連結器」(日本でいま貨車や旧型の客車の連結でお目にかかるやりかた。なんとなく人間の手を思わせるひょろきんな形をしている。因みに、日本では1925年の7月1日を期して、国鉄:当時は国鉄とは言わなかった:の全車両の連結器を、それまでの「ねじ」式からこのやりかたに取り替えてしまったのだという。これは画期的なことだったらしく、その証拠に諸外国では50年以上もたったいまでも「ねじ」式がある。)

    

 「密着連結器」という種類がある(国鉄や私鉄の大部分がこの型である。角っぽいいかにも器機という形をしている。自動連結器には20~30ミリのあそびがあるから発車や停車のときどうしてもがたつく。昔はこのがたつきをいかにして少なくして動かすかが運転士の腕の見せどころであったのか衝撃をあまり感じなかった:もっとも実にしずしずと走りだしそして停まったものだった。いまはスピードの時代、私がよく乗る常磐線の客車列車では、発車と停車のとき、むちうち症になりかねないほどのいきおいでどつかれる。貨物列車が動きだすとき、機関車の汽笛の聞こえたあと、すぐに目の前の貨車が動きだすかというとそうではなく、それが実際に動きだすまでほんの少し時間があり、前の方からがちゃんがちゃんという重い鉄のかたまりがぶつかりあう機械的な音が移動してきて、近づいたなと思った瞬間、がくんと動きだす、あれと同じことが駅に停まるごとにくり返され、おちおち居眠りもできない。この原因である連結器のあそびをなくすために、まさに字の如くこの密着式が考案されたのである。) ついでに言えば、この密着式と自動式の両性をそなえた型もあるようだ。そうしておけば、違う型をそなえた車両であってもつなぐことができる。

 ところが、この脱線した特急列車の場合には、車両と車両の間には連結器がないのである。たしかに一列車は十数個の車両から成っているのだが、それらは連結器ではなく鉄の棒で、だから連結ではなく言わば緊結されているのである。それぞれの車両は初めから切り離すことを考えにいれず(逆に言えば、車両を任意によせ集め列車を編成するという考えでなく)一列車で完成した形を成しているのである。竹の棒を数センチの長さに切ったものを大きい順に十個ほどならべ、その筒をそれぞれ互いに針金の軸でつなぎ合わせた、その末端を持つとそのちょっとした持ちかたの違いで微妙に愛きょうのある動きかたをするヘビのおもちゃが昔からあるが、この列車はあたかもこのヘビのおもちゃのようなつくりになっていると言えばよいだろう。

 脱線した列車を空から撮った写真を見ると、その曲りくねって横たわっている様子は、まさにこのヘビ同然であった。連結器でつないでいるならば、連結器のところが一番弱くてはずれてしまうものが、緊結してるものだから、まさにこのヘビ同様の格好になってしまったのではなかろうか。復旧にあたって意外と手間どったというのは、これは全くの推測なのだが、元へ戻すためには車両と車両を切り離さなければならず、そうかといって、うっかり切り離すと互いに鉄の棒で緊結されているため辛うじて横転をまぬがれていたのが支えを失なって倒れてしまうおそれがある、それへの配慮に手間どったのだと思われる。そして、互いに緊結されていたために転覆しないで済んだという見かたができる一方で、ことによると、これも推測なのだが、緊結してあるために全車両の半分以上が共倒れ的に引きずられて脱線してしまったと見ることもできるのではなかろうか。これが連結された列車だったら、脱線の様相も別の形(多分共倒れになる前に連結器が切れるのではないか)となり、復旧も早かっただろう。復旧に意外と手聞どったという表現がされたというのも、当初普通の連結列車の脱線事故の復旧の例をもとに復旧予測がたてられ、緊結列車であるという状況をつい勘定にいれるのを忘れたからではないだろうか。

 しかし、なぜこの列車は連結ではなく緊結であったのか。いままで大抵連結であった列車が緊結になる、そうするようになった発想はいったい何だったのだろうか。


〇連結と緊結、その発想の違い

 緊結方式が生まれてきた経緯を私なりに推測すれば、それは大略次のようなことになるのではあるまいか。先ず、いくつかのハコを機関車が引っぱる:つまり動力が一簡所に集中している:やりかたから、動力その他を分散させるいわゆる電車化が一般化してきた。これはもう大分前から国電などではあたりまえのやりかたである。電車の横っぱらに書かれているモハだとかクハだとかいう記号は、その車両のいわば機能を表わしているのである。ただ、その場合はそれら役罰の違うハコを適宜組み合わせて一編成をつくっていた。しかし、一列車の長編成があたりまえになってくると、そうしょっちゅう離したりつないだりすることがなくなり、編成が固定化してくる。いわば単語を適宜集めて必要な文章をつくっていたのが、文意自体で固定化してきたのである。つまり、成句になってしまう。そこで、単語つまり一つ一つのハコを単位とするのではなく、いくつかのハコを成句にまとめて一単位とする考えが生まれてくる。いまの国電は多分そうのはずで、四両一単位だったように思う。だから一編成は八両、十二両というように四の倍数のはずである。そして、特急もほとんど電車化してきた。特急の場合、特に最近のように二地点間を何本も往復するようになると、一編成自体が一定である方が互換性があって都合がよい。「あずさ一号」も「あずさ五号」も同じ編成になる。「あずさ」用の同じ編成を数組用意しておけばよいわけだ(多分、乗車券予約のコンピュータプログラムもその方が楽だろう)。そうなってくると更に一歩すすんで、一編成で一単位とする発想がでてくる。切り離したりつないだりすること自体無用と見なされる。そこで、連結器によるのではなく緊結するという考えがでてくるわけだ。その方ががたもより少なくなる。というのも、たとえ密着式の連結器でも、連結時の衝撃止めの緩衝装置がついているわけで、その分のがたはやはり残ってしまうのだ。これは国電の停発車時のゆれと特急のそれ(新幹線でもよい)とを思い浮かべていただければよいだろう。緊結することにより全体が一体になるわけである。一見したところ十いくつかのハコには分かれてはいるけれども、それは言ってみれば単に一個の長いハコにすることが(直線路だけならばともかく、そんなことはあり得ないから)不可能だからで、いくつかのハコに言わば関節によって機能ともども分節されているにすぎず、これはそれまでの列車とは似て非なるものだと言ってもよいだろう。この発想の転換・展開は一点の非のうちどころもないほど合理的である。そしてこれが新幹線を可能にした技術の裏づけの一つでもあったわけである。

 しかし、もしこのハコに機能分化させた一編成の中のどこか一箇所に障害が生じたらどうなるか。これが、それまでの列車とは似て非なる点の最もたることなのであって、昔ならその故障車両を切り離しても運転することができたのだが、この最新の方式ではそうはゆかず、一編成全部が言ってみればおじゃんになる。一個の有機体が死んでしまうのである。第一、切り離そうとしたって、はじめから切り離すことは考えてない:緊結してあるのだから容易にはできないのだ。だからそんな場合には一本まるごと運休することになる。そして、あのおもちゃのヘビみたいに横たわってしまった車体の姿勢のたて直しも、意外と時間がかかってしまうことになる。

 

〇事故後のダイヤの「正常」化ということ

 いま、故障になると一本まるごと運休になる、と書いたけれども、これは昨今では緊結した列車に限らず、連結した普通の列車でも同じらしい。その場合も、昔のように不具合のハコだけ切り離すということはなく、客を全部おろして、きれいさっぱり運休させてしまうようだ。特にそれが特急のように予約席のある場合はそうなることが多い。その一本だけでなく、その折り返しも当然ながら連休するから、一本の事故が数本にひびいてくる。運休にしないで異常編成で運行したらどうなるか。

 予約客には部分的なあぶれがでる。その処理をこまめに考えるなら、いっそのこと全部とり消してしまった方が事務的には楽だ。コンピュータには楽だ。また、そうした方が運行ダイヤの正常化にとっても楽である。なぜなら、一度全てをご破算にして、ちょうど始発時のように空白を埋めてゆく方が、いろいろやりくりをしつつ(臨時の列車:ダイヤにない列車を動かしつつ)復元するよりも、よっぱど楽だし、復元を急ぐという点では合理的だからである。

  私が東京へ出るため必らずごやっかいにならなければならない常磐線は、これはもう、やれちょっと雨が多く降りすぎたとか、風が吹いた、とかいって少し大げさに言えば日常茶飯事的に停まってしまう。先日も夕方、予定した列車の二十分ほど前に上野沢について、きょうは座って帰れるぞ、とにんまりしたところが、水戸(みと)のあたりで事故。不通だという。土浦まではゆけます、ときいて一安心。ところがホ-ムにはもう人の詰まる余地がないほどいっぱいの列車が、いつ出るのか分からないまま、後続の予定がたたないからこれに乗ってくれという放送がくりかえされるだけ。この列車本来のダイヤからいえば、もう小一時間発車がおくれている。上野と水戸の間は約百km、その間の電車は事故に関係なく動けるのだから、後続だってすぐ来るはずなのに、それにもうこの列車には人は詰められはしない、どうして出ないのだろう、いささか不思議に思えてくる。やがて、この列車は〇時〇分発の◎行の列車として発車します、という放送があった。まだ十分以上も間がある。本来のダイヤの数本あとの列車に読みかえるというわけだ。そこではじめて私には合点がいった。運行ダイヤというのは連行しているその線の列車全部で一つのシステムを成しているわけで、その一部でおきた障害は全システムをだめにしてしまったのであり、ダイヤを正常に戻すためにはこういった読みかえを行なって元のシステムにのせなおすのが、最も効率的だし合理的なやりかたなのだ。そのための腐心の一環として、なかなか発車せずに時間待ちをしていたに違いない。

 なるほどたしかに、乱れてしまって異常なダイヤを正常ダイヤに戻さなければならない、それは至上命令ではある。けれども現実に客が列車にはもちろんのことプラットホームにも満ちあふれているのを目のあたりにしていながら、それをさばくことには手をつけず、専らダイヤの修復に執心する。ダイヤさえ正常なら異常は起きない。だからそれを正常にもどすことが先決である、これはたしかに合理的に見える考えではある。

 しかし運行ダイヤはあくまでも客を運ぶために意味があるのであって、ダイヤのシステム自体に意味があるわけではない。当たり前である。まして、目の前には運びきれなくなってしまった客が満ちあふれている。ならば、交通機関の本義に戻って、この満員の客をさばきつつ、しかもダイヤを正常な状態へ戻してゆこうとする発想がもたれてもよいのではなかろうか。多分そういうやりかたでは、ダイヤの正常化完了をもって事後処理完了とする視点からすれば、手間も時間もやたらとかかり効率的合理的なやりかたとは言えないのかもしれないが、客の立場に視点を移してみれば、そうしてもらう方がずっと合理的なのだ。昔はそうしていたのではなかったか。客がホームで所在なくすごす時間はずっと短かくて済み、その代り鉄道関係者の苦労は並大抵のものではなかったと思う。いまは、どちらかといえば、客が苦労する。

 脱線した特急列車の話からはじまり、その連想で事故の後処理についてまで話が及んでしまったが、これらの話の底を共通して流れているように見える、言いかえれば、これらの事態のなりたちに根本的に係わっているはずの、ある種のものの考えかたに、私はひっかかるのである。それは、いまいたるところであたりまえになっている、いわゆる近代的合理的な考えかたの典型的な姿だと見てよいのではなかろうか。

 

〇「近代的・合理的」な考えかたの正体

 この考えかたというのは、いったいどういう性格のものか。

 一口で言えば、この考えかたは、「万が一」ということ、あるいは、「マイナスの(と評価される)局面」はあってはならないことだから考慮の外におき、専ら「正常」あるいは「プラスの局面」にのみ考慮をはらう考えかただ、そう言ってよいだろう。理想状態、完成完結した状態へのゆるぎない(信仰に近いほどの)信頼と願望、そう言ってもよいかもしれない。だから、更に別な言いかたをすれば、ある全体なるシステムが「絶対」としてあり、その全体なるシステムを構成する部分部分は、なかば絶対的にその『絶対』に服するしかなく、その構成の編成替えなどということも存在しないのである。つまり一つのパターンが(望ましき完全形として)在るとするわけである。そして、そのパターンが乱れることを異常という。

 これに対し、こういう近代的合理的な考えかたからすれば非近代的、非合理的、そして場あたり的に見えるであろう従前からの考えかた:やりかたというのはどうであったか。

 これも一口で言えば、たしかにそれもある全体やシステムをつくりだしはするが、それが唯一つしかないのではなく(定型があるのではなく)言うならば、「万が一」の状態「理想」の状態の両極の間で:別の言いかたをすれば「マイナスの局面」から「プラスの局面」にわたって:場面場面において適切と思われる全体・システムを任意に組みたてることができる、そういう考えかただと言えるだろう。そうであるからこそ、仮に事故が起きても、その事故の状況に応じて、まさに字の如く臨機応変の対策:その局面における全体のたてなおし:をたてることができるわけだし、その対策も、ただ単に元の(完成形であった)パターンへ戻すことにのみ執心することなく、その判断決定の拠りどころをその当面の(交通機関としての)本来の課題(たまってしまった客をさばくこと)においてたてられる。つまり、客をさばきつつ、徐々に元へ復してゆくわけで、その過程では何度かシステムが組み直されなければならない。

 その作業の点にのみ視点をしぼれば、たしかにそれは効率的ではない、それは先に書いたとおりである。それ故、近代的なやりかたでは、その点で効率的な「正常」形へ戻すこと自体が目的化し、つまり本末転倒して、ものごと:事態:への対応のしかたにはいくつものパターンが任意に用意できるということが忘れられてしまう。

 いまここで、ものごとへの対応のしかたは任意にいくつものパターンが考えられるのだと書いた。ほんとにそれはいくつもあるのであって、場面場面に対応して、場面の数だけある、つまり言ってみれば無数存在するのだと言ってよいだろう。こういう書きかたをすると、そういう場面場面やそれへの対応のしかたが、私たちをとりかこんで無数に存在しそのなかから一つを選びだすかのようにきこえるかもしれず、そしてまた、そんな無数なんかは相手にできないではないかと思えるかもしれない。もちろんそうではない。場面やそれへの対応が無数に、あたかも百貨店のショーウィンドウの中の品物のように、私たちのまわりにならんでいるわけではない。そうではなく、それはあくまでも、私たちの、私たち自身による「判断」に拠るから無数なのである。場面の設定も、対応のしかたも、それは私たちの「判断」。いまおかれている状況・場面はかくかくしかじかであると(私が)「判断」し、いまなすべきことを(私が)「判断」し、そして、適切な(そう私が「判断」する)方策をたてるのである。だから、そのものごとのとらえかただけパターンがある:原理的に言えば無数ある、わけなのである。それ故、同じ事態に対してもその対応のパターンは、判断する人により違うだろう。しかし、違っているからといってまちがいなのではなく、また、違っているからといって「方向」もなにもなくめちゃくちゃに違うというのではなく、「方向」は同一であっての違いなのだ。つまり、多種多様でなく、同種多様。

 こういう従前のやりかたに対して、近代的・合理的なやりかたでは、同様に必らず「判断」を伴うけれども、その場所が違う。そこでは、ある最も合理的だと思われるパターンが設定され、それに合うか合わないかが「判断」のポイントとなる。その意味では、人によって違うなどということはあり得ない。正解があらかじめ唯一ある。それ以外があるなどということは、はなはだしく秩序を乱しけしからぬことなのだ。つまり、all or nothing、〇かーか、一か八か、なのである。コンピュータ用プログラムにはたしかに適している。こういう極論めいたことを言うと、パターンを一つではなく、場面に応じたパターンをいくつか用意しておけば、従前と変らないではないか、そうすれば、それなりに臨機応変の、しかも人によらない対応ができるではないか、という反論がでてくるかもしれない。そして実際、いくつかのプログラムが用意されるようになってきているし、そういったプログラム、パターン探しがその面での学問分野での関心事でもあるようだ(人々を不特定多数として括る発想もそこからでてきているはずである)。

 しかし、このいくつかの場面とそれへの対応をセットとして用意しておくやりかたでは、根本的にそのパターンの数は、たとえありとあらゆる場合を考慮したといっても、有限であることに変りはなく、万が一用意されたパターンに合わない事熊にでもなったら最後、それはもう手の下しようもないほどめちゃくちゃになってしまう。

 従前のやりかたでは、パターンはあらかじめ設定されているわけでなく、むしろその都度、「万が一」と「正常」の状態、その両極の間に、場面の設定がなされるわけで、その意味でパターンはその間に連続的に無限に在ると言ってよく、だからこそ、いかなる場合にも臨機応変に対することができるのだ。だから、近代的なやりかたは完ぺきのようでいて極めてもろく、逆に従前からのやりかたは不確かなようでいて、極めてしたたかなのである。いったい、ほんとの意味で、このどちらのやりかたが合理的か。私なら、当然のことだが、この非近代的・非合理的に見える従前からの考えかたの方をとるだろう。なにもそれは単に私の好みでそうするのではない。ものごとというのが、あらかじめ考えておいたいくつかのパターンとしてのみ出現するなどという、そんな考えかたはあまりにも非合理だと思うからである。まして、それへの「対応」:「判断」までもが既製品として存在し、ただそのなかから選べばよいというのも、非合理のいや不合理だと思うからである。それではまるで、人間もロボットも変りないではないか。

 こうやって見てくると、いわゆる近代的、合理的な考えというのがいかに人間個々人の判断:それは人によりそして場面に・状況のとらえかたにより微妙に異なる:というものをきらい、あるいはそれに信をおかず、規範を他に求めたがるものであるかがよく分かる。それでいてまた、近代ほど個人の尊厳を強くうたいあげる時代もなかったのではないか。個人の主張をとりたててあげつらう時代はなかったのではないか。いまこうして見てきて、この近代という時代の姿がまことにくっきり見えてきたように私には思える。すなわち、個々人を越えたところに、規範とすべき近代的・合理的なあるべきパターンがあり、個々人はそのパタ-ンのなかのどれかを選択する判断権のみを有し、その選んだパターンをいかに個性的に修飾するかが個人の個性であるとする、これが近代というものの姿なのだ。では、あらかじめそのパターンを用意して人々に提示するのはだれなのか?デザイナー?設計者?その道の専門家?もしそうだとするならば、その根底には、表向きの個人・個性の尊重、人間性の尊重の主張とは裏はらに、徹底した人間性無視:人間不信そしてその裏返しとしての選民意識が流れていると言わざるを得ないだろう。

 なるほどたしかに近代以前にも、ある問題に対応してあるパターンが存在するということはいっぱい例がある。しかしそれらは、決してそのパターンをあらかじめ設定し、目ざして生み創りだしたのではなく、個々人の判断の積み重ねがそう結果したのであって、その拠り所は、個々人にあったのである。個々人の判断、それはある「方向」をもちつつも多様であったろう。しかし、その共通の「方向」ゆえに、ある時点でふりかえってみたとき、ある一つのパターンに収束しているように:つまりある定型のように:見えるだけなのである。ともすると近代の私たちはそれをそのパターンだけ:つまり結果だけ:をつかまえてとやかくあげつらい、背後に厳然としてあった人々の判断:人間の営為を見忘れてしまい、更にすすんで個々の判断を越えた地点に目ざすべき、期待される像を設定し、それへの近づきかたの遠近でことのよしあしを決めよう、などとさえしだしてしまう。私には、それはどうしても愚行に見える。

 私は、いかにそれが多様であろうとも、私たちの私たち自身のものごとの判断を信じたい。そうでないなら、私たちの問に真のコミュニケーションは存在しなくなるだろう。コミュニケーション、それは単にことばをサグ操ることではない。できあいのいくつかの応答パターンのどれかを、あたかもマークシート方式の試験間題にこたえるが如くに、選択していればよい、などというものではない。ことばにいったい何を託すかこそが問題なのだ。ことばに託すもの、それは、私たちの私たち自らの感性に拠る私たち自らの「思考」である。「思考」が、用意された有限なパターンに限定されるような状況、私はそれを認めるわけにはゆかない。

 けれども、こういう文章自体もまた、先進・先端技術を背景としたワードプロセッサーにより、いくつかの推奨される文体・言いまわしに限定されるような時代に入ろうとしている(いったいだれがその言いまわしを推奨するのか、できるのか?)。先進・先端、あるいは近代化、それは諸作業の合理化:省力化へ向ってきたと言ってよいだろう。しかし、それが「思考」作業の合理化・省力化をも意味するのならば、そこでは、真に新しいものが生みだされるはずがない。「思考」、それはたしかにあるパターンをもつ。かといって、そのパターンは決して有限でなく、言わば臨機応変に無限である。「思考」をも合理化と称していくつかにパターン整理してすすむのが近代であるとするならば、そしてそれを合理と言うならば、私はそれを「合理」とは認めない。合理とは、そもそも、あるシステムにとっての整合性のことなのではなく、私たちにとっての合理のはずだからである。システム、それも、私たちが私たちの思考作業により生みだすのである。システムのために生みだすのではない、まさに私たちのために。

 

 北海道でもまた特急が脱線したそうである。これも異常な暑さ:30度を越えたという:でレールが曲り、直すのに時間待ちをしてダイヤが狂ってしまった。一方、それとは関係なく保線作業:まくら木交換:が行なわれていた。ダイヤは正常に保たれていると頭から信じていた保線作業者たちは、通るはずのない時間帯だと思いこんで、まくら木をはずしてしまった。そこへ、通るはずのない列車が来て、なるべくして脱線した、ざっとこういうわけらしい。いま、合理化のために、保線は保線として独自に外注されているのだそうである。運行のシステムが正常であったなら、保線のシステムの方は平常に行なわれていたのだから、別に何の問題もなかったのだ。システムとシステムが、ある正常な状態で成りたつべく設定されていた。だから正常なら、システム相互の連絡は強いて不要だ。完ぺきだ。しかし、それに慣れきってしまったとき、異常に対して対応できない。万が一の事態が容易に発生する。考えてみれば、近代社会というのは、こういう薄氷を踏むような保証の上で成りたったシステムで囲いこまれているのかもしれない。

 

あとがき

〇私の勤める筑波大学では、図書館の図書目録カードを全廃してしまった。カードに載せられた情報、そんなものはみなコンピューターに組み込むことができる。必要に応じて端末機から、カードをめくるなどという面倒なことをしなくても、情報を呼び出すことができるし、カードづくりという面倒な事務作業もなくなる、そういう発想であったらしい。図書目録カードの使用法がプログラムとして覚えこまされているわけである。その代り、プログラムに載せられなかった使用法は切り捨てられてしまったから、カードを見ながらあれこれと自分の関心事に係わる書物の世界を自分で組みたててみる:つまり自分だけのプログラムをつくる自由は失せてしまった。図書の利用法が「理想化」されたパターンに限定されてしまったのである。そしていま、カードとの共存のコンピューター化がなぜ考えられなかったのかという不満がわきだしている。

〇今回、「万が一」あるいはめったに起きないことが切って捨てられる話を書いたのだけれど、それと全く逆に、「万が一」の事態を終局のものとしてものごとを考えるやりかたが、近代的な考えかたのなかに存在していることも知っておいてもらったほうがよいだろう。

 建物の耐震に対する考えかたがそれである。「万が一」の地震によっても全く壊れない建物をつくろうとする。いまや建物の第一義の目的が、地震で壊れないことに置き換わってしまったと言って過言でない。地震で壊れない、そうすれば人命に損傷もない、建物も建てなおすこともない。なるほど合理的に見える。しかし、そのおかけで、残りの「万のうちの九千九百九十九」では、不便を強いられる。人間、地震のために生活することになる。はたして合理的か?「万が一」の事態では壊れても止むを得ない、しかし人命に直接的に響かないような壊れかたをするべく考えよう、どうしてそう考えられないのだろうか。これもまた、一つの対応パターンしか考えることのできない近代的合理的思考法の一結果である。これは、今回書いた話と、その思考の構造が全く同じなのだ。

〇気になることが語られていた、そう書き添えて、書物のコピーが送られてくることが多い。大変ありがたいことである。次の文もその一つ。

つか・こうへい「あえてブス殺しの汚名をきて」の一節だそうである。

 〇月〇日 雨

 今日久しぶりでTさんと会った。Tさんは甲府の幼稚園の園長さんだ。Tさんは今度新しく幼稚園を建てなおすため設計図を持ってきた。会うなり「どうだ」。とてもうれしそうだった。 私も少し図面は読めるのでおかしなところに気がついた。

「おい、おかしいじゃないか、幼稚園は子供たちが明るく楽しく生活しなきゃいけないんだろ。このへんに暗くなるところは何だ」「そうかい」Tさんはとてもうれしそうに白い歯を見せて笑った。「いまにわかるさ」そんなふくみ笑いだった。

 〇月〇日 晴れ後曇り

 咋日甲府にいった。Tさんの幼稚園の落成式。まったくおかしな幼稚園だ。運動場にはドラムカンだの何だのがやたらにおいてあって子供たちが遊びまわる所がない。

 「何りつもりだい」

 Tさんはとてもうれしそうに、そして恥ずかしそうに話しはじめた。子供たちってのはガキ大将ばっかりで、明るく元気なものだと思うのは観念的なのであって、なかにはメカケの子、おねしょした子、おとうさんに叱られた子、そういう子たちがたくさんいて、あの暗い屋根裏部屋やドラムカンはそういう子たちの泣き場所なのだと、さみしいということから孤独という感覚を知る所だと・・・・Tさんは教えてくれた。

 甲府からの夜汽車の中で妙な気持だった。さわやかな哀しい想いを私はかみしめていた。そんな芝居をやりたいものだ。

 ただ私は、子ども(あるいは一般的に人間)をこのように見ることはまったく賛成するけれども、それがもろにそういう設計として具現すればよいとするのは、それも少しばかり観念的なのではないかと思った。

〇梅雨に入ったと言われてから、かえってすがすがしい日が続いている。ままならぬものである。

〇それぞれなりのご活躍を!そして、その共有されんことを!

       1982・6.22                下山 眞司 

「第Ⅲ章-4-1古井家 復元後の内部写真, 参考」 日本の木造建築工法の展開

$
0
0

(「第Ⅲ章ー4-1 古井家 壁の仕様」より続きます。)

 

復元後の内部写真         重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より転載、文字は編集

 

にわ~居室部境  にわの棟通りには、内法貫、飛貫の2段の貫が入れられている。内法貫は、梁行、桁行段違い。

 

 

にわ~ちゃのま  にわとちゃのまの間には、建具はない。

 

  にわ~ちゃのま北西隅 水まわり

 

材料および材寸  柱:クリ 上屋柱 約14.8~16.5cm角 下屋柱 平均約12.7cm角  

梁・桁:スギ、一部ツガ、ヒノキ 上屋梁 平均約16cm×11.5cm 平使い 上屋桁 平均約14cm×11.5cm 平使い 棟束受(地棟or丑梁)約19cm×12cm  

貫:スギ、クリ  内法貫 約丈11.0~11.6cm×厚5,3~7.4cm にわ~ちゃのま境の例 上屋部で丈11cm×厚7.4cmある材を上屋柱の手前で片胴付に加工して厚5.0cmに狭め、下屋柱に枘差し楔締め   飛貫 内法とほぼ同寸 にわの棟通りだけに入る。柱に枘差し楔締め。

継手・仕口 柱~小屋梁~桁 折置組柱 頭重枘   小屋貫継手 略鎌継ぎ(柱内)楔締め 柱~貫 楔締め

 

 

おもて 南面  南面の壁は外側大壁。下屋通りの壁には、足固貫、頭貫2段(後補)。

 

 

おもて 北面(なんど、ちゃのま境)   鴨居は、内法貫とは独立して取付けられている。このことから、貫を優先する古くからの架構法と考えられる。 方丈建築では、貫を付長押で隠していることに留意。   

 

 

  復元組立中の床組

足固と大引は丸太材。 足固は柱に枘差し。

上屋柱~下屋柱間は、足固材を上屋柱手前で枘幅につくりだし、足固貫として下屋柱に差し楔締めとしていた。

一般の大引は、束なしで玉石上に直接載せている。この方法は、室生寺・金堂の当初部分(身舎・庇部)でも採られている。

 

ちゃのま 北面  板が貴重品であった時代であるため、ちゃのま、なんどの床は竹スノコとし、莚(むしろ)を敷いていた。 板張りの床はおもてだけ。

 

 

なんど~ちゃのま 境  内法貫下に鴨居を取付け、片引きの板戸を設けている。

 壁のつくりかたからみて、当初の建物では胴貫はなかったものと推測される。修理時点では、後補の貫があり、復元ではそれにならっている。 また、復元に際して、大壁部には帯鉄製の筋かいを入れたという。

  ちゃのま~おもて 境を見る  手前はにわ

 板壁は、柱間に横桟をやり返しで取付け、縦張り。 写真は重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より転載、文字は編集

 

 

古井家住宅 間取りの変遷  外周の赤く塗った部分は土塗り大壁(壁の仕様は、前出)

 

 

古井家住宅 第一次改造の方法

 

日本の民家 3 農家Ⅲ(学研)より

 

 古井家では、建設以来400年を越える期間、上図のような梁・桁・差鴨居の新設による柱の撤去は行われているが、基本的な架構の骨格は当初のままで、内壁、外壁とも、用の変化に応じ、柱間は随時随意に壁、開口の変更が行なわれている。

 このことは、古井家の架構では、壁部分は架構を維持するための役割を担っていないこと、すなわち、木造架構そのものによって維持されてきたことを示している。その点は、浄土寺浄土堂や龍吟庵方丈などと、考え方は同じである。

 

  復元 架構組立中

重要文化財 古井家住宅修理工事報告書より

 

 

 

 

 架構模型 全景

模型では地盤面をつくらず、礎石で地盤高を調整した。 下屋柱には、貫を入れていない。

 

 架構模型 部分 

 

上屋柱と下屋柱は、足固貫、内法貫で縫うが、内法貫は、梁行柱通りすべてには入っていない。

 

 

参考 復元に至る考察      

 古井家住宅修理工事報告書には、復元決定に至る間の考察過程が、綿密に記されています(結果だけが述べられるのが普通)。 そのいくつかを以下に抜粋紹介します。記述中に出てくる番付は、下図の通りです。

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

古井家住宅の修理工事および修理工事報告書の担当者

監修:工事監督 鈴木嘉吉  本文・写真・図面:工事主任 持田武夫  竣工写真:姫路市 八幡扶桑  大工棟梁:上月町 和田通夫 

 

Viewing all 515 articles
Browse latest View live