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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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「はじめに,Ⅰー0日本の自然環境」 日本の木造建築工法の展開

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「日本の木造建築工法の展開」   

PDF「はじめに,Ⅰー0日本の自然環境」 A4版11頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 ・・・・
  けだしわれわれがわれわれの感官や 
  風景や人物をかんずるやうに
  そしてたゞ共通にかんずるだけであるやうに
  記録や歴史 あるいは地史といふものも
  それのいろいろの論料といつしよに
  (因果の時空的制約のもとに)
  われわれがかんじてゐるのに過ぎません
  ・・・・
        校本 宮澤賢治 全集 第二巻 「春と修羅」より

 

主な参考資料 原則として、図版には引用資料名を記してあります
季刊カラム №78(新日本製鉄株式会社)  理科年表(丸善)   地震の揺れやすさマップ(内閣府) 注 インターネットで公開   世界地図帳(平凡社)  日本大地図帳(平凡社)   利根川と淀川 小出 博(中公新書) 注 1975年初版 現在絶版
1/5万および1/20万地形図(国土地理院)   滅びゆく民家 川島宙次(主婦と生活社 絶版)   日本の民家3 農家Ⅲ、同 民家1 農家Ⅰ、同 6 町家Ⅱ(学研 絶版)   古井家住宅修理工事報告書(古井家住宅保存修理委員会)   日本建築史図集(彰国社)   日本の美術 №80、№196(至文堂)   奈良六大寺大観 法隆寺一、東大寺一(岩波書店)


 

はじめに  

 今から30年前の1980年(昭和55年)10月、新日本製鉄株式会社の広報誌「季刊カラム №78」に、桐敷真次郎氏(建築史家、東京都立大学名誉教授)が「耐久建築論――建築意匠と建築工法のあいだ――」という一文を寄稿し、建築の耐久性の確保の必要を論じています。
 木造建築の耐久性についても一項目を設けて触れられていますが、この30年前の一文は、いわゆる100年住宅、200年住宅が話題になっている現在こそ、耳を傾けてよい内容と言えるでしょう。
 そこで、木造建築の耐久性について書かれた部分を全文引用紹介します。 
要所をゴシック体(ブログでは太字)にし、傍点(茶色)を振った以外は原文のままです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
木造建築の耐久力
 われわれは、伝統的日本建築には耐久力がないことを無造作に常識化している。これは、鉄筋コンクリート造は耐久力があるという常識の裏返しである。
 しかし、事実はそれほど簡単ではない。日本建築といっても、社寺と住宅とは異なるし、住宅といっても、本格的な書院造や民家と、貸家・建売り・バラックの類とはまるで違う。
 しかし、ふしぎなことに、建物の維持管理には一定の通則があるようで、毎年の点検、10年毎の小修理、30~50年毎の大修理、100~300年で解体修理というのが一般的な手入れの仕方である。社寺・宮殿のような文化財建造物でも、ほぼ似たような数字があげられている。
 ていねいな維持管理をすれば、木造建築の寿命もかなりのものとなるのである。
 わが国の伝統建築では、このような手入れや修理がしやすいような工法が用いられてきた。
 例えば屋根であるが、瓦もタルキもはずしやすいようにつくられている。また柱も、腐りやすい下端部は根継ぎによって比較的簡単に補修できる。日本壁、ふすま、障子、タタミ、押縁下見に至っては、始めから定期的に修理、或は更新されることを前提にしている。適切なメンテナンスと結合されれば、伝統的日本建築はやはり耐久建築なのである。
 これに対して、現行の木造建築は、始めから耐久性を放棄しているように見える。当座の強度だけを問題にし、しかも、それを法的に、或は技術的に正当化しているのである。
 まず柱が4寸(12cm)角以下でもよい、10㎝角でもよいと、むしろ伝統規格より弱化させている。これは構造的な面ばかりでなく、建具のおさまりが無理になるという点からも改悪であろう。
 まして、耐久力の劣る外国材を用い(原註)、合理化と称して柱数を最小限にすれば、耐久力は更に落ちる。柱を細くした結果、厚い貫が通せず、代りに筋違い(すじかい)を奨励した。これも柱の上下を切り欠き、桁を突き上げ、結局金物を使えという結果になってしまう。
    原註 これは現在(1980年当時)輸入されている外国産木材のことで、伝統的西欧建築に用いられているオーク材は300~500年の耐久力がある。
 金物を多用せよというすすめには、始めは心ある大工たちが強く反抗した。金物をできるだけ用いないことがよい仕事のしるしだったからである。
 日本では「釘を全く使っていない」というのが、建物の優秀性をあらわす表現だった。釘を全く使わない木造建築などあるわけがないが、金物をやたらに使ってようやく立っているような木造建築は下等であるという事実はよく表現されている。
 更に、防火性を高めると称してモルタル塗りを奨励したが、モルタル塗りの厚さが薄すぎて、亀裂による浸水が軸組を傷めてしまう。モルタル塗りは少なくとも3cm以上の塗厚がなければ耐久性がなく、日本でも大正・昭和初期にはそのように行われていた。
 また最近は、断熱性を高めると称して、壁のなかにやたらに詰物をすることが流行している。軸組が早くむれて早く腐るほうがよろしいとしているような状況である。
 どんな建物にも布基礎と土台を入れるという実務も耐久力を落している。布基礎にボルトで緊結された土台は、腐朽してもまともに入れ替えることができない。そのうえ、一般に行われている布基礎の規格程度では、不同沈下を起こしやすく、起こしても直しようがない。せめて土台だけは檜の4寸角としたいが、そのようにしている住宅を見ることは殆どない。わずか2間か2間半のスパンに鉄梁を組み込んでいる住宅などをみると、わが国の木造建築の衰退堕落もここまできたかと痛感するのである(引用者註 この部分は、1980年当時の基準や状況を基にしての言である)。
 屋根を軽くせよという一言で、鉄板葺きを流行させたのも同じ傾向である。正直に見れば、今日でも瓦にまさる葺材はないことが誰にもわかる。鉄板葺きのメンテナンスの苦労と費用を考えれば、瓦葺きの維持の楽なこと、耐候性、雨音防ぎ、落着きと重厚さなど、多くの長所が明らかである。
 第一、瓦葺きであるか、ないかで、大工の評価や意気込みがまるで違う。鉄板葺きであるというだけで、心ならずも気が入らず、手を抜いてしまうのである。しかし、瓦葺きが断然すぐれているという建築家の発言を聞いたことがない。確かに鉄板葺きは勾配をゆるくできるので、屋根のおさまりが楽になる。だが、緩傾斜の屋根は台風に弱い。風による屋根の吸い上げや、軒先のあおりを防ぐため、またしても手違いカスガイなどの金物でタルキを留めなければならない。雨押えを鉄板でするのも悪いプラクティスのひとつである。雨押えの取り替えは容易でないから、当然銅板を標準工法とすべきであるのに、銅板をぜいたく品のようにみなすのはおかしいのである(引用者註 この部分も、1980年当時の基準や状況についての言)。 
 どの国のどの時代にも、一般建築の良心的な規格や標準工法というものがあるが、以上のような明々白々たる技術的低下、水準の引下げを公然と行い、それを進歩と考えている国は、残念ながらわが国ぐらいしか見当たらない。
 もちろん表向きの理由には、耐震性と防火性能の向上という大義名分がある。布基礎を入れ、土台を入れボルトで緊結し、金物を多用し、屋根を軽くすれば、確かに耐震性能は上る。しかし、所詮たいしたことはない。モルタルを塗り、鉄板や石綿板で蔽えば、確かに防火性能は高まる。しかし、これもたいしたことはない。耐震防火のためだけに、耐久力と意匠を犠牲にしているからである。
 建築にとって、耐震・防火・耐久力・意匠のいずれも大切な項目である。
そのなかで、むかしから「便利・耐久力・意匠」といわれている建築の三大項目の二つまでを犠牲にして耐震防火を達成したところで、建築学の進歩とはとうてい言い得ない。現に日本住宅の建築的水準は、設備・備品を除いて、史上最低のみじめさに低迷している(引用者註 1980年代の状況)。
 ローコストの住宅を提供するという名目は、社会的にはいかにも立派で、大衆にはアピールするかもしれないが、建築的には良心的ではない。建築は高価なものだから、より耐久力があるようにつくるという方がよほど健全である。このように考えれば、現代といえども、それほど多種多様の工法が残るわけではない。良心的で健全な建てかたとは、かなり限られた手法となるはずである。これが意匠にも反映する。健全な工法から生まれてくる意匠だけが健全なのである。日本の木造建築の再生はそこからしか現われないだろう。しかし、そうした耐久建築の研究がどこかで行われているという形跡さえ、いまは全くないのだ(引用者註 現在の状況は、1980年代よりも更に悪化しています)。

 

Ⅰ-0 日本の自然環境・・・その特徴

1.日本の地形・地質 

 縄文期は、東北日本(関東以東)が西南日本に比べ栄える。
弥生期になると、逆転し、西南日本が栄えるようになる。
この変化は、地質、地形、地勢の違いが影響していると考えられている。                                                                

       

 

           

大地形区  A1 北海道主部内帯   A2 北海道主部外帯   B1 東北日本弧内弧   B2 東北日本弧外弧   C1 伊豆小笠原内弧   C2 伊豆小笠原外弧   D1 西南日本内帯   D2 西南日本外帯   DC1 中央日本西帯(中部山地)   DC2 中央日本東帯(関東)  E1 琉球弧内弧   E2 琉球弧外弧   日本の地形区分理科年表2006年版(丸善) より


  東北日本の地質は第三紀、四紀の若い岩層が多く、西南日本では古生層、中生層、花崗岩類などの古い岩層が多い。また、東北日本では第三紀以降、火山活動が激しく、それに関連し、第四紀層の広大な平原が発達する(関東平野など)。

  つまり、日本列島の地質は、西南日本は古い岩層でできているのに対し、東北日本は、この古い岩層の基盤の上に、新しい岩層が堆積したもので、その過程で起きた火山活動にともなう噴出物がさらにその上を覆っている(関東ローム層など)。東北日本の山間部に地すべり地域が多いのは、そのためである。

 この両地域の地質の特徴は、畑地の面積に示される。すなわち、畑地は東北日本の方が多い。

      小出博著 利根川と淀川(中公新書) より
  

 


2.ランドサット画像による日本の地勢  日本大地図帳 1994年版(平凡社)より
[ ランドサット画像の色 ] 東海大学情報センター 中野良志氏の解説による
 樹林や草で覆われているところ:明るい赤       裸地が増えまたは枯れ始める:ピンクや白っぽい肌色     乾いた裸地や稲刈り後の水田:白く明るく見える    火山の山頂などの裸地:濃い青    水の張られた水田や都市:暗い青~青系の色      紅葉時の森林:黄色    都市:中心部が濃い青で、周辺部は淡い青になる。 都市の青の中の赤は公園や緑地    雲:白く、黒い影が北西側にある  雪:白い

  

   

 

 


3.気候・・・・各地の気象 理科年表2006年版(丸善)より抜粋

          

         奈良と西安では、平均気温、平均湿度は大差ないが、年間降水量が著しく異なる(西安は奈良の約40%)。

 

 

 4.地震
a 地震の伝わり方 地震の揺れやすさマップ(内閣府)より 

 地震の揺れ方は、表層地盤の状況によって異なります。
 建物を建てるにあたって、建設地の選定が重要である理由の一つです。

       

 

b 表層の揺れやすさ 地震の揺れやすさマップ(内閣府)より

         

 


 参考 表層の揺れやすさと微地形区分(東京都の場合) 地震の揺れやすさマップ(内閣府)より 

                               

 

       

 東京地方のランドサット写真(6頁)と、上記2枚の区分図(地震の揺れやすさ、微地形)とを対比すると、現在の東京では、人口が極めて揺れやすい地域に集中していることが分ります。

 

c 日本の地震源の分布  理科年表2006年版(丸善)より

 地震の震源と地質・地形が大きく関係していることが、5頁の地質構造図、地形区分図との対照で、分ります。

 建物の地震への対応は、全国一律ではなく、建物の建つ地域の特性に応じて勘案するのが妥当な方策と言えるでしょう。   古来、日本では、それぞれの地域の特性を十分認識して、その地域なりの方策を採っていたと考えられます。   地盤の悪い土地に建てる建物と、良い土地に建てる建物とを、同じに扱うと不合理な点が多々生じることは明らかです。

     

参考 世界地震分布図  理科年表2006年版(丸善)より  

     

 

 


「Ⅰー1人はどこにでも住めるか」 日本の木造建築工法の展開

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 「日本の木造建築工法の展開」   

PDF「Ⅰー1人はどこにでも住めるか」 A4版7頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

Ⅰ-1 人はどこにでも住めるか・・・・集落:村、町の立地の条件

  人が住むことができるための「必要条件」は、「食料」「飲み水」が得られることです。

「必要条件」とは、生物の生存条件にほかなりません。そして、この「必要条件」の有無が「集落」の原初的な段階での「立地」選定にあたって、根本的な選択・判断指標になります。

  日本の場合、当初、「飲み水」は湧き水や井戸が頼り、「食料」は主として、米が得られること、手近に稲が栽培できることでした(稲作をはじめとする農耕は縄文期の後半から始まるとされています)。

  東京から中央線で西へ向う車窓からは、視界の一帯が建物で埋め尽くされているのが見えます(下の地図は、東京周辺の国土地理院の1/20万地形図:1989年発行。都心から30~40kmは家並で埋められている)。

 こういう風景を見慣れてしまうと、人はどこにでも住める、と思ってしまうかもしれませんが、こうなったのは、そんなに昔からではありません。

 東京でも、最初に人が住み着き「集落」が生まれたのは、「必要条件」の確保できた限られた場所です(古代~中世、東京の中心部は沼沢地。13、14頁参照)。そして、「必要条件」を確保するための「技術」の進展とともに「集落」が増殖する、この「必要条件の確保の連続」が現在の東京を生んだのです。  註 「集落」とは人びとが定住することにより生まれる一定の地区:村や町を言う。「落」:「落ち着く」の意⇒落着、落慶・・・。落一字でも村、町を指す。

 一方、西欧の都市では、建物で埋め尽くされるようなことが起きてはいません(下図の地図はロンドン周辺地図:帝国書院刊 基本地図帳より)。それは、人びとが「必要条件」だけで「事」を決めず「十分条件」をも考慮したからです。「十分条件」とは、「人間的」「感性的」な「条件」と言えばよいでしょう。

 たとえば、弁当持参で山道を歩いているとき、腹がへったからといって、所構わずに弁当を開く、ということはなく、弁当を食べるのに相応しいと思える場所を選びます。日々の行動に際して、無意識のうちに行なっている「選ぶ」という判断をさせるもの、それが「十分条件」の中味なのです。

       

 

      

 東京でも、第二次大戦前の都市計画では、西欧の都市にならい、環状8号線(都心から約15~20㎞)の外側にグリーンベルトを設ける構想がありました。その内側が市街化区域、そこから出るゴミの処理は、グリーンベルトに設ける清掃工場で処理することも計画されていました。

 しかし、この「理念」「計画」は、「地価の上昇⇒地域経済の活性化」という「全国総合開発計画」の下で消滅してしまいます。 

 ただ、清掃工場だけは「計画」どおりにつくられ、住宅密集地の中に清掃工場があるという現在の姿になったのです。当初の構想の姿は、砧緑地の中の清掃工場に見られます。 ただ、清掃工場だけは「計画」どおりにつくられ、住宅密集地の中に清掃工場があるという現在の姿になったのです。当初の構想の姿は、砧緑地の中の清掃工場に見られます。

 以後、東京は、田畑や山林が家々に埋め尽くされ、西欧の都市とは異なる姿になってゆきます。

 それは、「必要条件」の「整備」のみにつとめ、「十分条件」について思いやることを忘れた結果と考えることができます。

 参考 地図で見る東京の変遷 

      

図1 古代の関東平野 利根川と淀川(中公新書)より

 関東平野の西半分の河川は東京湾へ、東半分は霞ヶ浦一帯を経て銚子にそそいでいた。 両者の間に、微高地があり、それが分水嶺になっていたからである。  徳川幕府は、江戸に居城を移してから直ぐに、この分水嶺を掘削し、利根川の流路を銚子へ変える工事を行なった。 その目的は、水害防止とともに、舟運・水運の安定化:水量・水位の安定化にあった、と考えられている。

 

         

図2 中世末の東京 図集 日本都市史(東京大学出版会)より

中世末、浅草寺、江戸氏の江戸館、大田道灌の居城などのほかは、一帯がどのような状況であったかは不明。図は、考古学資料、地質、地図などを基にした推定図。

 

        

        図3 寛文年間(1660年代)の江戸 図集 日本都市史(東京大学出版会)より

 

 

        

      図4 江戸の藩邸の立地 同書より

 

         

       図5 明治30年頃の東京中心部 陸地測量部 1/20000地形図より   

右図の浅草米庫とは、徳川幕府が設置した米の備蓄倉庫。  専用の船着場を持つ。 図3にも見える。

関東平野の米が、この米庫に集められ、武士に配布された。このことから、この一帯を蔵前と呼ぶようになった。   この一帯、いわゆる下町は商工主体、山の手は武士、そして郊外に農民、とのように住み分けられていた。 商工がこの一帯に定着したのは、通運の便を必要としたから(水害などは承知の上)。  当時の通運では、水運・舟運が大きな比重を占めている。 これは明治になっても続き、鉄道開設後は水運・鉄道が両輪となり、一帯の商工業を支えてきた。その延長で、近代的な工場群も一帯に成長する(鐘淵紡績、王子製紙、十条製紙、石川島重工・・青字はいずれも地名)。

 昭和30年代に入り、自動車運送が盛んになると、工場立地の要件が変り、工場は一帯から撤退し始める。  そしてその跡地が中高層集合住宅に変貌した。  ただし、その一帯は住居地としての必要・十分条件(次頁参照)の整った場所ではないことに留意する必要がある。

 

 「集落」の成り立つ「必要条件」「十分条件」双方を充たして生まれ、建物で埋め尽くされることもなく当初の姿を残している地域の例を見てみます。それは、近世までの(あるいは、第二次大戦前の)日本の村・町の姿の名残(なごり)にほかなりません。

 下の地図は、最近、研究学園都市の周辺の「開発」の結果、とみに変貌の著しい筑波山麓一帯が、まだ静かだった20年ほど前の地図です(1/5万地形図 国土地理院より 網掛けは筆者)。

   

 網を掛けてあるところは水田です。水田が東の方へ伸びています。地図でAと記した部分です。このような地形は、東側の山から流れてきた川によってつくられています。

 地図には、北側と南側に東に向う道が2本あります(北側は広く、南側は山道で細い)。いずれも坂道で、鞍部を越えて山向うの集落に至ります。と言うより、地質上、水が流れて鞍部が生まれた、その谷沿いに峠越えの道ができた、と言う方が正しいでしょう(谷にいつも水が流れているわけではありません)。

 このAの部分は、何の手も加えずに稲を育てることのできる絶好の場所、天然の田んぼでした。しかも裏山では綺麗な水が湧いています。「必要条件」はそろっています。そのような所を見つけて人は住み着きます。Aには古代の条里制の水田遺構がありました。

 そして集落は、おそらく山裾の田んぼの縁にあったのだと思われます。Bと付した東側の「六所」「立野」そして、田んぼの南の「館」などのあたりです。どこも飲み水には恵まれています。   網をかけた水田の北の縁、筑波山の南麓に沿ってほぼ等高線上にBと付した集落が並んでいます。この集落内には、北側に自噴する泉水のある庭を設けている家があります。   この等高線のあたりは、筑波山に降った雨水が地下水となり地表近くに表れる地点ですが、等高線のどこでもいい水が得られるのに、Bと付した集落は連続せずに飛び飛びに並んでいます。

 これは、「必要条件」が揃っていれば、かならずそこに住み着くとは限らない、ということにほかなりません。ここで「選択」が行なわれているのです。そして、その「選択」にあたっての指標になるのが「十分条件」なのです。これは、あたりを実際に歩いてみると直ちに納得します。集落のない場所は、まわりに比べ、それほど気分のよい場所ではないのです。

  東京の近くだったら、所構わず家が建てられると思われますが、このあたりでは、人はこういう「選択」をして住み着いたのです。

 さて、天然の田んぼの容量には限りがあります。天然田んぼだけで暮せる人口には限りがあるのです。そこで次に人が住み着くのは、天然田んぼよりは見劣りはするけれども水田化できる場所です。それは、河川のつくりなした「自然堤防」や「中洲」で、そこに開かれた新たな集落を「新田」と呼びます。地図ではCという符号を付けてあります。当然、Bのような良好な地下水が手近に得られるわけではなく、井戸が頼りですから、井戸の水質のよいところが集落の拠点になります。  Cには、新たに人が外からたどりついて開いた場合と、周辺の集落から意図的に住み着く「新田」の場合とがあります。後者の場合は、一般に出身の集落名が付けられます(例:「国松新田」)。 

 この地図の範囲にはありませんが、近世になると、政府による大規模の開発による「新田」も生まれます。この開発を実際に差配した人たちを「地方(ぢかた)巧者(こうじゃ)(功者)」と呼んでいます。

  このほかに、この地図には見当たりませんが、奈良盆地などで多く見かける「環濠(かんごう)集落」と言われる集落があります(関東平野にもあります)。   これは、さらに条件の悪い低湿地に住み着く方法で、周辺に濠を掘り、その土で居住地をかさ上げするのです。濠が排水先になり、居住地は居住条件がよくなります。当然飲み水は井戸が頼りです。

  以上が、この地域の(多分、各地域の農業集落に共通の)諸相なのですが、1960年代頃から、大きく変ってきます。その要因は、簡易水道の普及です。

 自給体制:農業や商業は早くから大きく変っても、飲み水に頼ることだけは変りませんから、住居の立地は相変わらず集落内でした(「必要条件」とは、人が生きてゆくための条件なのですが、その具体的な姿は時代により変るのです)。    これが簡易水道の普及で大きく変り、居住地が集落の外に出るようになってきます。中には田んぼを埋め立てて、そして住宅メーカーも進出し始めています。集落の「秩序」が大きく変り始めた、と言うより、新たな「秩序」が見出せないまま集落が崩れてゆく、と言う方が当っているでしょう。

 観ていると、その土地での暮し方とは関係なく、単に都会の恰好を追いかけているのではないか、とさえ思います。なぜなら、自然環境はまったく以前と変っていないのに、「都会の環境?」向きのつくりが多く見られるようになっているからです。

「必要条件」は所によって変ることはありません。

 一方で、「十分条件」は地域によって異なって当然なのですが、「各地域なりの十分条件」を考えない「都会風のつくりかた」が農村地域にも現われ始めている、そんな風に思えます。たとえば、きれいな空気に満ちている地域で、開口部を小さく狭くして、「空調」を前提にしたつくりが増えている、などというのもその一例と考えてよいでしょう。

 建物は、その地の「必要にして十分な条件」を備えて初めて、その地になじんだ建物になる、ということを、あらためて認識する必要があるのではないでしょうか。

 以上のように、日本では、当初山裾の湧水点近くに居を求めた人びとは、「必要条件」の獲得技術:井戸の掘削などの利水技術(ダムや水道も含む):の進展とともに、徐々に平地へと進出してきたのです。

  関東平野では、今でこそ東京が「中心」ですが、それは、江戸時代:徳川の世になってからのことです。関東平野に人びとが住み着いたのは、平野を形づくり囲んでいる山なみの山麓、水に恵まれ、自然の可耕地も広がる一帯。とりわけ、平野北部の上州:群馬県(上州・上毛野(かみつけの))の南部、利根川上流左岸のあたりです。   上州の南部一帯は、手を加えないで使える水が豊富でしたから(「大泉」「小泉」などの地名がある)、人が早く住み着き、その中から後の「東国の武士」の祖になる豪族が生まれます。   一帯が古墳だらけであること、時の政府が、官道・「東山道(とうさんどう)」をこの一帯へ通したのも、この一帯の繁栄を物語っています。なお、徳川家も、元をただせばこの地の出です(太田市世良田(せらだ))。    現代の感覚では、「利水」のためには先ず「治水」と考えたくなりますが、最初人びとはまったく逆、「利水」:目の前にある使える水を利用すること:から始めたのです。高崎の標高は80~90m、そのあたりから始まった開拓は、埼玉南部あたりで、標高0mに達してしまい、その水処理の対策として、各種の土木技術が発展する* という皮肉なことも起こります(* 川が川を越える、などという場所もあります)。          

 このように、普段気が付きませんが、日本は、「必要条件を整える術」を用意することがきわめて容易な(いわば特殊な)地域なのです。    「必要条件」が簡単に整えられるため、「都市計画」も簡単に変更可能、その上、「必要条件確保の容易さ」に寄りかかり、「十分条件」を思いやることを忘れた結果、それが今の東京の姿なのです。

 こういうことは、他の地域では普通に見られることではなく、日本という特別な地理的環境ゆえの姿だと言ってよいと思います。当然ですが、世界の他の地域は、すべて日本と同じではありません。

 日本と大きく異なる例を挙げます。    中国西域・敦煌(とんこう)を訪ねたことがありますが、西安(せいあん 古代の長安)から蘭州(らんしゅう)そして敦煌(とんこう)への鉄道沿線で見た風景に強烈を受けました(地名は日本語読み)。一帯はいわゆる「黄土(こうど)高原(こうげん)」。山脈が延々と続きますが、その山肌は赤茶色、日本なら人が住み着くはずの山麓にはまったく人家が見えません。

 この乾燥の激しい一帯では、雨季に山に降る雨雪が地中に深く浸透し、標高最低地点で地表に顔を出す、それがいわゆる「オアシス」ですが(仏像群で有名な敦煌もその一つ)、定住する人びとは、その地を居住地に選びます。「人が暮すための必要条件」を、そこでのみ確保できるからです。

       

        黄土高原 世界地図帳(平凡社)より

 オアシスは盆地の底にあるため、昼間は暑く夜は冷えます。日本では人びとが最初に住み着く土地ではありません。   そして、このオアシス以外の場所の居住地としての「必要条件」の整備は、並大抵のことではありません。河川は遥か彼方のため、水路を設けても、大部分の水は目的地にたどりつく前に大地に吸い込まれてしまうからです(西域には、海に注ぐ河川はありません)。水を吸わない材料で水路をつくるか、吸い込まれてもなお流れるだけの大量の水を流すか、蒸発しない地下水路をつくり汲み上げるか・・・・、それは大土木工事を必要とします。東京のようには、簡単にはなり得ないのです。 

 黄土高原の一般的な住居は、次頁の例のように、版築でつくられるのが普通ですが、西域に比べれば降雨量の多い古代中国の中心長安(それでも、日本の約4割:「各地の気象」参照)、現在の西安郊外には、下の写真(撮影筆者)のように、地面に約10~15m角、深さ5mほどの竪穴を掘り、それを中庭:広間として、四周の壁に横穴の房を掘って(すべて手掘り)住居にする例が見られ、窯洞(ヤオトン)と呼ばれ、現在でもつくられています(崖に横穴を掘り房にする例もあります)。   冬暖かく、夏は涼しい快適な居住環境となるようです。  版築は、この土層から学んだ発案だという説もあります。

       

         丘陵の端部:崖に掘られた横穴住居    窯洞1 広間:中庭に別棟の建屋     窯洞2 典型的な例 

       窯洞(ヤオトン)の内部(房)は下の写真のようになっています。 

         

        中国伝統民居建築(台北 美工図書社 刊)より 

            

   

「筑波通信№6 後半, あとがき」 1981年8月 

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(「筑波通信№6 前半より」続く)

 

 いったい。「公共」とは何なのか。

 「公共」施設、「公共」投資、「公共」の福祉、「公共」の利益・・・・微妙に意味が違うようだ。唯一共通していること、それは、ひびきがいいということだ。字づらからしてなにか「みんなのもの」というような甘いひびきがある。みんな、自分も「みんな」のうちに含まれているかのような幻想をもつ、そういうことばだ。

 しかし、この「みんな」のなかみを考えだすと、とたんにそれはあやふやになる。私に言わせれば、これは極めていいかげんで、それ故また極めて危険なことばである。それが甘いひびきをともなうが故に、なおさらそう思う。

  先日、行政マンと話をする機会があった。住民参加の行政、それが「公共」のためだと考えているという。ただ、多様の住民の意向のなかから「どうやって最大公約数を決めるか」それが問題なのだという。これは一見したところ、良心的なやりかたに見えるだろう。しかし、つまるところこの場合、「公共」とは人々の「最大公約数」だということだ。そこで単純に、「最大公約数」なのだから人々の共通の最低の意向がくまれている、などとよろこんではいけない。最大公約数ということばは、もののたとえにすぎず、人々の意向なるものは、「数」みたいに割り切って考えられはしないのだ。二人の意向を足して2で割ったら平均値になった、なんてことがあり得ないようにあり得ない。建築の世界で「公共建築」という言いかたがある。この意味は、「不特定多数」の人々が利用する建築:学校、病院、図書館‥‥つまり「公共」が利用する建築のことだ。「不特定多数」という言いかたは、個人対応の建築は特定の個人を対象とするが、「公共建築」の利用者は特定できない多数である、そういう見かたからでてくる言いかたである。つまり、この見かたでは、「公共」とは、特定できない大勢の人たちということになる。

 だから、公共建築の研究者たちは、大抵のっけから、その利用者を「群れ」として扱うことが多い。いろんな人がいて、つまり特定できないから、個々の人につきあえない、群れとしてしか見ることができないというわけだ。かくして、人々は「群」としてひとまとめに括られる。統計的に処理される。そこでは、「個人」は消去される。先の「最大公約数」の発想も、構造は基本的にこれと同じである。いずれにしろ、公共を考えるために、「個々人」は消去される。されねばならない。

 そしていま、仮に「公共」=不特定多数の「意向」が定まったとしよう。「公共の論理」が定まった。そうなると、いま大抵その「公共の論理」は(その成りたった過程を離れ)自立性を確立してしまう。簡単に言えば、「公共の論理」が「個人」を越え、「個人」を支配する、つまり「個人の論理」より上位のものとして機能するもののように、あたりまえのように、扱われてしまうということだ。なぜか。おそらくきっと、こういう答が返ってくるはずだ。公共、つまり不特定多数の人々とは、個人の集合であり、その集合から抽出したのが、この「公共の論理」である。故に、個人は公共に包含される、と。

 しかし、それはうそだ。論理のすりかえである。この「公共」理論では、「公共の論理」が「個人」より上位にたつというときになって初めて「個人」が顔を出すのが特徴だ。そのときまで、「個人」は消去され、不特定多数として扱われていたのではなかったか。

  「公共」という言葉が危険な言葉だと私が言うのはこのためなのだ。それが、「個人」を左右し支配するのに極めて有効に機能するのが、目に見えるようだからだ。先の新幹線の騒音問題の例のように、既にそのようになっている。「公共」が「個人」に優先するというのである。

 先きごろの教科書問題が世をにぎわしていたとき、批判派の人たちが、「公共の福祉」をもっと前面に押しだして書かれるべきだと言っているという新聞の見出しを読んで、一瞬とまどった。そんなはずはない彼らがそういうことを言うわけがない、福祉は金がかかりすぎると言っているのに、どうしてか。そうではないのである。記事を読んで納得した。原子力発電とか工業立地とか色々の「公共」投資に対して反対が多い(ためにことが運ばない)が、それは「公共」の利益つまりは「公共の福祉」に反することだ、この「公共の福祉」が(個人よりも先ず)大事であるということを、もっと前面に出して書<べきだ、というのであった。

  あるいは、事態はもうここまで来ていると言った方がよいのかもしれない。

  いま、ひょいと、この「公共」の文字のところを「国家」あるいは「お国」の文字に置き替えたとしよう。直ちに分ることだが、そのまま通用する。論理の構造は何も変ってないのである。36年前そのものだ。いずれの場合をとっても(つまり文字がどうあれ)、「個人」を支配する、あるいは、「個人」が自らを殺して従わねばならないより上位の概念・論理がある、という発想であることに何ら変りがない。

  怖いのは、いまのそれが、「公共」というなんとなく甘いひびきの言葉を使っていることだ。「公共」=「みんな」、この錯覚を巧みにあやつれば、なんでもできてしまう。

  「みんな」の利益になるのに、なぜあなたは反対するのか、ということは、あなたは「みんな」でない、「みんな」の一員でない、「みんな」の利益になることに賛成すれば、あなたも「みんな」になれる。この全くの逆転した(というかめちゃくちゃな)論理!に、大抵のあなたはびびってしまうのだ。なんのことはない、反対するのは、あるいは批判するのは「国賊」だ、というのと、いったいどこが変っていよう。「民主主義」というもの、敗戦を契機に獲得した「民主主義」というのは、こんなことだったのか。私には、とても信じられない。

  私の民主主義、私の自分で身につけたと思っている民主主義では、いかなる場合でも、「個人」は消えることはない。「個人」を認めないものは、私にとって民主主義ではない。だから、たとえば、「個人」の集まりを「不特定多数」で処理して済ますなどという考えは、それこそまさに、「個人」より上位の概念としての「公共」があるという考えをバックアップするようなものだ、いやことによると、もともとそういう考えだからこそ「不特定多数」がでてくるのだ、そのように私は思う。

  私には、「個人」のいない「公共」など全く思いも及ばないのである。いま、「公共」は、実体のないひびきだけよい「ことば」になってしまっている、むしろ、言うならば一種の「操作用用語」となってしまっているように、私には思える。

  このような「公共」「個人」の変な関係は、日本独特のものなのだろうと思う。いま、この「公共」と、それに対応すると思われるpublicについて、辞書は何と説明しているか、まるのまま転載すると次のようだ。

 

    

因みに「公」の字のもともとの意は、つつぬけである、つまり、閉じていない(open)ということの象形なのだそうである。

 彼我の差歴然たるものがあると思うのは私だけであろうか。我が日本において「公共」とは、社会一般であると同時に即「政府」「お上」なのだ。当の「お上」も、また「下じも」も、そう思ってきた、それが辞書の説明となって現われている、そう見てよいだろう。だから、普通publicを「公共」と訳して済ましてきているけれども、原文において「個人」が(あたりまえなこととして)生きていたものが、日本語になったとたん、ことによると(あるいはきっと)「個人」はどこかへ吹きとんでしまう、つまり、まるっきり意味が違って読まれてしまう可能性が強い。(こういう例は、前にちょっと書いたけれども、文明開化以来、非常に多いはずである。「地方」とloca lの例もその一例だ。)

 (もしかすると)日本人は、その長い習慣から、個人を越えた上位に、頼るべきよすがを欲しがる性向があり、そういう「お上のいうこと」にすなおに従う癖から、36年もたってもまだ、披けきれていないのかもしれない。

 しかしながら、辞書にも「公」は「私」と対をなすとある如く、「公」と「私」あるいは「個」は、それを正当に対置して初めて、そのそれぞれの意味が明らかになるはずで、そうせずに、どちらか一方のみでことが処理されるとき、事態がおかしなことになる。とりわけ、「私」の係わりないところで生まれた、得体の知れない「公」に「私」が押しつぶされるのは、全く許しがたいことだと私は思う。

  それゆえ、現実に目に見えた形となって現われてくるところの「私」たちの心情を逆なでするような諸々の(人為的)現象に対して異議をさしはさむのはもちろんであるが、むしろ、そういった現象の拠ってきたるものの見かた、考えかたに対して、より強く異議をとなえ続けたいと私は思う。それが、おそらく、私たちの世代の役目なのではなかろうか。

  私は、あの8月15日前の状況が何であるか、体でそれを感じたわけではない。それには幼なすぎた。しかし、いかなる理由があろうとも、あの8月15日以前には戻りたくないし、また決して戻したくないと思う。なぜなら、私は、私の身につけた民主主義は決し誤っていないと思うし、そして、それがきらいではないからだ。

あとがき 

 〇いまこの号は、八ヶ岳を目の前にして書いている。大分かすんでいる。秋から冬あるいは冬から春、それも朝か夕がたがほんとはいい。そういう山をみていると、山をみているようで、みている自分がそれに対置されてみえてくるような、なにかそんなこわい感じがしてくることがある。(こういうときのみるは、どの漢字をあてたらよいのだろうか。) そして、私のようにときおりではなく、いつも山に囲まれている人たちはいまどうなのか、一度尋ねてみたい気がする。

〇この8月15日、諏訪湖の花火を観に行った。ちょうど満月。盆地を囲む山々の稜線が、そこだけ月あかりに照らされ淡く輝きあとは空に溶けこんでいた。もう秋である。花火は壮観であった。ずしんと体にこたえるあの音、これがないと花火ではないのだが、あのシュルシュルという音とともに、それはどうしても高射砲と艦載機の機銃の音を思いださせ、慣れるまで、どうもいけなかった(東京の防空ごうにもぐっていたころのことだ)。こういうちょっとした光景や音、ときにはにおいまでも、それは突然忘れていた昔の一瞬の情最を頭のすみから掘りおこす。

 建物づくりや町づくりというのは、本質的に、いつの日にかこういう具合に掘りおこされる情景の根となるものをつくっているのだということに、気がつかなければならないと思う。

〇こんな内容の文を書きつつ、一方で私は車の利便に酔って?いる。車に限らず、諸々の近代「文明」のもとで暮している。それを統御しているのか、それに統御されているのか。

〇それぞれなりのご活躍を祈る。

                                            下山 眞司

「筑波通信№6 前半」 1981年8月

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PDF「筑波通信 №6」1981年8月 A4版12頁 

 

  「筑波通信 №6」  1981年9月

     「8月15日」によせて‥‥‥「お国のため」は「公共のため」?

 いまから36年前の8月15日、私は小学校の3年生であった。正確に言えば「国民学校」3年生である(私の入学の年だったかに改名されたのだ。卒業のときは、再び小学校の名称になっていた)。

 そのとき私は、山梨県の竜王という町にいた。もともとは東京の(その当時の)西のはずれに住んでいたのだが、その町へ、いわゆる「疎開」をしていたのである。

 なぜ「避難」というような言葉でなく「疎開」を使ったのか、興味深い。

 普通「学童疎開」あるいは「集団疎開」の名称が有名であるが、「疎開」という言葉のもともとの意味を知るには「強制疎開」という言葉があったということを思いだすだけでよかろう。空襲などの被害を軽減するため、住人を追いだして家々を強制的にとり壊し空地をつくるのである。もうもうと土煙りが上り建物がこわされてゆく光景を審りながら見ていたのを不思議と覚えている。後になって考えてみると、そこは軍需工場のそばだったのだ。何の被害を軽減しようとしたか、言うまでもあるまい。「学童疎開」もまた、先きゆきの兵員確保のためであったことは、敵の攻撃による兵の損傷の軽減のため隊と隊の間をあけることを「疎開」というらしいから、自ずと明らかだろう。つまり、あたりまえと言ってしまえばそれまでだが、あくまでも学童のためでなく、「国」のため、軍事のため、軍事の都合上の方策を示す軍事用語であったわけだ。こういったもとの意味が忘れられ、ただ「そかい」という「ことば」になってしまうのは、たとえ言葉は風化すのが常だとしても、この場合のそれは、非常に怖いことだと思う。

  その疎開していた竜王という町は、甲府盆地北辺の西のはずれ、新宿を出た中央線が甲府盆地を離れ再び信州へと向い登りだす、丁度そのふもと、富士川上流の釜無川(かまなしがわ)の左岸にある小さな町である。まわりに田んぼがひろがり、北あがりの丘には桑畑、麦畑、そしてところどころにすももの畑があったように思う。そこを横切って蒸気機関車がほえるような汽笛の音をこだまさせて列車をひっぱってゆく光景は、絵になったし、そして夜などはなんとなくもの寂しい気分になったものであった。盆地のへりに位置しているからだろう、冬は雪はめったに降らなかったけれど冷えこみは厳しく、そして夏はかなりの暑さになった。(地図参照)

 その8月15日は、かんかん照りであった。地面は乾ききって、歩くとほかほかと白茶けた土煙りがたつほどであった。私は外にいた。何をしていたのか、それは記憶にない。乾いた土の色だけが昨日のことのように目に浮ぶ。昨年の夏トンコウの街なかを歩いていたとき、ほんとに珍らしいことなのだそうだが、雨がぱらぱらと数滴落ち黄土色の地面にありぢごくの巣のような跡だけ残して消えていった、それを見ていて、どういうわけかふとこの日のことを思いだした。そういえばあの時、空は見事に晴れていた。トンコウの乾ききった空の色や、あたりの土っぽい景色、おそらくそういった光景全体の感じが、日ごろ忘れていた幼き日の一瞬の情景の記憶をゆり起こしたのだと思う。やはりそれなりに、印象として強く残っているのだ。

  そんな日の昼下り、戦争は終った。しかし未だ私には、何の感懐もわかなかったように思う。私の1・2年生のときというのは、後にも書くようにただあわただしいだけで、「お国のため」の戦争が何であるかなどという以前の毎日であったように思う。その後3年の2学期まで竜王で過ごしたのだと思うが、学校で何を数わったのか、まるっきり覚えていない。単に忘れたのかごたごたしていて何もなかったのか、それさえもおぼつかない。

  実際、私の小学校生活前半の思い出というのは、ただもうあわただしいの一語に尽きる。1・2年生のころ(東京にいたわけだが)といえば、登校するとすぐ警戒警報そして追いかけるように空襲警報、サイレンにせかれるようにして、防空頭巾を被って必死になって逃げ帰った。そんなことしか浮かんでこない。みじめなものだ。だから唯一楽しい思い出というのは、疎開先の竜王の野山や小川で遊んだことぐらいである。

 3年の3学期、再びもとの東京の学校へもどった。いまから考えてみれば、教育はめちゃくちゃであった。教科の不当な箇所に墨をぬった。おそらく私たちが教科書に墨をぬった最後の世代ではなかろうか。次の代からは新しい教科書に全部変ったのだと思う。それ以後もずっと、私たちは常に、各種の新しい制度が定着する寸前の不安定の時期を通過してゆく破目になる。旧を新に改めるに伴う混乱の状況を、幸か不幸か味わうのだ。3年から4年にかけて、授業はしょっちゅう休みで、自習と称して、教室のなかでただわさわさするだけの、随分とすさんだ毎日であったような気がする。これまた、みじめである。

 そんななかで、5年と6年の担任となったN先生のことは忘れ難い。もしこの先生に巡り会わなかったら、私の小学校時代は、みじめなまま終ってしまったに違いない。そのときN先生は確か23・4歳、特攻の生き残りだときいた覚えがある。

 この先生が、私(たち)に、ほんとうの「民主主義」を教えてくれたのだと、いまでも私は思っている。色々な個牲や特能をもった私たちそれぞれが、それぞれなりにそれを発揮し、ときにはけんかや口論をしながら、それでもクラス全体の合意のもとで生活をしてゆく、そんななかで、ものごとの判断だとか、人への思いやりだとかを、観念的、標語的でなく、身をもって体得していったような気がする(それがいま、花咲き実をつけたかとなると、多少後ろめたい気もするが)。例えばこういうことがあった。当時お互いにみな貧しかった。6年の修学旅行は箱根行と決って、費用の積立てをはじめた。しかし、散人ほど、それも無理だから参加しないというものがでてきた。そうこうするうち、誰いうとなく、全員で行けるようにするため費用かせぎの内職(いま風に言えばアルバイト)をしようということになり、放課後、行くのを渋った人も舎め(もちろん先生も)、クラス全員でそれをやってのけ(百円ライターより少し大き目の停電用石油ランプづくりだったと思う)全員無事旅行に行ったのであった。私たちには、行けない人のためにやっているという気はなかったように思う。だから、行けないと言った人の名を覚えていない。覚えているのは、とにかく全員参加できたということだけ。幸せな時代であった。よき時代であった。数年前、30年ぶりかにクラスの三分の一ほどが集ったとき、なかの一人が言いだすまで、ほとんどみんなこのことをすっかり忘れていて、そういえば、という話になったものである。いまの学校では、色々な意味で、全くあり得ないことだらけであった。そしてみな一様に、自分たちの子どもの通っている「いまの学校」を、大けさにいえば嘆き悲しんだ。その日私たちは昔のように合唱をして別れたのであった(昔、音楽の時間、晴れていれば決まって外に出て、その辺の田んぼや小高い丘に日かげや日だまりを求めて・・・・その当時、東京にも田も林も丘もあったのだ・・・・思いきり歌うのを常とした。この私さえも。)

  時代の混乱していたときのこの2年間、これは、いま考えてみると、子どもの心に決定的な影響を与えたように思えてならない。観念的でなく身をもって、人が生きてゆく、集団で生きてゆく、そのゆきかたの基礎を、この先生は私たちに数えてくれたのだ。おそらくそれは、先生の戦時中の体験がそうさせたのだと、いま私は思っている。教師は子どもと触れあえる現場こそが大事だから、といって管理職試験の受験をすすめられるのを断っているのだと、その久かたぶりに会ったとき語っていた。

 それから30余年、旧から新への混乱のなかで大人になった私たちが自ら身につけたものから見れば、明らかに「民主主義」は風化してしまったように見える。いや、私たちに言わせれば、新しい制度が定着しだす私たちの数年後からして既に風化は始まっているように見える。いま「私たち」と書いたのは、そういう混乱の時期に少年時代を過ごした世代の「私たち」だ。そう思うのは、私たちの思いあがりか、それとも私たちがもう旧くなったせいなのだろうか。

 私は、そして私たちは、そうは思わない。私たちには、できあがった形式に流されるとか、もっともらしい言説をそのままうのみにするとか、そうすれば気楽でよいと思うのに、どうしてもそうはできないという悪い癖がある。そういう時代に育ってしまったせいか、結果は結果として、むしろ過程を大事にし、またなにごとによらず、自ら納得するまで確かめないではいられないという習性がついてしまっている。決してそれは人の言うことを信用しないというのではない。むしろ人の意見はよくきく方である。ただ、その過程・途中をも納得できない限り(これがあたりまえだと思うのだが)いかに偉い人の言であろうが納得しないだけである。そしてまた、私(たち)は、個人を大事にする。集団で行動するときでも、個人をないがしろにした集団の論理は信じない。あくまでも個々人の了解があって集団が成りたつ、こう考える癖がある。形式的あるいは手続きのためにだけの民主主義?は好きではない(先号に書いたしたたかな人たちも大体そうだ)。

      

 数年前、30数年ぶりに、竜王の町へ行ってみた。先に掲げた地図は最近の二万五千分の一地形図である。この地図の左上から右下へ斜めに走っている通称甲府バイパスは比較的よく通るのだが、ついぞ町へは寄らなかったのである。実は、この地形図はこの文を書くにあたって初めて見るのである。そのときも全く地図なしで、昔の記憶に頼ればよいと思い、竜王市街を指示する標識に従ってバイパスを下りたのである。しかし下りた辺は全く見慣れない風景である。止むを得ず、川にぶつかるはずだと思い西へ向う。そして、あっという間に信玄橋へ出てしまった。私の昔いたところはその手前だ。こんどはゆっくりともどった。そして、やっとなんとなく見覚えのある街かどに出る。郵便局もあった。だんだん見覚えあるものが増えてくる。というより、私の頭のなかから、目の前に移り変る光景とともに「昔」が発掘されるという感じである。街すじの家々も、私のいたころから大分たっているから改築されたりして変っているにちがいない。なんとなく見覚えがあるというのは、だから個々のものの覚えでなく、いわばその「雰囲気」なのではあるまいか。次いで私は、昔よく遊んだ田や丘の面影を探したが、どこだか分らず、やっぱり道を忘れてしまったのだと思い、あきらめて町を出た。

 町は思いのほか小さかった。いくら車で走ったからといって、あっという間に通り過ぎてしまう。それほど小さい。私の記憶ではかなりのものだった。しかし考えてみれば、あたりまえなのかも知れない。子どもの世界は、小さくても広いのだ。

 またあらためて気づいたのだが、まわりに見える山が意外に大きい。それはそうで西に見えるのは南アルプスの山塊だし、北にあるの茅ヶ岳である。しかし当時、確かに山はあったけれども、はるか向うにあったような気がする。もちろんそういう山の名はあとになって知ったのだ。八ヶ岳の名は、それはそこからは見えず、甲州往還をもう少し信州よりへ進んでから見えはじめるのだが、それにも拘らず、八ヶ岳おろしの名でそれを知っていた。冬、峡谷沿いに寒風が吹き下りてくるのだ。

 その当時の私のものの知りかたは、全く先号で書いた番頭のそれに似ていた。私がよく知っていたのは、桑畑のひろがり(その名を思い出せないのだが、桑の実を食べにゆくのだ。うまかった。中央線の向う側には人がめったに行かないからたくさんあるとか、色々詳しかった)、用水沿いの足場の悪い学校への近道、竜王の駅へ行く微妙な近道、駅うらに野積みされている防弾ガラスの山(こするといいにおいがする子どもの宝物)、街すじをはるか南に歩いて行くと林の中に飛行機が隠してあること、そして一見道に見えるが紛れもなく隠し滑走路らしいものがあること(あまり広い道なので驚いた)、などなど専ら遊びがらみのことどもだ。いま考えてみれば、私のなかに、一枚の地図ができあがっていたのである。

 けれども、その地図には、信玄橋の向う岸だとか、街すじを北に上った線路を越えた上の方だとかは描かれてない。橋の向うなど、確かに行ったことはあるのだが、いつも橋の途中から気持が後へ向いてしまって、渡りきるとまた早々に逃げるが如く引返したものだ。それほど長く、どこかとんでもないところに行ってしまうような気がしたのだろう。北のはずれもそうだった。だから私の地図にはのってこない。

 いまこの機会に、あらためて本物の地図をながめてみて、意外と私の地図をそれにあてがうことができて楽しかった。そしてあれはこういうことだったのか、などという発見もあった。いま私たちは、なにかというとすぐ本物の地図を見ることから始めてしまうけれど、ほんとにそれでよいのだろうかと、ふと思いたくなる。本物を見てもよい。要は、その見かた、なにを見るかである。「私(たち)の地図」を本物にあてがうことは、30年も昔の、しかも子どものころのものでさえできるのだから、それは多分易しいことだ。しかし、本物の地図の上に「私(たち)の地図」を見ること、それができるか。けれどもそれをこそ見なければならぬのではなかろうか。その気がないと、その本物の地図に記されていること、道一本にしてさえ、そのほんとの意味が分らないのではないかと思う。本物の地図に記されていることは、いかにも現状の地表の表情:地形図ではある。しかしその大半は人々のやってきたこと:人間の営為の記録に他ならない。そしてその記録の大半以上がまだ本物の地図のなかった時代:あるとすれば「私の地図」しかない時代:のそれだということに気づいてよいと思う、いや気づくべきだ。つまり、地図に記されていることの大半は、本物の地図のなかった時代に生きた人々の、もろにその生きてゆかねばならなかった大地と格闘したそのあとなのだ。後に続く人々はみな、そのいわば上ずみをすくいとって生きてきた。そしてそのことを、ちゃんとわきまえていた。近代になって、それを全くわきまえなくなってしまったのである。いま、本物の地図の上にそれらを見る気のある人たちが(特に町づくりや建物づくりに係わりを持つ人々のなかに)どれだけいてくれるだろうか、考えると悲しくなる。

 先に私は、昔よく遊んだ田や丘の面影を探したが分らなかったと書いたけれど、分らなくて当然であった。本物の地図を見て判ったのだが、どうやら私の探し求めていた当の田や丘の辺を例のバイパスが通っているらしい。我が懐しの遊び場はドライブインやガソリンスタンドに占められ、その上を私白身しょっちゅう通過していたというわけなのだ。

 懐しの町は、だから、万里の長城のようなバイパスと大河のような車の流れによって、ものの見事に南北に分断されている。いまや一つの町ではない。向う岸である。いったい、こういう道路というのはどう考えたらよいのだろうか。

 先の私の竜王での幼き日の思い出をよく見なおしてみると、意外に「道すがら」の記憶だとか、道にからんだ話が多い。しかし、よく考えてみればあたりまえ、道というのは、私たちの子どものころ、そういう場所だったのだ。

 町のなかの道は、単に家々をつなぐ交通のため以上に、人々の交流の揚所だったし、実際道のつくりも家々の表情も、それに相応しいものだった。町と町をつなぐ道だって、私たちが必要あって歩くところだった。通学の途中いつも、我がもの顔に所狭しとばかりねり歩いたものだった。筑波には、いまでも少し奥に入ると、そういう昔ながらのところがあるし、時おり赴く山村などで、道ばたを清流が流れ、おかみさんが洗いものをし、わきで子どもが遊んでいたりするのをみて、そういえば竜王の家の前にも、もうほとんど使ってなかったように思うが、きれいな水が流れていたなどと思いだしながら、悲しいのは習性で、いつの間にか私は道の端を歩いている。車なんて通りもしないのに。

 いま私たちの大半は、こういう道のあったこと、道というのがこういうものであったことを、すっかり忘れてしまった。そして、道とは単に交通の場所だと思って別段不思議に思わない。そういう昔的な道というとすぐに、歩行者専用道路の発想になっでしまう。そこにあるのは、人が安全に通行できる、という視点のみだ。このごろは気分よく快適に人が歩けるためにと称してそれがデザインであると称して、わざと気分を変えるために(と思いこんで)色々と曲りくねらしてみたり、石を置いたり、舗装の色を変えてみたり、そういうことが流行している。残念ながら、それは、そうすることが、道の本質を考えたことなのでは決してない。むしろ、昔の道の方が、たとえ砂利道であろうが、数等秀れていたように私は思う。生活が快適だということは、単に視覚的に楽しいなどということではない。こんなことは、ことあらためていうまでもなくあたりまえだ。しかるに、人の住む場所という場所を、指折り数えあげて機能に分解した結果、道もまたこういうふざけた理解!になってしまったのだ。

 昔の町なかの道は町を一つにまとめる役割をはたしていた。よくいう向う三軒両隣り、それは道を介してのはなしであるし、なんとか小路という類の地番表示も、その道を介してのはなしであった。道によるまとまりがあったのだ。いま、町なかの道は町を分けるものになった。向うは向う岸、あるのは両隣りだけ。それは、いまの住居表示のつけかたに端的に示されている。

 もちろん、こうなった最大の原因の一つは、(道の本質が分らなくなったことに加えて)車の増加である。昔からの甲州街道は、甲府の目扱きを通っていた。というのは正しくない。甲州街道の通っていたところが目抜きになったのだ。街道という街道みなどこでもそうだった。それは必らず町々を通過してゆき、その町に用のない人々も必らずその町を通らねばならなかったし、また別にそれを不都合だとも思わなかった。むしろそのことに、町の人も通りすがりの人も、ともにある種の意義や楽しみを認めていたのではなかろうか。街道もまた、とにかく町と一体のものとしてあったのだ。

 こういう道に車が入ってきたときに、しかも大量に入ってきたときに話が一変する。

 車の流れ、その渋滞。町は道により細かくこまぎれに分断される。そして車の側からみれば、別に用のない町なかで、かといって気晴らしに車を離れてぶらぶらするわけにもゆかず、またそうするには駐車場所を探さねばならず、止むを得ず車にこもっていらいらしながら渋滞に耐えるしかない。その意味で、それは全く無用な「途中」である。自動車という乗物は、だから、出発点と目的(到着)点とにだけ係わる乗物だといってよいかもしれない。よその土地を通過するというより、(たまたまよその土地を通過している)道路の上を通過するにすぎない。(これに対して、先にも書いたが、歩いての移動はもとより、鉄道やバスによる移動は、本人の意志に拘らず、必らず他人との係わりをもつ。よその土地を通過するだけでなく、よその人とも触れあわざるを得ない。そういう「途中」をもたなければ、先に進まない。)

 そういうわけで、町のなかから町にとって不要な車を追いだすこと、車にとって無用なところで滞らないこと、これを一石二鳥的に解決しようとする策:バイパスという発想が生まれてくる。道路は交通の揚所だと考えるときの当然の発想だといってよいだろう。

 バイパスはその目的から、市街地(家のたてこんだ所)を離れた場所に建設されるのが常だ。甲府バイパスの場合、先に掲げた地図の元図を拡げてもらえば一目で分るけれど、東の端から西の端まで、甲府市街地を南回りで大きく迂回している。おそらく、バイパスの当初の目的はいまのところ達しているものと思う。実際、車の立場でいえば、片道二車線になったいま、通り過ぎるにはまことに快適で、逆に甲府市内に行くにはどうしたらよいか迷うくらいである。気をつけていないと通り過ぎる。

 これで一応、問題は解決されたようにみえる。しかしよく考えてみると、それは甲府市内の問題を解決したにすぎないのではなかろうか。なぜなら、このバイパスはとりたてて竜王にとって必要ではない。もともと大きな街道が通っているわけでもないから、車の量もさほど多くなく、別に問題があったわけでもない。そこへ、いわば突如として、万里の長城のような道路と車の大河が出現したのである。町はほぼ完全に二分されたのである。なんのことはない、市街地で不要と考えられたものが、もともと車とは縁の薄かった隣りの小さな町や村に肩替りされたのだ。けれどもそれが、迷惑の肩替わりなのであるとか、町や村を二分するものなのだ、というようなことは、それほど深く考えられたことはないだろう。そういうバイパスは、人家のない田畑・山林などをねらってつくられる。町うちを通過しているわけではない。むしろ空地を通っている、そういう意識の方が強いだろう。

 これは、都会的な感覚からいえば、むしろ当然かもしれない。代替地を用意、あるいは地価(市街地より安い。買う側にとって好都合だ)に応じて買収する、つまり代価を払えばよいと考える。これも考えてみれば都会的感覚だ。けれども、ちょっと考えてみれば直ちに分ることなのだが、田畑や山林は単なる空地ではない。それに依存して暮している町や村に住む人たちにとって、それは自分たちの住んでいる町うちと一体のものとしてあるし、またそういう土地が、何もしないで産物を生みだすわけでもない。土地の二分は生活の分断に等しく、買収はそういう生活をやめろということに等しいし、代替地は初めからやりなおせということに等しい。田畑は決してその初めからから田畑であったわけでない、という単純な事実さえもが忘れられているのである。そこに依拠した生活があるということが忘れられている。そこにあるのは、「土地」ではなく単なる「地面」の視点のみだ。

  こういう計画を考えるとき、せめて、都会的生活形態を唯一絶対とするのではなくそれぞれの村や町にはそれぞれなりの固有の生活の形がある、そのそれぞれの村や町の生活の構造を具体的に、彼等の立場にたつべく、謙虚に知ることから始められないものだろうか。(ほんとは都会のなかでも同じなのだ。村や町に都会的生活がぶつかるときに、問題が顕在化してあらわれてくるにすぎない。)

 それが、先に書いた、本物の地図に「私の地図」を見る、ということなのだ。

 先日のこと、東京・中野の人たちに呼ばれて、区の児童館計画について意見を求められた。見ると、ある空地があり、そこが建設予定地となって、その他の既存の児童館をプロットした地図に、館を中心に半径500メートルの円が書かれている。利用圏なのだそうである。私は、弱ったな、と思った。これは施設の利用圏域なるものをテーマに研究する人たちの常とう手段の応用なのだ。非常に巨視的に見るならば、つまりこれこれの人口の町に、館をいくつぐらい必要とするか、そういったあたりをつけるには、まあよいかもしれない。けれどもこれをいきなり、現実の生活レベルにまで応用されたのではたまったものではない。むしろ、ふざけるんじゃないよ、とさえ言いたくなる。敷地のまわりには当然道が通じているだろう。そしてそれは決して均質ではなく、広い、狭い、人通りが多い、少ない、通学路かどうか、まわりになにがあるか‥‥それぞれ性格があるだろう。子どもたちはそういう道を通ってくるに決っている。そういったことを実際に見るならば仮に館が建ったとき、どのあたりの子どもたちの「私の地図」にその館が組みこまれ得るか、およその見当がつこうというものである。集まるだろう子どもたちの想定さえも確かめもしないで(この碓かめは、自らの目を信ずるしかない)研究者の研究成果:客観的(と称する)データを(徒らに)信じて500メートルの円を書いて、十分に考えたとする、これはもう、なんと言ったらよいのだろうか。おそらくこの計画立案者は、敷地に行ったし、まわりも歩いただろう。しかし、何も見なかったにちがいない。いや見えなかったにちがいない。これは、児童館のなかみ以前の話であるし、またこうである以上当然なかみも推して知るべしであろう。

  先ほど来私は、都会的感覚だとか都会的生活、都会的発想という言いかたをしてきた。それはほぼ、近代的合理主義的な、という意味と同義だとみてもらってよいと思う。そういうものの見かたでは、本物の地図は、本物の地図としか見えず、というより本物の地図としてしか見ず、「私の地図」などという「主観的」なものの見かたは頭から否定されるのがおちである。

 実際、私の受けた建築の教育でも、半径500メートル的知識は多分に教えられはしたけれども、「私の地図」を私たちが持っているということ、それによって生活しているということ(現在も、そして大人も子どもも)、そういうことは、ついぞききもしなかった。「個人」の「主観」は省かれていた。

 かくして、極めてスムーズに流れる道路の狭間に、村や町の人たちが不便を強いられ生活し、子どもの地図に描かれもしないかもしれないような子どものための建物がつくられる。これがまさに現実の客観的事実なのだ。そして、私自身、こんなことを書きながら、甲府バイパスをかけぬけ、その利便を満喫(?)しているではないか!

 もし仮に、ある町・村の田畑を横切ってバイパスを通す計画がもちあがり、ところが土地の人たちが生活の分断をきらって異論をさしはさんだとしよう。それへの対応は先に書いたとおり大体決っている。代書地を用意する、分断された二つの地区をつなぐ代替道をつくる、買収費の他に生活補償金!を積む等々である。それでだめなとき、必らずでてくることばがある。あなたがた、反対するほんのわずかな人たち、その反対のために、実に多くの人たちが不便を被るのだ、「公共の利益」を考えてほしいということばである。最近の例で、名古屋の新幹線騒音訴訟がよい例だ。速度をおとし騒音をさけるべきだというのに対し、判断は、この程度の騒音は「公共の」利便のために我慢すべきだというような趣旨だったように思う。これでは「利益」の享受者の数の多少が天びんにかけられるみたいである。少数意見は少数の異見にすぎず、ことによると多くの場合単なるエゴイズム扱いされる。しかし、ふとたちどまって考えてみると、むしろ多数の方がエゴイズムかもしれないのだ。第一、少数意見が少数なのは決りきった話だ。そこに住んでいるのはその人たちだけなのだから。極端に言えば、その人たち以外が「公共」だというのに等しくなってしまう。けれども、このような「公共」が、この「民主主義」の世のなかに横行しすぎるように思う。そうなると、その「民主主義」のなかみまで疑いたくなる。

 

 (次記事「筑波通信№6 後半,あとがき」に続く)

 (「1投稿の文字制限3万字」を越えるので、前半と後半に分けて掲載します。)

「Ⅰー2住まいの基本の形, 3既存の地物や近隣への作法」 木造建築工法の展開

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  「日本の木造建築工法の展開」   

 PDF「Ⅰー2住まいの基本の形, 3既存の地物や近隣への作法」 A4版7頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

 Ⅰ-2 住まいの基本の形・・・・住まいは、建物づくりの原型  

  最近、住宅を言い表すときに3LDK、2DKなどという言い方をします。これは、住宅とは、生活に必要な部屋数とL(living room)、D(dining room)、K(kitchen)の組み合わせ方で決まる、という考え方が広まっているからだと思います。そのため、全体の面積の大小にかかわらず部屋数の確保にこだわり、部屋の大きさが小さくなる例をよく見かけます。 

  しかし、元来、住まいの持たなければならない基本的な性格は、大地の上に(あるいは世界の中に)、自分たちが安心して閉じこもることのできる空間を確保することにあります。その空間から外の世界へ出てゆき、そしてふたたびそこに帰ってくる、生活・暮しの根拠地・拠点、拠りどころとなるかけがえのない空間、と言えばよいでしょう。この視点に立つと、見え方が変ってきます。   

 そのような空間をどのようにつくるかは、地域により、そして暮しかたによって異なります。

 遊牧生活の人びとは、旅の先々で根拠地を簡単につくれる折りたたみ式のテントが住まいです。 ある場所に定住して暮すならば、木の豊富な地域の人たちは木でつくり、木のない地域では土でつくり、石が得やすい場所では石でつくる、つまり、身近で得られる材料で空間をつくるのです。

 下の図と写真は、敦煌近在の農業用水路(運河)沿いの集落で見た普通の農家の住宅ですが、主要部は土でつくられています。このつくりかたは、現在も黄土高原では普通に見られます。  

 この住居は、まず四周の囲い:塀をつくることから始まります。 足元の地面の土を練り形枠内に5~10cmほど詰めて叩き締め、それを繰り返してゆく版築(はんちく)が普通ですが、日干し煉瓦を積む場合あります。註 版築は、日本では奈良時代に地盤造成に使われた。また、築地塀にも実例を見ることができる。

  塀には出入口が一箇所あり、塀が所定の高さまで達すると(3m程度)、出入口には頑丈な木製の板戸が取付けられます。 その段階で、部屋がつくられていなくても、暮し始めます。安心していられる場所が確保され、そこでテントを張ってでも暮してゆけるからです。房(室)はゆっくり時間をかけてつくってゆきますが、土の壁に楊樹(ようじゅ)の丸太を架け、屋根がつくられます。    

 

写真説明   上段 版築の様子(別の住居の塀の新築中)  中段 上掲の住居の塀(囲い)の内側   下段 上掲の住居の房(室)の内部              

 

 下は、兵庫県の中国山地にあるわが国の最も古い住宅遺構の一つ、古井家(所在地 兵庫県宍粟(しそう)市安富、室町時代末:15世紀末建設)の平面図と外観及び内部の様子です。    

 建物は壁で塗り篭められていて、主出入口は一つ、窓は小さく閉鎖的な空間です。この建物の屋根を取り去ると、中国西域の住宅と同じような塀で囲まれた空間が表れます。

  

  南 面       日本の民家農家Ⅲ (学研)より      平面図       日本の民家 農家Ⅲ (学研)より 

 

 東~北面                             桁行断面図     日本の民家農家Ⅲ (学研)より 

 

 おもて 西面を見る               にわからちゃのまを見る  モノクロ写真は 古井家住宅修理工事報告書 より

  この二例は、住まいとしての基本は同じで、材料と屋根の有無が違うだけと見ることができます。中国西域が雨の多い地域ならば、囲いの上全部に屋根をかけるつくりになっているでしょう。

 

 

 上の図に、住まいの原初的な例を集めてあります(川島宙次著 滅びゆく民家 より)。

 ①の出作り(でづくり)小屋というのは、焼畑(やきはた)農業が盛んであったころ、麓の住まいからの往復の手間を省くため、高地にある営農地のそばに建てた仮の小屋です。

 これらに共通していることは、いずれも出入口が一つの一室:ワンルームの建屋であり、そのワンルームの中を、暮しの場面に応じて使い分けていることです。

 その使い分けは、出入口との位置関係で、おおよそ、A、B、Cの三つのゾーンに分かれることが読み取れます。そしてそれは、神社の構成にも言い得るのです。神社は神の住まう家だからです。そのうち①②③では三つのゾーンは明確な仕切りで区画されていませんが、④⑤ではAとB、Cは、目に見える形で区画されています。

 ここに載せた例は、いずれも川島宙次氏による調査に基づいた記録ですが、おそらく縄文・弥生期の竪穴住居もまた同じような使われ方、使い分けがされていたものと考えられます。

 これらの例は、ワンルーム自体が小さい場合ですが、規模が大きくなると、はっきりとした間仕切でゾーンが区画され、部屋として分化します。その場合、初めに分化するのはCのゾーンです。

 左頁の古井家の平面図で、にわは土間、おもては板の間、ちゃのま、なんどは竹すのこ敷きで莚(むしろ)を敷いていたようです。にわとおもての境は板戸が1枚開くだけ、にわとちゃのま境は常時開いています。なんどへはちゃのまからしか入れません。

 このことから、にわはAゾーン、ちゃのまはB、そしてなんどがCという使い分けで、家人の日常の暮しは、主に、にわ、ちゃのま、なんどで営まれていたと考えられます。

 この建物の建てられた頃(15世紀末)、古井家は村役を務めていて、主に接客用(武家の接待)に使われる特別なゾーンDとして「おもて」が設けられていたのです。これに対して、先にあげた五つの例は、規模も小さく、家人の暮しだけを考えればよいため、Dのゾーンは必要ないのです。 現在でも、農家の住宅には、寄合いなどを目的としてDのゾーンを設ける例を見かけます。

 

 このように、古い時代の日本の住居の建屋は、一般に閉鎖的な空間になっていますが、同じ古い時代の建屋でも、寝殿造と呼ばれる上層貴族の住宅の建屋は、きわめて開放的なつくりです。

 下の図は、9世紀に建てられた藤原氏の邸宅東山三條殿(ひがしやまさんじょうどの)の復元平面図と、寝殿造での生活を描いた源氏物語絵巻の一部です。建屋の四周は、絵のように、ほとんど開放されています。

 

日本建築史図集(彰国社)より

 

  

 このような開放的な建屋がつくることができたのは、敷地全体が塀で囲まれているからです。塀の中は自分たちだけの世界になり安心して暮せるため、建屋を開放的にすることができるのです。

 農家の住宅でも、中世から近世になるにつれ、屋敷を塀や生垣、防風林などで囲み屋敷を構えるようになり、それとともに建屋が開放的になってきます。農家住宅に多い一文字やL字型の縁側は、屋敷の確立とともに現われます。屋敷の中では気がねなく振舞うことができるようになったからです。

 屋敷構えがある場合には、建屋だけが住まいなのではなく屋敷全体が住まいなのです。

 

 以上見てきたことから、住まいをつくるときに考えなければならない要点が見えてきます。それを要約すると、次のようにまとめられます(それは、建物づくり一般に共通する原理でもあります)。 

① 住まいの基本は、安心していられる空間:ワンルームを、外界の中に確保すること。  ② ワンルームの大きさ:面積は建設場所:敷地の大きさによって違う。  ③ ワンルームには、外界に通じる出入口:玄関を一つ設ける。  ④ ワンルームの中の使い分けは、出入口との(心理的な)位置関係で自ずと決まる。  ⑤ 使い分けが間仕切られて部屋になるかどうかは、ワンルームの大きさにより決まる。

 ワンルームの大きさには、これでなければならない、という推奨値はありません。建屋の大きさは、敷地の大きさと予算で決まりますから、あらかじめ決めた部屋数を、建屋の大小にかかわらず設けようとすると、たとえば、小さな建屋に部屋数をそろえようとすると、部屋が小さくなり、使い勝手が悪く、暮しにくく、転用もできなくなってしまいます。

 それゆえ、間取りを考えるにあたっては、次の手順を踏むことが望ましいのです。

① 建屋の大きさに応じた使い分け方:暮し方を考える。  ② その結果、どのような部屋が分化してくるか考える。 

 しかし、このような建物を、人々は好き勝手につくったのではありません。常に、建物をつくる場所にある既存の地物や、すでに暮している人びとに対して気づかうことを当然としています。人びとの間には、ある場所で暮してゆく上の了解事項・作法があったのです。

 

 

Ⅰ-3 既存の地物や近隣への作法・・・・心和む町並はどうして生まれたか

 1970年代ごろから、町並の景観や修景などが大きな話題になってきます。日照権をめぐる裁判、景観悪化をめぐる騒動なども、このころから多発するようになります。

 江戸時代の姿を残す街道筋や町並が伝統的建造物群として保存地区に指定される制度も、このころからです。

  

 福島県 大内宿                                   長野県 妻籠宿  妻籠宿 その保存と再生(彰国社)より

 このことは、逆に言えば、新しくつくられる建物が、隣人に迷惑をかけ、景観・町並を乱すつくりになる例が増えてきたことを、人びとが身をもって知り始めたことを示しているのです。

 このため、建築にあたっての条件を規定した建築協定などを設ける例が増えています。協定のなかみは、たとえば壁面の境界線からの後退距離の指定、街路側の建物の高さの規定、屋根材や壁材など外装材の指定、外装の色彩の指定、あるいは塀や垣根の指定、などです。

 しかし、その協定に従うことで、かつての町並同様の質を確保できるか、というと、必ずしもそうではないことは、いくつかの事例で明らかです。

 奈良県橿原(かしはら)市の今井町(下図)は、伝統的建造物群保存地区に指定され、改造・改修・新築にあたり、少なくとも見える部位は、重要文化財に指定された建物に似た外観にすることが求められます。

 その結果、あたかも時代劇のセットのようになり、その町で現在暮す人びとの活き活きとした生活の息吹きが感じられない町になってしまいました。

今井町町並図  日本の民家 6 町家Ⅱ(学研)より

 大内宿や妻籠宿など、他の伝統的建造物群保存地区に於いても同様な事態が生じています。また、建築協定の下で開発された新興住宅地も、それによって町並の質が向上したとは言いがたいのが現状です。

 建築協定などを制定しても、かつてのような町並が生まれないのはなぜなのでしょうか。

 それは、それらの方策が、町並の成立過程についての認識を欠いているからなのです。町並は、ある時突然できあがるものではなく、長い年月をかけてつくられるのです。別の言い方をすれば、常に変貌をとげるのが町並なのです。

 建物の外観を過去の時代につくられた建物の形に似せるということは、この時間の流れを止めることに等しく、その結果、「現在」の感じられない時代劇のセットを思わせてしまうのです。

一方で、地域によると、江戸時代末に建てられた建物から、昭和初期の建物に至るまで、各時期につくられた建物が町並をつくっている町が残っています。関東近辺では、群馬県桐生市、栃木県栃木市などが例として挙げられるでしょう。

 そこでは、江戸時代に建てられた商店があり、明治時代の土蔵造があり、大正から昭和にかけて文様を打ち出した鉄板で被った建物があり、あるいは煉瓦造があるなど、材料も形も色彩もさまざまな建物が並び、しかし、好ましい雰囲気を醸しだしています。

 質のよい町並をつくる要件は、使っている材料や、形や、色彩・・・ではないのです。

 質のよい町並が生まれるための建物づくりの要点は、建て主と設計者のマナーにあると言えるでしょう。

 それは、新に建物をつくるにあたって、建て主ならびに設計者は、そのときすでに敷地周辺にあるもの、それは、隣地の人の住まいかもしれず、樹林かも知れませんが、その存在を尊重する、というマナー:作法、すなわち、向う三軒両隣の存在を尊重する、ということです。

 隣人は、そこですでに長いこと暮しています。樹林はそこで長い間生きています。ことによると鳥や昆虫などの棲家かもしれません。

それを、新しい建て主はもちろん設計者も、無視してよいという理由はどこにもありません。

 そしてそれは、それを規制する法律があるかどうか、法律がないから構わない、と言った類の判断ではないのです。それ以前の判断、それを越えた判断、それゆえに作法:マナーなのです。

 実は、これは目新しいことではなく、近世までの人びとにとっては、あたりまえのことでした。しかし、明文化されていたわけではなく、人と付き合いながら暮してゆくための、互いの暗黙の了解、不文律だったのです。

 たとえば、〇 自分の暮す土地に降った雨の処理は、その土地の内で処理する  〇 隣家の開口部が、これから自分が建物を建てる敷地の方に向いて開いているのならば、その暮しぶりを損なわないように工夫する  〇 隣家の井戸があれば、その近くには厠は設けない・・・   〇 近隣の人びとから愛でられている地物(樹林や風景など)があったならば、その存在を存続させるように努める  などなど。 これらの不文律は地域によってさまざまで(雪が多い、風が強い・・などの特徴)、明治政府の制定した民法は、それらを採集・編集したものと言われています。

 下の図は、京都の指物屋(さしものや)町の町家の間取りを並べた地図:連続平面図(文化5年:1808年ごろ)です。 この町並は、もちろん、一時に完成したわけではありません。  それぞれの家が、似たような平面になっていますが、もちろん、そのようにしなければならない法律や規制があったわけでもありません。

 それぞれの家が、隣家の暮しの存在を尊重しつつ、長年にわたってつくってきた、その結果生まれた町並なのです。

 

 文化5年:1808年ごろの指物屋町 連続平面図    図集 日本都市史(東京大学出版会)より

 この中の、どの家が最初につくられたかは分りませんが、このように全区画に家が建ち並ぶまでには、相当時間がかかっています。

 最初につくられた家の隣に建てる人は、そのときすでにある隣家の暮しを尊重し、その隣に建てる人もすでに建っている隣近所の暮しを尊重する、・・・、人びとが皆、向う三軒両隣の暮しの存在を尊重して新築する、その繰り返しが続いて、結果としてこのような町筋ができあがったのです。

 そして、ある時間が過ぎ、最初のころに建った家の建替えの時期がくる。そのときにはまわりには隣家が建っている。そうなると、建替える人は、隣家の暮しを尊重する・・・。この繰返しが続いたとき、町家の間取りに一つの定型が現れてくるのです。

 コンプライアンス:法令遵守ということが盛んに言われます。しかし、法令の遵守だけでは、決して、かつてのような、百年後あるいは数百年後、昔の人はこんな素晴らしい建物を、こんな素晴らしい町並をつくった、と称賛される建物や町並は生まれません。

 ここであらためて、この大地の上で、人が暮すとはどういうことだったのか、住まいとは何だったのか、立ち止まって考えてみることは、無意味なことではないと思います。

                                        Ⅰ-2, 3 了                                                       

 

 

投稿者より:次回は「目次」の末尾にあります、「付録1若い方がたのために, 2」を掲載する予定です。

      下記は全20頁あまりですが、歴史的事柄が過半を占めます。 詳細については、建築各部位名で「ブログ内検索」をして頂けたらと思います。

「付録1 日本の木造軸組工法の継手・仕口」 日本の木造建築工法の展開

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 「日本の木造建築工法の展開」   

  PDF「付録1 日本の木造軸組工法の継手・仕口」 A4版8頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

  

付録1 日本の木造軸組工法の継手・仕口 若い方がたのために

継手・仕口の基本原理

継手・仕口の定義       文化財建造物伝統技法集成(文化財建造物保存技術協会刊 )より転載

継手とは、一材の長さを増す(材軸方向に継ぐ)ための工法、叉はその部分をいう。木材の長さには限界があり、また必要とする材長の用材があったとしても、運材の難易度や経済性から適宜な長さの材を求めて、これを継ぎ合わせた方が有利な場合がある。規格化された市場品が容易に手に入りやすくなればなおさらである。

仕口とは、二材以上の材を片方または相互に工作を施して組み合わせる工法、叉はその部分をいう。仕口は日本建築の特徴の一つで*、これによって複雑な部材の構成が可能になる。

釘や金物によって強制的に結合する方法と異なり木材を巧みに組み合わせるので、外力に対して見かけよりも遥かに建物全体の耐力が大きい。 二材以上の材が組み合わさった状態、叉はその部分を組手(くみて)、一材に他材が差さる状態、叉は部分を差口(さしくち)と言う。 * たしかに日本建築の特徴ではあるが、ヨーロッパにも同様の接合法がある。

継手の条件  接合箇所が、引いても、押しても、曲げても、捻っても、長期にわたりはずれず、一方にかかった力を、できるかぎり相手の材に伝えられること。力の伝達の程度は、継手により異なる。

継手の位置 通常、継手は横材において、材の延長のために設けるが、継手の位置は、次の場合がある。 ① 横材を支持する材(柱あるいは受材)の上で継ぐ  ② 横材を支持する材(柱あるいは受材)から持ち出した位置で継ぐ(持ち出し継ぎ)

一般に、継手位置では力の伝達は途切れると見なしてよく、したがって、継手位置が支点になると考えられる。それゆえ、持ち出し継ぎは、大きな力が伝わる材(ex 梁や桁)には不適である。持ち出し継ぎで大きな力を伝えられる継手は、きわめて限られる。

 

註 横材の継手位置について 荷重によって材に生じる曲げモーメントは、下図のように材の架け方(支持方法)によって異なる。

 

 材断面同一、各支点間の距離同一とした場合、等分布荷重による最大曲げモーメントは、次の関係にあると見なすことができる。  m1>m2>m3≧m4≒m5 ∴材の必要断面も A>B>C≒C′になる。

 

持ち出し継ぎの場合は、通常、継手位置が支点になるので、垂直の荷重に対してだけならば継がれる材の長さが短くなり、材寸は小さくて済む。実際、日本建築学会編の教科書「構造用教材」には、そのような図が示されている。

しかし、横材:梁・桁は、単に荷重を受けるだけではなく、受けた荷重による力を柱へ伝える役割を持つ必要があり、持ち出し継ぎでは、継手位置で力の伝達が途切れ柱に伝わらない。  それゆえ、古代~近世では、梁・桁の継手は支持材(柱や受材)位置に設けるのが普通である。  中世以降、化粧材を持ち出し位置で継ぐことが増えるが、構造に係わる材の例は少ない。たとえば追掛大栓継ぎは、化粧材を持ち出し位置で継ぐ場合に、継手箇所での材の不陸や暴れを避けるために用いられる例はあるが、構造に係わる材に用いる例はない(次頁以降参照)。 追掛大栓継ぎを構造材に用いるようになるのは、近代~現代になってからのようである。 

以下に、中世に使われた継手の諸例を、文化財建造物伝統技法集成(文化財建造物保存技術協会刊 )の中から抜粋して紹介する。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

継手の種類・概要

継手の原理 ① 互いの材の全体を、上下または左右対称に、鉤型に加工して互いを引っ掛ける。一般に相欠きと呼ぶ。布継ぎ、略鎌、追掛大栓継ぎ、金輪継ぎなど(赤字の継手は、継いでも一材同様になる)

② 材の端部を凹凸に逆対称に加工して、片方を他方に落し込む。 蟻継ぎ、鎌継ぎ、シャチ継ぎなど

 

 

 この二つの継手は、継いでも一材と同じ強さを保てる

 

継手に付け加えられる端部加工

 通常、上下左右の動き、捩れ、はずれなどの防止のために、基本形に端部加工を追加する。

 

 

 

仕口の条件:接合箇所が、引いても、押しても、曲げても、捻っても、長期にわたりはずれず、一方にかかった力を、できるかぎり相手の材に伝えられること。 

仕口の種類:仕口の基本形は、蟻掛け、枘差し。

仕口に付け加えられる端部加工:通常、上下左右の動き、捩れ、はずれなどの防止のために、基本形に端部加工を追加する。

蟻掛けに付け加える加工

 

註 胴突は胴附(付)と書くのが正しいという。英語ではshoulder:肩

 

枘差しに付け加える加工 

 

 

 

継手・仕口の加工(刻み(きざみ))

継手・仕口の加工のことを、刻みと呼んでいる。  継手・仕口は、木材の弾力性・復元性、材相互の摩擦を利用するため、相応の加工精度が必要。 現在は、加工機械で大体の継手・仕口が加工できる(追掛け大栓継ぎ、金輪継ぎも可能になった)。

一般に、継手・仕口を刻める職人がいなくなった、あるいは、継手・仕口の加工に手間がかかるから、継手・仕口を使った建物はつくれない、と言われているが、事実ではない。刻める職人は各地に居り、また各種加工機械の出現で従前のようには手間もかからなくなっている。  継手・仕口による建物が少なくなった理由として、①設計者が、継手・仕口の存在と継手・仕口の原理を忘れてしまったこと、②手間の省略を、工程、工期、工費の《合理化》と見なす傾向があること、が挙げられる。

 

継手・仕口の下木(したっき)、上木(うわっき)

継手・仕口は、先に据える材(受ける材)と後から据える材(載せ架ける材)とで構成される。 現場で先に据える材(受ける材)を下木、後から据える材(載せ架ける材)を上木と呼ぶ。 上木、下木は、現場でどこから組立てを始めるかによって決める(⇒番付)。

 

継手・仕口の呼称

追掛け大栓継ぎ、金輪継ぎなどを除き、継手・仕口の呼称は、以下のように付けられている。

a)形状による名称       蟻  鎌  腰掛け  枘差し  栓  楔(くさび)   目違い など

b)形状に作業の内容を付ける  大入れにする   胴附を設ける  割楔(わりくさび)で締める  込み栓を打つ    シャチ栓を打つ(差す) 蟻落とし  寄せ蟻  蟻掛け など

c)部位の名称に形容詞を付ける 長(なが)ほぞ  短(たん)ほぞ  小根(こね)ほぞ  平(ひら)ほぞ (または横ほぞ) など

d)a)b)c)を組み合わせる 腰掛け 鎌継ぎ←鎌継ぎ+腰掛け  腰掛け鎌継ぎ 目違い付き←腰掛け鎌継ぎ+目違い  小根枘差し 割楔(わりくさび)締め←小根枘差し+割楔締め  小根枘差し割楔締め 目違い付き←小根枘差し割楔締め+目違い              

蟻を用いて継ぐときは蟻継ぎ、蟻を用いて他材に載せ架けるときは蟻掛けのように呼ぶ。 継手・仕口の呼称は、地域、大工職により異なる(茨城では蟻落としを下げ蟻と呼ぶことがある、など)。 設計図には、呼称だけではなく、簡単な図を示すと混乱が起きない。

 

参考 日本家屋構造所載の継手・仕口解説図

 

 

日本家屋構造は、高等工業専門学校向けの教科書。 継手・仕口の諸相が解説され、若干その効能について触れてはいるが、どのような場合に使うかの説明は少ない。 ただ、次頁のような手の込んだ方法についての解説はかなり詳しく書かれている。 高木家の差鴨居に同様の差口があるので、江戸後期頃から増え始めたのではないかと考えられる。

 

 

鴻の巣(こうのす)  「・・・右図の如く、横差物を大入れに仕付け、その深さは柱直径の八分の一ぐらいにして、(い)(い)の如く柱の枘穴左右の一部分を図の如くのこし他を掘り取り差し合す。 この如くなしたるものを鴻の巣(こうのす)といふ。

また鴻の巣をその差物の成(せい)(丈)の全部を通して入れることもあり。これ全く柱の力を弱めざるのみならず、その差物の曲(くるひ)を止め、かつ(ろ)の穴底に柱を接せしめ枘を堅固ならしむるなり。 本図は二階梁の三方差にして斯くの如き仕口にありては、一方桁行はシャチ継ぎとなし、梁間の方を小根枘差とす。(は)の込み栓を(に)の穴中より差し、かつ(ほ)の切欠きに(へ)の下端を通して梁の脱出(ぬけいで)するを防ぐものとす。」  註 鴻の巣は、香の図の訛り。 香の図 香合せの点取り表の形(下図は一例) 刻みの形がこの形に似ていることからの名前

「世界大百科事典 10」平凡社

 

 

 参考 ヨーロッパの木造建築(軸組工法)の継手・仕口

人が現場で考えることは同じ。それゆえ異なる地域で同じ方法、似た方法が考案される。 技術の習得は現場で行われるもの。机上で考える際も、常に現場を念頭に置くことが必要。 机上だけでの考えが現場の考えを差配するようになったとき、技術は衰退する。

 

    

 

△ スイスの継手・仕口例 Fachwerk in der Schweiz より  △ ドイツの継手・仕口例 Handverkliche Holzverbindungen der Zimmerer より

 

「付録2 日本建築の開口部と建具・概要-2」

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 付録2 日本建築の開口部と建具・概要・・・建具の種類、納めかた 続き

 

 3.大壁の開口部:枠回り

大壁仕様の場合も、枠の取付けの点で柱幅を基準とする方が適切である。

 大壁仕様の枠回りの基本

① 建具の納まる部分(縦枠、敷居・鴨居)と、壁の見切になる部分(見切縁、額縁)で構成する。 縦枠の見込み寸法は、柱幅になるため、柱をそのまま使うこともできる(柱を仕上げておく必要がある)。 註 枠と見切縁を一体の材とすると、見込み寸法が大きくなり、良材を用いても狂いやすい(反る)。  縦枠、敷居・鴨居には、一般にスギ、ヒノキ、マツ、ツガ、米ツガ、米マツなどが使われ、額縁には、縦枠、敷居・鴨居と同材にする場合と、堅木を用いる場合がある。註 材の反りを考慮し、鴨居は木表を上端側、敷居は木表を下端側にする(開口側が木裏となる)。 額縁は、縦枠、鴨居に小穴を突き納める。額縁に壁しゃくりを設けると壁の納まりがよい。

② 縦枠と敷居・鴨居の見込み寸法は、軸組の柱と同一にし、縦枠を先行して敷居・鴨居を取付ける。一般に、縦額縁(見切縁)・横額縁(見切縁)の見込み寸法を同寸として、隅部は留めで納める。留めは最低でも下図の仕口にしないと留め面に隙ができる。 

③ 縦枠、敷居・鴨居、無目材の見付け寸法は、一般に1~1寸5分(約30~45㎜)以上。 額縁の見込み寸法は壁厚により決まるが、見付け寸法は任意(見えがかりによる)。

④ 引き戸では、敷居・鴨居に溝を彫る。真壁納めの場合に同じ(真壁仕様の枠回りの基本④項参照)。

⑤ 開き戸の納めは、真壁仕様の枠回りの基本⑤項にならう。戸当りを、枠と一体に加工する方法もある(確実ではあるが、材寸が厚くなる)。

⑥ 雨戸や多重の建具を外側に設ける場合は、真壁仕様の枠回りの基本⑥⑦項にならう。

⑦ 外部建具をアルミサッシとする場合は、真壁仕様の枠回りの基本⑧項にならう。大壁の場合、アルミサッシのつば部分は、壁に隠れる。

 

  4.真壁から大壁への切換え  

大壁仕様主体の建物内に和室をつくる場合には、枠回りの切換えが必要になる。

一般には、大壁に付け柱などを付け真壁風にする例が多いが、畳が小さくなり(特に3尺格子では)、全体に小ぶりの和室になる。以下では、真壁仕様と大壁仕様を併用する場合を想定する。

 真壁~大壁切換えの基本

① 大壁部分の柱も、真壁部分と同じ仕上がり寸法に仕上げる。

② 真壁部分の柱、方立位置、敷居・鴨居を優先的に決める。  大壁側の納まりは、「柱幅の枠+額縁(見切縁)」の構成を原則とする。

③ できるだけ、部屋の隅部は壁にする。

④ 隅を壁にせず、真壁と大壁が一面で連なる場合(和室と大壁の洋室が全面開口で連なる場合など)は、間仕切部の両端の柱に方立を添わせ、大壁側の壁を方立に納め、敷居・鴨居は方立で受ける。大壁側の縦額縁は省く(下り壁が横額縁で止まる形をとる)。

⑤ 間仕切部の一部に設ける開口部では、真壁部分の柱を利用し、縦額縁を柱に小穴を突き取付ける。   

 

 5.枠回り材:造作材の組み方 現在可能な施工法

 木造軸組工法の場合、真壁仕様の組み方、取付け方法を基本と考えると決めやすい。見えがかりだけを優先した簡易な取付けが多いが、長年のうちにかならず狂いが生じる。

真壁仕様の場合  各項目の[a]、[b]などの囲み記号は、勧められる方法を示す。

鴨居の取付け  a 柱あるいは方立に鴨居の形状を彫り込み、片方の彫り込みを深くしておき、やり返しで納める大入れの方法。手間がかかる丁寧仕事。  [b]柱間の寸法に合わせた長さの鴨居をつくり、両端木口に1分(約3㎜)程度の枘をつくりだし、柱に枘穴を彫り、柱間を若干開いて鴨居を納める。仕口に隙間ができない一般的な確実な方法で、専用のジャッキの応用で柱間を開く工具もある。 c 片方の端だけ枘をつくりだし、他方は上面から釘打ち止め。 d 柱間の寸法の材を上面から釘打ち止め、L型金物を添える場合もあるが狂い、隙間が生じやすい。

鴨居の途中   鴨居の長さが9尺(2,727㎜)を越えるときは、梁・桁から吊り束で吊る。吊り束は、寄せ蟻で取付けるのが確実。

 納まり詳細図(理工学社)より

 

納まり詳細図集(理工学社)より 寸法単位:㎜

敷居の取付け  [a]柱間の寸法に合わせた敷居をつくり、敷居の取付く一方の柱と敷居の木口に2個の待ち枘の穴を彫る。もう一方の柱と敷居木口に、1個の待ち枘の穴と横栓の穴を彫る。柱の待ち枘の穴に、堅木製の待ち枘を植え込み、敷居を落し、横栓を打つ。近世以降、一般に行なわれてきた確実で丁寧な仕事。                      [b]柱間の寸法に合わせた敷居をつくり、両端に待ち枘を設け落し込む。  [c]柱間の寸法に合わせた敷居をつくり、横栓の穴を、柱と敷居両端の木口に彫り、横栓打ち。  [d]柱間の寸法に合わせた敷居の両端の木口に1分(約3㎜)程度の枘をつくりだし、柱に彫った枘穴に横から入れる。 註 a~dでは、敷居の長さを、柱間の寸法より僅かにきつめにつくる。  e 柱間の寸法に合わせた敷居をつくり、側面から釘打ち。最も簡易な仕事。  f 窓などの場合、鴨居のbと同様な方法。   g 柱に敷居の形状なりの深さ1分程度の彫り込みを設け、下からすくい入れて下面に楔を打つ。手間がかかる。納まりはきれいだが楔がたより。 

敷居の途中   粗床面あるいは大引、根太上に飼いものを入れて調整。埋樫(うめがし)、敷居すべりを入れるときには、溝面で釘打ちまたはビス留めとすることもある。

 

 大壁仕様の場合

枠+額縁の構成とする場合を想定。取付け下地として、柱、半柱、まぐさを使う。註 大壁仕様の場合、加工場で枠・鴨居・敷居を組み、現場に搬入、飼いもので調整、釘留めとすることもある。

縦枠と鴨居   [a]真壁仕様の柱への鴨居取付け法dにならい、1分(約3㎜)程度の出の枘を鴨居両端の木口につくりだし、縦枠に彫った枘穴に組み込み枠裏側から釘打ちまたはコーススレッド締めとする。 b 鴨居を縦枠に突き付けで納め、枠裏側から釘打ちまたはコーススレッド締めとする。最も簡便な方法。狂いやすい。

縦枠と下地   a 枠材の側面:見付け面に額縁取付け用の小穴を突き、小穴部分で下地の柱または半柱に斜めに釘打ち。  b 半柱側からコーススレッドで留める。  c 縦枠の見込み面に9㎜φ×深さ10㎜程度の穴をあけ、釘打ちまたはコーススレッド留めの上、埋木。塗装仕上げで用いられる。

鴨居と下地   [a]鴨居の側面:見付け面に額縁取付け用の小穴を突き、小穴部分で下地のまぐさに斜めに釘打ち。  b まぐさ側からコーススレッドで留める。  c 鴨居の見込み面に9㎜φ×深さ10㎜程度の穴をあけ、釘打ちまたはコーススレッド留めの上、埋木。塗装仕上げで用いられる。

縦枠と敷居   [a]真壁仕様の柱への敷居取付け法dにならい、1分(約3㎜)程度の出の枘を鴨居両端の木口につくりだし、枠に彫った枘穴に組み込み、枠裏側から釘打ちまたはコーススレッド締めとする。          b 敷居を枠に突き付けで納め、枠裏側から釘打ちまたはコーススレッド締めとする。最も簡便な方法。狂いやすい。

敷居と下地   一般には、敷居側面から荒床に向かって斜めに釘打ちする例が多い。

額縁の取付け  a 額縁に設けた壁しゃくり部分から縦枠、鴨居に釘打ち。  b 見付け面に9㎜φ×深さ10㎜程度の穴をあけ、枠に釘打ちまたはコーススレッド留めの上、埋木。塗装仕上げで用いられる。

 

 日本家屋構造所載の造作解説図

 

 6.建具実例 

 旧西川家住宅の建具    旧西川家住宅修理工事報告書より抜粋

西川家は、滋賀県近江八幡市にある1706年建設の典型的な近江商人の家。以下に紹介する旧西川家住宅の建具は、近世末~明治にかけて行なわれていた製作法で復刻したもの。

1.板戸 土間と店座敷の境の板戸  

 

2.舞良戸 店 表玄関の縦舞良戸 

  旧 西川家 一階平面図

3.腰付障子  4枚引き腰付明り障子 奥の間(座敷)西面濡れ縁境 

4.片開き 板戸 台所どま北面   

 

5.板戸4枚(雨戸形式) 座敷~どま境  どまは外部と考えている。座敷のどま側に縁が設けられているが。この縁は、座敷縁と呼んでいる。これは、その境に設けた雨戸。仕様は、外に向く縁に設ける雨戸と同じ。 

 

 

6.腰付障子および雨戸   2枚引き 腰付明り障子+雨戸2本(戸袋付) 仏間(店裏)南面 

 

上図の明り障子外側の雨戸    

 

   現在では上框を設けるのが普通だが、昔の雨戸には縦框だけを樋端に入れるつくりが多い。  縦框相互に召し合わせを設け、猿棒で相互を連結し、はずれを防止している。  板の継ぎ目は内側で目板張り。 框の仕口は、きわめて丁寧。

 

 参考 障子について

元来は、衝立(ついたて)や襖の総称。近世以降、格子戸に薄い和紙を貼った明り障子(あかりしょうじ)を、障子と呼ぶ。 四周に框をまわし組子(くみこ)を格子状に組み和紙を貼る。  縦框は見付 9分~1寸1分(約27~33㎜)×見込通常1寸(約30㎜)、組子は見付2~3分(約6~9㎜)×見込5分(約15㎜)程度。組子は框に直接取付ける場合と、付子(つけご)を回す場合がある。 材料は、スギ、サワラ、スプルスなど。

 代表的な形状 

腰付(こしつき)障子:高さ1~1尺2寸程度の腰を設ける。腰障子とも呼ぶ。  腰高(こしだか)障子:高さ2~3尺程度の腰を設ける。高腰障子とも呼ぶ。  水腰(みずこし)障子:腰を設けない障子。「見ず腰」(腰が見えない)が転じたという。  猫間(ねこま)障子:上げ下げ障子。障子にガラスを組入れ、内側に、開閉できる小障子を設ける。  雪見(ゆきみ)障子:ガラス無しの場合を猫間、ガラス入りを雪見と呼ぶ、という説もあり、用語は一定していない。指示にあたり、確認が必要。

桟の割付は、かつては、和紙の規格(半紙判:約8寸、美濃判:約9寸)を基準としたため、一段あたり4寸、または4寸5分程度になる。現在は幅950㎜程度の紙があり、割付は自由。 なお、桟の割付けは、開口部の光の強さの調節、部屋の方向性などを考慮して決める。 

  通常の障子 雪見障子     雪見障子       普通の障子(付子なし) 

 

 

 

「付録2 日本建築の開口部と建具・概要-1」 日本の木造建築工法の展開

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   「日本の木造建築工法の展開」   

  PDF「付録2 日本建築の開口部と建具・概要」 A4版12頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

付録2 日本建築の開口部と建具・概要・・・建具の種類、納めかた 

1.日本建築の開口装置

 古代~中世の開口部・間仕切り

 御簾、蔀の利用

貴族の住居:寝殿造の外周の廂(庇)部では、吹き放しの箇所と、御簾(みす)(すだれ)や蔀戸(しとみど)、または板戸(舞良戸(まいらど)もある)が入る場合があり、間仕切りとしては屏風(びょうぶ)などが用いられ、土壁で塗り囲まれた塗籠(ぬりごめ)では、妻戸(つまど)(室の隅に設ける両開き戸)が使われていた。 

  

東三條殿復元平面図 部分  日本建築史図集 より        御簾、屏風の図 源氏物語絵巻 日本建築史図集 より

 

 軸釣り開き戸(奈良~平安時代)

奈良時代の寺院建築の外部出入口は、すべて開き戸で、柱外側の上下の長押に軸釣り(現在のピボットヒンジ)で仕込むが、平安時代には、柱外側に添えた太目の額縁(がくぶち)に軸釣りとする方法も生まれる。

貫工法が主流となり長押を使わなくなる鎌倉時代以降は(主に大仏様、禅宗様の建物)、貫外側に扉を支持する部材(藁座(わらざ)と呼ぶ)を別途設けて釣っている。

   

上:端喰による板戸(法隆寺・伝法堂)奈良六大寺大観 法隆寺一 より  下:蔀戸、半蔀(西明寺本堂)日本建築史図集より   藁座による軸釣り開き戸(東大寺法華堂礼堂) 奈良六大寺大観 東大寺一より

 奈良~平安時代の建具

板 戸:奈良時代に使われた扉は、厚さ3寸ほどの板を矧(は)いでいる(時には1枚板)が、平安時代には板厚が2寸程度になり、反りを防ぐため上下に端喰(はしばみ)(端嵌め(はしはめ)から転じた語)を設ける技法も生まれている。

蔀 戸(しとみど):四周に框(かまち)を組み薄い板を張り、前面を格子、裏面を横桟に組んだ跳ね上げ建具。長押に外付け。上層階級の住宅で多用され、後に寺院でも使われる(左上図参照)。

半 蔀(はんじとみ):蔀戸を上下に分け、上部は跳ね上げ、下部は落し込みで取付け、取り外し可能(上図参照。外した戸は別の場所に格納)。

格子戸(こうしど):四周に框(かまち)を回し格子を組み、薄い板を張った戸。 

舞良戸(まいらど):四周に框(かまち)を組み、見付けの細い横桟または縦桟を繁く設け、薄い板を張った戸。この形をした開き戸もある。

杉 戸 :四周に框を組み、薄板の鏡板をはめた戸。絵が描かれることもある。

襖(ふすま)  :格子の両面に厚紙や布を貼った戸。

明り障子(あかりしょうじ):格子に薄い紙を貼った建具。平安時代末期までに生まれた。現在の障子。当初は桟が現在に比べ太く、框と大差ないが、次第に桟は細くなる。明り取りのために、蔀戸や連子窓(格子窓)の内側に仕込まれた。⇒次項参照

遣 戸(やりど):引き戸の当初の呼称。⇒次項参照

なお、室内の仕切りには、衝立(ついたて)や板を張らない格子戸が使われた。障子は、襖(ふすま)、衝立(ついたて)など仕切りに使うものの総称であった。

 

 引違い戸の普及(平安末・鎌倉時代以降)

鎌倉時代までには、格子戸、舞良戸、板戸、明り障子を敷居・鴨居の間で引違いに引く方式:遣戸(やりど)が定着、普及する。

当初の引違い戸は、敷居・鴨居に設ける戸を仕込む溝(樋端(ひばた))の幅が戸の見込み全部が入る溝であったため(ドブと通称)、引き違い戸相互の間には3分(約9㎜)以上の隙間があった。樋端の溝彫りの工具がなかったためで、付け樋端とする例が多い。 後に、樋端幅を、現在のように、戸の見込み寸法の7割程度にして引き戸間の隙間を1分(3㎜)程度にする方法が生まれる。

 書院造の引き戸

書院造で普通に見られる引き戸は、柱幅が一般に4寸2~3分(約130㎜)程度あるため、以下の構成とする例が多い。

① 3本溝に板戸2枚、明り障子1枚の3枚構成とする。柱間の半分が明るくなる。 ② 柱間の中間に方立を立てて柱間の半分を袖壁として、2本溝で板戸、明り障子各1本を袖壁部に引込む(片引き戸)。明るさは①に同じ。  

   

光浄院客殿 部分平面図                     浄院客殿東面 玄関建具詳細   

六畳東面の中門廊寄り1間が玄関の両開き戸(右図)  玄関北側の各柱間は明り障子+蔀戸・半蔀(下断面図)

     

                 光浄院客殿 東面 開口部 解説図(単位 寸)

    

光浄院客殿上座の間 広縁 開口部 左:外部 右:内部   板戸(舞良戸)を開けた状態。明り障子1枚分から外光が入る。舞良戸の室内側は紙貼り(絵が描かれていた)。  上図は、この部分の詳細図(断面詳細図より作成)  図、写真は 日本建築史基礎資料集成 書院一 より

 

 雨戸の誕生(桃山時代以降)

書院造の遣戸方式は、開閉は容易である全面開放ができないため、室内は蔀戸方式よりも暗くなる(前項参照)。

桃山時代以降には、柱通りの外側に1本溝の敷居・鴨居(一筋(ひとすじ)と呼ぶ)を設け、開口部の端部に半間幅の戸袋(とぶくろ)を設けて板戸をしまい込む雨戸が考案される。

   

中級旗本の住居の開口部            中級武士目加田家の開口部の構成

 

 庶民の住居の建具構成

庶民の住居には、近世以前の遺構は見当たらない。室町期に建てられた古井家、箱木家では、主要な開口には、室内外とも片引き板戸が入り、部分的に明り障子を入れている。

  

古井家 復元平面                    日本家屋構造所載の明治期の開口部例 一般住宅の縁側 商店の上げ戸 

 17世紀後半には、書院造同様、敷居・鴨居に3本溝を彫り、板戸2本・明り障子1本の構成が現れる    さらに時代が下ると、武家の住居同様、開口部を広くとり、縁側を設け、柱外側に雨戸を仕込む例が一般化する。   なお、商家・町家では、表通りの店先に、現在のシャッターに相当する上げ戸(揚げ戸)を設ける例が増える。   

  規格建具の流通

江戸時代には、柱間1間を基準とし内法高を一定(5尺7寸、5尺8寸など)にして、一般の住居向けの規格建具:掃出し、肘掛け、腰高など(鴨居下端からの寸法で指示)が用意されるようになる。住宅用アルミサッシの旧規格は、この規格建具の寸法体系による。

  ガラス戸の導入・普及

ガラスの生産は明治末期に始まり、昭和初期に大量生産が本格化し、以降一般に普及する。初期のガラスは厚さ1.5~4㎜、大きさも小さい。 

ガラスは、当初、明り障子の一部に組み込む使い方がされ、その後、框を組み、数本の横桟の間にガラスを入れるガラス戸として普及する。それにともない、雨戸の内側にガラス戸を入れる方式が生まれ、雨戸を開放すると外気に曝されていた縁側が、ガラス戸で囲われるガラス戸+雨戸という縁側の定型が生まれる。

 

大正期の中廊下式住宅 ガラス戸+雨戸による縁側

参考資料 日本建築の構造 浅野清著(至文堂) 日本建築史基礎資料集成 (中央公論美術出版)  日本建築の鑑賞基礎知識 平井聖著(至文堂)  日本建築史図集 日本建築学会(彰国社)  

 

 2.真壁の開口部:枠回り

木造軸組工法の建物の開口部:枠回りは、大壁仕様の場合も、真壁仕様の納まりを基本とすると分かりやすい。

 真壁仕様の枠回りの基本

① 縦方向は柱をそのまま利用し、横方向は柱間に敷居・鴨居を取付ける。開口部が柱間よりも狭い場合は、方立を設けて調整する。 註 引き戸の溝を設ける場合を敷居・鴨居と呼び、溝のない場合を「無目(むめ)(無目敷居・無目鴨居)」と言う。

敷居・鴨居・無目、方立には、一般にスギ、ヒノキ、マツ、ツガ、米マツ、米ツガなどが使われるが、真壁の場合は、柱材と同一にすると違和感がない。註 材の反りを考慮し、鴨居は木表を上端側、敷居は木表を下端側にする(開口側が木裏となる)。

② 敷居・鴨居の幅は、一般に、柱の面内(めんうち)納めとするが、敷居と床面が同高のときは、敷居は柱幅にそろえる。 また、小さな開口で、方立に敷居・鴨居が取付く場合は、一般に、方立を優先し(縦勝ち)、方立の面内に敷居・鴨居を取付ける(見込み寸法が同一でない)。 註 真壁仕様では、縦材と横材を留めにすることは稀で、どちらかを面内で納めるのを常とする。

③ 敷居・鴨居・無目の見付け寸法(厚さ)は、1寸~1寸5分(約30~45㎜)以上。 鴨居の見付け寸法は、真壁の場合、壁面の見えがかりに影響するので、任意に設定できる。構造材を兼ねた差鴨居とすることもできる。          

④ 引き戸の場合、通常、溝は、敷居・鴨居の芯振り分けで彫り込む(柱芯、敷居・鴨居芯が基準となるため、仕事に間違いが起きにくい)。 溝を彫り残した部分を樋端(ひばた)と呼ぶ。 溝の深さは、鴨居は5分(約15㎜)、敷居は仕上がりで0.5~0.6分(約1.5~1.8㎜)程度。 敷居溝には、一般に、磨耗を防ぐため堅木の埋め樫(うめがし)や塩ビ製敷居すべりを張るので、溝自体の深さは1分(約3㎜)。註 樋端を芯振り分けのとき、引き戸は芯振り分けには納まらず、内外のどちらかに寄る。建具を芯振り分けで納めることもできるが、溝彫りの墨付けに対して、適確な指示が必要。その場合も、材芯からの寸法指示が適切。材の端部からの寸法指示は間違いを起こしやすい。一般に、木造軸組工法では、墨付けは、常に、材の芯からの寸法で行う。

溝の形状は、一般に戸の見込み寸法に応じて決めるが、地域によって異なる。 関東地方の通常の引き違い戸の敷居・鴨居形状例は下図(単位は寸表示)の通り。 註 戸と戸の隙間を1分(3㎜)、溝幅7分(21㎜)とした寸法であり、ガラス戸、板戸、フラッシュ戸、障子に共用できる(見込み6分仕様の伝統的な襖も含む)。

註 建具の見込み寸法が1寸2分(約36㎜)を超える場合は、溝幅を8分(約24㎜)以上とする。レール・戸車式の引き戸では敷居の溝は設けないが、平戸車の場合は溝あり。

⑤ 開き戸の場合は、戸当りを柱・方立・鴨居に設ける。真壁では、敷居は平が一般的だが、靴摺り・戸当たりを設けることもできる。 註 建具の位置は任意に設定できるが、指示に適確さが必要。材の芯に戸当りを付けると間違いがない。  戸当りは、幅8分~1寸×出3~4分程度。戸当りの取付けは、丁寧な場合は小穴を突く。

⑥ 雨戸は、柱の外側に、雨戸用の1本溝の敷居・鴨居を本体の敷居・鴨居に小穴を突き取付ける。

⑦ 外部などで建具を多重に設ける場合(柱間に障子を備え、さらにガラス戸、網戸を備えるなどの場合)、柱の外側に縦枠、敷居・鴨居を取付ける。 註 ⑥⑦の方法は、室内でも応用可能。外部ではレール・戸車式として、敷居に水勾配を付ける。

⑧ アルミサッシとする場合は、開口部の建具構成によって、内付け、半外付け、外付けを使い分ける。柱間に障子などを建て込む場合は外付け、ブラインド、カーテンなどの場合は半外付けまたは内付け。 註 アルミサッシは、外部大壁納めを前提にした断面であるため、外部真壁の場合、いずれを用いても、取付け用のつば部分が露出する。つばを隠すには、枠の外側に見切縁を取付ける。                        

 

「付録2-2」へ続く               


「筑波通信№7後半. あとがき」

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 (「筑波通信№7 前半」より続く)

 

 学校建築については、当時既に、学校において行なわれる教育の形態(授業形態)が実地に観察され、細かく分折・検討が行なわれ、いろいろな室や運動場などの(教育の場としての)備えるべき条件だとか、それらの並べかたの方法などについて、学校建築の専門家たちが研究を重ね、またそれに拠る各種の提案やモデル建築が提示されていたのであるが、しかし現実に建っている模範的と言われた実例は、正直言って合点がゆかず、私の通った古い木造の学校の方が、私には数等なじめるとひそかに思ったものである。私の疎開先の学校は、木造平家建の教室がハモニカ様に並んだ校舎が三本平行し、それを「王の字」型に廊下がつないでいる、昔よくあった型であったけれども、うす暗い教室のすみっこなどは結構楽しかったし、とりわけ二列の校舎の間の幅2メートル(もっとあったかとも思う)ぐらいの小川(用水路)がきれいな水をたたえて流れていた、その細長い空間は、もたれかかってなにかをした校舎の木の外壁とともに、別にこれといった細工など何も施されていなかったけれども、最もなじんだ場所であって、いまではもっと美化された形で思い出として浮んでくる。

 そういった学校建築の専門家たちの研究成果のとりこまれた学校がなじめない、いったいそれはなぜなのか。

 私の行きついた結論は、この人たちの学校建築について考えていることには、子どもたちの生活が欠落している、そこにあるのは、子どもたちの教育(授業)との係わりという局面での諸行為としての意味の生活だけなのだ、そういう結論であった。そして、学校建築というのは、そういう単なる「教育の場」として限定して考えてしまう前に、ほんとの意味での「生活の場」として先ず考えるべきだと考えるようになったのである。

 

 子どものころを思いだしていただければ直ちに分ることなのだが、たとえば学校の建物や校庭のほんのちょっとした一偶や、校庭にあった木、草むら、あるいは往復の二十分もあれば行きつくのに小一時間もかかった道すがら(いま私は、あの疎開先の学校を思い出しながら書いている)、そういった光景とそこでの私の姿が次々と、月なみの表現でいえば走馬燈の如くに、思い出される一方で、たとえばどんな具合にしてかけ算やわり算を習ったか、その授業形態その場面としての教室の光景というのは、けろりと忘れていることに気がつくはずだ。授業がらみで思いだすことがあるとすれば、廊下に立たされたとか、指されたけれど答えられなくて弱ったことだとか、私の場合そういうえらく情けない話だけだ(これについては、ことあるたびに大人の人に尋ねてきたのだけれども、思い出すのが授業外のことである点は全く同様であった)。

 すなわち、大人が必死になって考えている「教育」の局面は、子どもの私たちによって、こういった生活のほんの一部に押しやられ、あるいは一部としてくるまれてしまっていたということなのだ。

 

 唐木順三の「途中の喪失」という随筆のなかに、次のような一節がある。

  「私たちの子どものころは途中で友だちを誘い合いさんざんに道草を食って学校へいった。学校へついても授業の始まるまでに三十分も一時間もあるという具合であった。学校までの道草、ふざけたり、けんかをしたり、空想を語り合ったり、かけたり、ころんだりした道草、この一見無駄な途中によって、ほのぼのとしたものではあるが、さまざまな人生経験がつまれていったように思う。途中は目的地への最短距離ではなくて、少年たちの共通の広場であり、空想の花園でもあり、遊びの場所でもあった。ときには上級生の下級生への制裁の揚所にもなり、教室から開放された悪意の腕のふるい場所でもあったが、それはそれなりの秩序をもっていた。教室で学びえないものを、おのづからにして学びとる場所でもあったわけである。」

 

 これは、子どもにとっての学校(生活)を十分に語って余りある文章だと私は思う。余談だが、私がこの随筆を初めて読んだのは、設計した小学校の工事監理のために七戸へ赴く夜行列車のなかのことであった。折悪しく夏の帰省時で寝台がとれず一等指定席(いまのグリーン車)中ほどより後の通路側、そんな席のことまで覚えている。設計のときいろいろ考え悩み、自信もそれほどないまま、言ってみれば半ば強引に自分の考えを押し通してきた私にとって、私と同じような考えを述べたこの文に出会ったということが、いかにうれしいものであったか。多分想像していただけるものと思う。

  ことによると、しかしこういうことは、あなたがたの世代の子どものころの話であって、たとえば通学路も指定され、また授業内容も比較にならないほどきつくなっているいまの子どもたちは、必らずしもそうではないのではないか。これは、あなたがた世代の懐古の情、歳とった証拠である、などと言われかねない、などという気もする。しかしそれは、いま子どもたちに尋ねたところで、はっきりとは分ってこない。分かるのは多分彼らの十年後二十年後だろうと思う。ただ、私事で恐縮だが、私が筑波研究学園都市に移住してしばらくたったあとで、私の子どもに、前いた東京の学校といまの学校(因果なことに、ほんとに幸か不幸か、私の設計に関係した建物だ)の違いについて尋ねてみたところ、「こんどの学校は、かくれんぼができない。」そういう答がかえってきた。それをきいて、いまだって、少しも変っていない、そう私は(勝手に〉確信をもったのである。

 それと同時に、この学校について、雨が漏る、暑い、‥といったいろいろな批判をうけていたのだが、そのどれにもまして、この「かくれんぼができない」という一言ほどぐさりときたものはなかった。えらそうなこと言って、既にして観念的になって、考えだけが上すべりしている、お前が七戸で考えたことは何だったのだ、どこへ行ったのだ、そういう詰問にきこえたのだ。いまでもこの学校のそばは、しょっちゅう通らざるを得ないのだが、その度に「かくれんぼのできない学校」という苦い思いがよぎるのである。

 

 なるほど確かに、学校での子供たちの「生活」時間を、時間数で計るならば、その7・8割は教育:授業に費されているはずなのであるが、子どもの私たちにとってそれは、いま書いてきたように、むしろ逆転した比率、あるいはそれ以下にしか記憶されないのだという事実、これは十分に考えられなければならない。

 考えてみれば、あるいは考えるまでもなく、学校の教育・授業(特に義務教育の)というのは大人の勝手、大人の論理なのであって、子どもの都合ではないし、子どもの都合が考えられているわけでもない。そして子どもは、そういう大人の思惑にも拘らず、それとは関係なく、そういった大人のつくった制度やわく組のなかで、それでもなおしたたかに子どもの論理を展開しているのである。

  子どもにとって、彼らの生活の(ほんの)一部に「教育」がある、先ずこのことを認めることから始めよう。これが私の考えたこと:「教育の場」である前に先ず「生活の場」であるこの基本である。

  ふと省みてもらえば分ることなのだが、これほど感受性豊かなときは他にないと思われる子ども時代の六年間という長い年月を、子どもたちは(彼らの意志によってではなく)学校ですごすのだ。そういう(彼らにとっていや応なく与えられる)場所での体験を経て、子どもは大人になる。これは何人も否定し得ない真実である。それが「生活の場」でなくして、いったい何だろう。

  だから私には、学校建築の専門家たちの考えていることは、ただ大人の論理に従順な子どもたちをつくる教育のための鋳型だけを考えているようにしか見えなかった。そこにも、(子どもたちの)主体性というものは、つめのあかほども考えられてはいないのだ。

 私は別に、ここで、子どもの論理を抽出して、言わばそれに迎合すればよい、などと言っているのではない。そうではなく、子どもたちでさえ(あるいは子どもたちだからこそかもしれない)主体的に生活をしている、そのことを知るべきだと言っているのである。この点については、最近車を走らせながらきいた、灰谷健次郎の語っていた言葉(正確ではないかも知れない)が印象に残っている。「私は教師であったとき、決して子どもに迎合しなかった。大人の論理をぶつけていった。しかしそれは、子どもの論理をないがしろにすることではなかった。」

 

 だから、私がこの七戸町の小学校の設計に際し考えたことを、いままとめれば(というのはそんなに理路整然と、その当時まとまっていたわけではなかったから)この町の子どもたちが、教育制度という他動的なわく組に括られつつも、そこで子どもたちが主体的に生活し、言ってみれば子どもたちの社会が展開する、歳を重ね成長してゆく、そういう彼らの「体験の内容と成り得る」場所として耐え得る場所を用意すること、こういうことになるだろう。そしていわゆる「教育」は、言ってみれば、その一郭で行なわれる。そしてこれは、当然のことながら、先に説明してきた私たちと場所との関係についての話に収束する。

 

 そして、七戸町立城南小学校は建った。そしてそれが、学校建築の専門家のなかで物議をかもしたのをうすうす知っていた。それが、少なくとも一見したところ、昔ながらの学校はもとより、当時学校建築の専門家によって推拳されていた模範的学校に比べて、どう見ても風変りであったから、専門家の間にさえ、その評価・位置づけをめぐって、少なからず途惑いが見られたのも、それは当然だったかもしれない。もちろん私には、風変りにすることが目標としてあったわけではない。

 私はこの学校の設計にからんで、かなり当時の私の立場にしては過激な表現で文章をものし、建築の研究や専門家のやっていることに対し批判を重ねていたから、そういうことへの言わば感情的反発も微妙に混じったかたちで物議をかもしたのである。私が一番気にくわなかったのは(いまでもそうなのだが)こういう研究者、専門家を自称する人たちが、決して根源にさかのぼろうとはせずに(問題の本質が何であったかと自ら問うことを忘れ)ただいたずらに、一次グラフ的に進む、進めると思っていることだった。そういうのが研究者だというならば、私は潔く研究者であること、そうなること、そう呼ばれること、それを拒否しよう、そう思ったし、いまもそう思っている(だから私は建築学会の会員ではない)。

 そして、いろいろな声やコメントが、直にではなく人や文章を介して私の目や耳に入ってきた。しかし、私にとってそれらはみなとんちんかんなことを言ってるようにしか見えなかった。

  そうは言っても、そういう声やコメントを知っているわけだから、私が彼らの評判を全く気にしていなかったと言ったら、それはうそになる。けれどもつまるところ、彼らは一介の見学者であり観察者にすぎず視線がただその表面をなでてゆくだけだ。建物の評価は、専門家の感想にあるのではない。ほんとの評価は、その建物を体験してゆく人々にとって、それがどうであるかそこにこそあるはずで、私にとってはそのことの方が気がかりであった。この学校がそこで育ってゆく子どもたちにとって、ほんとに「体験の内容」と成るだろうか、なじめるものになっているか、それとも所在ない場所でしかないのか、それが気がかりだった。

 しかし、それを直ちに確かめる術がない。唯一の方法は、それが定着してゆくか、そうでないか、それを十年、二十年と見続けることしかないだろう、そうするなかで見えてくるだろう。私は落成式の日、それはー段落してなんとなく気がぬけてゆくような感じになる日なのだが、これからが正念場、私が試される、びくびくせずに、しょっちゅう見に来よう、帰ってこよう、そう思ったのである。

 

 この設計は、私が責任をまかされた、そういう意味で、私の初めての設計であった。この「初めて」という状況は、こういうある種の判断をともなうことの場合、極めて気のはりつめた一種の極限状況のようなものらしい。できあがった建物をあとになって見てみると、解決のしかたの下手さだとか、技術的対応のまずさだとか、そういった点が確かに目につくのだが、考えられる限り考えてあるという点では、その後の設計より数等ましだと思えるような感じさえ受ける。そういった「初めて」という状況が、問題の所在を明らかにして見せてくれるのだ(というと他動的にきこえてしまうけれども、そうではない。考えてる方が、言わばあとがないというような気分でいるから、かえって問題がその軽重をきれいに整理されたかたちで見えてくるのである)。実際、考えられるだけ考えた、まちがったことは考えなかった、手ぬきはなかった、そういう充実感というものがあって、できあがったものの下手さ、まずさにも拘らずやったことに悔いがないから不思議である。

 むしろ、その後の設計の場合、確かに技術的な対応だとか解決の要領のよさだとかいう点では多少うまくなったとは思うが、どうしても目がそちらの方へ向いてしまって、問題の本質的な確認という点では、それをさぼる傾向があったのではないかと、いまふりかえってみると、思えてくる。

 

 たとえば、先の「かくれんぼのできない学校」とは何か。ここには、その考えかたにおいて何か欠落があったのだ。何かをさぼったのだ。私は「かくれんぼ」という遊びをさんざん考えた。つまるところ、「かくれんぼ」とは、人の意表をつく遊びだと言ってよい。普通なら居そうなところに居ない。隠れる。それを、探す方も考え、探す。つまり、日常の裏返しを楽しんでいるわけだ。一番うまい隠れかたは、私の言いかたで言えば、「私の地図」外のところ、あるいは探し手側の「彼の地図」外のところに隠れることだ。「私の地図」外のところというのは、そこへ行くこと自体言ってみれば冒険であるから、そういうところに隠れていると、見つからぬようにと思う心と同時に、あるいはそれ以上に、なんとなく尻の落ちつかないその場所の不安さに圧倒されて、心臓がどきどきする。おそらくこういう後ろのお化けを気にしながら隠れていたというような体験は、みながもっているはずである。実は、そういう体験の積み重ねで(なにもかくれんぼだけでなく)「私の地図」は拡大していったのである。

 「かくれんぼ」のできた学校、そこでは「私の地図」がいつも一枚しかないというのではなく、初めは狭い「私の地図」が、段々と拡大してゆき、ときには卒業するときになってもついに「私の地図」に載らないところが残ってしまった、そういう学校だと言ってよいだろう。「私の地図」が徐々に徐々に大きくなってゆくような、そういうつくりになっていたというわけだ。

 これに対し、「かくれんぼのできない学校」では、「私の地図」の段階的発達がない、その初めから、たちまち全体が即「私の地図」に描かれてしまうのである。次の段階の「私の地図」は、すぐさま学校外へとびだしてしまうのだ。確かにこの学校は分りやすいのだが、体験に成長がないのである。

 あえて言えば、この設計において私は、体験としての分り易さを追求はしたものの、体験の内容についての本質的な確認を、もうあたかも済ましてしまったかのように勝手に独り思いこみ、忘れてしまっていたのではないか。

 七戸の場合、そこではかくれんぼができる。そこでは私はちゃんと、本質的な問題の確認をやってある。自分で言うのも妙なものだが、いまとかく忘れてしまいそうなことが、ちゃんと考えられている。

 

 いま考えてみると、この学校はそれが私にとっての初めての設計であって、それが「初めて」であるが故に、私がその後考えてきた建築についての考えかたの大わく、骨組み:私にとっての問題の所在を、自ずと、垣間見せてくれたのだと思う。建築について私が考えてゆかなければならない問題が提起され(というより私に見えてきて)それに対してそのときの私なりに解答をだした、そのよし悪しはともかく、問題を考えられる限り考えた、おそらくそれが充実感とある種のさわやかさを私に味わせてくれたのだと思われる。言ってみれば、この設計は、いまの私の原点のようなものなのかもしれない。私はずっとそれを引きずってきた、あるいはそのとき浮んだ考え方の骨組みを確認し、問題により深く答えることを目標にして過ごしてきたのではなかろうか。そして、だから、ときおりこの原点自体に不安をもつことがあったのだ。しかし結局、その骨組みを根本的に変えるような事態にはぶつからなかった。

 

 その後私は、いくつかのいろんな種類の設計をやってきた。その際私は、どの場合でも、いまここに書いてきたような考えかた(「体験の内容と成り得る」場所たり得ること)に基づいて、あるいは基づこうとする態度で、やってきたつもりではある。

 けれどもときおり、怠惰になり、ことの本質を忘れ、惰性でことをすすめてきたきらいがある。いまでも多分ときおりそうやっているだろう。そして、いい気になっているとはっとするようなことにぶつかる。分っていたつもりのこと、あるいは考えたつもりのことが、実は少しも分っていなかった、考えられてもいなかった、問題のまま放ってあった。そういうことに気づかされる破目になる。先の「かくれんばのできない学校」の例もそうだし、この通信の一号で書いた「自然発生的集落」についての質問もそうだった。考えられる限り考えた上なら未だ救われるが、そうでないとき、それは救い難い。自分の考えは何だったのか、何を考えてきたのか、ほんとに考えてきたのか、そう思うと情けなくなるときがある。そういうとき、私は無性に七戸へ戻りたくなる、行きたくなるようだ。何を考えていたのか、考えようとしていたのか、あの「初めて」のとき以上に深く考えられるようになっているのか、「初めて」のとき以上に充実感を覚えて考えたことがあるのか、要するに自分を見つめに、簡単に言えば、頭を冷やしに行きたくなる。どうもそのようだ。

 私はほぼ五年に一度、七戸を訪れている。それは、落成式の日に思ったこと、建物がどうなってゆくか見続けることの実行ではあった。しかし、むしろそれは、このことの裏返しとして、実は私は、私自身を見に行っていたのではないか、ふとそんな気がしてきてならない。七戸を訪ねよう、そう思いたつのに先だって、必らずふりだしに戻って考えなおしてみたい。みなければならないと思う何かが私の内にあったのではなかろうか(四年前のときは、「かくれんぼ」の一件のあとだ)。

 

 今年、私はやはり、無性に七戸に行きたくなっていた。どうしても夏までには行くぞ、そう春さきから思っていた。思いあたるふしがある。このところ、私はまた惰性で生きている。本質を見ようと(観念的に思っても)していない。そう指摘する人もいた。何やってんだ。自分が腹立たしかった。(そしてその一つの反省が「通信」になった)。

 予定は次々とくずれ、残すは八月末だけ九月になると忙しくなる、そんなことを考えているとき、七戸町のT氏から連絡が入った。もうじき20年になる。傷んできた。全面改築という話もあるがそうはしたくない。補修でゆきたい。相談したい。そういう電話であった。

 T氏は、この小学校の、言わばプロデュースを担当した、当時町の教育委員会事務局にいた人で、次回書くつもりだが、この20年近く、七戸町のいわゆる町づくりに、文字どおり身を挺してきた人の一人である。 渡りに舟とはこのこと、八月末、七戸帰りは実現した。

 

 故郷というものは見捨てたくなるものだそうである。そして、しかし、所詮見捨てることが、いかんともし難くできないものだそうである。私にとって七戸は、そしてそこでやった「初めて」の設計は、これもいかんともしがたく、いま私は何をしているか、それを量る物指しのO点になってしまっている。これから先もまた、何度も帰ってみることになるのではなかろうか。しかし、このことに気がついたのは、極く最近のことである。「初心不可忘」と言った先達のその言葉の意味が、いま、やっとなんとなく分りかけてきたように思う。

 

 18年後、学校はどうであったか、そしてそもそも、当時東京にいた私がなぜはるか離れた青森の七戸町へ出かけるようになったのか、その話が残ってしまった。特に後者はつまるところ、なぜ七戸町にあの風変りな学校が建つことが許されたか、あり得たか、という話であり、それは、その町の町づくりにかける情熱と、それを支える考えかたが何であったかという話に他ならない。「地方の時代」などと言われだす20年も前から、ここにしたたかな「地方」が在った、そのように私は思う。

 次回はそれについて書こうと思う。

 

あとがき   〇毎号私は、現状に対して批判的なことばを並べてきた。しかしその説明を詳しくせず、しても半ば抽象的であった。いつか具体的に説明する必要があると思っていたし、それを求める意見もきこえてきた。   〇七戸から戻ってきて、七戸の町の話でそれを試みてみようと思った。いままでの話の補足になれば幸いである。    〇ことの性質上、私がどう思ったかという言わば私的体験を語らねばならず、読む方もあまり気分のよいことではないのだが、しかしことの本質を理解しあう為には、ある状況を共有することから始めざるを得ず、止むを得ずそういう形になった。    〇しかし、このある状況を共有するということぐらい難しいことはないようだ。

〇たとえば、一つの言葉に人が思いをこめた、そのこめた思いというものを分る、分ろうとする、人が少なくなってきているのではないか。これは最近、私の同僚としょっちゅう問題にしていることだ。詩が、短歌が、そして俳句が分らなくなる時が真近かに迫っている。たとえば俳句を文字どおりに英訳したらなにがなんだかわけが分らなくなるのは目に見えているが、ところが、それ的理解、それ的解釈しかできない、つまり情景が想定できない人たちが確実に増えている。従ってそれを共有できない。というよりそれ以前である。ある精神科医が、精神科医は詩が分らなければその資格がないと書いているのを読んだが、それは建築家(ひろく私たちの住む揚所づくりに関わりをもつ人)に置き換えてもそのとおりだと思う。そして、言葉においてこういう状況であるならば「もの」に対しては推して知るべしである。

〇なぜ「かくれんぼができない」のか。その説明は、実はこの数年私の宿題であった。いまこの文を書いていて、自ずとその宿題が解けたように思っている。収穫であった。

〇それぞれなりのご活躍を祈る。   

      1818年.10.1                       下山 眞司

 

「筑波通信№7 前半」 1881年10月

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 PDF「筑波通信 №7」1981年10月 A4版16頁  (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

  「筑波通信 №7」  1981年10月

     七戸物語(その1)・・・・いま ふるさとはあるか・・・・

  青森県上北(かみきた)郡七戸(しちのへ)町と言っても、知る人は少ないだろう。東北本線の特急で上野からちょうど8時間三沢で私鉄に乗りかえ30分、終点の十和田市から更にバスで30分、国道4号(陸羽街道)沿いにある小さな町である。地図(別図)でわかるとおり、八甲田連山の東側のすそ野にひろがる火山灰台地に切りこまれたひだのような低地:数本の小河川の合流点にある町だ。

 

 それらの河川は全て小川原(おがら、あるいは、おがわら)湖にそそぎ、周辺には縄文期の遺跡が点在するそうである。古来、この火山灰台地では馬の放牧がさかんであったようで、江戸時代南部支藩七戸藩の城下町(柏葉城という:いまはわずかに跡をとどめるのみ)陸羽街道の宿場町として栄えるとともに、本邦産馬の中枢地(七戸馬として世に知られたという)としても大いに栄えた町であったようである(いまから18年ほど前訪れた当時、まだ馬市場が残っていたように思う)。いまでも人々の生業は、低地での水田(特に第二次大戦後発展)台地での畑作(殼類の他に、ながいも、たばこを多く見かける。以前は桑も多かった)と馬(戦前は軍馬、戦後は競走馬)牛(肉牛:昭和30年代より)の放牧が主たるもののようである。人口は現在約一万三千。一歩町なかをはずれると、一見のどかな風景が展開する。それというのも、明治の鉄道敷設に反対したため、東北本線は野辺地(のへぢ:下北半島の入口)まわりとなってしまい、そういった意味での発展からはとりのこされたからであろう。しかし、いま考えてみて、それが町にとって損失であったとは一概には言えないように私は思う。

 この町のどこを歩いていても大概、ふと西の方を見やると、八甲田連峰のすばらしいながめを目にすることができる。秋から冬へ、冬から、春へ、この山は季節の移り変りをもののみごとに表現してくれる。

  今回と次回、この七戸町との係わりにまつわることどもを中心に書いてみようと思う。というのも、私にとって、この七戸町との出会いというのが即ち設計という行為との初めての、そしてほんとうの出会いに他ならず、そのとき手さぐりで考えたことというのが、おそらくその後の私の建築に対する考えかたそのものに、決定的といってもよい影をおとしているように思えるし、また、この間七戸町において行なわれてきた各種の建物づくり:町づくりというのは、これは十分注目に値することのように思えるからである。

  

 いまから18年前(1963年)私はこの町の小学校を設計した(私の意識では、この町に小学校を設計したというのではない)。私が26歳のときである。はるか昔のことである。

 この8月の末、久かたぶりにそれを見に七戸町へ行ってきた。その学校の完成以来ほぼ五年に一度は訪れているし、設計の前年から工事中にかけての数年間というものは、ひっきりなしに通いつめたから、町なかの様子も大概分っているつもりではあったのだが、それでもやはり役場が新しくなっていたり、道が付けなおされていたりして、多少道に迷うこともあった。けれども雰囲気は相変らず昔のままであった。

  

「航空写真」は次号「筑波通信№8」より

「建築 1965年5月号」より 青銅社  設計 東京大学吉武研究室   (後方の山は八甲田連山。2枚の画像は共に投稿者による挿入です。)

 

 今回は初めて、鉄道を使わず車で訪れたのであるが、着いた日の夕刻、七戸の手前十和田市のあたりから見えだした落日の八甲田連山は、思いのほか大きく、おそらく初めてそれを見た同行の人たちも、きっとその姿に感激をおぼえたことと思う。実際それはすばらしかった。

 けれども私は、それにも増して、その姿に「懐しさ」を覚えたのである。「帰ってきたな」「着いたな」そういう少し大げさに言えば胸さわぎを覚えるような、そんな感じを抱いたのである(おそらく同行のだれ一人として、この私の気持には気づかなかったと思う)。それは、すばらしい風景が見えたなどという以上の、そんなのとはまるっきり違う感情である。そして私は、その町に住んでいない、住んだことのない私が、そういう「懐しさ」を覚えたということで、実はほっとしたのである。

 それはどうしてか。

 ある所に住んでいる限り、どうしようもなく気にかかって(というより、気にかかるように)見えてきてしまう地物などの光景というものがあるが(いま書いている話では八甲田山がそれにあたる)、それを見るあるいはそれが見える、見えてしまう、ということは、そこに住む人々にとって、極めて重要なことなのだ。それは単なる観光的景色:最観なのではなく、自分の住む場所、あるいは住んでいるということそれ自体を言わば象徴する(それが見えるということが即ち生きている、住んでいることに他ならず、そのことの象徴・履歴として、永く心に沈潜し、故に「懐しさ」となる)従って、そこに住む以上欠くべからざることなのであって(先号の言いかたで言うならば、「私の地図」のなかに、かならずその姿が表われでるということ)、だから、そうである以上、設計をする:その町に住む人たちの生活が展開する場所づくりに係わる:にあたって決して見逃がすことのできないことである。これが、その当時、その小学校を設計したとき、私が考えた極めて重要なポイントの一つであった。前ページの末尾で、この町にではなくてこの町のという意識であると書いたのはこういう意味なのである。

 普通、学校といえば、「子どもたちの教育の場」であると考えられ設計されるのが常なのだが、私がここで言ったのはこの学校に来るのは「一般的な子どもというもの」という子どもたちなのではなく、あくまでも「この町の」子どもたちなのだということなのである。そして、「この町」の「この」の内容を特定するものの一つとして、こういったどうしても「気になる」地物などの光景が重要な役割をはたしているのだ。こう考えたのである。その当時、一般には、この「この」なしに、つまり固有:特定名詞でなく一般名詞でことが処理されてゆくのが常で(いまだって変りないのだが)、それに対し、それは絶対に誤まりであると私は思っていた。

 

 しかしながら、いまここで書いてきたようなことがらというのは、言わば「見えない」ことの話であるから、当時、このことについていくら口で説明したり文章を書いたりしたところで、なかなか分かってもらえなかったし、とりわけ、建築をやっているなかまのなかで、私の言わんとしたことを分かってくれる人、分かろうとしてくれる人は、ほんとに少なかった。それに、第一私自身、先回書いたように、そういった気になる地物を目の前にするような生活というのは、疎開のときのほんの一年そこそこの体験しかないし、それだって竜王での南アルプスは八甲田の山容に比べめりはりがなく壁のようで、気になりかたが少なかったように思う。だから、いま簡単に述べた私の考えかたというのは、私自身のほんのわずかな体験が基になり、あとは言わば頭のなかで組みたてた、どちらかといえば、私の「推量」にすぎないことであった。きっと確かなことなのだとは思っても、「実証」し「説得」する力に欠けていた。

 当時、この説明の為によく使ったのが、「ふるさとは遠くにありて想うもの」ということばであった。ふるさとに居続けるかぎり、さしづめ空気のようにその存在の有無が分らないものとなっているふるさとも、そこを離れたとき初めて見えてくる、しかもそれはかならず、そのふるさとを言わば象徴する光景の姿を想い描くことによってなのだ、それをこのことばは言っているのである。私はこう説明した。その場所を離れ、あるいは十年後、二十年後、時間が離れたとき、初めてその意味が明らかになるはずだ。十年後、ここに育った町の人に尋ねてみたい、尋ねてみれば分る、苦しまぎれにこうも言った。しかし、ほんとはそれは難しい。いまここで言っているようなことは、そういう状況のまっただなかに在る人は意識しておらず。むしろ、知らず知らずのうちに浸っていると言った方があたっている。尋ねられたところで答えようがない。そういうことは、よほどのことでもないかぎり、普段は意識にのぼらない。いったいこれを、どうやって「実証」したらよいのだろう。

 いま現実に十数年たってみて、私自身、その光景に「懐しさ」を覚えたとき。これでよい、これで十分だと私は思った。誤っていない。私の考えていたことは、当っている。自分自身の体験という「実証」ができつつある、そう思ったのだ。だから内心ほっとしたのである。そこに住んでいる人に比べれば、私のその町での体験は全くとるに足らないほど少ない。そうであるにも拘らず、その私が「懐しさ」しかも「帰ってきた」という感情さえもったのだから、あとは推して知るべし、そう思ったのだ。

 けれども一瞬、しかしこれは、自分が設計したという「思い入れ」がそうさせているのではないかという疑念が頭のなかをよぎった。しかし、設計当初はともかく、設計して十年以上もたってしまうと、設計者は意外と冷静でいられるもので、その建物を客観的、第三者的に見ることはもちろん批判・批評することもできるようになるものである。設計者であり同時に観察者であるということが、ほぼ可能になってくる。言うならば、昔の恋人に会っても、確かに一方である種の感懐を抱きつつも、割とクールに話ができるような、そういった年月というフィルターがかかってしまうようなのだ。というか、年月がいろいろな夾雑物を流し去ってしまうのだろう。私はそんなことを頭のなかで反すうしながら車を走らせていた。そして、何度も思いなおしながら、やはりこの「懐しさ」はほんものだ自然にわき起ってきたものだ、そう確信に近い感じを抱いたのであった。

  

 私は先号のあとがきで、いつも山々に囲まれている人たちが、いまその山々にいかに対しているか尋ねてみたいと書いた。先々号でも、「幼き日の山やま」という随筆を引用して、山への対しかたの話を書いた。しかし、先々号の場合には、そり焦点は別なところを目ざしていた。けれども、私がこの随筆に目をとめたというのも、このある程度確信はもてても、いま一つ「実証」し難いこういう地物の光景の人との係わりそしてその大事さということに対して、この間ずうっと関心があったからなのだと思う。考えてみれば、私はこの間、はるか昔に考えたことを、自分の身で体験し感じて「実証」するために生きてきたのかも知れない。それはきっと、私自身が体験をつみ重ねてゆくなかで、徐々にその姿が明らかになってくることなのだろう。これは人間の心情に係わることだから止むを得ない。

  けれども、十分にかたちを成していなくても言わなければならない。そう私は思い続けてきた。こういった「目に見えない」ことは、「目に見える」ことだけにかかずりあい、それらに分解するだけでこと足りるとする「合理主義」の下では、どんどん無視されていってしまうからである。「体験の内容と成り得る」ものが無視され、忘れ去られてしまうからである。そのように、どうしても私には思えてならなかった。だから、どうしてもそれを言わなければならない、しかも、建物づくりをしつつ、あるいはそれを通じ、言わなければならない、そう思ってきた。しかしながらそれは、それを確かなものにしようとしつつある途中の(その途中がいつ終るのか分らない、というよりむしろ多分終わりがない)段階で言わなければならないことだ。だからずうっと、はがゆく、もどかしいことの連続だった。ときには、これは全く私の独りよがりの考えかたなのではなかろうか、既にして出だしを誤まったのではなかろうか、そう思うこともたびたびあった。そのたびに、こう考えた方が、人々の諸々の営為:人々が生き暮してきたこと、やってきたこと、・・・・言集のほんとうの意味、詩や文学の存在の意味、そういったことが、少くとも私にはよく分るような気がしたし、それにも増して、ほんの少しではあるけれども現に同じように思い、語りかけてくれる人たちがいるではないか、そう思いなおしては、気をとりなおしてきた。

 翌日の朝のこと、同行した人の内の一人が、朝もやのなかに浮いた八甲田山をながめていて、しばしの沈黙ののち、いつもこれを目の前にしている人たちには、これはどう見えるのだろう、そういった内容のつぶやきをもらすのをきいて、だから私は、無性にうれしかった。この人も、単に景色を見ているのではないぞ、そう私には思えたからである。

  

 いま私は、八甲田の光景から話をすすめてきた。けれどもそれは、なにもこういった目だった地物についてだけの話ではない。私たちをとり囲んでいる一切のものというのが、それなりにそれぞれ、私たちにとって、「気になる」ものとして存在しているのだと言った方がよいのである。けれどもこれも、そのことに先ず気づくことから始めなければならない。いま、そのことの一環として、先ず、このような「目だった」ことの話からすすめたにすぎないのである。

 私たちは私たちが「私たちの地図」をもっていることに気がつくべきだ、このように私は先号で書いた。いま書きつつあることは、これに関係してくる。いったい何故、こういったことに気がつくべきだと言うのか、どうしてもこの点についてもう少し説明を、無理してでも、する必要に迫られる。

  私たちがいま、たとえば、ハイキングなり山歩きをしていると仮定しよう。大分歩いておなかが空いてきた、ころあいもよいし昼食にしようということになる。そのとき私たちはどうするか。目的は「空腹を満たすこと」にあるとして、所構わずすぐさま弁当をひろげるだろうか。そんなことはない。ないはずである。私たちは、場所を探し腰をおろす。そして、落ちつけたことを言わば確認して、それからおもむろに弁当をひろげる。だいたいそういう手順になるはずだ。

 

 私の住む筑波研究学園都市のある小学校のグラウンドは、起伏のある広い芝生、樹林、池(林や池は、大かた昔からのもの)のある公園に隣りあっている。ここでは、学校にも公園にもヘイというものがないから、どこまでが学校で、どこからが公園なのか、一見したところ区別がつかない。この小学校の秋の運動会は、これまたいま都会では考えられないほど昔風で、学校の行事ではあるけれど、むしろ子どもを軸にした家族ぐるみ町ぐるみの行事として、結構にぎわいをみせる。その運動会の昼の休憩は、それぞれの家族が思い思いに、このグラウンドから公園に散らばって昼食をとるのであるが(運悪くその日親が都合のつかなかった子どもたちは、よくしたもので、知人の家族と一緒にやっている)、それを観察していると、その席とりの様子が、まことにむべなるかなという様相をとるのがよく分る。決して、どこでもよい、というようなことにはならない。出おくれた家族が、止むを得ず、所在ない場所にとり残される。

 二年ほど前、子どもと八ヶ岳の一画に登ったとき、一休みしようとして腰をおろし、持参のカンジュースをのみ、ふと座ったところの地面に目をやったところ、そこにカンジュースの引きぬいたフタが数個、泥にまみれて落ちているのを見つけ、なんだ、みんな私と同じ格好をしてここに腰をおろしたなと思い、なんとなくおかしく思ったことがある。

 こういったことはまた、喫茶店の席とりのことを頭に浮べてもらっても分る。だれと(何人で)いかなることのために、つまり、恋人と密やかに人目を気にしてお茶をのむのか、公然とのむのか、あるいは一人で物思いにふけりたいためか、単なる時間つぶしか、あるいは数人集まって楽しい話をするのか、それとも深刻な話をするのか、‥‥それによってみな座りたい場所がちがっていて、ときには喫茶店そのものの選びかたさえも違ってくる。

 いまここに思いつくままにならべた事例をどう見たらよいか。

 これは、私たちがなにかを為す場合、そのなにかを為すためのそれなりの場所を要しているということであり、また、私たちのまわり(の空間)には、そういう具合に私たちがなにかを為すのに向いたそれなりの場所、つまりいろんな性格を感じさせる場所、というものが無数に存在し・・・・より正しい言いかたをするならば、私たちが私たちをとり囲む空間のなかに、いろんな性格の存在を(瞬間的に)感じとっている‥‥私たちはそのなかから適宜、そのときの私たちのありように応じ、それなりの場所を私たち自らの感じるままに(瞬間的に、そして決して信号機の青・赤の約束ごとに機械的に従うようにではなく、言わば主体的に)取捨選択し探している、ということなのである。

 

 先日の夜、我が住む町の近くを車で走っていたときのこと、隣りに座っていた私の友だちが、まわりに展開してゆく景色を見ていて(私は目をこらして道を見ているからそういう余裕はないのだが)「こわい森だ」とか「心なごむ林だ」とか「ほっとする揚所だ」とか感想を述べ続けていた。昼間見なれた風景も、夜になると際だってその特徴が露わになって見えてくるものだ。そしてこういう感想は、次の段階として、ここなら住めるとか、ここには怖い伝説でも生まれてもおかしくないとか、そんな話へ発展していった。つまり、ある感じをいや応なく私たちに抱かせる光景(場所)というものが、私たちのまわりには充ち充ちており、それがそこでの私たちのふるまいを、言わば支配するのであり、また当然のことのように、私たちは私たちのふるまいを(実際に行動に移さなくても)予測することができるのだ。

 いったいなぜ、単なる木の集まりにすぎない森が、ある森は人をして「怖い」と思わせ、またある森は「なごんだ」と思わせるのか、これは詮索したらきりがない。しかしここでは、そういう事象があるということ、そういうものなのだということ、このことを認めてもらうだけで十分だ。

 

  私たちの普段の生活において、かくあることがある以上、建物づくりもまた、まさにこういうことを認め、理解することから始まるべきではないか、なぜなら、建物づくりによってできてくる場所というのもまた、いま述べてきたような場所の一員になかまいりすることになるからだ、これが、その昔私の考えたことであった。以来、基本的には少しも変っていない。

 だから、先号で書き、またこの文の初めにも触れた「私の地図」というのは、私のまわりにある場所のなかに、そのときの私なりに(子どもなら子どもなりに)いろんな性格の差をみつけだし、それらを私なりに頭のなかで組みたて描いている、そういった地図のことだ。それは決して測量図としての地図そのものではなく、それに比べれば不完全だ。けれども普段、私たちには測量図は必要でなく、こういった「私の地図」で十分間に合ってしまう。そして、私たちがなにかをしようとするとき、私たちは即座にその「私の地図」の一郭に、そのための湯所を探しだし、あるいは逆に(子どものころを思いだしてもらえば分ると思うが)その地図に描かれた、自分のものとなっているあたりをなんとなくそぞろ歩いていて、出くわした場所場所で、そこなりの遊び(やること)が触発される。

 先回、川を渡った向う岸は「私の地図」には載っていないという書きかたをした。けれども実は、その言いかたはほんとは正しくない。載ってはいるのだ。ただその載りかたがちがう。なにか得体の知れない場所、怖い場所、ない方がいいけれどある、そういう場所としては載っていたはずなのだ。なにかおどろおどろしい場所がそこにある、近づけない、そういう風に。そのかわり、それに対置して、こちら側には、私の意のままになるところが、ちゃんとあるのである。これが「私の地図」なのだ。

 おそらく人々が「測量した地図」というものをもっていなかったとき(先回、これを私は「本物の地図」と表現したのだが、この通信をいつも熱心に読んでくれ必らず批評してくれる人から早速クレームがついた。本物は「私たちの地図」の方なのではないかと。そこで今回は、測量した地図と言いなおしているのである)、人々はこういう具合に、住める・住めない、行ける・行けない、等々といったことに基いた「地図」をもっていた。そして、それに拠って自分たちの住む場所を確保してきた。もちろん何を食べて生きてゆくか、それは住む場所を決めてゆく必要な条件であったことは確かではあるけれど(採集経済と農耕経済では場所がちがう)、それで十分な条件なのでは決してなく、つまり食えればどこでも所構わず住んだのではないことは、こういう見かたで遺跡分布図などを見てゆくと、自ずと明らかになってくる。むしろ、いま以上によく考えられていたのではないかとさえ思いたくなる。いまの文明下の生活に比べれば比較にならないほど貧しい生活の時代(つい最近まで)人々はむしろいま以上に、自らの心情において豊かであった、こうも言えるのではなかろうか。

 

  先ほどの山歩きのときのはなしだとか、いくつか思いつくままに記した事例について、多分(というより、きっと)全ての人が、そういったことがあることを、共感をもって認めてくれるはずである。であるにも拘らず、いま、人々は、「食う」ということは「食べものを食う」ことであればよいとして平然としていられるし、「住む」ということは家さえあればどこでもできる、つまり必要条件だけでこと足りると思いこんで平然としていられる。平然としているように見える。十分な条件など願っても無理だし、それは付加的な価値、ゆとりあってのはなしなのだ、そう思われているのではなかろうか。そこにあるのは、必要な条件と十分な条件が、それぞれ独立にあり、しかも必要な条件の上に十分な条件(強いてなくてもよい)が追加される、なにかそんな風な考えかたがその根底にあるのではなかろうか。しかし。こういう考えかたは先の全ての人の共感が得られるはずの事例とは、全く相反することであるのは明白である。そして、現実にはむしろ、この私たちの日ごろのふるまいかたと相反する方向でことが進んでいる。それがすなわち、私が何度か書いてきた、私たちの日常を「逆なでする」方向に他ならない。

 

 言うまでもないことだが、ある事象は、必要にして十分な条件がそなわらなければ成りたたない、これは確か中学校あたりの数学で習った論理学の初歩だ。にも拘らずその一方だけでことがなりたつと、どうして思うようになってしまったのか。

 いつの日からか、人間(の生活)を対象として観察し、人間の生活とは、その観察において見えてくるところの、食う・働く・寝る・・・・といった「行為」の(単なる)集合だとみなす癖が横行しだしてしまったのである。そこでは、その観察の対象となっている人間の生活というのが、実は、その生活をまさにしている、営んでいる人間の主体的な活動の結果物なのだということが、もののみごとに忘れられ、見失なわれているのである。更に、忘れている、見失なっていること自体さえも忘れ、見失なっているのである。

 だからいま、この文の初めの部分で書いたように、この町の学校でなく、この町に学校をつくっても平気でいられるし、先号で書いたように、半径500メートルの円を描いて、そのなかに住む子どもたちがみな一様にこぞってその円の中心の児童館によろこんで集まってくるなどと思って平然としていられるのだ。そんなことでつくられるものが「体験の内容と成り得る」ものとなるわけがない。そこでは初めから、人々の主体的な活動:主体性を無視している、というよりその存在が認められていないのだ。体験とは主体的なものなのであって、信号機にただ従順に従うようなものなのではない。

 

 いったいなぜこういう事態になってしまったのか。私はこの通信でほとんど毎号、こういう事態に到らしめたのは、その基にある、近代的、近代合理主義的、「合理主義」的、あるいは都会的等々といった言いかたで呼んだ独特なしかも支配的な考えかたにあるのだと書いてきた。この考えかたのよってきたること、その内容の分折・検討といったことは、だから絶対にしなければならないことだ。近代とはなにか、ということである。かといって、そういう大上段にふりかぶって攻めるなどというのは、私には不向きであるし、第一そういう能力はほんとのところない。だから、というかむしろ、現実の局面で私たちが遭遇する諸々の事象の解釈を通じ、そういった近代の考えかたの落とし穴を露わにしてゆきたいというのが私の思うところであり、またその方が、理論的分析よりもほんとは強い、そう内心では思っている。なにしろ私は、現実に建物づくりをしなければならないという破目のなかで考えてきたから、いまさら哲学教師や評論家にはなれないのである。それ故いまここでは、この近代について述べられた平明にして要をえた文章を引用するに止めておこうと思う。

 「日本の中世文化は、人間を深く究め、その主体的可能力を発掘しようとする生き方によって生産されたものである。古代文化は、これと違って、人間を超越した神を畏れ、魂を信じ、その働きに寄り縋ろうとする生き方から生産されたものであった。近代文化は、そういう超人間的なものに寄り縋ろうとするのでもなく、また、人間の可能力に頼ろうとするのでもなく、対象としての自然および社会を究め、そこに行なわれている法則を発見することによって、対象の世界を客観的に認識し、それを支配しようとする生き方によって生産されつつある。

 現代は、このようにして、自然を究め、そこに行なわれている法則を客観的に認識することによって、自然を支配するために、かえって、その自然に随順するほかはなくなり、自然に支配されようとしているのが、人間である。言い換えると、近代文化は、人間の主体性を喪失することによって成立し、発展している。これこそ人間の危機でなくて何であろうか。人間は、このような危機に直面して、われわれの生活と文化の中に人間の主体性を確立しようともがいているのが現状である。(西尾 実:中世文学と道元に関する党え書:1962年著:冒頭より、道元と世阿弥 所戴)」

 

 私の見解と多少違うのは、その最後の部分である。むしろ私は、いま、人間はそんな危機にも気づかず、その気のついていない、危機を危機と見ることもできない状況へ、自ら進んで、ときにはよろこびいさんで、入りこもうとしているのではないかとさえ思いたくなる。とりわけ、私のまわりの建物づくりや町づくりに係わりをもつ人たちの世界は、残念ながら、まさにそういう状態だ。彼らの多くは(大半は)人間を単に観察の対象としてしか見ない。人間の主体性など、つめのあかほども念頭にないのである。そうすることが、そうすることこそが「科学」だと主張するのだ。そのように見るのが「研究」であり「学問」であると強弁するのだ。ことによると(おそらくきっと)彼らは、彼らだけが主体性をもっているとでも思っているのだ。人間は、彼らにとって、操作の対象でしかない。彼らは既に、「お上」を「公共」と言いくるめる側にたっている。彼らには、人間の主体的営為というものが全く分らない。だから彼らには、古代とはなにか、中世とはなにか、人間の歴史とはなにか、そういう視点はどこを探してもないだろう。それはもう終わった話。それはそれ、なのである。昔は昔なのである。これこそ危機なのだ。

  

 私が何を考えていたか、考えてきたか、それをなんとか説明しようとしているうちに、大分遠くまできてしまった。再び元へ戻ろう。要するに私がその学校の設計に際し考えたことは、一言で言えば、この町の子どもたちの「体験の内容と成り得る」場所をつくるということであった。(もっともこういう便利な言いかたは、当時思いつかなかった。)

 それではそのとき、「学校とは教育の場である」という言いかたのなかの「教育の場」は、どこへいってしまうのか。その点についても、私は少し変わった考えをもっていた。

 

(「筑波通信№7後半、あとがき」に続く) 

「筑波通信 №8 後半, あとがき」

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                                           (校舎は現存していません。)

「筑波通信№8 前半」より続く

 

  T氏とのつきあいは、先にも書いたが、もう20年になる。そのときT氏は七戸町の教育委員会の事務局の一職員であった。そのとき町では学校の再編成の仕事にとりかかっていた。ちょうど、いくつもの学校や分校を統合する策が全国的にすすめられていたころである。町では、中学校を一つにまとめ、小学校は逆にいままで一校、町の中心の城跡にあったものを、ほぼ町の中央を東西に流れる川を境に南北二校にしようとする計画をたてていた。おそらくその企画もT氏の手によるものと思われる。普通ならそこですぐ、極く普通の学校が建ってしまうところだったのだが、T氏はそうさせなかった。どうせ建てるなら最先端のものを建てよう、そう考えたT氏は、当時学校建築について研究を重ね種々の提言を行っていた東大の吉武泰水氏のところに現れ助力を求めたのである。そのころ校舎の不燃化にあわせ、それもそのころ出現した軽量鉄骨による学校建築が推進されていたのだが、その結果、軽量鉄骨造の中学校がいち早くこの東北の一角に誕生したのであった。見学者あとを断たず、T氏も悪い気はしなかったろう。そのときT氏は血気盛んな(いまも変らないが)30そこそこであった。

  そして、次の小学校の新設計画のときもまた、彼は東京に現れた。そしてその設計を、全く幸か不幸か、私が担当することになったのである。私もまた血気盛んであったから(本人はいまも変らないつもりでいるのだが)私はいたく彼の情熟にほだされた。それに応えなければならないと思った。そして私の側で言えば、ちょうどそのころ、当時建築の世界でやられていることに疑問を抱いていたときでもあった。私は考えた。そこで私が考えたこと、またそこで考えたことがその後の私の方向を決めたこと、それは先号で書いたとおりである。

  けれどもそれが私の方向を決めるものになろうとは、そのとき予想できていたわけではない。むしろ、ふりかえってみたらそうだったというにすぎない。ただ、まじめに考えたのは確かである。そうしなければ、彼とのつきあいに応えることにならないからである。一番初めにこういう設計の場面にめぐりあえたということは、いま考えてみて、こんなに幸せなことはないのではないかと、つくづく思う。私はついていた。

  そのころから現在にいたるまで、この町では、そしてまわりの町村を含め、文字どおり精力的に、乏しい財源のなかで、それを巧みに運用して着々と絶えまなく、ほんものの地域計画を、自らの手で企画立案し実現させてきたのである。町(の人々)にとって必要な教育施設(学校、幼稚園、公民館など)厚生関係施設(保育所、病院など)上水、消防、などなど、それらはこの20年の聞に碓実に整備されてきた。

  先の広城事業のやりかたは、消防がその手始めであったように思う。私が例の小学校の設計のため通っていたころ、隣りの天間林村との広域消防の設立に向けて、T氏が奔走していたのを覚えている。いまそれは更に他町村を加えて、より広域化している。そしてその広域事業は当初、あくまでも消防のためだけのそれであった。つまり一事業一組合で対応していた。上水その他も同様であった。けれどもいまでは、各種事業つまり複数の事業が一組合で営まれている。事業の数だけあった組合が一つにまとまったのである。それは最近のようだ。

 これも机上で考えると、初めから、つまり一事業一組合をたくさんつくらずに、各種事業を営む一組合をつくった方が合理的且つ効率的であるように思えるかもしれないが、実はそれは的を得た評ではない。それは結果だけしか見ない人が言うことばである。机上で描いた理屈でやったのならばつまり初めからそれをつくろうとしたならば、多分それは失敗しただろう。そうではなく内側からのながい時間をかけての積み重ねがあったからこそ共同体の意義がリアリティをもって定着したのである。そしてまたそうでなければならないことを十二分にわきまえていたのである。

 しかしながら、中央やえらい学識経験者の言うことは常に、あるべき結果の形についてのみであり、それらのあるべき姿へ、どういう道すじで到るのか、そのことについては全く考え及ばない、というのが実態である。もちを絵に描くことぐらい簡単なことはない。要は、どうやったらできるかなのだ。

 しかし、この町で試みられてきたような内側から徐々に熟成させてゆくやりかたは、その効果が直ちに目に見えないやりかたである。ある年度に投資した100のものが、その年度中に100の成果となって表れるといった類のものではない。だから、そういうことをのみ期待する人たちからの、つまり単年度決済主義者からの中傷や批判は多々あったろうと思われる。けれども、この町でやられてきたような、あちこちで一見したところばらばらに仕込まれた事業は年月の経過とともにそれぞれが、そしてそれら相互が総合的にからみながら醸成し、単年度では100にみえなかったものが、それ以上の成果となって現れる。と書くとえらく簡単にきこえるが、それは批難や中傷に耐え、常に現実の本質的問題をとらえ目先のことにとらわれず、そして同時に常に先を見るというしんどい作業を必要とするのである。目に見える成果だけを期待するいわゆる政治屋的やりかたでは、到底これはついてゆけない。息のながい話である。

 先にも既に書いたことなのだが、実際の話、町づくり施設づくりというのは建物としての施設、つまり物をつくることでできあがるのではない。このあたりまえなことに、私たちは気がつかなければなるまい。それらが重要なことは事実である。しかし言ってみればそれは舞台をつくっただけにすぎないのである。そこで人々が生活し、そして生活してゆくのに必然的なものでなかったならば単なる物のまま死んでゆくだろう。新たに造られた場所が、いかに人々になじまれ、定着してゆくか、それこそが問題なのであり。だから、建物の完成は施設づくりの一環のほんの一段階にすぎないのである。息のながい話なのである。

 

 私たちは、できたばかりの身障者施設を案内してもらったあと。再び七戸町へ向った。道はまっしぐらに八甲田を目ざし、丘陵台地をすすむ。ときおり谷地を横ぎるから、大きく上ったり下ったりする。ちょうど筑波の平野を横ぎるときに似ている。まわりは一面のとうもろこし畑やながいもの畑が続いている。これはこの夏に経験して思ったことだが、昔はこういう一面に同一の作物の畑であるということはなかったように思う。この夏、軽井沢の北嬬恋村を走ったとき、丘という丘が全部キャベツ畑であるのを見て、壮観というよりも、異様という感じをもったのである。ほんとにそれは異様・異常な風景であった。おそらく、現在の農業を象徴する風景だと、そのとき私は思った。ここでも同様なのだ。

 しばらく走ると、もう見慣れた場所が増えてくる。先導の車を見失なってももう平気である。「私の地図」の領域に入ってきたのである。

 城南小学校の近くは、当初延々と続く畑であって、春先は菜の花が一面に咲き、遠く近くに唐松林が芽をふき、八甲田だけがまだ冬の気配を残して輝いているといったたまらない風景が展開したものだが、いまはとびとびではあるが人家で埋められはじめている。それでも敷地は一万坪以上あるから大勢は変っておらず、むしろ、昔冬の夕暮れときに感じたような人里離れたというようなさびしい感じがなくなって、かえってよくなったかもしれない。この学校ができてから、町の中心部に、それこそ肩を寄せ合うようにして住んでいた人たちが、この丘のあたりに移って来はじめたのだそうである。(人口が都会のように増えてこうなったのではない。人口はほとんど変っておらず、横ばいかむしろ減少しているはずである。) これもまたT氏の計画に入っていたことなのかもしれない。言うならば、学校をつくったことにより、新しい集落:住宅地が生まれつつあるわけだ。

 

                             「建築 1965年5月」青銅社 「青森県七戸町立城南小学校」より

 昔もいまも変らない大きなケヤキ(この辺ではツキノキというらしい)の木立ちの下をぬけると、城南小の敷地の北辺にでる。そこからひろがるゆるい南下りの斜面が校地なのだ。建物はそこから100mほど歩いたところに入口がある。右手には、はるかに八甲田を見はるかすグラウンド、そして左側には体育館(というより講堂に近い)がある。それに沿って歩いてゆくと、平家建の建物が。だんだん迫ってくる。正面にこれともう一箇所だけが唯一二階建なのだが、図書室のあるブロックがある。入口前の前庭である。ここは、冬になると八甲田おろしがまともに吹きよせ、雪のときなどは吹きだまりになってしまって実にやっかいなところになるのだが、しかし、それ以外の季節、ある程度晴れてさえいれば、学校から帰るとき、玄関から外にとびだすと目前に、グラウンドの続きの、このごろは人家もまばらにまじる平原越しに、あの八甲田が一望のもとに見渡せるのだ。

 実はこれが、私の設計の際考えた大事な点の一つだったのである。どういう風に、この町の八甲田を見せるか、いろいろ考えたのだけれども、地形の状況などを勘案して、結局こういう形に落ち着いたのである。印象に残る形で見えるのは、ここと、先に書いた二階の図書室へ登る階段を上がりきって図書室へ入ろうとする(あるいは図書室から出ようとする)ときだけである。教窒の窓からも見えるところがあるけれども、それはあくまでも窓外の一風景以上にはならないはずである。この二箇所においてのみ八甲田の存在をあらためて心に思って欲しかったのだ。

  この学校には職員室がない。小さな会議室が一つあるだけだ。教室は、低学年、中学年、そして高学年とに分かれている。低学年は、先の前庭に南を向いて立つと、その右手にグラウンドに沿って、一・二年生用六教室が平家で延びている。それ用の玄関を入ると小さなプレイルームと称する室があり、そこから吹き放し(つまり屋根だけ)の渡り廊下が教室の南を走っている。

 中学年・高学年は、前庭から見て左手、それ用の玄関の奥に、一つの中庭を囲んである。そこは一段地形なりに落ちているから前庭からは見えない。高学年は中庭の南、敷地の南端に二階建である。しかしそこでは更に敷地は一段落ちるから、階段のおどり場の位置に、これも吹き放しの廊下でつながっている。中庭の北側にあるのが中学年の教室である。これは平家建。つまり、教室は、二学年づつの言わば分棟式になっているわけで、実はそれぞれに、まことに小さい準備室と称する室があり、先生がたは普段そこにいるのである。それ故職員室がないのである。

  いま、七戸町教育委員会にある施設台帳を見ると、その図には、先ほど来書いてきた渡り廊下がのってない。なぜか。

 この学校の四・五・六年生用の教室は、それぞれ三教室なのだが、その北側に幅が4m近い廊下と通称する場所がある。普通、廊下は2m 50cmぐらいであり、子どもたちがそこをどやどやと通りぬける。けれどもここの場合はいずれも、言わば袋小路になって、通るのはその学年の子どもたちだけなのだ。だから廊下としてなら広すぎる。実は、その学年の子どもたちたまりを、廊下と称してつくってしまったのである。低学年のプレイルームにしろ、こういうたまりにしろ、いまではさほど難しくないのだけれども、当時はそんな面積的な余裕はなかったのである。面積すなわちお金だからである。だから、これらの室も、先の準備室と称する学年職員室もみなそれは、台帳にない渡り廊下を食いつぶして生まれたものであったのだ。渡り廊下はこういう雪の降るところでは冬場はだめだろう。おそらく批判がでるだろう。しかしそれらは甘んじて受けておこう、これがT氏と私の間の密約であった。12・ 1・ 2月だけ我慢してもらえば、あとは天国のはずなのだ、そんな負け惜しみを言いながら。

 

「建築 1965年5月」青銅社 「青森県七戸町立城南小学校」より

  

☆アプローチ 前庭より図書館、プレイルームを見る           ☆1.2年入口からプレイルームを見る

  

☆プレイルーム内部                               ☆1.2年教室

  

☆3.4年ホールから西を見る      ☆3.4年ホール周辺 ☆教室南側渡り廊下、スノコは冬期のみ ☆4年廊下(奥は教員控室) ☆3年教室前

  

☆5.6年教室北側                      ☆ 6年南バルコニー ☆6年廊下  ☆5.6年棟入口ホール

  

☆プレイルームと図書館                       ☆プレイルーム、図書館(1階音楽室)つなぎ部分

 完成当初、だいたいのところはなじんでいってくれるだろうと思いはしたものの、この点、職員室がないということについては全く自信がなかった。不満がふきだすのではないか、これはT氏も私もともにもっていた気がかりであった。なぜなら、子どもたちというのは、どんな初めての場所に当面しても、それに対応し、住みこなしてゆくものだが、大人はなかなかそうはゆかない。普通の学校に慣れきってしまっていると、普通でない建物は全く異形に見えるだけになる。先生というものは職員室にたまっているものだという慣習になじんでいると、この学校は理不尽に思えるはずだ。

 ところが、そういう不満は、少なくともおもてだってはきこえでこなかった。今回私たちにいろいろ話をしてくれた校長先生は、完成当時この学校で教えていた方で、そのあと周辺の市町村の学校をまわって、二年ほどまえから、この学校の校長として赴任されたのだそうである。完成当時のとまどい、他の学校、そして再びこの学校へしかも校長として、という貴重な体験をしてこられたことになる。その先生の話によれば、職員室は別段問題にはならなかったのだそうである。唯一学年準備室:職員室が狭すぎることを除けば。碓かに初めて赴任した先生は、初めのうちとまどうそうだが、ここのやりかたが気に入り、すぐになじむという。どうも見ていると、低・中・高学年ごとの一種の自治国家が確立したかのように、それぞれの自主性が強く出てくるのだそうである。従って全校的会議も元気がでてくる。(それは小さな会議室で行なわれるのだ。)まして、子どもたちの傍にいつもいるから、子どもたちの日常も手にとるようによく分る。要するに、地方の先生がたは概ねそうなのだが、それに輸をかけて活気があるのだ。そのせいか、他の学校と違い、放課後すぐに帰らず、明日の準備だとかなにかを、その準備室でごそごそやっている先生が多いのだそうだ。それにつけてももうーまわり大きければというわけである。冒険をしたT氏と設計者にとってこれはまことにうれしいことであるけれども、しかし、本当のところはむしろ意外であった。建物のせいで止むを得ずそうなったのではなく、積極的にそうしているからである。そして、もし積極的でなかったならば、大抵の場合だと、因習を維持するために必らずどこかの室を昔ながらの職員室に仕立てなおしただろう。

 また、この学校では、普通の学校でよく見かける「廊下を走るな」という指導をやってない。走ることもないし、走ったって別に問題がないからなのだという。むしろ授業から開放されたら思いきり廊下でもどこでもとびはねてこいというのだそうである。実際のところ建物がそうなっているので、大体子どもたちは外にとびだしてってくれるそうである。(子どもたちは、上はきのまま、つまり一度玄関を入ったあとは、教室前に拡がる庭には、そのまま出ていってかまわないのだ。うるさいことを言われない。)

  要するにこの学校では、普通の学校のように、先生の側があらかじめもっている一般的学校生活の定型を、ただいたずらに子どもたちに押しつけるのではなく、むしろ逆に、子どもたちがこの建物で自ずと展開している生活をじっくりと追いつづけ、見つづけてゆくなかで、徐々にこの学校なりの定型をつくりだし、指導してきたと言い得るだろう。この学校が風変りで、一般的定型が通用しなかったからだと言ってしまえば元も子もないが、そうではなく、ここでの子どもたちの自ずとしている生活が、だれの目にも(つまり先生にも)納得のゆくものだったからだと、私は思う。

 けれども、このこの学校なりのやりかたというのは、絵に描いたもちのように初めにあったものでもないし、また簡単に、一朝一夕にしてなったわけでもない。そのように定着するには、いろいろな試行錯誤があったし、ながい時間がかかっているのである。それは、代々の先生がたが、意気に感じてやってきたことであり、現にやりつつあることなのだ。だから、定着したといっても、固定したのではないのである。

 こういう使いかたをしているのを、何年もたってから見れるとき、設計者は、少し大げさに言えば、涙がでるほどうれしいのである。いかに下手な設計であっても、いかにローコストの建物であっても、建物が活きていたのを見ることぐらい、うれしいことはない。

  こういう単年度計算でものごとを考えずに、言わば一代計算で考え町づくりをする人たちに、かなり若いときからつきあいがもてたということは、どんなに幸せなことであったかと、いまになって思う。そう思うと、人と人との出会いというのが、本当に不思議に思えてくる。と同時に、その気さえこちらが常にもっていれば、そういう機会は必らずどこかにあるのだ、そういう確信がわいてくる。この四月の通信発刊の辞に書いた中野や小金井の人たちに会えたのも、なにやってんだと忠告してくれる学生に出会えたというのも、別に運命論者ではないけれど、運がいいと思う。その代わり、そういう人たちに会うごとに、こちらとして、あとがなくなる、逃げ口・出口がふさがれてしまうのだけれども。

 

 今回再び七戸を訪れて、またまたうれしくなって帰ってきたのであるが、ただ少し気がかりな点が、この文章を書きつつ、心にうかんできた。

 その昔、鉄道に反対し、その意味での発展からはとり残されたと先号に書いたけれども、こんどは東北新幹線がこの町を通り、ことによると近くに駅ができるかもしれないのだという。単純によろこんでいてよいのだろうか、それに対して適切な対応が考えられているだろうか。それが気がかりの一つであった。

 そしてもう一つ、こちらの方が重要なのだが、この20年間T氏たちが言わば身を挺してやってきたことの意味が、はたして若い世代にも理解され根をはり、本当の意味の「伝統」になっているかということ、それが気がかりに思えてきたのだ。なぜなら人はどうしても「結果」だけを見て、それに到る「過程」の存在を忘れてしまうからである。そして、その「過程」は、与えられるものではなく、自らかやることなのだということが忘れられるからである。人間らくが好きだからである。

 いずれも単なる私の思いすごしにすぎなければ幸いである。

 

あとがき 〇ある学生に、あることについてどう考えているかと尋ねたところ、いま勉強中なので分からない、という返事がかえってきた。ことによると、あることが分るということは、それについてのある絶対的な理解というものが存在し、それを知ることなのだとも思っているのではないか。そんな風な気がしてならなかった。たとえば、人間が分かるには、生理学やら心理学やらを全ておさめることが先決だということになる。

〇そんなとき、集中授業に来られた方が、男の返事は六つしかない、好きか、きらいか:分かるか、分からないか:やるか、やらないか、これしかない、そうじゃない下山さん?と言うのである。一瞬とまどったけれど、言えている。確かに、この積み重ねである。そうであって、初めて反省が成り立つのだ。何もしないで、いま考えてます、またいずれ、これは確かにらくはらくだ。

〇またこんなことがあった。ある仕事をある人たちにお願いしてあった。そろそろまとまってよいと思えるころあいに、ある問題について考えてあるかと問うたところ、考えていない、考えなければならないことなら、初めに言ってくれればよいのに、時間がもったいない。こういう返事が返ってきた。これも、らくをしたいのだろう。いい目だけみたいのだ。豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ、そんな言葉がでかかった。ある人とは大学院生である。

〇若い人たちに言わせると、中年世代のヒステリー?なのだそうである!

〇ご感想、ご意見を、おきかせください。  〇それぞれなりのご活躍を!

1981・11・1                        下山 眞司

 

    PDF「建築」1965年5月号 「青森県七戸町城南小学校 写真 13頁」  (5.0MB)

    PDF「建築」1965年5月号 「青森県七戸町城南小学校 文章,平面図 4頁」 (3.7MB) 

    PDF「建築」1965年5月号 「青森県七戸町城南小学校 図面 8頁」    (6.1MB)

 

 

「筑波通信 №8 前半」 1981年11月

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PDF「筑波通信 №8」1981年11月 A4版16頁  (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

   「筑波通信 №8」  1981年11月

      七戸物語(その2)‥‥ふるさとは一日にして成るか‥‥

 いったい私たちにとって、暗やみとは何なのだろうか。

 私たちは、七戸に着いた夜まさに文字通り手厚い歓待を受けたのち、その日の宿舎だという「青年の家」へ向った。ただ「青年の家」とだけしかきいておらず、それがどこにあるのかも分らないまま、先導の車のあとを追うようにして暗やみのなかをついて行くしかなかった。道は暗い木立ちのなかをぬけ、国道をはなれ、右や左へ微妙に曲りくねり、ついに私は道を頭に刻みつける作業を断念した。もうそれこそ必死に尾燈のあとを追うだけである。道は低湿地に入ったらしく、筑波の近郊と全く同様にときおり強い霧がたちこめてきて全く何も見えず、路面の起伏や感触から、橋を渡ったらしいなどと思うだけである。辛じてそういう状況と私のもっていた地図の知識から、これはこの辺での低地:小川原湖に向っていると想定するのがせいいっぱいであった。その想定はまちがっていなかった。しかしそれは、着いてから人にきいて分った話であって、実際のところは、暗やみのなか、どっちがどっちだか、むろん小川原湖がどこにあるのかさえ全く分らなかった。

 翌朝、なんとなく南だろうと思っていた方角に、なんと八甲田山が朝もやのなかに浮んでいるではないか。私はしばらくの間自分の方向感覚を修正するのに手間どった。八甲田山は西に見えるはずなのだ。それが南に見えるほど昨晩は走ってないのは碓かである。修正するには90度回転すればよいのだが、しかしそれは言葉で言うほど簡単ではない。昨晩以来もっていた感覚がべったりくっついていてなかなかはがれないのである。納得ゆくまで本当に時間がかかった。(ところがいま考えなおすと、また分らなくなってくる。そして地形図を見ては止むを得ず納得する。)

 そして、もしこのとき雨でも降っていて八甲田山が望めなかったならばどうであったろうか。おそらく私は、ずっと、初めになんとなく南だと思ったまちがった方角をそのまま南だと思い続けたであろう。

 そうすると、いったいこのまちがいというのは何なのだろう。そしてそもそも、私はなぜその方角を南だと思いこんでいたのだろう。もっとも、こういう疑問をもつこと自体、いま普通はなかなか認めてもらえまい。厳然たる事実に反した錯覚にすぎない、まちがえたお前が誤りだ、として片づけられるのが普通だろう。厳然たる物理的事実との整合を判断基準とするのが正しいことだと思われているからである。だが私はそうは思わない。いかに事実とくい違おうが、そのように思ったということは、私にとって事実だからである。極端な言いかたをするならば、もし物理的事実に即することのみを是とすることに徹しようとすると、私たちは、日の出、日の入ということばをも撒回しなければなるまい。

 冗談はさておき、なぜ私は事実と違うことを事実と思いこんだのだろうか。おそらく私たちは常に、自分が行動を無事に続けるための拠りどころを求めているのだ。勝手知ったところでは私たちは自由に行動できる。だから未知の場所に出会うと、それこそ必死になって、そこを勝手知ったところにしようとするのにちがいないのだ。勝手知ったところでは、いま自分がどこにいるのか、なにをやっているのか、それが分って安心していられるからである。この勝手知ったところ、それがすなわち先号まで度重ねて書いてきた「私の地図」に仕上がるわけなのだ。だから「私の地図」が私の行動の拠りどころなのである。そして普通は、目に見えるものを頼りにしてその「私の地図」は拡大してゆくのだが、この場合のように暗やみのなかを引きまわされたときはどうなるか。

 いま私は暗やみのなかからまさに突然明りのついた青年の家の玄関についた。実際、暗やみの中に見出した点のような明りぐらい、人をほっとさせるものはない。このときも、もうしばらくの間私たちは完全に「私の地図」をはなれ且つまた「私の地図」を組みたてることも不能な状況に放りだされ、まさに字の如くやみくもに尾燈のあとを追っていたわけだから、本当にほっとしたのである。けれどもそれは、いままでの私のいた世界から切り放された、それとの連続性:途中をもぎとられたようなものである。そこで止むを得ず私は、全く新たに今夜泊まる場所に対して、『私の地図』の作成にとりかかる。

 そしてそのとき、私は全く勝手に、その玄関の面している広場が、建物の南側にあるものと思いこんでしまったのである。おそらくその想定は、私の過去の建物の経験に拠ったにすぎないと思う。たとえば、こういう建物は大体南に向くものだ、そう勝手に思ってしまったのに違いない。もしこれが暗やみでなく、昼間であったならば、絶対にこういうまちがいはしなかっただろうと思う。既に知っていた場所からの連続性:途中が消えてしまうことがないからである。

 かくして、私が安心した気になって一晩すごせるべく、その初めての場所を勝手知ったところにしようとした私自身の独りよがりの試みは、私にべったりくっついてしまって、翌朝そのまちがいが明らかになる事態にたちいたっても、なかなかそれをはぎとることができなかったのである。

 思い返していただければ、こういうような体験は、場面は違っても、おそらくだれにでもあることに気づかれると思う。ただそれを、単なる勘ちがいだとして見すごしてしまっているのである。

 しかし、これは単なる勘ちがいで済ますわけにはゆかない、と私は思うのだ。まさにこれは、私たちが日常、意識しないままに、私自身の「私の地図」をつくり、もち、それに拠って行動しているということの証なのだ。頼りない情報だけでも言わば強引に自分の都合のために地図をつくり、より詳しく情報を手にしたとき、勘ちがいだと気がつくのである。

 暗やみには、私たちの拠るべきものがないから、だから私たちは暗やみに耐えられないのである。怖いのである。もののけがでるのである。

 いま、都会的な生活では、ここで経験したような暗やみは存在しない。言ってみれば全ては日の目を浴びている。見えすぎるほどよく見えている。夜になっても、暗やみがあることを忘れるほどである。だからであろうか、見えているものを全て、初めから見えていた、分っていたと思うようになってしまっている感じさえある。再びもう一度、五号に引用した臼井吉見の随筆を思いだしていただけるとありがたい。あの地元に根づいた生活をしている番頭のものの見かたは、決してそうではなかった。自分の生活にとって拠るべきものは、決して目の前に見えるもの全てではないのである。暗やみとの対比がそれを明らかにしてくれるように、私には思える。

 いま都会には、やたらと案内標識があるのが目につく。そして、地下街などでは、いくら案内標識がたくさんあっても、少しも分らない、迷う、そして地上にでてあたりを見まわしてほっとする(あるいはとんでもないところに出てびっくりする)というような経験はしょっちゅうあるはずだ。これはさしづめ、明るい暗やみに引きこまれたのと同じことなのだ。「私の地図」が描けなくされているのである。「私の地図」は決して標識をもとにしては描けないのにも拘らず、描けると思っている人たちが、それをつくる人たちの大半を占めているのである。そのような場所で災害が発生したときにパニックが起きるのは、決して非常口が分りにくいからなのではなく、それ以前のはなしとして、その暗やみと既に自分の勝手知ったものとなっているところとの連続性:途中が消失してしまっている、つまり「私の地図」を描けなくさせているからなのだ。ちょうどこの青年の家で私がもったと同じような勘ちがいを、そこにいる人たちそれぞれが勝手にもってしまうからこそ、それがぶつかりあいパニックとなる。だから、非常口の標識をいかに目立つものにしたところで、非常時には役立たないだろうと私は思う。

 考えてみればいま、なにも地下街だけでなく、地表においても全て、この「私の地図」の存在が忘れ去られているのではなかろうか。それを忘れて建物や町がつくられていやしないだろうか。私たちにとっての暗やみの存在を十分に分っていた時代に生きた人たちがやってきたこと、それが二号に書いた「あて山」のはなしなのである。彼らの方が、どうも人間がよく分っていたとしか思えない。

 

 いま朝日新聞に、「盲と私たち」という特集が連載されている。その10月10日の文中に次のような盲人の体験が紹介されている。

 「あんたも目がつぶれたらすぐにわかるけど、見えないってのは、ひとりで、じっとしていられない。こっちが動かないと、まわりの世界が動きだして、こわくて‥‥」

 「ひとり歩きする盲人ならだれでも自分のコースを頭の中の地図、足裏の感触、全身の体感で覚えている。道路の材質、凸凹・傾斜・段差などの微妙な変わりようを、環境からのメッセージ(音・風・声・におい・明暗)と組み合わせて歩くのだが、その足元が日々変わるのだから始末が悪い。とくにスッテンと転んだら方角がわからなくなる。」

 「盲人の歩行は踏み出しの第一歩が肝心で、わずかな角度の違いで、とんでもない方へ行ってしまう‥‥」

 確かに、目の見えない人の立場は、目の見える私たちの想像を絶するものがある。私たちに日常化できない条件の適いがある。けれども。ここに紹介されている体験をみる限り、この人たちの行動が、目の見える人たちのそれと、構造が同じであるように、私には思える。私たちが目に見えるものを主たる拠りどころにしているのに対し、この人たちはそれ以外のものを頼りにしているのだ。

 そしていま、目の見える人たちは、目の見えない人たちの立場を分る以前に、同じ目の見える人たちの立場さえも分らなくなっているのではないかと私は思う。つまり、私たちがだれによらず常に、頭のなかに「私の地図」を描いている、そしてそれに拠っている、ということが分らなくなっているのである。

 

 七戸物語の続きを、いきなり暗やみの話で始めたのには訳がある。いったい私たちに見えているものというのが、私たちにとって何なのだろうか、それを考え続けていたからである。目の前にあるもの、目に見えるもの、見ているもの、知っているもの‥‥これが全部、その意味することが違うのだということを知らなければならないと私は思う。私たちが、暗やみに何を見るかそして陽あたりで(つまり明るいところで)何を見ているのか、考えてみたかったし、また今回、ほんとに久しぶりに暗やみを味わうことが、いい具合にできたのである。手前みそでいうならば、いずれにしろ、どこにいようが、「私の地図」をどう描くかが肝要なのだと思う。

 そして先回書いた「懐しさ」も、そこに生きているということの象徴・履歴として心に沈潜して懐しさとなると簡単に書いてしまったけれども、それも結局「私の地図」との係わりのなかで生じる心情なのだと思う。つまり、見慣れた風景だから懐しいのではない。もしそうなら、観光で見た風景にも懐かしさを覚えなければならなくなる。そうではなく、それは、ここしばらくすっかり忘れていたある昔の「私の地図」(それにはその風景がからんでいる)が、その風景を見たことにより、突然きのうのことのようによみがえってきた、そのことに係わった心情なのだ。そして全く逆に、ふるさと遠く離れて生活しているとき、普段はすっかり忘れていたことが、ふとしたことで思いかえされるとき、その昔の自分の生活:「私の地図」の展開した具体的な場面をかたちづくるものとしての風景が、目の前に浮んでくるのである。

 そして、どう考えても、建物は「私の地図」が展開する場面をかたちづくるものの一つなのであって、それ故然るべく考えられなければならないのだと私は思う。

 従って、建物は、それができあがったというだけではほとんど意味がなく、それが一つの場面として、あるいは一つの風景として、どれだけ「私の地図」に位置づけられるか、定着するかにこそ、その真価がかかっているのではなかろうか。

 だからおそらく、建物づくりというのは、そして町づくりというのは、ものすごくスパンの長い、先を見た話でなければならないのだ。けれどもそれは、通常よくあるような、到達目標としての「絵に描いたもち」の如きものなのではなく、またそうあってはならず、そうではなく、日々を過ごしてゆくその過程のなかで、言わば積み重ねられ定着してゆくものでなければなるまい。そしてそれは、どこかのだれかが考えて定型として与えられるものなのではなく、そこで生活する人たちのその生活遂行において定着するものなのだ。けれどもいま、どれだけの専門家がかく考えていてくれるだろうか。彼らは大部分、この肝心な点を完全に見すごしているように、私には思えてならない。彼らは、一人一人の人間の主体性を無視しているのである。彼らにとって一人一人の人間は、一般大衆であり、故に不特定多数であり、人格のない単なる操作対象にすぎないと言ってよいだろう。人々はそんなにもばかなのだろうか。

 

 私たちが泊った青年の家の名称は、「公立」小川原青年の家という。そこから1㎞ほどはなれたところにあるこの春開設されたばかりの心身障害者更生施設もまた「公立」ぎんなん荘と名づけられている。県立でもなく町立でもなく村立でもない。まし国立でもなく「公立」を名のる。この名称の「公立」というところにこれら建物:施設づくりの特色が秘められているのだ。そしてこの「公立」は、通常言われる私立学校に対しての公立学校などというときの公立とは本質的に意味が違うように私には思える。私にはそれは、これから書く如く、英語のpublicに対応する意味での「公」立であると見えるのである。

 実は、これらの施設の運営は、「上北地方教育・福祉事務組合」が行なっているのである。当然、その設立も同様である。すなわち、七戸町の他数ヶ町村の広域行政の一つとして営まれているのである。「公立」という一見奇異な呼称となっているのも、そうだからである。通常では、これらの施設は県立の多いことは各地の例を見ればわかるとおりである。なぜここではそうでないのか。

 

 ある地域に住んでいる人たちが、ある施設の開設を望んだとしよう。たとえば、青少年のための研修の場が欲しいと思ったとする。しかし、それをその町や村単位でもつには、町や村は人口的にみて小さすぎるし、仮につくるとしても到底財政的に不可能に近い。かと言って、県単位ではこんどは大きすぎ、その位置が問題となり、実際利用面でも小まわりがきかなくなる。その設置位置をめぐって誘致合戦がくりひろげられ、政治屋がからむなどというのはよくある話である。こういう研修施設なら、まだそれに代る既存の施設の利用ということも考えられるけれども、心身障害者施設となるとそうはゆかず、まして町で欲しくても、その成立は、これは完全に不可能である。だから普通、小さな町村は、こういった施設に縁遠い存在を余儀なくされているというのが現状なのだ。その他のいわゆる公共施設も含めて全て、都会に比べて、都会が決して十分だとは言えないにしても、決定的に不利な状況なのである。しかし、この状況を、都会にいてはたして本当に想像することができるだろうか。分るだろうか。

 私はここで、昨年書かされたアンケートのことを思いだした。確かそれは、筑波研究学園都市に最後に移住してきた某研究所の労働組合が行なったものであった。そのアンケートの問いの一つに、学園都市の交通の便・不便についてのものがあった。学園都市は共用交通としてはバスしかないがその本数は、常にバス時刻表を携帯を必要とするぐらいの本数しかない。それが便か不便かという見えすいた問であった。いったい便とか不便だとか、何をもとにいうのだろう。いまでも学園都市の範囲をちょっとはなれると、それこそ一日に二本しかバスが走らないというようなところだってあるのである。彼らに対して、それが便か不便かときくことができるか。むしろ無意味に近いだろう。便・不便の絶対的な基準など、どこを探してもないはずだからである。

 都会での習慣をもってものごと全てを律してもらってはいけないのだ。そういう無意味なアンケートをするまえに、どうして、なぜ都会ではバスがひっきりなしにきて、こういうところでは日に二本なのかと自ら問い考えてくれないのだろうか。そして、なぜそういう不便なところに人々が生活しているのか、してきたのかと問わないのか。

 それにも増して不愉快なのは、筑波は辺地なのだから辺地手当をよこせという要望であった。都会的でないところを辺地とみなし、自分たちは(自分たちだけは)そういう辺地にあっても都会的生活をする権利があるとでもいうかのようだ。辺地の生活はまるで人間の生活ではないとでも思っているのではなかろうか。どこにでも人々は生活している。しかしそれは一律的な便・不便で片づけられるようなものではない。それぞれの場所でそれぞれのやりかたで生きてきたし生きている、どうしてそういうように見ようとしないのか。そして、忘れてもらっては困るのは、そこに住んできた人たちも、やはり人間だということだ。

 いまここに書いたアンケートを考えたような人たちと同様な考えかたが、しかしいま一般的なのではなかろうか。言ってみれば都会偏重:辺地切捨、都会型願望が強い。だから全てを都会的基準で律してしまう。

 

 大かたの国の施策もまた、概して一律的である。たとえば行政改革で問題になっている各種の補助金がある。実際おどろくほどの多様な種類がある。それをーまとめにして町村が自由裁量できたらどんなによいかと思うが、それはひもつきでできない。全国ほぼ一律のわく組みによりしばられる。そして、あくまでも補助金であるから、町村はそれに見合った負担を必要とする。従って限界がある。だから、財政的に弱体な町村は、大きなことはできず、不便は不便として放置せざるを得ず、やろうとしたってできないからやろうともしないという悪循環さえ起しかねない。かと言って、たとえば、そういう町村に心身障害者がいないわけではない。人口が少ないから絶対数としては少ないが、確立的事実として必らずいるはずだ。しかし町村では対応できないのが目に見えている。国や県の施策を待てばよいか。それはいつのことか分らない。それに、その場合も必らずその効率性の点から、大規模でどこか遠くにまとめてつくられるに決っている。それでは収容所ではないか。そのとき既に、いったいその施設づくりが何を目ざすものであったのか、その根本が忘れ去られ、いたずらに施設をつくることで満足してしまう。あればよいではないか、ということになる。人々にとって、どこに、どうあればよいか、この肝心な点が雲散霧消してしまうのだ。先々号で書いたような、半径500mの円を描いて、そこに一つづつ児童館があればよいとするのは、その典型である。

 しかし、そんなものが欲しいのではないのである。では、本当に町や村で欲しいものを、人口も少なく、財政も乏しい町村がどうしたらもてるか。そこで考えだされたのがこの「上北地方教育・福祉事務組合」だったのである。言ってみればそれは、同じような望みと悩みをもつ町村の「共同体」なのである。

 このとき普通だれもが思うのは、そうならば町村合併すればよいではないか、という疑問である。けれどもそれも、やはり都会的あるいは中央の発想なのだ。これらの町村が合併ではなく共同体を選んでいるのには極めて正当な理由がある。そこには、それぞれの町村はそれぞれなりの特性があるとする認識が根底にあるからだ。それぞれの地域にはそれぞれ特有の問題があり、それは各地域ごとに解決してゆく、しかし共同で解決できるもの、またそれでなければできないものに限って共同で策を施す。これがその理由である。

 実際歴史地理的に調べれば分ることなのだろうが、それら町村は、過去の合併にも拘らず、地理的にもそれぞれあるまとまりをもっており、きくところによればこの共同体の総面積は香川県に匹敵するほど広いのだそうである。当然場所場所で違いがあることは目に見えているのであって、人々が住む視点にたつならば、大きいことは必らずしもよいことではない、そのことが十二分に分っているのである。こういうやりかたを強力におし進めてきたT氏が、これをヨーロッパ共同体と同じだよ、とこともなげに言ったのが印象的であった。自立した個人の集団としての組織であるというわけだ。

 

 広域行政というのは、これは中央:国、県の側から強力な指導のもとで各地に展開されているわけだが、ここの場合はむしろ完全に地元主導型ですすめられてきたのだということができるだろう。因みに、「教育・福祉事務組合」という広域事業組合は全国探してもそうざらにはないはずである。

 ここの場合、中央から示される制度を、言うならば逆手にとって地元主導型で読みかえ実行したと言えるだろう。それは各種の補助金や融資制度の活用についても全く同様で、それらを全て、言うならば地元の視点で読みなおし組みたてなおして巧みに運用するのである。従ってここでは、補助金もなにも全て活きているのだ。

 いまここでは下水についての広域事業にとりかかろうとしていた。広域下水道については、これもまた中央からの指導がなされているのだが、いまちょうどその指導に対して地元主導型への読みかえ作業のため奮戦中であった。中央推薦の広域下水道はこれは全く都会的発想であって、各家庭からの排水を下水管(かなりの太さになる)にてーヶ所の処理場へ集め処理する方式である。しかしこれは都会ならいざしらず、実にばかけたことになる。この広大な土地一面に都会のように人が住んでいるわけではないから、下水管だけが無人の野を延々と走るということになる。言うならば、全く新たに、他に利用の方法もない下水の小河川を一本つくるようなものだ。そしてもし上水を自然の川からとるとすると、極端に言えば、自然の川の水はなくなり人工の川:下水管に移ってしまう。農業用水はどうするのだ。第一大量になった末端処理場の処理は決して理屈どおりに処理されていないのは各地の例で明らかだ。であるならば、この同じ広域をただーヶ所でカバーするのではなく、各集落毎で処理したらどうか、その処理も大地にかえす方法があるのではないか、そうであれば自然河川は従前どおり自然河川であり続ける。人口が少ないことが逆にその方法を可能にさせるはずである。経費は明らかに十分のーで済む。これが奮戦にあたっての論理であった。けれども硬直した中央は、なかなかこの発想に応じないのだそうである。技術自体そして技術者自体、巨大技術に酔って発想の転換をしてくれないのだそうである。そして三百億円かかるものが三十億円でできてしまっては、政治的メリットが少ないのだそうである。

 しかしT氏は奮戦中であった。汚水処理の本を読み、土木技術や生態学を自ら学び武装してことにあたっていた。各地へとび実際を調べまわっていた。ことわっておくが彼はそういう方の専門家なのではない。言うならば彼は事務屋さんなのだ。なぜ彼がそこまでしなければならないのか。一言で言ってしまえば、専門家が信用できないからである。より正確に言えば彼らは確かに、学識はあるだろう。しかし、それぞれの地方の特性にみあった解決法をあみだす力に彼らは欠けているのである。いやむしろ地方地方に特性があるということ(つまり地方があるということ)さえ見えないし、それぞれに知恵の蓄積があるということなど、もちろん見えないし見ようとしないのである。あるのは、通りいっぺんの、それこそ中央で、何も見ずに机上で考えたワンパターンの方法だけだ。T氏はいう、護岸工事でもそうだ、コンクリートで固めればいいと簡単に思ってしまう。うちの方には昔から「しがらみ」と言って、木のくいをうちこみ、それにやなぎの枝をきってきて絡みつけて土どめにする方法がある。数年もたたないうちにやなぎが根づいてしまう。その方が結局ながもちする。第一風情のある川岸になるじゃない。なのにコンクリー卜でないと公認してくれない。こういうことが多すぎる、と。

 私は彼の見解に全く賛成する。というより、現場での裏づけをもとにした見解であるから、その迫力に圧倒される。

 ある土地に住む人たちは、その土地で生活してゆくために、その地域の特性に応じて、それなりのやりかたをあみだし、技術の面でも蓄積を残してきたのだが、いま中央の言わば机上で考えられた独断的な一律の基準がそれらの存立を許さなくなっているのである。大工技術:木造技術も全くそうで、たとえば住宅金融公庫の指示する基準、そしてそれ以上に建築基準法の諸規定は、そういった知恵の集積を無視し駆逐する役割をはたしてきたといってよい。その背後には中央の建築学者がいること、これは十分に反省されねばならないと思う。彼らは彼らのつくった基準こそが科学的・合理的だと思いこんだのである。彼らは、それこそ重大な勘ちがいをしているのである。私にはむしろ、各地に蓄えられた技術の方がよほど合理的であるように思えてならない。なるほどそれらはいわゆる科学的分析によって生みだされたのではないのは確かだが、しかしそれは長年風雪にさらされるという実験を経て生き永らえてきたというのも確かである。要は、合理的基準の「合理」の根拠を何に求めるかなのだ。

 因みに、わが研究学園都市のなかの建築に少しでも係わりそうな研究機関で、木造技術についてどれだけ研究がなされているかについて調べた人がいるのだが、それによれば、なんと皆無なのだそうである。木造建築の国日本において、皆無なのである。新技術には目が向くが、何の新味もない木造に関心がない(その実、建築物の大半は、いまデータがないが、木造のはずである)ことと、たとえば構造力学的な面でも木造はその解析法がなく、従ってだれもやらないのだそうである。研究者たちの目には、新しいこと、すぐできることだけが目にうつるらしい。なぜなら、その方がすぐに成果がでるからである。言いすぎかもしれないが、研究のための研究が表通りを歩いている。そうであるにも拘らず、昔からの知恵の蓄積を認めない基準がつくられる、いったいこれはどういうことか。

  中央とはとかくこういうものなのだ。それぞれの地域の独自性:主体性を無視し、それを統御しようとする、まさにそのことだけに中央は中央の意義!を認めていると言ってよいだろう。そして、こういう中央にまつわりつくことに、とかく多くの専門家や学者・研究者は意義!を認めているのだと言っても、これもまた過言ではあるまい。いつもふと思うことがあるのだが、この人たちが人々に係わるものごとを扱う専門家だと、いったいだれが決めたのだろうか。多くの場合、それはその関係の学問を学んという言わば自称ではなかったか。彼らにいったい、それについてどれだけの自覚があるのだろうか。そしてまた、彼ら専門家が、人々に係わるものごとを扱うことを委ねられたとき、はたして彼らのどれだけが「委ねられる」ということの本当の意味を理解していてくれるのだろうか。

 そうであるとき。地方の時代などという中央からきこえてくるかけ声の、なんと白々しいことか。地方とは相変らず統御対象としての「対中央」の意味でしかないのである。

 そして、だからこそ七戸町を軸にT氏たちは奮戦する破目になるのである。なんと労力を要することか。しかしいま、地方を真に地方たらしめようとすると、それなりの労力としたたかさを必要とするのである。

 そしてT氏たちは、もうここ20年近くもそうしてきたのである。そうさせるもの、20年近くも奮戦させてきたもの、それはいったい何なのであろうか。普通の役所の役人なら、こんなバカげたまねはしないだろう。つつがなく毎日がすぎてゆけばそれにこしたことはない。ところがこの人たちは、わさわざ仕事をつくっては、それを自らこなしてきたのである。何がそうさせるのか。しかしそれは詮索したってはじまらない。彼らは自分の町が無性に好きだ、人たちが無性に好きだ、ただその一言につきるだろう。だからいい町にしたいのだ。都会の人たちだけが恵まれていていいはずがないではないか。都会に負けないものを!

 それ故、その初めは、一つの建物をつくるにも、都会にひけをとらないものをつくりたい、それが原動力だったと思う。ある意味では当然で、一つの目ざすべき一段上に位置するものとして都会の文化があった。しかし、いまはもう、そういうようには考えられていないことは、既に書いたとおりである。目ざすべきものは、自分たちのなかにある。その自信に充ちあふれている。

 

 だから、最近実現させてきた諸施設は、どれもその考えかたが極めて新鮮である。たとえば「公立ぎんなん荘」の場合、一見して予算が苦しかったなと分る建物だが、そんなことが吹きとんでしまうほど独特な考えかたでつくられている。戸建て住宅が数戸ならんでいるように見えるのである。実際そう考えられているのである。要するにここは家族からはなれているけれども園生たちの家であることに変わりない、だからそうするのである。一戸に10人ほど住み、簡単な食事もつくれるようになっている。大食堂と浴室(これはこの建物のために掘った温泉である。温泉は暖房の熱源にも使われる)は別棟にあり、しかしそれらをつなぐ渡り廊下がない。銭湯にゆくつもりで歩いてもらうというのである。食堂は八甲田山を展望できる、人数に比べ少しばかり広すぎる大きさの室であった。

 私たちが泊った青年の家とここは約1㎞ぐらいはなれていると先に紹介したけれども実はこれはともに、先の共同体を構成するある町の町立牧場の一画にある。だから1㎞は牧場のなかを歩いてきたのである。はえやあぶの多いのが難だけれども、まわりはまさに広々とした牧歌的風景が展開する。そして、青年の家に宿泊した青少年は、昼食をこのぎんなん荘の食堂で、身障者と一緒に食べる機会が設定されるのだそうである。食堂が大きいのはそのためなのだ。計画の最初からそう考えていたらしい。通常青年の家は教育委員会の管轄、そして身障者施設は厚生関係の管轄となるから、こんなわけにはゆかない。ところがこの「教育・福祉組合」立では、平然とそれをやってのけているわけである。

 この施設を牧場のまんなかにつくるというのもそれなりの考えがあるようだ。先ず町有地の一画だから土地代はただ。しかしそれだけで決っているわけではない。ここに住んでいるのは晨業者の子弟である。彼らに身につけてもらう作業能力の養成に、この地方の主産業の一つ、牧畜:牧場を利用しようというのである。彼らの家族の日常と大差ないことが、指導されるわけなのである。そのなかみは、すなわちまた牧場の日常以外のなにものでもない。

  ここにあるのは、諸々の事実を、機械的な分掌主義によってばらばらに運用するのではなく、全体を適切な相互関連をもたせつつ運用しようとする「意志」である。そしてそれは、単なる身すぎ世すぎのための役人商売では絶対に出てくるわけがない。つまるところ、彼は町が好きなのだ、人たちが好きなのだ。そして、町役場に勤めるとは、つまり役人とは何なのか、自覚しているのである。そして、こういう町の町役場の職員は九割九分その町に住んでいるということも考えられてよいだろう。彼らのやることは全て、町の住人としての自分にもふりかかる。因みに、東京の区役所の職員の半分以上は、その区の住人ではなく、埼玉、千葉、神奈川から来ている人もいるそうである。彼らがその区の(住人の)ことを分かるためには並大抵のことでは済まないはずである。住人が何を見ているのか、その住民たちの地図を知ろうとしなければならないのだが、それができるか、しているか?

 

(「筑波通信№8 後半, あとがき」 に続きます。)

「Ⅰー4 建物を木でつくる」 日本の木造建築工法の展開

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 「日本の木造建築工法の展開」   

  PDF「Ⅰー4建物を木でつくる」 A4版3頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

  Ⅰ-4 建物を木でつくる・・・・木でつくるのは日本だけではない

  わが国の建物は、はるか昔から、庶民の住まいも寝殿造も、社寺、城、商家や農家の土蔵なども、ほとんどすべてが、柱と横材:梁・桁:を組み合わせてつくる方法でつくられてきました。

 この方法は最初に柱と梁・桁で建物の骨格:軸組(じくぐみ):をつくるため軸組工法と呼ぶのが普通です。  わが国の軸組工法は二千年近い歴史があり、固有の風土に応じて大きく進化発展してきています。 

 通常、軸組工法は、① 最初に建物の骨格をつくり、② 次に屋根をかけ、③ 骨格:軸組の間に壁や出入口や窓:を設ける、という順番で仕事が進みます。屋根が先行するため、雨の多い地域に向いています(2×4工法:枠組工法やログハウス工法は、壁部分をつくった後でないと屋根工事ができない)。

  軸組工法は、アジアでは中国大陸など、西欧でもイギリス、ドイツ、スイスなど、森林に恵まれた地域で普通に見られる建て方です。下の写真はその一例です。 

  

中国・四川省の住居(建設時期不明)老房子(江蘇美術出版社)より   スイスの町家(18世紀)Fachwerk in der Schweiz (Birkhauser )より

 

  

 イギリス ケント州の農家 (中世後半) 同左 茅葺の例 The Medieval Houses of KENT (Royal Commission on The Historical Monumennts of England )より

 軸組工法では、壁を軸組の間に多材を埋める方法でつくるため、多くの場合、国や地域によらず、写真のように、軸組:柱や梁・桁をそのまま表に表します。 

 これを、真壁(しんかべ)(芯壁)仕上げと呼びます。

 日本の城郭や土蔵なども、外部では軸組が見えませんが、内部では柱や梁が表しになっています。 なお、アルプス山麓の地域には、下のようなログハウスが多く見られます。写真は ALTE BAUERNHAUSER IN DEN DOLOMITEN(CALLWEY)より

 

 現在、わが国でつくられている木造建築には、軸組工法の他に、「2×4工法:枠組工法」「パネル工法」「ログハウス工法」があります。

 「2×4工法:枠組工法」「パネル工法」は、日本でつくられるようになって半世紀足らずです。 「ログハウス」は、類似のものに、東大寺・正倉院に代表される古代の校倉(あぜくら)造があります。なお、柱と柱の間に、軸組の工事とともに厚い板を落し込んで壁をつくる「落し板工法」がありますが(原理的には真壁の一工法です)、この場合は、屋根を架ける前に壁が仕上がるため、「2×4工法」「パネル工法」「ログハウス工法」と同様に、工事中の養生が必要になります。        

  現在、軸組工法は、「在来軸組工法」あるいは略して「在来工法」と呼ばれ、一般には、「現在の建築基準法が規定している木造軸組工法」のことを指しています。

 しかし、「在来」の語は「これまで行なわれてきたことすべて」を指すように受け取られるため誤解の因になっています(語の本来の意味では、桂離宮は在来の工法でつくられている、と言うことができますが、しかしそれは「建築基準法」の規定する工法ではありませんから、そこに大きな誤解が生じてしまいます)。そこでここでは、柱と梁・桁で軸組をつくるという工法の特徴を示す軸組工法と呼ぶことにします。註 「伝統」という語も多様な解釈がされているため、誤解を避けるために、ここでは使いません。

 最近、日本の木造住宅、とりわけ軸組工法の家屋は、欧米に比べて寿命が短く、その長寿命化が必要だ、あるいは2×4工法に比べ耐震性や省エネルギーの点で劣るかのように言われています。 それとともに、木造建築:軸組工法のつくりかたについて、数多くの情報が飛びかい、木造の建物のつくりかたや考えかたに混乱をひき起こしていると言っても言い過ぎではありません。

 Ⅰ-0で見たように、日本は、古来、多雨多湿で、さらに頻繁に地震や台風に見舞われる独特の環境にあります。それゆえ、そのような環境に応じた暮し方、そのような環境に適した建物づくりについて、考え、工夫を積み重ねてきた長い歴史があり、技術にも多くの蓄積があります。

 残念ながら、世の中に流布されている木造の建物についての情報は、この長い体験で培われた技術の蓄積を踏まえているとは言い難いのが現状です(「はじめに」で紹介した論考で桐敷真次郎氏も言われているように、建築基準法自体も技術の蓄積を踏まえてはいません)。

 桐島氏は「日本建築といっても、社寺と住宅とは異なるし、住宅といっても、本格的な書院造や民家と、貸家・建売り・バラックの類とはまるで違う。しかし、・・・・建物の維持管理には一定の通則があるようで、毎年の点検、10年毎の小修理、30~50年毎の大修理、100~300年で解体修理というのが一般的な手入れの仕方である。社寺・宮殿のような文化財建造物でも、ほぼ似たような数字があげられている。ていねいな維持管理をすれば、木造建築の寿命もかなりのものとなるのである」と述べていますが、実際、寺社建築には、法隆寺伽藍に代表される1000年を越えてなお健在の建物が多数あります。

しかし、法隆寺の場合は、当初の建物が現在まで保たれているわけではなく、何度も修理・修繕が行われ、多くの部材は古式を継承して取替えられています。一方、東大寺南大門のように、ほぼ建設当初の材のままで800年以上も健在の例もあります。いずれも多くの地震に遭ってはいますが、倒壊・損壊するようなことは起きていません。

  住宅には1000年を越えた例はありませんが、古井家など、各地に数百年以上暮し続けられた住居がときどきの暮し方に応じて改造・修繕を繰り返しながら、多数現存しています。 それゆえ、木造軸組工法でつくられる建物は寿命が短い、というのは正しくはありません。

 下図は、先に紹介した15世紀末に建てられた古井家の間取りの変遷図です。 古井家は代々、改造を繰り返しながら約400年間暮してきました(「修理工事報告書」より転載)。

 この建物では、長手(桁行)方向の二通り、五通り八通りと、短手(梁行)方向のろ通り、に通り、ち通り、を通り、そしてか通りが主要な構造のため、改造工事では手をつけていません。

 江戸時代:元禄(17世紀末)の改造ではおもて、ちゃのま、にわ内に並んでいた柱を取り去る大工事がされていますが、主要な構造には変更がありません。以降の改造のときでも同じです(2番目以下の図)。

 このように、当初の建物に改造を行い暮し続けることができた理由として次の3点が挙げられます。すなわち① 地業(ぢぎょう)(地盤整備、基礎)に留意している。 註 地業(ぢぎょう)は、古くは地形 ② 当初の建物の架構が簡潔な形で、なおかつ、立体になるように組まれている。 ③ 「主要な架構」と「空間の使い分け:間仕切りの位置」が対応している。 ④ 改造・修繕が可能な工法でつくられている。

 つまり、これらのことは、木造で丈夫で長持ちする建物をつくるには、この条件を充たすこと必要である、という事実を示しているのです。このように改造しながら暮し続けることは、木造軸組工法以外の工法では先ず不可能です。 石造や煉瓦造、RC造はもとより、木造でも2×4工法、ログハウス工法は、一旦仕上がった建物の改造は簡単にはできません(軸組工法でも落し板工法も同様です)。

 つまり、改造・改修・修理によって長く使えるのが、木造軸組工法のおおきな特徴なのです。 ただし、建築基準法の規定する木造軸組工法では、改造・改修・修理は簡単にはできません。

 木造軸組工法のこの特徴・特性を十分に活用するには、主要材料である木・木材についての適確な知識を身につけている必要があり、日本の建物づくりにかかわってきた人びとは、その幾多の経験により、この知識を十分に見につけ、活用しています。 

 

「Ⅰ-5.6」 日本の木造建築工法の展開

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 (Ⅰー5. 5より続きます。)

 

 6.木材の問題点・・・・腐朽と虫害、収縮・捩れ・干割れ、耐火性

1)腐朽と虫害・・・・木材の特徴を知れば、腐朽と虫害を避けられる

 一般に、木材は含水率が20%を越えると腐りやすくなると言われています。けれども、縄文時代や弥生時代の掘立柱の根元が、各地で数千年、腐らないで地中から発掘されています。

     

 上左の写真(鈴木嘉吉著 古代建築の構造と技法 より)は、8世紀につくられた平城宮の掘立柱の地中に埋まっていた部分です。地中は水分が多いため、当然木材の含水率は20%をはるかに越えているはずです。 

 では、なぜ掘立柱の根元は腐らなかったのでしょうか。

 木材が腐るとは、木材を構成している細胞が、腐朽菌と呼ばれる一群の菌類によって分解されること、木材の組織が菌類によって食べられてしまうことを言います。腐朽菌は、生きるために、水分・栄養分だけではなく酸素を必要とします。ところが、地中では水分・栄養分はあっても酸素は不足し、地中深くに埋められている木材は腐りにくいのです。

 同様に、水中に打ち込まれた杭も、水中部分はほとんど腐りません。腐るのは、酸素が十分供給される水面のあたりです。コンクリート製品が普及する以前は、建物などを支える杭としてマツやカラマツの杭が使われていましたが、これも地中深くでは木材が腐らないからだったのです。

 上右の写真(撮影筆者)は、およそ30cmの深さで地面に埋められていた生垣の支柱です(物差しは約30cm)。直径約9~10cmのスギの丸太で、立ててからおよそ5年経過しています。線の位置まで地中に埋まっていましたが、地面の上2~3cmのあたりから腐りだし下へと進んでいます。それより上の部分は腐っていません。もっと深くまで埋めてあれば、下の方は腐らなかったと思われます。平城宮の掘立柱も、地表に近い方は腐っています。なお、この杭には防腐剤を塗ってあったのですが、その効き目はなかったことが分ります。防腐剤は定期的に塗りなおす必要がありますが、地中では塗りなおしができないため、効きめがなくなってしまったのです。 

 木材の弱点として、腐朽とともに虫害があります。

 最大の虫害は、シロアリによるものです。シロアリには、北海道南部まで分布しているヤマトシロアリと、南日本と西日本南岸に多いイエシロアリがあります(イエシロアリも北上しているようです)。

 ヤマトシロアリは、水分を多く含んだ木材を好み、イエシロアリは地中につくった巣から水分を自らはこびながら木材に侵入し、木材を食料にします。シロアリは腐朽菌と同じような環境:十分な栄養分・水分・酸素:を好むのです(近年、北米産の輸入外材ともに入ってきた乾燥した木材を好む新種のアメリカ カンザイ シロアリが増えつつありますが、これまでの駆除法が効かず、問題になっています)。 

 木造の建物の最大の問題は、いかにして木材を腐朽と虫害から護るか、という点にあります。

 最近は、とかく防腐・防虫剤:薬剤にたよりがちですが、薬剤の効果は永久ではありません。定期的に塗布や散布をしなければならず、再度の塗布・散布が不可能な場所では効果がないことは、先の杭の例で明らかです。しかも、大部分の薬剤は毒性が強く、人や動物に対しての副作用があります。

 それゆえ、腐朽・虫害から木材を護る最良の方策は、腐朽菌やシロアリなどが好む環境をつくらないことなのです。木造の建物づくりの歴史が長いわが国では、これら腐朽・虫害から建物を護る工夫が積み重ねられています。

 腐朽・虫害から建物を護る工夫の要点は、以下にまとめられます。

① 雨などが建物にたまらないようにする(屋根の勾配を急にする、水はけをよくする、壁に雨をあたらないようにする・・・など)。  ② 空気中の水分が余分に木部に吸収されないようにする(空気が淀む場所をつくらない・・・など)。  ③ 腐朽が避けられない場所は、取替えが容易なようにつくる。 

 これらの工夫の数々、その原理・理屈は、もちろん現在でも活用が可能です。

 

2)収縮、捩れ、干割れ・・・・乾燥材でも収縮、捩れ、干割れは生じる

 木材は樹木を製材してつくります。樹木は、先に触れたように、外周に近い部分と、芯に近い部分では、含まれる水分の量が異なります。しかも、幹の上:梢側と幹の下:根元側でも含まれる水分量に差があります。

 さらに、樹木には、各部に自立を維持するために力が蓄えられています。たとえば外周部には締め付け、引っ張り合う力を蓄えています。製材すると、これらの力は解き放たれることになります。

 これらが複合して、丸太を製材すると、収縮や捩れ、干割れが生じるのです。木材を乾燥させる目的は、できるかぎり含まれる水分を少なくしてその影響を減らすためです。しかし、すでに触れたように、平衡含水率は常に一定ではなく、環境に応じて変化します。

 つまり、乾燥材は、収縮・捩れ・ひび割れを少なくすることはできても0にすることはできず、収縮・捩れ・ひび割れは必ず発生する、という理解が必要です。

TIMBERDESIGN and CONSTRUCTION より

 上図は、丸太を製材するとき、製材の場所によって収縮の度合いが違うため、製材後の木材に生じる収縮変形を示した図です。また下の写真は、丸太を製材する方法の一つです。樹木の芯の部分は強さがあるため、構造に使う柱を取ります。この場所でとる柱は芯を含むので芯持柱(しんもちばしら)と呼びますが、樹木をまわりから締め付けていた力が解放されたため、芯から放射状に割れが入ります(丸太でも30頁の写真のように割れが入ります)。それを避ける方法が、製材のときに人工の割れをつくっておき、収縮をそこに集中させる背割り(せわり)です。 

    

資料提供 丸川木材(株)                 背割りなしの芯持柱 放射状の割れ   背割りを設けた芯持柱

 背割りは柱材に設け、背割り部は、仕上がったとき隠れてしまう場所に向けて使うのが普通です。力がかかる横材:梁や桁にも、芯を含んだ材を使いますが、背割りは設けません。

 木材は、建物に組み上がった段階で割れが見えなくても、時間が経ってから割れ:干割れが入ることがあります。また、夏季の空気が湿った状態では見えなかった割れが、乾燥する冬季になると表れ、季節の変わり目には大きな音を発することもあります。 

 割れは特に製材した角材に発生することが多く、ほぼ丸太のまま使った場合には、発生は少ないようです。樹木が本来持っている力をとどめているからと考えられます。                                  

 割れ:干割れのある材料は、構造的に弱い、あるいは、干割れが入ると弱くなる、と思われがちですが、むしろ、強度的に優れた材ほど干割れは発生しやすいようです。干割れは、木材が好ましい環境に置かれている証拠かもしれません。

   

 東大寺南大門の貫(角材)の干割れ 奈良六大寺大観より 茨城・椎名家 柱の上部の干割れ(日本の民家1 農家Ⅰより)

 群馬・生方家 柱の干割れ(日本の民家5 町家Ⅰより)

 上の写真は干割れの実例です。東大寺南大門は12世紀末の建設で、使われている貫は当初の材料のままです。何本かの貫に干割れが見えます。この干割れは、材料自体の収縮によって発生したものです。

 茨城の椎名家、群馬の生方(うぶかた)家は、ともに17世紀後半の建設で、材料は建設当初のものです。ここでは、柱に干割れが入っていますが、横材取付き位置から割れが入っていることから見て、この場合は、材料自体の収縮だけではなく、横材を取り付けるために彫られた孔も干割れ発生のきっかけになったものと考えられます。

 日本の建物づくりでは、後に触れますが、長年にわたり、木材の伸縮・捩れ・干割れなどの影響を材料の組み立て方で減らすなどの工夫を積み重ね、技術として集積しています。

  一方、このような木材の伸縮、捩れ、干割れなどを起こさないように、材料の段階で考えたのが集成材です。

  集成材を使った梁

  たとえば、上向きに反るクセのある板2枚を、背中合わせに糊で貼り合わせると、反りの発生が押さえられます。集成材は、この理屈を利用して、薄くひいた板や小さな角材などを繊維方向を互いにほぼ平行にして、厚さ、幅および長さの方向に集成して接着したもので、通常の木材(無垢(むく)材)に比べて、強度や性質がほぼ一定になることから、鉄骨などと同じように扱うことができ、大きな木造構築物などで利用が広まっています。

 また、柱などを壁で被うつくり方(大壁つくり)、特にボード類を下地にして壁紙を貼るつくり方では、下地にわずかな伸縮が生じるだけでも壁紙の剥がれにつながるため、住宅メーカーの木造軸組工法による住宅では、集成材による軸組が増えています。

 集成材は20世紀の初めにスイスで開発され、接着剤の改良とともに欧米で使われるようになりますが、日本で使われ始めたのは1960年代、法令上使用が認められるようになったのは1987年以降のことで、歴史はまだ数十年です。なお、合板も集成材の一種と考えてよいでしょう。

 合板と同じく集成材には、有機溶剤を含んだ接着剤が使われるのが普通で、接着剤の耐久性と対人毒性、廃棄材の処理(燃焼時の発生ガス)などが、検討しなければならない課題として残されています。

 

3)耐火性

 木材は、樹種にもよりますが、250~260℃程度で着火すると言われています。しかし、柱や梁などの断面の大きい木材が着火後完全に燃え尽きるには相当の時間がかかります。

 木材は比重が軽いほど熱伝導率が小さく、片面が熱せられても、反対側へは熱が伝わるまで時間がかかります。国産材で最も比重が小さいのは桐です。箪笥に桐が使われたのは、その湿気を調節する性質(調湿性)とともに、熱が伝わりにくく中まで燃えない性質を知っていたからだと思われます。

 

 また、木は燃えだすと、表面の内側に炭化層ができ、炭化層は熱を伝えにくい性質があるため、上図のように内部への燃焼が進みません。木造建築の火災の焼け跡で、黒焦げの軸組が残っている場合が多いのはそのためです(鉄骨造の火災では形が崩れてしまいます)。 

 最近では、大きな断面の集成材を使う建物などでは、火災のとき直ちに軸組が倒壊しないように、構造上必要な寸法よりも太めにする「燃えしろ設計」が薦められています。

 同じように、以前は防火のためには、軸組を全面防火性能のある材料で被覆する必要がありましたが、現在は柱や梁を表に表わす真壁づくりでも、壁が一定の防火性能があれば、防火性能が保てると考えられるようになっています。 註 現在の建築基準法では、木材の性質・性能を一定の数値で規定しています。そしてまた、一定の数値に規定しやすい集成材も推奨しています。

  しかし、ここで見てきたように、木材は同一の樹種でも、また同寸の材でも、ことごとくその性質を異にし、性質・性能は一定ではありません。それが木材の特徴にほかならないのです。 このような法規の措置は、あくまでも数値処理を容易にするための便宜上の方策であり、実際の状態には即していません。

 木材が均一ではないのは、その母体である樹木が、人間と同じく生物だからです。そして人間社会に於いても、為政者の都合に合うように、人間を鋳型で定型化しようとする策がしばしば採られてきました。木材に、均質・均一を望むことは、無意味、というより、本来あり得ないことを望むのと同じです。

 

 長い歴史をもつ日本の木造建築では、木材の性質を一律のものとしては扱ってはいません。木材をありのままに扱い、むしろ、性質が一律ではないことを利用・活用してきました。

 たとえば、木材は、いかなる乾燥材といえども、かならず捩れたり反ったりするクセがあり、しかもそれは一様ではありません。そのクセを材料ごとに取り除くことは不可能ですが、それを組み合わせることで、互いにクセを相殺(そうさい)しあって、全体としては問題のないようになることに気付いています。

 各種の継手・仕口の考案は、一つには、こういった現象に気付いたことから為されたと考えられます。

 

 竣工後時間の経過した建物を、各部材に解体すると、抑えられていたクセが現れることがよくあります。梁などでは、解体で捻れが表れ、修復時に仕口が合わなくなることもあります。古材を利用する際の留意点の一つです。 

 

「1-5 『木』と『木材』の性質を知る」 日本の木造建築工法の展開

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 「日本の木造建築工法の展開」

PDF「Ⅰー5 木 と 木材 の性質を知る」 A4版10頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 

  Ⅰ-5「木」と「木材」の性質を知る・・・・木で建物をつくるために

  最近、シックハウスの解消から地球環境の問題に至るまで、いろいろな角度から、森林、木や木材、あるいは木材の利用についての関心が強くなってきています。 けれども、木や木材について、かならずしも十分な情報が伝わっているとは思えません。そこで、まず、木と木材について知っておきたいと思います。

 木材は樹木を伐採し、製材してつくられます。樹木には自然成育のものと人工栽培のものがあります。奈良時代の建物では、建設地近くの自然生育の木材が使われていましたが、東大寺の再建の行われた鎌倉時代の初めには、すでに近在には良材がなく、現在の山口県に木材を求めています。  

 現在、わが国の森林は、ほとんど自然林・原生林がなくなり、人工林になっています。しかし、後で触れますが、木材として使える樹木がなくなっているわけではなく、木材として使える樹齢50年以上の人工林の樹木が、私たちの手近な場所に、しかも大量に手付かずにあります。

  ヒノキ・スギの人工林(30~40年)

 樹木には、大きく分けて広葉樹と針葉樹があり、日本の建物には針葉樹(スギ、ヒノキの類)が使われるのが普通ですが、西欧では広葉樹(カシ、クリ、ナラ、など)が多いようです。

 スギやヒノキはほとんど垂直に成長するため木目もまっすぐですが、広葉樹は曲がりくねって成長するのが普通で、製材した木材も曲がっています。これが、  頁の西欧の建物のようなつくりかたを生んでいるのです。ただ、わが国でも農家の住宅などには、下の写真のように広葉樹を使う例も多く見られます(17世紀末建設の旧広瀬家。山梨県塩山。現在、川崎市立日本民家園)。また、後にはケヤキが使われるようになりますが、その場合は、まっすぐに加工するため、大きな径の樹木が必要で、堅いケヤキを扱える道具も必要でした。

   

 柱や梁はクリ材 旧広瀬家(日本の美術 №60)        垂木が円形の新薬師寺本堂内部(日本の美術 №196)

 

 日本の古代文化に影響を与えた隋・唐は、中国大陸西北部の黄土高原が中心です。この地域の木材は、広葉樹の楊樹(ようじゅ)が主で、屋根を支える垂木(たるき)に楊樹の丸太を使うことが多く、中国の技術にならって建てられた奈良時代初期の柱や梁はクリ材 期の建物に、円形の垂木を使った例があります。中国の様式にならうため、角材をわざわざ円形に仕上げたのですが、後になると、日本の木材にあった方法に落着きます。

 同じ木造の建築でも、それぞれの地域には、その土地特有の樹木を使った、その地域の暮しに適したつくりかたがあるのです。                   

 現在、わが国には、第二次大戦後植林された多量のスギ、ヒノキなど針葉樹を主とした人工林が、材木として使える樹齢に達しています。しかし、大量に輸入される安価な外国産材(ほとんど自然林、原生林の伐採材)に押され、日本の環境に適した国産材の利用は目だって減ってきています。

 人工林は、下草刈りや間伐などの日常的な手入れが必要です。わが国の人工林の多くが山地であるため、手入れには大変な労力がいりますが、木材としての利用が減ったため、手入れもされずに放置されている人工林が増えています。これが国産材の一層の利用が叫ばれる一つの大きな理由です。 

 

 1.樹木の成長の仕組み・・・・樹木は生き物

 樹木は、樹皮とその内側の形成層と木部から成っています(下写真)。形成層とは、樹木の成長している部分です。形成層は樹皮のすぐ内側の厚さは数分の1mmほどの薄い層です。木部は、辺材(へんざい)と呼ばれる外側の部分、心材(しんざい)と呼ぶ内側の部分からなります。

 製材された板などを見ると、白い部分と赤味を帯びた部分があります。白い部分が木部の樹皮側の場所:辺材で、白太(しらた)と言い、赤味を帯びた部分が木部の芯に近い:心材で赤身(あかみ)と呼んでいます。                                 

    

約100年生のヒノキ                      法隆寺中門の列柱 捩れた木理にそった割れ

 樹木は根から養分・水分を吸収し、辺材を上昇して葉に至り光合成で新たな養分に変り、樹皮部を降下して形成層に供給され、細胞がらせん状に増殖します。そのため、製材後、材が捩れる原因になったり、右の写真のように、らせん状の捩れた木理が現れる場合もあります。

 また樹木の成長は季節によって度合いが違うため、日本のように四季のある地域では、1年間の成長の幅を、はっきりと読み取ることができます。この1年間の成長の幅を年輪と呼んでいます。成長の幅は、暖地では広く、寒地では狭く目がつんでいます。目のつんだ材の方が、強度的には強いようです。四季のない地域の樹木では年輪は見られません。

  樹木の細胞は、幹の方向:軸方向に長い細胞と、幹の径の方向:放射方向に長い細胞に分けられますが、針葉樹では、軸方向に長い細胞が95%を占め、広葉樹では80% 程度です。                                             

 ヒノキ・スギは30~40年生で直径が30cm程度、高さは10mを軽く越えます。このような細い樹木が、苛酷な自然環境の中で強風などでも折れずに立ち続けることができるのはなぜでしょうか。針葉樹の軸方向の細胞の大きさは、一個の直径は数十μ(ミクロン:1/1000mm)、長さは数cmで、幹の軸方向に細いストローを束ねたように並んでいます。風などで簡単に折れてしまわない理由は、こういう組織が備えている特性にあります。

 つまり、樹木の組織には、常に、外周側:樹皮の側では幹を締め付けるような力が、上下方向では引っ張りあう力が蓄えられています。強風で幹が曲がろうとするとき、このあらかじめ蓄えられている力で抵抗して、簡単には曲がらず、よほどのことがないかぎり折れることもありません。樹木を鋸で切ろうとしたとき、抵抗を受けるのもそのためです。

 そして、樹木を伐採し製材すると、樹木の各部に蓄えられていた力が解き放され、製材した木材に収縮や捩れなどを起こす原因の一つになります。

 木材は、鉄などのように均質ではなく、部位によって性質が異なり、さらに環境に応じて変動するのが特徴で、木材を利用するときには、この特性に十分注意しなければならないのです。

 

 2.白太、赤身の違い

 樹木を構成している細胞の殻:細胞壁は、高分子化合物でできていて、環境の変化に応じて、分子のレベルで水分を吸収したり、放出したりしています。この水分のことを結合水と呼んでいますが、生きている樹木の細胞は、最大で、乾燥したときの木材の重さの30%にあたる大量の水分:結合水を吸収できると言われています。特に、根からの水分・養分が通る辺材:白太には、水分:樹液が多量に含まれています。下の写真は、薪用に伐採され、まだ乾燥していないアカマツの丸太ですが、辺材:白太部分にはたくさんのカビが生えていて、水分・栄養分が多いことが分ります。 

 辺材:白太には養分が多いので、カビが生えている     

 樹木が成長すると、若いころに成長した形成層は活動をやめ、細胞の抜け殻が残ります。この部分が心材:赤身で、赤味を帯びた色は、細胞をつくっていたセルロース、リグニン、タンニンなどによるものです。

 心材:赤身の細胞の抜け殻の空洞には、自由に水分が入り込みます。これは普通の水で、自由に吸・放出を繰り返すので自由水と呼ばれます。しかし、この部分は養分が少ないため、上の写真のようにカビもあまり生えません。

 白太と赤身に含まれる水分の量を含水率で示した のが下の表です。  

  

 含水率については後で説明しますが、含水率が大きいと、含まれる水分量も大きいことを表します。 

 

   3.木を乾燥するとは、どういうことか・・・・木材の生態

 木材を使うときは、よく乾燥した木材を使うことが大事と言われます。しかし、木の乾燥について、一般に正しく理解されていないように思われます。伐採した樹木を放置すると、最初に心材:細胞の抜け殻に入っていた自由水が蒸発し、自由水が全部蒸発し終わると、辺材に含まれている結合水が蒸発を始めます。

 そのまま放置を続けると、外気中の水分と樹木の中の水分が平衡の状態になり、結合水の蒸発がとまります。これが、樹木を自然乾燥させたときの状態で、気乾(きかん)状態と呼びます。伐採した樹木を1年間放置すると、気乾状態になると言われています。

  しかし、気乾状態のときでも、木材に含まれる水分量は、年間を通して一定ではなく、季節や周囲の状況により変動します。逆に言うと、周辺の環境の湿度を調節しているのです(調湿機能(ちょうしつきのう))。

 木材は、季節や置かれた環境により含水率が異なり、しかも樹種によっても、また同一の樹種でも1本ごとに異なり、同一のものはありません。これも、鉄などと大きく異なる点です。 樹種別の平衡状態の含水量の年間の変化(平均値)を調べたのが下の表です。 

   

 平衡状態になった木材を、さらに人工的に乾燥し続けると、含まれる水分は0になります。この状態を全乾(ぜんかん)状態(絶乾状態)と言います。しかし全乾状態を保ち続けることはできず、普通の環境では、全乾状態の木材は空気中の水分を吸収して、平衡状態に戻ります。樹種によりますが、平衡状態の含水率は15%前後と言われています。けれども、常に一定なのではなく、上表のように、季節で異なるのです。 

 自然乾燥(天然乾燥とも言います)をしても人工乾燥をしても、普通の環境の下では、決して木材中の水分が0になることはなく、しかも含まれる水分の量も年間を通じて一定ではなく、置かれた環境に応じて増減している、水分の吸・放出を繰り返すのが木材の重要な特性なのです。

 この木材特有の性質を妨げると、たとえば、外気との自由な接触を途絶えさせたりすると、重大な問題が生じてしまいます。そして、この点についての理解が最も不足し、誤解も多いように思われます。

 

 4.木材の含水率とは?

 では、木材の含水率とはどういうものなのでしょうか。

 重さが100グラムの木材を、全乾状態にしたら80グラムになったとします。ということは、水分が20グラム含まれていた、ということです。普通の感覚では、100グラムのうちの20グラムだから20%、と考えますが、実はそうではありません。木材の含水率の定義は特別なのです。木材の含水率は、含まれていた水分の量が、全乾状態:カラカラの状態の木材の重さの何%にあたるか、という表し方をします。

この例では、水分20グラムはカラカラの木材80グラムの4分の1ですから、含水率は25%ということになります。

  

 

 5.木材の経年変化・・・・・老化、風化

  老化、風化とは、木材自体にかならず生じる経年変化のことを言います。

 1)老化 木材も人間と同じように、時が経つと老化します。老化とは、酸化や熱の影響で、材料の内部に起こる材質の変化のことを言います。老化の速度は、材料:樹種によって異なります(下図)。

 ヒノキは、伐採後およそ200年間は強度が上がり、その後はほとんど強度に変化がないと言われています。この傾向は、ヒノキに限らず針葉樹に共通の性質です。これに対して、近世になって多く使われるようになるケヤキは、当初の強度はヒノキの2倍程度ありますが、経年変化が大きく、およそ500年で1/2~1/3程度に強度が落ちてしまうと言われています。 この違いは、細胞の接着剤の役割をはたしているリグニンの構造が、針葉樹と広葉樹では異なることによるようです。

 いずれにしろ、通常の場合、老化現象だけで木材、木造の建物の寿命が尽きることはないのです。たとえば、建設後800年以上経った東大寺南大門は、大半が当初材(ヒノキ)のまま現在も健在です。

 2)風化  無垢の木材を表しにした建物は、木部が数年をまたず黒っぽい茶色に変ってきます。これは、木材が陽に焼けた結果です。 建物の外壁に張られた板などで、木目がはっきりと出ているのも風化によるものです。わが国の多くの古建築が黒っぽい茶色をしているのも同様です。 

  風化とは、材料自体ではなく、材料をとりまく環境:紫外線、熱、水、酸素などの影響により材料の表面が変化することを言います。風化による変化の量は、昔から、ヒノキなど針葉樹の場合、「百年一分」と言われています。100年で1分、つまり3mm程度風化する、という意味です。したがって、通常の場合、風化だけで木材の寿命、木造建築の寿命が尽きることはないのです。

  なお、無垢の木材の風化、色が変ることを避けるため、塗装をかける場合がありますが、塗り替えを頻繁に行なわないと、その状態を維持することはできません。古代の寺院でも、当初は朱色に塗ってあっても、塗り替えが行なわれなかった場合、塗装がはげてしまい、塗装をかけない建物と同じように黒っぽい茶色に変っています。

  なお、古代の建物に使われた塗料は、材料の表面に皮膜をつくりませんが、現在使われる塗料の多くは皮膜をつくります。この皮膜は、ある程度紫外線や酸素の影響を防ぐ効果はありますが、水を完全に途絶することはできないため、多少でも皮膜内部に侵入してしまった水は、外に逃げにくいので木材の腐朽の原因になります。塗装は最低3年に一度は塗り替える必要がある、と言われるのはそのためなのです。なお、最近は、皮膜をつくらない浸透性の塗料も開発されています。

 腐朽や虫害も経年変化の一つと考えられがちですが、木材の老化、風化は避けることができないのに対して、腐朽や虫害は避けることができますから、同じに考えることはできません。

 

(Ⅰー5. 6に続きます。)


「筑波通信№9」 1981年12月

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 PDF「筑波通信 №9」1981年12月 A4版8頁   

   「筑波通信 №9」  1981年12月

      「蔵」のはなし・・・・必要ということ・・・・

  「こがねむしはかねもちだ、かねぐらたてた、くらたてた・・・・・・」という童謡は、おそらくどなたも知っているだろう。

 単なる童謡なのだからどうでもよいようなものの、こういう詞は、蔵というのが金持ちの象徴なのだという通念があるからこそ生まれるのだと見てよいのではないだろうか。蔵というのは、いわゆる財産(蓄財したもの)をしまっておくためのもの、それ故富裕でないと持ち難い、そういう理解である。私も実は、なんとなくそんなように思いこんでいたような気がする。

 

                                                                                              「福島県の地名」平凡社(この図は投稿者によります。)

  新潟で日本海にそそぐ阿賀川をさかのぼると、越後平野を通り過ぎ山あいを峡谷上に北上し一度会津盆地に入る。川は盆地の西端をゆるやかに流れ、今度は先の山あいの山々をまいた形でその東側を再び峡谷状を成し南へと上流へ向う。つまり会津盆地を曲りの部分としたU字形を成し、その囲まれたところに山系があるということだ。その上流を総称して南会津と呼ぶ。因みに、その川を更にさかのぼる(つまり概ね南へと向うことになるが)と、峠を越えて今度は鬼怒川の上流に出る。日光へはもう直ぐである。江戸と会津をつなぐ重要な街道の一つで川路(かわじ)と言ったらしい。いまの川治温泉は川路温泉だったわけである。

 それはさておき、先のU字形に囲まれた山系のなかに、これこそまさに辺地を絵に描いたような山村O村がある。この村へは、西側から阿賀川支流を入るのが比較的ゆるやかな道で、あとは会津盆地からも南会津からも険しい峠を越えなければならない。冬期の積雪は村うちで3mを軽く越えるから、冬期、村と他の町村との交通は、先の支流沿いの道(これとても途絶えることがある)を除いて、完全に途絶する。言うならば孤立するのである。

 村域は川沿いにいくつかの集落が点在する形で展開しているが、もともとは二つの村であったという。一つは概ねその川の中・下流域の比較的平らな部分、一つはその上流、低い峠を越えたところにある小盆地のO集落で、そこは独立してO村であったのである。だから、このO村は最奥ということになる。このO集落は、川沿いの道を下から、いくつもの集落を通りぬけてさかのぼって行き、人家がなくなって山道になり、村のはずれに来てしまったなと思いながら、小さな峠を越え下り坂になったとたん、前方に突然家々の屋根がひしめくように、ほんとにあっけにとられるような形で目の前に現われる。確かに村を名のってもおかしくない大きな集落である。いまは自動車で行ってしまうけれども、もし歩いて訪れたとしたら、そしてそれが春先きの花でも咲いているときならなおさら、まさに桃源境にでも入りこんだような気分になるに違いない。そのとき同行した人が一様に思ったのは、こんなところに人が住んでいるという驚きに近いものだった。

 ところで、このこんなところにもという感想は曲者で、よく考えてみる必要があると思う。人里からあまりにも遠く離れたところにも人がいる、という意味も含まれていれば、普通考えられる人の住めそうな場所の通念からみれば人の住めそうもない所に住んでいる、という驚きも含まれているだろう。けれども、ひっくりかえって、東京を見て、こんなところに人が住んでいるとはどうして思わないのだろうか。それこそほんとに、こんなところにうじゃうじゃと人が住んでいるといって驚いたっていいと思うのに、ほとんどだれもそうは言わない。だれも不思議に思わないのだ。そうしてみると、こんなところにという感想は、ある特定の視座から一方的に見た、そのことによる感想にすぎないということになる。

 その特定の視座というのが何なのかということが、だから、問われなければなるまいと私は思う。人がそれぞれ自分中心のものの見かたを持つというのは確かであるけれども、だから都会に住み慣れた人がこういう山村を見て、こんなところにと驚いても一向にかまわないし、また当然であるけれども、しかし、その見かた、それによる驚きが、直ちに一般的・普遍的かのように思ってしまっては誤まりだろう。人それぞれの存在がそれでは消えてしまう。都会に住む人だけが人ではない。ましてやそういう視座が、多数決によって、つまりそういう見かたをする人の数の多少によって正当化されたりしたり、よいものと思われてしまったりしては論外のはずなのだ。けれどもいま、大多数は都会に住むし、その人たちの先祖だってこういう山村的生活をしていたかもしれないなどということは忘れ、都会的生活に慣れきってしまっているから、彼らの見かたこそが唯一絶対かの錯党を持ってしまうのだ。

 実際村に住んでいる人の立場から見ればこんなところにと思われること自体、不可思議だし、ことによると不当に思えるだろう。彼らは彼らなりの生活を、そこなりにしてきているのである。とりわけ、情報がとびかうことのなかった時代にあっては、自ら辺地住いだなどという意識など全く思いもしなかっただろう。よきにつけあしきにつけ、彼らの世界は、村うちだけで閉じていたからである。しかしいまは、対比する町や都会がある。そうであってもまだ、こんなところにという感想は、彼らにとっては不当であることに変りないはずであると、私は思う。

 随分まわりくどい言いかたをしているけれども、要は、私たちの多くは都会的生活に慣れ親しんでいるのだけれども、それが唯一最高の、それ故に目ざすべき標的であるかのように単純に見なしてしまう私たちの悪い癖をやめようではないかと言いたいのである。ちょうど期待される人間像などというのが全く人を人と思わない不当なものであるのと同様に、あるべき生活像みたいなものを抽象的に、またワンパターンで定型化しようとするのも、これも全く不当なことだと思うからである。

 よく私がこれにからんでもちだす例が「みちのく:陸奥」ということばである。いまこそ大方の人たちは、そのことばそのものの意味を問わずに単純に、東北地方を示す一つの優雅な言いかたとしてしかみないだろうが、やはりこれは、そのときの中央から見ての方向感覚・上下感覚の入っていることばに他ならないのである。彼らが自らを「みちのく」と言うわけがあるまい。よく我が国を称して「極東(far east)」の小国などと言うけれども、これも日本人自らが言うとなると、国際感覚がおありのことでとからかいたくなる。

 

 さて、私がこの村むらで印象深く見たものが何であったかというと、それが立派な蔵だったのである。家という家がそれぞれ、少し大げさに言えば母屋よりも立派な蔵をかならずもっている。遠望してもそれらが際だって見えるくらいなのである。

 一見したところ、この村むらは決して豊かな、つまり農業生産高の高いところには見えない。両側から、比高はそれほどないが山が迫り、耕地は限られ、水田用地も狭い。寒冷の地だから稲作がここまで普及したのもそんなに旧くなく比較的最近だろうと思える。おそらくはもともと、畑作や林業が主な生業だったのではなかろうか。因みに「越後上布」の名で知られる織布の原料「からむし」(チョマ)は、この村の特産で、その栽培のやりかたはまさに焼畑そのものである。こういう山間のあちこちの村むらでつくられた繊維が集められ加工され「越後上布」の名で献上されたりしたのであろう。

 すなわち、この限られた、しかも気候的にも厳しい土地からのあがりは決して豊かなものではなく、その生産高は逆にそこに住める人間の数を規定してしまうと言っても言いすぎではあるまい。実際のはなし、この村の役場の経済課長(この人がまた先号、先々号で紹介したT氏のような人物なのであるが)によれば、この村の適正人口は三千人(正確な数字は忘れた)ぐらいであるという。そのくらいなら、自前でなんとか生きてゆけたのだそうである。つまり、そのくらい厳しい生活条件なのである。余剰物、ましてや財産が残るなどとはとても思えない。

 にも拘らず蔵がある。しかも全ての家に蔵がある。

 これは、私が勝手に思いこんでいた蔵というものに対しての考えかたと全く相容れないことである。なぜこの貧しい村の家々において蔵が立派なのか。

 あらためて考えなおしてみて、そして話をきいてみて、それが至極当然であるということに気がついた。それは、食糧の備蓄のための倉庫なのである。このごろまた起きているけれども、ほんとについ最近まで冷害はこの地方ではいかんともしがたい現象として年中行事のように起きていた。従って、来年の収穫までの食いぶちは当然として、更にその翌年の一年分までを最低限保持することが、この土地で生きてゆくためには必要なことだったのである。余剰物をしまうのではない、必需品をしまっていたわけで、この土地で暮してゆくための、絶対に欠くことのできない建造物だったのである。(いまは?空っぽである。)それに暮しがかかっているから、自ずとそれは立派になる。

 そのように気がついたとき、蔵というものを単に一般的な意味での倉庫とみなして済ましていた自分自身のあほらしさにも気がついた。確かに倉庫であることに何ら違いはないのだけれども、それだけの理解では十分な理解ではないのである。単なる倉庫という分類法に従うならば、町なかの蔵も、この村の蔵も、皆同じものになってしまうのだが、そして私たちが通常多く見ているのは町なかの商家のそれであるが故に、あるいはまた豪農の家のそれであるが故に、蔵というとすぐに、なんとなく蓄財の象徴のように見てしまうようになってしまうのである。

 考えてみれば自明なことなのだが、しかしとかくそれを忘れ勝ちなのだが、一つの建物をつくるという大変な営みをするにあたって、単に、家というものには一般的に収納場所としての倉庫が必要である、などという安易な発想でそれがなされるわけがない。もっと具体的な彼らの日常に直に結びついた発想のなかからつくられるのである。極端なことを言えば、毎年毎年何の苦もなく食いぶちの得られる場所に住みついた人たちには、この村のような蔵をつくるという発想は、どこをつついてもでてきはしないはずである。そして逆に、この村のような厳しい村々には、単なる富の象徴のような蔵ではなく、まさに生活そのものの表われとしての蔵が存在するものと思われる。

 いま、会津盆地の北方、喜多方(これは「北方」によき字をあてたのだそうである)が蔵の町として観光的にもてはやされだしているけれども、実は盆地のいたるところで私たちは見事な蔵を目にすることができる。喜多方は碓かに商家が多いけれども、盆地のなかのほとんどは農家のそれである。しかし見る人の多くは、専門家も含め、有名になってしまった町なかの蔵にばかり目がゆくから、どうしても蔵づくりすなわち富の象徴的理解で終わってしまうのである。例えば、いわゆる土蔵づくり(土塗壁でくるむ:骨組みは木造である)は防火のために発達したというような説明をよく耳にするが、この村の蔵:これも土蔵づくりである:の場合などは、家と家の間は大分はなれていて、防火上の配慮とは思えない。壁は土塗だが、屋根はかやぶきなどというのさえある。土蔵づくりが防火のために発達したというのは、だから、町なかにおいてのみ言い得ることなのであって、同じ土蔵だからといって、一律の説明で村の蔵まで理解しようとすること自体が既に誤まりなのである。

 

 そして私は、それは全く当然なことなのだが、建物の理解(既存のものも、これからつくるものも)は先ずもって、そこに係わる人々の生活そのものの理解‥‥それはすなわち、「人たちのもつ私の地図」の理解に連なるのだが‥‥この場所で生きてゆく人たちの生活の理解、に始まらなければならないというあたりまえなことを、あらためて、いやという程思い知らされたのである。

 言うならば、地方には地方なりの生活があるという私の考えかたそのものが、未だに観念的、理屈の上のそれであったということであり、私は強烈なアッパーカットをくらったのである。しかし、マットには沈まず、おかけで目がさめ、それ以来、相変らずあちこち歩きまわっているのだが、そのたびに、そこここで見かける蔵が気になってならないのである。そして、見えかたが違ってきていることは、はっきりと説明できるわけでないけれども、確かなようである。それにしてもいままで、私の眼は、いったい何を見ていたのだろうか。

 

 この村のほぼ中央に、もうぼろぼろの、しかし決してとりこわせない、正確に言えば、もうしばらくの間とりこわせない、強いて呼ぶならば「集会所」と呼ぶしかない木造の建物があった。補助金をもらって公民館として建て替えることはできるのだが、それはいまはできない。とりこわす気になれないからだという。なぜか。

 これは、先に書いた、この村の適正人口と深く関係する建物なのである。と言っても未だ分りにくいかも知れない。

 実際にこの村では、その昔(つい最近まで)人口をこの適正人口におさえる策がとられていたのである。すなわち、結婚は長男(男がいなければ長女:養子をもらう)しか認めなかった。娘は必死になって嫁入り先を探し嫁がせる。しかし、二男、三男は、本人の意志で二男、三男になったわけでもないのだけれども、全く運命的に一生言うならばその家の下男同様の生活をして過ごすのだそうである。長男が嫁をもらったあと、彼らは夜はもちろんのこと、家に居づらくなる。(いわゆる大家族的な家族が一軒の家で生活していたのである。だから家一軒が、白川郷ほどではないが、それに少し似たところもある大きな小屋裏のあるつくりになっている。)そこで、昭和の初めころであったか、各家の、夜居づらくなった似たもの同士が集まって、夜を過ごす集まり場所をつくろうということになり、役場へ、土地を提供してくれ、そうすれば小屋は自分たちが廃材などを工面して自前でつくるからと申しでた。そして土地があてがわれ、かの集会所ができたのだそうである。

 これは、なみの集会所ではない。彼ら二、三男たちの生活必需品であったわけなのである。この運動への参加のしかたは、各人の立場に応じて、現物提供、金の提供、技術提供、労力提供といった具合にいろいろあったとのことであった。いまでこそ碓かにこういう非人間的二、三男の生活はなくなったようだけれども(そうは言っても分家できる土地があるわけではないから、村の外:多く都会へ出る:で農業以外で働くことになる) しかし未だ、この設立に係わった人たちが健在である。もういまは用がないからといって、この建物をとりこわすなんて、同じ村の人間として、とてもじゃないが忍び難くてできはしない、そういうわけなのであった。材の一本一本に、彼らの切ない想いが浸みこんでいる、こういう話をきいたあとでは、ただのぼろぼろの一軒の小屋が、よそものの私にさえ、言うならば神聖なものに見えてきだ。これもまた、私の観念的理屈にとって、十分すぎるほど衝撃的であった。

  おそらく村々のたたずまいというものは、いや人々が自らの生活に根ざしてやってきたということは、こういう具合に「昔」をひきずりながら、変り、成りたってきたに違いない。

  私たちが目にするものは、そういった一つのものができあがる過程、そしてできあがったものに対して人々が対してきた過程、この全過程を背後に秘めたものなのであるが、残念ながら.この過程は決して目に見える形では存在しない。それは、いかんともし難く、そういうものだ。しかし、私たちは、目に見えるものの背後を、目に見えるものを見ることを通して、なんとかして見なければならないのだ。けれどもこれは、理屈では分かっていても、言うとやるでは大違いなのである。そういった意味で、この昨年夏の経験は、私の太平の夢破るできごとであった。

 

 ところでいま。私たちのまわりでは、いろいろな種類の「公共建築:施設」がつくられている。社会のニーズをとらえてだとか、建物の使われ方の研究の結果、だとか称して、それらがつくられてゆく。私はいまここに書いた村の二、三男の集会場はまさに「公共建築」のつくられかたのーつであると思うのだけれども、そういった意味での生活の必需品としての発想で、ニーズも使われかたも考えられたことがあるのかどうか、はなはだ疑問に思う。専門家に見えているのは、彼ら自らの表現にいみじくも示されているように、それは建物の使われかたなのであって、決して人々の使いかたなのではなく、そして、仮に人々を彼らが気にしたとしても、そのときの人々は人一般としての人々であって、この町、この村の人々では決してないのである。

 彼らが何故使われかたで見ようとするかと言えば、おそらくそれは簡単な理由による。使いかたと言うとき、そこには必らず使う主体としての「個人」が存在せざるを得なくなるからである。そんな具体的にして生身の人間は扱えないということだ。そんなことをしたら、客観的:科学的であるべきことがらが、そうでなくなってしまうと愚かにも(と私は思うのだが)信じこんだか、信じこまされているか、そのどちらかだからである。

 こういう専門家には、決してこの村の二、三男の人たちのニーズなどは分らないだろう。私たちは、こういう人たちを専門家としてあがめていて、はたしてほんとによいのだろうか。そして、いったいだれが彼らに専門家の称号を与えたのであったろうか。生身の私たちが、その称号を与えた覚えはないはずで、いつの間にか彼ら自ら名乗りでたにすぎなかったのではなかったか。彼らから専門家の称号をとり去ったとき、そこにはなにも残らない、ことによると生身の彼自身さえもないかもしれない、そうだからこそ専門家という包み紙に固執するのだと言ってよかろう。

 同じ専門家でも、昔の職人たちのもっていた意識と、そこのところは根本的に違っていると見てよいように思う。彼らは専門家である前に、先ずもって一人の人間であった。いま専門家は、言ってみれば、論語読みの論語知らずであって、ほんとのことを知ろうとしない。一人の人間である前に、先ずもって専門家になり下ってしまっているわけなのだ。どう考えたって、それではさかさまなのだ。

 そして、理屈の上では、私はこうありたくない、そう思い続けてはきたのであったのだけれども、この昨年夏のS村訪問で、未だに悪しき習癖がぬぐい去られていない自分を、あらためて思い知らされたのであった。

 

 私がこの通信文を書いていたとき、新聞に、加藤周一氏のスタインバーグ(風刺的、諧謔な絵を描く)との会見をもとにした一文が載っていた。(11月10日付朝日新聞夕刊「山中人間話」)そのなかの一節が、私にとって印象的であったので、それをここに再録して、今月は(今年は)終わりにしよう。

 『・・・・の言葉のなかで、私にいちばん強い印象をあたえたのは、‥廊下を‥歩きながらスタインバーグが呟くように言った言葉である。その言葉を生きることは、知識と社会的役割の細分化が進んだ今の世の中で、どの都会でも、殊にニューヨークでは、極めてむずかしいことだろう。

 「私はまだ何の専門家にもなっていない」と彼は言った。「幸いにして」と私が応じると、「幸いにして」と彼は繰り返した。』

 

あとがき

〇一年間、と言っても四月からだけれども、拙い私の文をお読みいただき、しかも無理にお読みいただいたわけで、ほんとにうれしく思っている。

〇また、手紙や電話、そして時には筑波に来られた折に、いろいろとご意見やご批判をいただくことがあり、それもほんとにうれしいと思う。そんなとき、はじめのうちいったいどうなることか、自分自身でもわからなかったのだけれども、やはりやってよかったと思うのである。いまや、この通信をだすことが私のペースメーカーになってしまった。大学教師という太平の夢をむさぼるわけにゆかなくなってしまって、言ってみれば楽しいのである。もっとも、その私の勝手を読んでもらおうというのだから太平楽なはなしなのだが。

〇私は(昔から)文章はうまくない。ときには、十分な説明を端折ってしまうようで、その都度、途中が抜けているというおしかりをうけることがしょっちゅうあった。その途中の説明こそが大事なんじゃないか、というわけである。大分気をつけているつもりではあるけれども、なかなかなおらない。

〇私はいま、あらためて、私はなんて素晴らしい人たちとつきあってこれたのか、という変な感慨を抱いている。この人たちは皆決して有名ではない。けれども皆、自分を生きている。そして、それが一番専門家にとって怖いことだということを、数多くのこの人たちの日常によって見せてもらってきた。だから、私はこの人たちに信頼を抱く。この人たちに学ばねばならないと思う。そして、そのそれぞれの間題を、またそれぞれなりの問題に対する対しかたを、互いに知るべきだと思う。だから、この通信の役割の一つとして、今後更に、七戸のT氏の例のような話を紹介しようかと考えている。それは、私にとっても貴重な学習になる。

 〇七戸から便りがきた。例年になく、もう白一色だという。私はその普、雪の実態を知りたい、などとかっこいいことを口走ったおかけで、雪の積った小学校の建設予定地を、これでもかと言わんばかりに、吹きだまりに身を没したり、転んだり、徹底的に、T氏に引きまわされたことを思いだした。ロマンチックに考えるなよ、そういう思いやりのようであった。

 〇筑波大学というのは、やはり余程悪名高いらしい。筑波大学にいる人がこんな内容の通信をだすなんて、という感想がきこえてくることがある。しかし、私のやっていることは、別に筑波大学という包装紙とは関係ない。教師の場面で突然筑波大学の包装紙を被るわけでももちろんない。問題は、個々人が何をするかだけだと思う。

 〇書く話題が種切れになりはしないかと、一時は本気になって考えたこともあったけれども、そんなことはあるわけがなさそうだ。当分続けられる。

 〇来年も、それぞれなりのご活躍を!

  1981.12.1                              下山 眞司

 

「Ⅱ-1.4」 日本の木造建築工法の展開

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(Ⅱー1. 3より続きます。)

4.屋根のつくりかた・・・・又首(さす)組・合掌造、和小屋・束立組、(洋小屋・トラス・・・)

 掘立て式の頃の屋根の架け方は、礎石建てになってからの架構法から推察されます。

 新薬師寺も古井家も、梁の上に二等辺三角形に材が組まれています。これは又首(さす)と呼び、屋根をかたちづくる架構(これを小屋組こやぐみと呼びます)の古い時代の代表的なつくりかたで、竪穴住居を継承していると考えられます(世界各地域でも同じ架け方が普通です。43頁参照)。 なお、又首(さす)は扠首(さす)とも書き、また合掌(がっしょう)とも呼びます。

 又首(さす)が大きくなり、斜めの材が下に曲がるのを避けるため、中途を支柱で支える場合があります。下左の図は、長野県の塩尻市にある小松家の例ですが、斜めに支柱を立てています(なお、この建物は上屋だけで下屋は設けていません)。

 また、支柱を立てる代りに又首(さす)の間にAの字型に横材:梁を何段か設けても曲がりを避けられますが、この横材の部分を床として使ったのが、下右の図の白川郷の合掌造です。

  

長野県塩尻市 小松家断面図 (日本の民家2 より)        岐阜県荘川村 若山家 小屋組分解図 (滅びゆく民家 より)

  時代が経つと、小屋組のつくりかたが変ってきます。下の図は、住宅に見られる小屋組のいろいろです(川島宙次著 滅びゆく民家より)。

 ①              ②              ③

①は古井家に見られる方法。

②は扠首(さす)組に似ていますが、扠首(さす)状の部分は垂木だけです。これは、真束(しんづか)(真束柱)で支えた棟木(むなぎ)と両側の桁との間に垂木(たるき)を架ける方法です。

 古井家にも真束がありますが、これは又首(さす)の上にのっている細い棟木を支えるための束柱(つかばしら)です。なお、束柱とは「短い柱」という意味です。註 「短い時間」を言い表す「束(つか)の間」という言葉があるように、束には「短い」という意味があります。 

③は、現在も普通に使われている方法で、屋根面に平行する横材:母屋(もや)=母屋桁(もやげた)を梁の上に立てた束柱で支え、棟木~母屋~桁に垂木を掛ける方法です。多くの場合、母屋(=身舎)の小屋組に設けられる横材であることから母屋桁と呼び、それが簡略化され母屋と呼ぶようになったと考えられます。

 この方法は束立(つかだて)組と言いますが、一般には和小屋(わごや)組と呼ばれています(下註参照)。束立組(和小屋組)では、まず梁の上に束立てで母屋(母屋桁)を等高線上に配置します。そして、母屋に垂木を掛ければ屋根の概形ができあがります。

 下の写真は、雁行形をした桂離宮の全景です。屋根だけ取り出した図が下図です。この図の網掛けをした部分の母屋と垂木の配置を上から見ると、右側の図(母屋・垂木伏図)のようになっています。

 束立(つかだて)組は、このように屋根を自由につくることができるのが特徴です。                               

 

俯瞰写真  原色日本の美術(小学館)より           屋根外郭  左の写真から作成  

   母屋・垂木伏図  桂離宮御殿整備記録(宮内庁)より

 

註 和小屋と洋小屋という呼称について

和小屋(わごや)という名称は、明治のころ西欧からは伝えられたトラス組:洋小屋(ようごや)に対して生まれた。左はトラス組:洋小屋の一例。

 

束立組(和小屋)では、水平の梁だけが屋根の重さを受けるため、梁の長さや重さに応じて太い材料が必要になるが、トラス組では、細い部材でつくられた三角形の全体が梁の役目をしていて、長い距離を掛けることができ、重さにも耐えられるので、講堂や校舎の屋根などに使われることが多い。

また、積雪の多い地域では、細い材料で屋根が架けられるので、会津地域では住宅にも使われている。写真左は喜多方の煉瓦造の蔵の小屋組。幅が4間(7.2m)、横材(陸梁(ろくばり))は15×12cm。下は熊本の小学校の講堂の小屋組。幅が4間(7.2m)、横材(陸梁)は12×12cm。 

 

5.礎石建ての特徴・・・・軸組の形を安定させなければならない 

 掘立柱は、穴を掘り、垂直を確かめながら柱を埋め、柱のまわりに土や石を埋め戻して突き固めれば柱が自立します。柱が安定していますから、柱の上に横材:梁・桁を載せ架ける仕事も容易でした。世界のどの地域でも、木造の建物を最初は掘立柱でつくるのも、仕事が簡単だからと考えられます。 

 ただ、掘立柱方式の欠点は、Ⅰ-5で触れたように(34頁)、柱の根元が腐りやすいことです。建てる場所の状況にもよりますが、普通の柱では10年も経たないうちに腐り始めます。

 そこで考えられたのは、柱の足元:柱脚を地面から離すことでした。そのために、地面に石:礎石(そせき)を据え、その上に柱を立てる方法が編み出されます。礎石(そせき)建て、または石場(いしば)建てと呼ばれる方法です。礎石には自然石をそのまま用いる場合と、上面を平らに加工した石を使う場合があります。石の加工は大変ですから、加工した礎石は、主に寺院など上層の建物で使われています。

 礎石建てになると、掘立柱のように柱が自立しないため、柱を立てる作業が難しくなります。柱が4本立ち、横材:梁・桁が架けられて最小の直方体の輪郭:軸組ができあがるまでは、何らかの方法で柱を支えなければなりません。

 本体をつくるための補助的な仕事を仮設工事といいますが、一番簡単な方法は、石の上に立てた柱を二方あるいは三方から地面から斜めに支柱をあてがい固定する方法です。斜めの材を一般に筋かいと呼びますが、この場合は仮筋かいと呼んでいます。本体が無事に立ち上がると、はずしてしまいます。 また、寺院などの大規模な建物の場合は、できあがる建物のまわりに足場(あしば)をつくり、立てた柱を足場とつないで固定する方法もとられています。 

 最初の直方体の輪郭:軸組が仕上がると、あとの柱・梁・桁はそれに接続していけばよいので、比較的仕事は容易になります。

  軸組ができあがるとその上に屋根の下地になる小屋組をつくります。この仕事は、掘立柱のときと変りありません。ただ、小屋組ができて屋根が葺かれ、壁や出入口、窓などが仕上がるまでは、ぐらぐら揺れたにちがいありません。なぜなら、掘立柱方式と大きく違い、柱が地面に固定されていないため、軸組のつくる直方体の形が、ちょっとした横からの力で容易に歪んでしまうからです。そのため、礎石建ての抱える大きな問題は、どうしたら軸組の形を安定させることができるか、ということでした。

 この問題の解決策として、いろいろの工夫がなされていますが、主な方法は次にまとめられます。

① 柱への横材:梁・桁の取付け方・載せ方の工夫 ② 上屋+下屋方式を採用し、上屋を下屋が支えるようにする工夫 ③ 軸組の四周を構成する柱列に、たがのように、横材を打ちつけて歪みを防ぐ工夫 これは、他に例を見ない日本の建物づくり特有の長押(なげし)を設ける方法です ④ 長押に代り、貫(ぬき)という材を、柱を貫いて通して柱列を固める工夫  ⑤ 通し柱、土台、貫、差物の活用・・・・技術体系の確立  以下、順にこの方策を見てゆきます。

参考 西欧の木造建築の軸組安定化策 スイスの例    Fachwerk in der Schweiz(Birkhauser)より

 

 

 木造部は、日本と同じく、基礎の上に置かれているだけである。日本では一般に、斜め材を筋かい:筋違と呼ぶ(日本建築辞彙による)。一方、この図のような柱を脇から支える斜め材、あるいは横材を支えるために柱上部に取付ける斜め材は方杖(ほおづえ)と呼ぶ。 頬杖:庇、小屋組ナドニアル傾斜セル支柱。(日本建築辞彙) 筋かい、方杖の区別は、横材相互を結ぶかどうかによるようである。建て方時の仮筋かいも、通常、土台~柱~梁・桁を結ぶ。

参考 スイスの木造軸組工法 16世紀末~17世紀   Fachwerk in der Schweiz(Birkhauser)より  

 

 

「Ⅱ-1竪穴住居~掘立て~礎石建の過程」 日本の木造建築工法の展開

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 PDF「Ⅱ-1竪穴住居~掘立て~礎石建の過程」 A4版10頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)

 投稿者より:goo blogで投稿画像仕様の一部変更があり、PC(ディスクトップ)によっては、画像の位置がずれてしまいます。画像は大きめに挿入していますので、ご理解のほどお願い申し上げます。

 

「日本の木造建築工法の展開 Ⅱ 古代・中世」 

遠藤新の言葉    ・・・・・ 日本の建築家は「新しい」という事許(ばか)り考えて「正しい」という事をおろそかにした。  何が正しいか、立体建築観が正しい。・・・・・  此迄(これまで)の建築家は人の心を考慮に入れていない。  心理の考慮なき建築は死人を容るるに適して生きたる心の住家とはならない。  いま有りとあらゆる建築家は棺箱を作ってそれに人を入れることを強要してる罪人だ。・・・・・ 「建築評論」大正九年四月号  

 ・・・・・ 建築を大きくばかり造っても、其所に材料の持つ大きさが出て来ないと意気地がない。  今日の構造学には、こゝな用意がない(尤(もっと)も構造学というものは、いつになってもそんな用意を知らないものだが)。  そして、建築は材料に引きずられずに構造学に引きずられる。  そこで、建築が意気地なくなる。  思いつきや、利口さや、小手先やの細工は、更にも建築を弱く、小さく、意気地なくする。  文化の爛熟の間にも、一脈の単一至純な原始的な力が潜んで居るようでなくてはいけない。・・・・・  「アルス美術講座」(昭和二年刊) 「建築美術」

 

主な参考資料 原則として図版に引用資料名を記してあります。 日本建築史図集(彰国社)  日本住宅史図集(理工図書)  日本建築史基礎資料集成(中央公論美術出版)  奈良六大寺大観 (岩波書店)  国宝 浄土寺浄土堂修理工事報告書(浄土寺 刊)  古井家住宅修理工事報告書(古井家住宅修理工事委員会)  滅びゆく民家 川島宙次(主婦と生活社 絶版)  日本の民家(学研 絶版)  日本の美術 (至文堂)      

          

 Ⅱ-1 竪穴住居~掘立て~礎石建の過程

  1.竪穴住居・・・・原始的な木造軸組工法の住まい

 下の図は、木の豊富なわが国の原始的な住まい、竪穴住居のつくりかたの順番を示した図です(日本住宅史図集から転載。なお、西欧の竪穴住居の例は44頁参照)。

  先ず深さ50cmほどの穴を掘り、2本の柱を立て、その上に横材:梁を渡して門型をつくり、これと平行に、同じ門型をもう一組並べます。次に、今の門型に直交して、横材の上に新たに横材:桁(けた)を2本架けます。4本の柱の上にできた横材のつくる長方形の枠からまわりの地面に向け、屋根材を受ける木:垂木(たるき)を斜めに渡します。大きな建屋の場合は、門型を2組以上つくればよく、小さな場合には稲掛けのように、柱を立てず垂木(たるき)だけで円錐状の形とすることもあります。木と木の接続には、縄や蔓でしばる方法がとられていたようです。

 屋根は、藁(わら)や芒(すすき)・葦(よし)の類(茅かや)を葺く茅葺(かやぶき)が主でした。これは西欧でも同じです(44頁参照)。

  竪穴住居の復元例は、各地の郷土資料館などで見ることができます。下の写真は、1945年ごろに発掘された登呂(とろ)遺跡(静岡市)の復元家屋です。

 

 静岡県 登呂遺跡 復元竪穴家屋     復元にあたって、出雲地方の右図のタタラ小屋(砂鉄精錬用施設)が参考にされた。

下左は登呂遺跡の全体平面図。  登呂遺跡には、掘立て高床式の備蓄倉庫と考えられる建物(下の写真)もあったと考えられている。            図、写真は日本建築史図集より

    

 

 2.竪穴住居から掘立柱の軸組工法へ・・・・上屋(じょうや)と下屋(げや)(あるいは母屋(もや)と廂(ひさし))

 竪穴住居にしたのは、空間内の保温のためと考えられていますが、ただ湿気やすく、また垂木も地面に接していて腐りやすいため、生活面は徐々に地上へと変ってきます。

 そこで生まれたのが、掘立柱を立て、屋根を架ける現在の木造建物の原型と言える建て方です。これは、2本の掘立柱に横材:梁を掛けた門型を2列以上並べ、その両端に直交して横材:桁を流して直方体の外形をつくり、その上に屋根を載せる方法です(次頁の図参照)。

 垂木は地面まで延ばさず軒先だけです(古墳時代には、すでに屋根が地面から離れた建物が現れたと考えられています。下の平出遺跡復元家屋写真参照)。次いで、四周の柱と柱の間に壁や窓や出入口をつくれば安心して暮せる空間ができあがります。これが軸組工法のつくりかたの原型です。 なお、順番を逆にして、先に長手に桁を架け、次に梁を架ける方法もできます。

 掘立柱による建て方は、柱を立てるのが簡単なため、人びとの住まいばかりではなく、たとえば奈良時代の平城宮の建物にも使われており(34頁の写真および下の写真参照)、また伊勢神宮では掘立柱をしきたりとして守って現在に至っています(20年ごとに建替える:遷宮(せんぐう))。

   

上左は、長野県塩尻市の平出(ひらいで)遺跡に復元された掘立式の竪穴住居。   平出遺跡には、縄文期から古墳時代に至る間の住居址が発掘されていて、この写真は古墳時代の住居の推定復元。 地面に残された痕跡から、この時代には、垂木が地面を離れ建屋の四周に低い壁が設けられていたと推測されている。 日本建築史図集より

 下左は、平城宮址で発掘された掘立柱の柱脚。埋戻しまでの間、柱の直立を維持するため柱底部に噛ませた十文字型などの木材も発掘。鈴木嘉吉著 古代建築の構造と技法より  下右は、伊勢神宮 外宮・御餞(みけ)殿の実測図。掘立部の詳細は示されていない。       日本建築史基礎資料集成 一 社殿Ⅰより

   

  この掘立柱の架構でできる空間の大きさは、横材:梁の長さで決まってしまいます。人力で運んだり、持ち上げたりするには、横材の長さや重さに自ずと限界があり、材種にもよりますが、その長さは、おおよそ4~5mぐらいのようです。そのため、門型の大きさにも、空間の大きさにも限界があることになります。

 時代が経つと、横材を継ぐ方法・技術も生まれますが、当初は、材料を継がず、1本でつくるのが普通です(もちろん、多数の人数を集めることのできる東大寺などの建物では、横材に長大な材料を使っています)。

 空間拡大のために考えられたのが、最初につくった建屋の周囲に新たに柱を立て横材でつなぎ、空間を増やす方法です。最初につくった部分を、上層階級の建物では母屋(もや)(身舎)と呼び、追加した部分を庇(ひさし)(廂)と呼びますが、一般には本体を上屋(じょうや)、追加部分を下屋(げや)と呼んでいます(図A参照)。

 図A 

 

B図

 

 追加部分:下屋は、各面につけることができ、寺院の建物には、図Aの右側の図のように4面全部に下屋:庇を付けた形が多く見られます。寺院では、図Aのように、三間四面などと上屋の正面柱間数と下屋が何面に付いているかを示して建物の大きさを表すことがあります。また、その場合の屋根の形を、母屋が中に入っていることから入母屋(いりもや)屋根と言います。なお、下屋には、上屋を支えることにより、風や地震に対して丈夫な構造にする効果がありました。

 掘立柱による建物づくりは、柱の根元が腐りやすいため、徐々に礎石の上に柱を立てる方法(礎石建て、石場建て)に変わってきますが、上屋+下屋=母屋+庇の方式は、そのまま継承されます。註 西洋の教会堂も、側廊+身廊+側廊の構成をとっている(上図の二面庇に相当)。

 

参考 西欧の竪穴住居、掘立柱 

竪穴住居、あるいは掘立柱は、木造で建物をつくる地域には、共通に存在する。最も容易に「住まう空間」を確保できる方法だからと考えられる。以下はスイスの例。図版は Fachwerk in der Schweiz (Birkhauser)より

 棟木(桁)の架け方 

     

小型の竪穴住居 最も簡単な屋根                大型の竪穴住居         

    

上:地面に叩き込む 下:柱を据え石や土を詰め固める、 柱は柱脚に置いた繋板を貫いて地面に差す、 紀元前1600年頃の掘立柱の建屋        

 

参考 礎石建て高床式建物 法隆寺・綱封蔵(こうふうぞう) 平安時代初期の建設(所在は、58頁 法隆寺寺域図参照)             

 建造物の復元にあたっては、類似の建物が参考にされる。掘立て高床建物の場合、柱の痕跡しか分らず、復元にあたり礎石建ての高床建物が参考にされた。下は、法隆寺・綱封蔵の平面図、吹き抜け部分、床組の継手・仕口。 このように、床組を先ずつくり、その上に上部の柱を立てる方式は、校倉造の蔵(正倉院など)も基本的には同じで、登呂遺跡の高床復元建物もこれに倣っている。 図・写真は奈良六大寺大観、文化財建造物伝統技法集成より

 

3.掘立柱から礎石建ての軸組工法へ

礎石建てになっても、地上部の架構のつくりかたは掘立柱の方法と大差はありません。下図は、礎石建ての建物で、上屋+下屋=母屋+庇方式でつくってある例です。

 図で薄く色を付けたところが庇=下屋にあたります。新薬師寺本堂は、奈良時代初期の寺院建築の姿を今に伝える建物で、中国にならい、盛土をしてよく叩き締めて(版築はんちく)基壇をつくり、その上に礎石を据えて柱を立てています。また、屋根の勾配も、中国にならい緩いのが特徴です(図は日本建築史基礎資料集成 四 仏堂Ⅰより。

 古井家は、すでに触れていますが、わが国の住宅遺構で最も古い建物の一つで、礎石建て、茅葺屋根です。中国山地にあり、外壁(下屋の外壁)は土壁で塗り篭めています(内部は真壁)。

 新薬師寺本堂では、約30尺(約9m)隔てた2本の柱の上に梁(はり)を掛けて門型をつくり、それを6組横並べにして母屋:上屋の外郭をつくります。柱と柱の間隔は両脇の2間は10尺、中央は約15尺です。

 古井家では、約6m隔てた2本の柱の上に梁を掛けた門型を7組、ほぼ等間隔に並べ、上屋の外郭がつくられています。古井家の場合は、梁が細めのため、中央にも1本柱を立て梁を支えています。

 両者とも、庇:下屋は、母屋:上屋の4面に付けられています。 

 一般に、古代の寺院では、母屋:上屋部分は仏像を安置する聖域とし、庇:下屋は拝む場所として使い分けています。三十三間堂は聖域の母屋:上屋の正面の幅:間口が33間あることからの通称で、四面に1間幅の礼堂になる庇:下屋が付いています(三十三間四面堂、外観では柱間が35間あります)。 

      

新薬師寺本堂(57頁参照) 8世紀中ごろ 奈良市高畑町          古井家 15世紀末ごろ 兵庫県宍粟市吉富

 住宅の場合は、そういう使い分けはなく、部屋の中に上屋柱が立ち並び、暮す上の障害になっている例が多数あります(近世になり、その部分を縁側にする例はあります)。そのため古井家では、江戸時代に不要な柱を取り去る工夫がなされて改造されていました(28頁間取り変遷図参照)。

 

(Ⅰ-4へ続きます。)

「筑波通信№10」 1981年度

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PDF「筑波通信 №10」1982年1月 A4版10頁   

   「筑波通信 №10」  1982年1月

      「峠」を越えられるか・・・・5W1Hの復権・・・・

 昨年の春以来、この三月に卒業してゆく学生の数人が協働して、鉄道の枕木を使った山小屋を実際に造っている。これが彼等の卒業設計なのだ(建築を学ぶ学生には、卒業論文の他に卒業設計が課せられるのである。しかし普通は設計図の提出であって実物を造ることはまずない)。なにしろ資金集めから木材を加工して組立てるまでの全般、そのほとんど全てを自分たちが中心になってやるのだから、これは教室できく下手な授業よりも数等ましてよい学習になったようだ。機会(これも彼等が見つけたのだが)に恵まれたからだとはいえ そしていろんな目にあったとはいえ、おそらくこれは、大学時代、というよりも青春の日の最も充実した体験として、今後彼等それぞれのなかに、必らずや何らかの形を成して残ってゆくのではなかろうか。

 この彼等の山小屋の現場は、今ごろはもう雪の中だ。

 中部地方の地図を開いてもらうとよいのだが、丁度信州の中央部、西に松本・北に上田、小諸・北東に佐久・南に諏訪そして少し離れて南東に甲府の町々があり、それらの町々がある平地・盆地にとり囲まれた形で一連の山塊がある。西から言えば、美ヶ原・霧ヶ峰・蓼科(たてしな)そして八ヶ岳へと連なる山塊であり、言わずと知れた観光地の一帯である。そして、彼らの現場はこの蓼科の山中、大門峠という峠を少し北に下ったところ、標高1400mに近い地点にある。

                          「長野県の地名」平凡社より(図の挿入と青文字は投稿者によります。)

 いま名前を出した峠を含め、この山系には、先に記した町々、特にその山系の南と北に展開する町々を結ぶ山越えの道:峠が古来数多く開かれていたらしい。古代の近畿と東国を結ぶ主要国道:東山道もこの山系を横切っていたことがあるようだし、近世の中仙道は諏訪から佐久へとまさにこの山中を縫っている(いまの国道142号はほぼその道すじに従っている)。だからこの山中には、既に廃れたものも含め、数多くの峠がならんでいたのである。その多さは一寸類を見ないほどだ。

 私は以前から、このいくつもの峠が横ならびしている場所に興味があった。何故にかくも多くの峠があるのか、そして何故にこんなところに道を開いたのか、不思議でならなかったからである。ここは高冷・寒冷の地なのだ。

 そしてまた、この山系のふもと、現在の町々があるところより一段上った斜面、ことに南側の、いま開拓地や別荘地として開発が進みつつある高原状の斜面一帯には、縄文期を中心とする住居跡・集落跡:遺跡群が、まさに所狭しとばかりに密集しており、これもまた私の興味をそそるものであった。どうしてこんなところにと、これも不思議でならなかったからである。

 藤森栄一という諏訪に生まれ諏訪を愛した民間の考古学者がいるが、彼の沢山の著書で、その辺のことについて私はいろいろと教えてもらい、一度は実際に歩いてみたいというのが、かねてからの思いであった。

 そして昨年の夏、学生たちの山小屋を見るついでに、この山系の南北を、十分とは言えないまでも、歩きまわることができ、貴重な体験を得ることができた(正確には乗りまわったのであるが)。そこで今回は、そのうちの「峠」について考えていることを書いてみたい。

 

 いま仮に、諏訪に住んでいる人が小諸・佐久あるいは上田や長野に行こうとする場合を考えてみよう。極く普通に行くとなると鉄道を使うことになるが、地図を見ればすぐ分るように、鉄道はこれらの山々をまいた形で走っているから、かなり時間をくい、地図上の直線距離は近くても、鉄道に頼るのに慣れている限り、はるか山の彼方の遠い町へ行く感じを持つはずである。ついでに言えば、いま鉄道は、中央と地方の中心都市とを結ぶには非常に便がよいけれども、地方の町々を結ぶことに関しては一時よりもかえって便が悪くなっているから、東京から長野に行くよりも諏訪から長野に行く方が時間がかかるかもしれない。また自動車で行くにしても、名の知れた主要な道(例えば、20号、18号、19号など)を使うと、それらは大体鉄道と並行しているから、これも時問がかかる。

 考えてみれば、鉄道も主要道も、それは地方の町々を結ぶというよりも、地方を中央に結びつけることに意がはらわれるから、こういう山の向うとこちらをつなぐなどということは念頭になく、もし山を越えた町をつなぐことがあったとすれば、それは、そうすることがそのときの中央にとって都合がよいからだと言って言いすぎではあるまい。

 中央が近畿にあった古代にあって東山道は東国への近道だし、江戸期の中仙道も江戸と近畿を結ぶ近道であった。しかし中央が東東だけになってからの鉄道敷設では、この山越えの部分は抜かされ、山の両側にそれぞれ東京と長野、東京と松本をつなぐ鉄道が敷かれることになる。それは必らずしも山越えが技術的に難しかったからだけではないはずで、それは碓氷峠のこと(先進技術を導入して、あの峠を登りきっている)を考えてみれば明らかだろう。中仙道を全て鉄道化する必要を認めなかったのである。その結果、鉄道化からはずされたあの山越えの部分:諏訪から佐久までは忘れ去られる破目になり、山の向うとこちらという感じで見られるようになってしまったのだ。先に私は極く普通に行くとなるとという書きかたをしたけれども、この極く普通にというのは、だから、鉄道ができてから普通になったのであって、それ以前ならば、この山越えの方が普通だったに違いなく、おそらくそのときは、山の向うとこちらという感じはそれほどなく、両側はもっと密で近しい関係にあっただろう。

 しかし、いざ鉄道が開通したとなれば、速度も速く、輸送量も多く、第一疲れないで済む鉄道に、いかにそれが遠まわりであろうが、頼ることは必然で、結果は町々の関係も一変させてしまったのだ。だれもわざわざ山越えをして上田へ行こうなどとは思わなくなったのだ。人々は歩かなくなった。

 

 そしていま、皮肉なことに、人々の往来が少なくなって、人々の往来に拠っていたその町の生活が言わばその活動を停止し変化が止まった(というより変ることができなくなった)その道すじの町々が、伝統的街並と称されてもてはやされている。

 確かに、鉄道が敷かれてからさびれてしまった中仙道沿いの町々には、歩いてみていま栄えている町々にはない心なごむものがあるのは事実のようだ。しかし一方で、それらの街並をそのようにあらしめた主要道:中仙道が既にその役割を失ない、その意味では言わばもう死んでしまったものだというのも事実である。

 つまり、いまそれらの町々は、中仙道に拠らない生活を、中仙道に拠ってその昔造ってしまったつくりのなかで、それを変えることもできず、言わば止むを得ず営んでいるのである。考えてみれば直ちに分ることのはずなのだが、中仙道の華やかなりしころ、その町すじの家々は活気あふれ、ひんぱんに建て替えが行なわれていたにちがいない。そのとき彼等は、先人・先代のやったことを単に順守するのではなく、もらうものはもらい、捨てるべきものは捨てる、つまり彼等の主体的な判断のもとでことにあたったはずである。それはすなわち、過去につくられた物そのものを、単に保ち続けるというような安易な営みでは決してなかったのだ。そして、そういう言わばダイナミックな人々の活動が、鉄道の敷設とともに突然の停止を迫まられ、言うなれば時間が停まってしまったときの姿、それがいまもてはやされている伝統的街並に他ならない。

 だから私には、いま行なわれている街並保存の動きがいま一つ納得できないでいる。

 一つには、そういった保存運動というのが大抵よそもの:鉄道で訪れた:の発想であって、そこで生活している人たちのことが念頭にないからである。そこで生活する人たちに、時間を停めて生きろということに他ならないからである。いったいだれに、そんな僭越なことが許されているのか。そして一つには、そういった旧い物を保存することによって満足している、その安易な考えかたが気に入らないからである。

 なるほど確かにこういった心なごむ街並みがどんどん消えてゆく。心なごまない、むしろ逆なでされるようなものになってきている。それとの対比のなかで。旧きものによさを見出したからといって、ただそれらを物として保存すれば済むというものではない。まして、それらを保存すれば、それが現代のやりかた・やられかたへの免罪符になるわけでもない。こういう単純に、というか単細胞的に、よいものを残しておけばよいとする考えは、私には、まさにいまの町々街並を心なごまないものにしているつくりかた・その考えかたの裏返したもの、つまり構造が全く変りない同じ穴のむじなに見えてしまう。彼等には、彼等がよいと思う町々や街並の、その形成:生成のダイナミズムが全くもって見えないのだ。人びと:そこに生きた数代にわたる人々の、そのときどきの主体的な、自らの感性に拠る判断の積層のうちにそれらが成ったことが見えず、そのよさの因を、ただ徒らに(変えることもできずに止むを得ずそのまま残ってしまった)目の前に在る物、その物の形:造形そのものに求めようとしているのだ。 

  いま書いてきたような場面について言えば、人間の歴史は、まさにつくりかえの歴史であると言ってよいだろう。だから、私たちが保存しなければならないのは、できあがった結果としての物そのものではない。そうではなく、その物をあらしめたつくりかえの論理:すなわちものづくりの論理、そしてそれを支えてきた感性の存在である。そしてまた、その存在を保証することである。そうでなければ、いま私たちがやることは、決してそのよき旧きもの以上のものには成り得まい。そしてまたそうでなければ、旧きよきものそのものを保存することは、いわゆる骨とう趣味と何ら変りないことになってしまうだろう。

 

 ここまで書いて、つい最近の経験を思いだした。ついでだから書いておこう。先月(12月)の初め、学生たちと桂離宮を見学した。それはいま修復中で、屋根のひわだぶきも新しくなって、それまでの見慣れた黒っぽいいわゆる古色とはまるっきり違って、建設当時はこうだったろうという色になっていた。それについてのある人たちの感想(デザイナーを自負する人たちなのだが)は、まわりとなじんでいなくてあの桂離宮のよさがなくなってしまった、元通りになるのにどれだけ時間がかかるだろう、というものであった。私に言わせれば、これが、この新しい色が元通りなのだ。いや木材もなにも新しい色をしていたとき、それが元通りなのだ。この山荘を実際使ったのはたかだか数十年だから、そのときこの建物は未だ古色にはなっていなかったはずだし、造った人も三百年以上だってのよさを思って造ったわけでもあるまい。そうだとすると、桂離宮がいいと言っている人は何を見て、何をもっていいと言っているのか、そのいいのなかみを疑いたくなった。いま自分が(勝手に)いいと思った諸点、それをこれを造った人たちも求めていた、そう勝手に思いこんでいる。だからここには誤まりが二重に積み重なっているのだ。

 そして、そうか、こういう見かたで、見かただけで教育が行なわれてきたのだな。これは大変なことだ、とあらためてことの重大さを気づかされたのである。

 碓か中学のころであったか、英語の時間に5 W1Hということを習った覚えがある。いつ(When)どこで(Where)だれが(Who)なにを(What)なぜ(Why)いかに(How)したか、これを問えば文意が通じるというようなことではなかったかと思う。なにも英語をもちだすまでもなく、人間のやることは、これらの問いで問いつめられる。そして、考えてみると、伝統的街並保存のはなしも、この桂離宮の例も、そこにはWhen、Where、Who、Whyの問いが欠落し、あるのはWhatとHowだけなのである。はたして、それだけの視点で人間のやることを語れるか、ものがつくれるか? 否である。否のはずである。少なくとも、旧きよき街並を実際に造ってきた人たちや桂離宮を造った人たちは、あたりまえなこととして、これらの問いの全てを備えていたはずなのだ。それを忘れてしまったのは、いまの私たちだけだ。それを忘れたからこそ、以前書いた「それはそれ、昔は昔、いまはいま」という発想が大手をふって歩きだすのである。

 旧きものも新しいものも、この全ての問いで問うとき、当然のこととして、その本当の姿、その存在の意味が見えてくるように思う。少なくとも私が旧きものに学ぶのは、必らずしもその形ではない。そうではなく、それらを造った人たちの5W1Hに対する身の処しかたなのだ。そして、もし保存しようとするならば、その身の処しかたをこそ保存しなければならないのだと私は思う。

 

 峠の道から大分はずれてしまったようである。山越えの道が、鉄道の開通とともに廃れてしまったという話をしていたのである。

 いま、この廃れた道が、再び装いを新にして復活してきている。専ら歩くしかなく鉄道に比べて全く分の悪かった峠越えの山道が、自動車の普及とともに見なおされてきたのである。

 そしていま、実際に車で走ってみて、山のこちらと向うが、驚くほど近いということをあらためて発見する。徒歩が全てであった時代、山の向うとこちらは、鉄道敷設後培れた感覚:はるか山の向う側という感覚とは違って、やはり近しい間がらであったと考えざるを得ないのである。

 いま、これらの峠道は見ごとな舗装道路となっている。そしてその道すじは、ほとんど古来の道を踏襲しているらしい。

 それにつけても、こういう道すじを見つけだした先人たちの営為には驚くほかはない。なにしろ、私たちとは違い、彼等は正確な地形図など持ってはいなかった。現代の道路は、おそらくこの正確な地形図の上で考案されるのだろうが、彼等は違うのだ。だから、道のつけ方が根本的に異なると言ってよく、それは既に通信の2号で少し触れたとおりである。因みに、いま話題にしている山系の蓼科(たてしな)から美ヶ原にかけて、ビーナスラインなるはなはだ芳しからぬ名のついた道が造られているが、そこを車で通った例の山小屋づくりの学生たちが、古来の道すじを踏襲したと思われる道を走っているときは、例えば蓼科山はいつも前方の方向に、多少右左によることはあっても、見えがくれするのだが、このビーナスラインでは一定せず、ひどいときには突然後に見えたりして、ついには走っている方向が分らなくなり、正確な地形図上に指示された目的地に行くのにさえ(いまいるところが分らなくなり)えらく苦労したとこぼしていたけれども、これはまさに、古今の道のつくりかたの違いを見ごとに語ってくれている。

 それにしても、この山越えの最短ルートはいかにしてつくられたのだろうか。おそらく中仙道のような主要道が通る以前からこういうルー卜がいくつかあったに違いなく、主要道はそのなかから選ばれ整備されたに違いない。しかし、それらのルートはどのように(地形図もないのに)見つけられたのか。

  これについてはいろいろ考えられるし、また語られている。

 初めにも書いたけれども、いま主に人が住んでいる低地よりも一段高い高原状の一帯は、低地農業に拠る以前の、概して縄文期の人々の居住地であった。彼等は、そこより下の低地よりもむしろ、背後に拡がる山地一帯をその生活圏としていた。というより、そういう山地があったからこそ、彼等はその一帯に住んだのだ。だから、その一帯は、言うならば「彼等の地図」に組み込まれていた。そして、一帯を我がものにしてゆくなかで、はるか山中に、彼等の時代の貴重品:黒曜石の鉱脈を発見したのである。ここ産の黒曜石がこの地を越えたはるか彼方で見つかっていることから、この一帯のなかでの道の他に、その彼方を結ぶ道も既にあったのだと見られている。というよりも、それぞれの地を拠点とする生活圏が互いに接していて、それを黒曜石が通過していったと言った方がよいだろう。そして、そういったルートが、時代を越えて受け継がれてきた、これが一つの有力な解釈である(もちろん、途中で廃れてしまったものもあるだろうが)。

 またこの地は、古代、低地農業主体になる以前に(なってからも)この山地にかけて盛大に牧畜が行なわれたらしい(この地に限らず信州から群馬の山地一帯が馬の産地であった。〇〇牧などという地名として、それが名残りをとどめている)。だから、この山地に人が係わらなかったという時代がなく、有史以前からの道の遺産が脈々と受け継がれてきた、ということもできるのである。

 それでは、それらのルートはいったいどういうところを通っているだろうか。

 こういう山地に古来からある道には、そのルートのとりかたにいくつかのやりかたがある。それは、そういうところを歩いてみればすぐ分るし、いまでも、あたりまえな感覚で道をつけようとすれば多分そうなるだろう。一つは、等高線沿いにいわゆるトラバースしてゆくやりかたであるし、これは各地の山村の集落間を結ぶ道によく見られる。距離は長くなっても一番楽な歩行ですむし、特に稲作農業主体の集落になってからは、集落の立地条件(すぐ使える水が得やすい)をみたす土地は、大体等高で並ぶから、当然道も等高線沿いになる。因みに、関東平野北辺を通っていた東山道を復原してみると、赤城山塊の自然湧水点がほぼ等高線上に点在し、それに拠る村々をつないだ形で走っているという。もう一つは高低をつめる場合の道で、それには谷すじ道と尾根道がある。古来の道で、斜面をやみくもに登りつめるような道のつけかたは先ずないと言ってよいのではなかろうか。唯一私が知っているそういうつけ方の道は、武田信玄が上杉攻略のために造ったという甲府から善光寺平へ向けての軍事用直線道路だけである。信玄棒道と称されて、いま話題にしている山系の高原の一画に、その跡が残っている。これは、地形図でみると、全くあきれるほど見ごとに最短距離を、強引に突走っている。これは例外だろう。

 そして、山越えの道は、尾根道より谷道の方が圧倒的に多そうだ。それも、考えてみれば、あたりまえなのかもしれない。

 いま、実際に現地に行って山々を遠望すると、山越えの道の峠の位置を、おおよそ比定することができる。そこは大体、山々のくびれの部分である。いわゆる鞍部である(峠にあたる外国語を探すと、鞍部を意味するcolとでてくる。外国でも峠はそういう場所を通るわけだ。他には、そういう形状は示さないpassという語が対応する)。このくびれの部分というのは、必らず川が切りこんでいる。逆に言えば、川はそのあたりから始まっている。しかも、その鞍部を境にして両側に川が必らずあると言ってよい。それは全くの自然現象である。

 すなわち、山越えの道は両側から谷川沿いに登りつめ、最後にこの鞍部で顔をあわせているわけである。そして、水というものの性質上当然なのだが、川は低地へ向けて最短距離を流れ下る。だから、谷川すじというのは、もし通れれば、下からその峠部へ行く最も能率のよい道すじとなる。第一谷川という目印があるから、支流さえまちがえなければ迷うことも少ない。おそらくそういった谷川すじのなかで通れるものが道として確立していったのである。そしてまた、実はそういった河川が平地へ出るあたりには、これも自然現象として、扇状地をはじめとする台地が形成される。そこには人が住みつく。特に低地農業主体となったとき、そこは暮してゆくのに絶好の場所である。いま見る町々のうちの大きな町は大抵そういう場所にある。そういう場所に住む人たちにとって、例え農業が主たるものであっても、背後の谷川をさかのぼった山地もまた手の内であったろう。

 つまり、彼等の「私の地図」に組み込まれていたはずである。だから、山のこちら(の町)と向う(の町)とを結ぶ最短ルートが後になって意図的に造られたかのように、いま私たちはつい思ってしまいがちだが、むしろそれぞれの側で人々が、そこに展開している自然現象に素直に対応して住みつき、生活圏が確立していったとき期せずして、あの鞍部:峠で両者が顔をあわせたに過ぎなかったと見た方があたっているように思える。言うならば、理の当然として、あるいは自然現象的に、そのルートは最短であったということだ。そして、その向うとこちらの生活圏で交流が盛んになれば、当然その峠道も整えられるだろうし、事実、平地内あるいは平地間の言わば等高線上のつきあいとほとんど変らずに、山越えの交流も盛んだったと思われる。おそらくこういう山越えの交流ルート:峠道はいろいろあって、それらのなかから取捨選択して、そのときどきの中央の為都合のよい道すじを設定した、それがその時代の主要道であったのであり、たまたまその道すじにあった村々は、そこにあったが故に、単なる農業集落ではなく、道に拠った暮しをする村々、町々として変っていった、多分これが峠道が成りたっていったすじがきであると私は思う。先の信玄棒道が、今様の正確な地形図なしでできたというのも、その土地に住みついた人々の生活圏を詳さに知り、それをモザイク状につなぎあわせてできる全体像を、見えるものをもとに想定し得るだけの感性があったからこそ可能であったのだ。そういった意味では、正確な地形図を持っていて、なお且つ各種の情報を持っている私たちよりも数等秀れたものの見かた、とらえかたを彼等は身につけていたということができるだろう。そういった感性というものを、いったい私たちは、どこへ置き忘れてきてしまったのだろうか。そして、そういう感性を失なってしまった人たちが、いい街並だ、とか、桂離宮はすばらしい、などと言い、保存を説き、それならまだしも、人々の生活に係わりをもつものを平然と造っているのだ。

  

 このごろは写真の技術が進み、非常に精密な航空写真が撮れ、このごろの地形図はそれが基になっているらしい。また、その航空写真(空中写真と呼ぶようだが)も市販されていて比較的安く手に入る。それを見ると直ちに、古来からと思われる道と最近造られた道とを見わけることができる。地形・地勢とは言わば無関係に、強引に造られているもの、そうでないものが際だって見えてくる。言わずと知れた前者が最近のやりくちで、それは地形・地勢から見る限り、極めて非合理な形状を示しているのである。(もっとも、この非合理という言いいかたには私の考えかたが入っているから適切ではないかもしれない。)それに対して古来のものと思われる道すじは、それこそ淡々と、地形・地勢のなかに通れる場所を選んで走っていて、だから地形・地勢にすっかりなじんでしまい、道だけが浮きたって見えてこない。先日、機会があって、人工衛星から撮った関東北部から信越へかけての地域の写真を手に入れたのだが、私はあまりの見ごとさにほんとに驚いた。別に現代の科学技術のすごさに驚いたのではない。それも全くないわけではないが、そんなことよりも、こういう便利な地図や写真もない時代からこの地上において人々のやってきたこと、その方に驚くのである。住めそうな場所という場所には、いかなる山あいといえども全て人が住みついていると言ってよく、それらをつないで非常に自然なかたちで道がついている。そこに見られる。人の住んでいる所といない所のモザイク、つなぐ道の網目、この合理性は、全く現代の合理性による諸々の計画を圧倒しており、古来の営為の跡に比べれば、現代のそれはさながらひっかき傷のようなものでしかない。それは、大地という自然が備えている合理性に対し、科学技術という偏狭な合理性によって対抗した手負い傷のように私には見える。最近いわゆるスーパー林道が是か非かと騒がれているけれども、そして多くそれは道の開設による自然破壊が議論の焦点になっているのだが、こういう写真を見ていると、開発論者も反対論者も少しは古来人々がつくってきた道の合理性その原理原則というものを研究したらどうかと思いたくなる。なにがなんでも自然破壊反対だという言いかたをするなら、この地上で人々のやってきたことはどれも自然破壊に他ならず、なにがなんでも開発だと言うならば、大地の備えた合理性も知らないままの開発など、人々は古来少しもやってはこなかった(いまを除いて)。

 

 過去の遺物・遺産を保存すること、それは博物館的な意味では確かに必要なことだろう。しかし、私たちがしなければならないのは、それだけで十分なのではなく、そういったものを成らしめた原理原則(それは、そのときの人々が考えたことだ)を読みとり、いま使えるものは使い、捨てるべきものは捨て、いまの原理原則を主体的に考えだすことなのではなかろうか。そうでない限り、いま私たちがやっていることは、決して後世において、価値あるものだから保存しようなどと、思われもしないだろう(別に、そうなることを唯一の目標にしてつくれ、などと言っているのではない。私たちのいまの日常の意味が認められないだろうということだ)。

 

 ところで、ここで使ってきた「峠」という字は、漢字ではなく国字である。峠的地形が中国にないはずがないから、彼等はそういう場所にどういう字をあてるのか興味があり、一昨年の夏中国を訪れたとき、それについて中国人の通訳にしつこく尋ねてみた。ところが、当方の納得ゆく答が少しも返ってこない。頭をひねっては、「頂」かなぁ、などとどうも私たちが持っているイメージにはぴったりしないような答しかもどってこないのである。結論的に言うと、どうも私たちの「峠」に相応の字はないらしいのである。考えてみれば当然で、もしもあったならば、国字がつくられることもなく、その漢字が使われていたはずなのだ。では、彼等はなぜ「峠」に対応する字を持ってないのだろうか。

 いろいろと考えてみて、ひょっとすると私が「峠」という字に対して持っていた観念がまちがっていたのではないかと思うようになった。私はそれを、道が登りきった所、それから先は下る一方になる所、そういう地形的場所を示す地形名称だと思っていたのである。おそらくそれは、そういう単なる形状を示すものではないのである。峠的場所に対する地形名称では「たわ」とか「たるみ」とかいうのがある。これは、鞍部:col に相当する(大だるみ峠などというのが相模湖のそばにある。たわんでいる、たるんでいる場所という意味かもしれない)。だから、地形的名称で済ますならば、あえて「とうげ」なる言いかたをしなくてもよく、字をつくりだすこともなかったろう。そして、峠の所在を地図や実地に見ていて思い至ったのは、これは地形そのものではなく、そういった地形的場所が持つ、言わば生活的な息がこめられているのではないか、ということであった。簡単に言ってしまえば、二つの生活圏」の接点を意味するのではないかと思う。峠を越えるということは、暮し慣れた所を離れ、違う所に行くということだ。峠に神をまつる、それは単なる交通の安全を祈念する以上のもの、それぞれの生活圏の境を守る神そして、それぞれの郷土の神に前途の安全を頼んだのではなかろうか。峠を境に二つの生活圏、文化圏が隣りあう。それぞれは、それぞれが独自であって峠越しに交流する。交流されたものを、また、それぞれなりに消化し成長してゆく。それが隣あっていた。だから、峠の両側は、似ているようで違う。

 ふと思い出して、柳田邦夫の「地名の研究」を読みかえしてみた。そのなかに、峠の字を「ひよう」あるいは「ひよ」と読む所のあることが紹介されている。彼の見解によれば、それは境を示す「標」の音読みではないかという。峠的地形が村界であったというわけである。そして、その「ひよう」にあとになって新字の「峠」があてがわれ、読みだけが残ったのではないかというのである。

 なぜ中国に「峠」に相当する字がないのか。おそらくそれは簡単なはしなのだ。彼の地においては、峠的地形は境界ではなかった、というよりそうなるような形状の大地ではなかった。そして第一、彼らの生活圏の境界は、そういう固定的・恒久的自然地形に拠ることはほとんどなく、言うならば自らが(勝手に)仮に設定するものであった。それは、彼の国の確固とした城壁・市壁:囲壁があるのに、我が国にはない、彼の地の文化を積極的にとりいれても、あのような確固とした囲壁をつくろうとはしなかった、そのことにつながってくるはずである。そして、そうであるとき、彼の国においては、峠の字は必要ないのである。そしてわが国では、それを必要とした。

 

 いま、我が学生たちの自力小屋建設は、いよいよ峠にさしかかったようである。私の立場では、ただ無事の落成を祈るのみである。

 

あとがき

〇私の目の前に、人工衛星から撮った写真がはってある。見ていて少しも飽きない。載せられないのが残念なくらいである。

〇私はよく車を乗りまわす。年間にして20,000kmぐらい走っている。(おかげで暴走族だなどと言われているらしい。)なぜ距離が増えるかというと、例えば片道150kmのところへ行く場合、時間のゆとりがあると、決してまっすぐには帰ってこないからである。言わばアドリブであちこち道くさをする。バイパスがあれば、わざわざ旧道を通る。自然と距離がのびる。そういうとき、大抵は一人なのだが、ときどき、そういったなかで目にすることがらで思ったこと、感じたことについて議論できる人が傍に乗っていてくれるとありがたいと思うことがある。かと言って、だれでもよいわけではない。同じように、言うならばやじうま精神あふれる人でないとだめだ。何の関心も示さない起こさない人ならば、寄り道せずに近道見つけて早々に帰った方がましというものだ。そういう意味で傍に乗ってもらいたい人は。数えるほどしかいない。

〇初めてのところに赴くとき、私は予め地図は見ない。見てもほんとにあたりをつける程度である。迷ったりしながら、「私の地図」ごしらえをする。そして、それから地図を見る。ときには帰ってから地図を開いたりもする。ある意味では合理的・能率的でないのは確かである。けれども、私にとっては、どうもこの方がよくものが見えるようなのだ。ずぼらな性格も手伝って、昔からこうなのだ。これも結局走行距離をのばすことになる。もっとも、こういうことをくり返してきたせいか、道のつくられかた、村や町のつくられかたの構造的原理が体にしみついて、走る方向についての言わば動物的勘は鋭くなったみたいである。(それが通用しなくなるのは、最近できた道にのってしまったとき。)

〇十分煮つめないで書くことがかなりあるように自分でも思っている。お気づきの点や異論を是非おきかせ願いたい。

〇今年もまた、それぞれなりのご活躍を!

   1982.1.1                             下山 眞司

 

投稿者補足

「信玄の棒道」: 武田信玄が信濃攻略のために作った軍事上の道路で、諏訪方面に上・中・下の三筋と南佐久郡に一筋ある。いずれも八ヶ岳の裾野を南から北へほぼまっすぐに等高線沿いに通ったのでこの名がある。   「長野県の地名」平凡社より

故人の研究室にあった「衛星写真」部分: 左隅に松本市、諏訪湖、八ヶ岳へと続く山塊、諏訪湖の北北東に火口がわずかに赤く見えるのが浅間山です。

   

「Ⅱ-2 参考」 日本の木造建築工法の展開

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(Ⅱ-2.2 より続きます。)

 

参考 天平時代建立(こんりゅう)の東大寺大仏殿の地震履歴  

  当初の東大寺・大仏殿(金堂)は、天平勝宝3年(751年)完成。 治承4年(1180年)12月28日の焼失まで、現大仏殿所在地に建っていた。

 礎石から平面は桁行7間、梁行3間の母屋(もや)(身舎)の四面に庇(ひさし)、裳階(もこし)を設け、高さは、諸種の文書の記録から15丈(150尺)と推定されている。

 下図の黒線描き部分が現状平面。茶色描き部分が天平期の推定平面。

 平面図・年表は奈良六大寺大観 第九巻 東大寺 一より抜粋、編集

 

 下の年表では、大仏殿本体に係わる補修工事等の記録に着色してある。落雷、風害の記事が見える。

 

  

 

 

法隆寺 東院 伝法堂   761年以前の創建 七間二面建物(切妻) 所在 奈良県斑鳩町 法隆寺 東院内(57頁参照)

      図・写真は日本建築史基礎資料集成より  分解図は文化財建造物伝統技法集成より

現在は、創建当初の形に復元。床は板張り。

   

西南外観  長押は、平側では頭貫位置および床位置の2段。妻面では、床位置のみ。下図分解図参照。頭貫レベルで柱間に横材が入る。 右図:南立面図および平面図

 

 

 梁行断面図                        桁行断面図

     

 堂内 仏像安置前 西側から                  堂内 仏像安置後 東側から

   

 頭貫-大斗―繋虹梁―肘木―丸桁 仕口・継手分解図     床組分解図:床板は、厚3寸ほどの割材を、大引、根太は用いず、柱通の床桁に直接載せている。 床位置の長押(図では腰長押)と、開口部材の取合い。 奈良六大寺大観より      

 

 

新薬師寺 本堂  750年ごろ創建 五間四面建物(入母屋)  所在 奈良市高畑町

 新薬師寺本体ではなく、別院の仏堂と考えられている。二重屋根。見えがかりの地垂木は中国建築にならい断面が円形。

  

 正面  古建築入門(岩波書店)より             正面図 

  

  堂内  日本の美術 196(至文堂)より             平面図 

                                          

  側面図                          桁行断面図  図は日本建築史基礎資料集成 仏堂Ⅰ より

梁行断面図 日本建築史基礎資料集成 仏堂Ⅰ 所載図面を編集 

 版築の基壇の上に礎石建て。床は張られていない。 長押は、開口部上のみに設けられ、長押というよりも、開口部の上枠の役割の方が大きい。 野垂木、地垂木とも、屋根の重さを担うに十分な太さを持ち、さらに登り梁をも架けている。 構造材が重複し、野屋根方式への前段階と考えられる。

 

参考 法隆寺 寺域図  奈良六大寺大観 第一巻 法隆寺 一(岩波書店)より

 方位は左が北 (青文字は投稿者によります。)

 法隆寺は、当初の伽藍が焼失し、その後建てられたのが現存の建物である、とするのが現在の学説である。

 現在の法隆寺の軸線は、南北軸よりも東に寄っているが、当初の伽藍:通称若草伽藍の軸線は、現在の伽藍の軸線よりも更に東へ傾いている。

  若草伽藍の建設は、平城京の条里制施行以前であり、この若草伽藍の軸線は、下の航空写真上の黄線の方向、すなわち背後に連なる生駒山系の重心へ向いていることから、当初は、南北軸のような方位によるのではなく、敷地自体が備えもつ方向性に順じて建物が構えられたと見ることができる。

 再建にあたっては、条里制に若干歩み寄ったため、振れが減ったのではないかと考えられる。

  方位に拠る軸線の設定は、通常、方位以外に定位の基準が求めにくい地域、あるいは地域の統制者が自らの権威を顕示する(植民地につくられる都市など、自然をも支配する力を持つことを示す・・)場合に行なわれることが多い。 日本では、古来、敷地自体が備えもつ方向性に順じるのが普通であり、条里制は仏教とともに中国から伝来した方式である。

  また、中国の都市は、通常、城壁で都市を囲い(羅城らじょう)、それに倣い平城京でも試みられたが、実際には羅城門だけ築かれ、囲い:城壁は築かれなかった。 羅とは、連ねる意:羅列の羅、城には柵の意がある。羅生門は羅城門から転じた語。

        奈良盆地、法隆寺・東大寺周辺航空写真 東大寺の西に平城京跡 上が北 googleマップ (黄文字・線は投稿者によります。)

  法隆寺界隈 右の黄線は若草伽藍 軸線を示す。左は、現在の参詣道:軸線。(黄文字・軸線は投稿者によります。)

 

参考 東大寺 寺域図 方位は上が北   奈良六大寺大観 第九巻 東大寺一より   

  東大寺伽藍の敷地は、上の図の等高線の不自然な曲折からわかるように、東側に拡がる山塊:若草山の麓を条里制に合わせて切土して造成された。回廊西側の戒壇院などのあたり、東側の二月堂~法華堂のあたりは自然地形のまま。

 

 (青文字は投稿者によります。)

 

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