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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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この国を・・・・40:続々・福島の現情

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昨日の冷たい雨のあとの冷え込みで、今朝はあらゆるものが凍てついていました。
隣地の柿の木は、渋柿で多分蜂屋柿ではないかと思いますが、他の柿がとっくに枝だけになっているのに、まだ干し柿のようになって実をつけています。
あたりに餌がすくなくなったのでしょう、鳥たちが集ります。
今朝は、メジロの群れ。辛うじて撮れました。
柿にぶら下がって突いているのもいます。何羽いるでしょう。



[追記追加 24日 1.25][文言追加 24日 9.07]

昨日(22日)、「伝統木構造の会」の講習会、増田一真氏の話を聴きに行ってきました。
かなり多くの方がたが集っていました。
おそらく、古より長い時間をかけ、そして営々として、日本という環境に即するものとして、先達達が築き上げてきた木造建築、その技術・技法では、現在建物がつくれなくなっていることに対する苛立ち、憤り、
そしてその「現実」にどのように対処したらよいか・・・、それが多くの方がたがお集まりになっている理由ではないかと思います。

その対処法の一つが「構造解析」「構造計算」に拠る方法。
建築基準法が細かく「構造計算」法を規定しているのならば、その計算法に拠って、これまでの建物づくりの方法の妥当性を立証しようではないか、という対処法:方策であると言ってよいでしょう。

日本で、建物の「構造解析(建物に生じるであろう諸種の力に拠る「挙動」の様態の解析、それを数値にて示す)」、それに基づく「構造計算(構造解析によって「得た」挙動に「適応する」部材の仕様を数値で設定する)」が「学」として論じられるようになったのは、そんなに昔のことではなく、せいぜい150年程度しか経っていません。
そして、実際に、建物づくりに深く関係するようになったのは、特に、第二次大戦後の70年足らずです。
もちろん、これらの「学」は、当初は西欧からの輸入です。

西欧で、建物・構築物を、事前に「構造解析」「構造計算」を行って設計するようになったのは、19世紀(1800年代)半ば以降です。しかし、それ以前に、19世紀の初頭、1801年に、I 型の鋳鉄製の梁を使った建物がつくられています。これについては下記をご覧下さい。
   鋳鉄の柱と梁とで建てた7階建のビル・・・・世界最初の I 型梁
今の人には、何故、「学」が存在しないのに梁を I 型にする方策が考え出されたか、不思議に思われる方が多く居られるかもしれません。
ものごとは「学」があって初めて「正しく」考えることができる、それが「科学的な所作である」と思っているからです。
   正確に言うならば、そのように「教えられてきている」からです。
これらの「学」は、鉄やコンクリート(鉄筋コンクリートも含みます)が構築材料として使われだしてから生まれた学問です(初歩的ないわゆる「力学」はありました)。
ところが、これらの「学」が確立する前に、西欧では、多くの、今から見ても感嘆すべき構築物が鉄やコンクリートでつくられています。それについても以前紹介しています。
そして、「学」が確立し、「権勢」を振るうにつれ、これらに匹敵する構想の構築物が減ってくる傾向が見られることについても、触れてきました。

「先ず『学』ありき」となってしまってから、人びとの構想力、想像力、すなわち創造力が萎縮したからではないか、と私は考えています。

日本の建物づくりの場面でも同様です。
むしろ、日本の場合は、それ以上に悪しき事態が起きました。
「学」の「権威」をもって、それ以前の建物づくりの技術を支えてきた人びとの考え:技術・技能を、「非科学的である、として全否定した」のです。
これについても、以前から、折に触れて書いてきました。
数百年も建ち続けている建物が目の前にあるのに、それとまったく同じものでさえ、現在は建てることができないのです。

そういう事態にどう対処したらよいか、というのが今回の講習会の主旨であったろう、と思います。
講習会の中で、「最も進んでいるという立体解析法」の話がありました。
立体である構造物を、「これまで、その挙動の解析が分っている(と思われている)要素で構成された立体」に置き換え(これをモデル化と称します)、数値解析しようというものです。
   註 「思われている」と言うのは、私の解釈です。
      関わっている方がたは、「分っている」と思い込んでいます。
その際、たとえば、棒状の材同士が交叉する箇所について、それが木材のように弾力性のある場合については、バネのような弾力があるものと仮定してその交差点の強さを仮定します。その「仮定」については、その部分を(だけを)実物大につくって力を加える実験を行い確かめるようです。
そして、そういった「仮定(の集積)」の下で、力が加わったとき、モデルがどういう挙動をとるか、それを計算する、それが立体解析と考えてよいでしょう。
そして、その結果、立体構築物を構成している各要素・部材が適切であるかどうか、判定する、というわけです。

立体解析法の「手続き」を聞くと、ものすごく「精密である」、ゆえに正しい、と思いたくなるのが、今の世の人びとの「人情」というものでしょう。
   ただし、「実際の事象」を「厳密に反映している」という証は何処にも示されていません。[文言追加 24日 9.07]
   ここで留意しなければならないのは、
   その「解析法」は、世に存する構築物すべてを説明できなければならない、ということです。
   説明できない事例が一つでもあれば、それをして「すぐれた論・理論・解析法」などと称してはならない、 
   ましてや、すべての事象を、それで律しよう、などと思ってはならない、  
   これは、物理学の世界ならば、「常識」ではないでしょうか。
   私は、「龍吟庵・方丈」を、この「解析法」で説明していただきたい、と考えています。
   この建物は、壁がまったくありません。そして、室町時代の末の建設ではないか、と考えられています。
   それ以来、倒壊することなく、建ち続けてきた建物です。
   もしも、解析できない、建ち続けてきた理由を説明できないならば、
   それは「理論」ではない、と言うことです。[文言追加 24日 9.07]
   この点について、「厳密と精密」ご参照下さい。[追記]

立体解析法に拠らない普通の構造計算書でも、何々の数値が基準の数値よりも大きい、ゆえにOK、という箇所がいろいろとあります。
OKなんだ、これでいいんだ、よかった・・、などと思うわけです。

ちょっと待ってください。
その「基準」とは、いったい何なんですか?
それは、実験やコンピュータを駆使した解析で得られた数値です。
それを聞くと、何となく安心してしまいます。

でも、更にちょっと待ってください。
実験や解析で得られた数値が妥当である、事実を反映しているのだ、との判断は、いったい、どのように為されたのでしょうか?
実は、科学的と言われる諸種の判断の、その最終の判断は、そういった諸種の解析データなどを眺めての、「そのデータを収集した方がたの『判断』に過ぎない」、という事実が見過されている、というのが私の考えです。
簡単に言えば、
「かくかくしかじかの諸種のデータを見たところ、私は、これはこういうことであると見なしている」ということに過ぎない、ということです。
ところが、それを外に向けて言うときに、その「主語」、すなわち、「判断をした主体」が消され、あたかも「神の啓示」であるかの如くに語られるのです。
「学」に携わっておられる方がたは、数値解析的操作に関わっているうちに、あたかも自らが神であるかのような錯覚に陥っていってしまっているのかもしれません。

今日(23日)の毎日新聞の朝刊に、次のような記事が載っていました。


なぜ、福島のある地域が居住不可能になっているか。
それは、原発事故によって降り注いだ多量の放射性物質が大地に浸みついてしまっているからです。
この放射性物質、それは、人工的に生まれてしまった物質、それまで、自然には存在しなかった物質です。
その発する放射線の強さについて、「安全性の基準」が数値で示されています。
しかも、その数値が、何度も変っていることは周知の事実です。
ここにおいても、誰かの判断で、その数値が示されているはずです。
その判断は、その方(がた)の「(直観的)判断」です。
ここで、直観的に括弧を付したのは、直観と言っても、それは、その方の「実体験・実経験」に拠ったものではないのは確かだからです。
「直観」というのは、人が、その日常の体験・経験、生活の中で身に付けるもの。
たとえば、セシウム137で囲まれたなかで暮し続けてきたことのある方は、居られないはずです。
したがって、示されている安全基準数値なるものは、言ってみれば、「虚言」:内容の伴わない言葉:に等しいと言ってもよいのです。[語句改訂:戯言⇒虚言、妄言でもいい 24日 17.05]
つまり、この安全基準数値なるものを、あたかも「神の啓示」であるかのごとくに示す、のは間違いであり、提示者は名乗るべきである、というのが私の考えです。

この記事にある、後世への歴史資料として、「責任者」として関係者の名前を襖に書き残している方は、きわめて scientific な考えをお持ちの方だ、と私は感動しました。
この方は、「科学者」の「科学的発言」に対して、人間の理に拠って疑い、憤っているのです。
   もっと端的に言えば、
   自らの「判断したこと」の起した結果は、「自然が想定外の状況を惹き起こしたから」という「理由」をあげて
   そのときの自分たちの「判断」に誤りがあったわけではない、と「科学者」たちは開き直っている、
   それを言うならば、
   先ず「私は、自然界の『動き』のありようについて、まったく無知であった」と、語るべきではないか、
   更に言えば、
   「自然を凌駕できる、などと思っていたのは、浅はかであった」と語るべきではないのか、[追記]
   と、自らの体験・経験を拠りどころに、問い詰めているのです。
   その発言には、根拠があるのです。[追記 24日 1.25]
はたして、建築に関わっている方がたに、この方と同じ「理」があるでしょうか。「利」が先に立っていなければ幸いです。


ところで、政治家は、盛んに「経済の再生」を叫んでいます。
どうも、それは、企業が儲かるようになることを意味しているようです。そうなれば、庶民の生活もよくなる、ということらしい。そうなった験しはない・・・。
「経済」の語の漢字の語源については、以前記しました。
「リベラル21」の記事で、松野町夫(翻訳家)氏が、英語の economy の語源について書かれていますので、その部分を転載させたいただきます。

   明治以降、「経済」はエコノミー(economy) の訳語があてられ、economy の意を含むように変わっていった。
   世界大百科事典によると、economy の語源はギリシア語 oikonomia にあり、
   これは oikos(家)と nomos(慣習、法)からなる合成語で、家の管理・運営のあり方、家政を意味している。
   このように economy は当初、家を単位とする規定であったが、
   その後、ひとつは都市国家社会を単位とするように拡大していった。
   このように拡大すれば economy は経世済民の「経済」と同じ意味となる。
   つまり、経済や economy の原義は、政治に関連する事柄をさしていた。
   経済=economy=政治。


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