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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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この国を・・・・32:「ほっとく・・・」

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手入れをさぼった草叢に埋もれているムラサキシキブ。近くの木々のてっぺんでは、モズがけたたましく啼いています。
モクセイも花をつけだしました。
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10月8日付毎日新聞朝刊「風知草」は、以下の内容とも関連すると思われる論説でしたので、末尾に転載させていただきます。標題は「映画『東京原発』再び」。
その文の終りにあった言葉。
「人間、終わったことには関心がない。3月11日は終わらないという自覚が重要だ。」
私は、この映画「東京原発」の存在を知りませんでした。[追加 8日 17.39]
更に追加。東京webから今日のコラム「筆洗」。[8日 20.30]
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たまたま見たニュースの一画で、福島の女子高生が、現在の「福島の状況」について「要約」としてまとめた言葉、それは「ほっとかれてる・・」でした。
これはきっと福島に暮す方がたに共通の「思い」に違いありません。
   「ほっとく」とは「ほうっておく」の簡略:訛りです。
同じニュースで、自宅の「除染」をされていたご夫婦が、除染しても、取除いた土を自宅の一角に埋めておかなければならず、それがまたストレス。いっそのこと「国会議事堂」の前に置かせてもらいたい、と話していました。

聞くところによると、自民党の総裁選挙で候補に立った方がたで、東北を「遊説」しても、福島を訪れた人はいなかったそうです。
そう、福島は「ほうって おかれた」のです。

原発の更なる再稼動を希求する「経済界」の方がたは、そうしないと「国民」生活がマヒするかの発言をされています。
そのとき、福島に暮す方がたは、この方がたの言う「国民」に含まれているのでしょうか。そういえば、この方がたで、福島の地を訪れたという方もいないようです。
やはり、福島は「ほうって おかれて」いるのです。

この方がたには、一部の人びとを踏み台にして、他の人びとが生きればいいのだ、という「思考」(これを思考と言うかどうかは別にして)がある、としか考えられません。
福島・三春に在住の、僧侶であり作家でもある 玄侑 宗久(げんゆう そうきゅう)氏が毎日新聞で次のように語っています。
「・・・原発所在地と郵便番号の関係を知っていますか。
全国54基のうち39基の所在地の郵便番号は[9]か[0]から始まる。
つまり、[1]で始まるこの国の中心・東京から最も遠い場所に、ほとんどの原発がある。
・・・この国の構造そのものに由来する根深い問題です。・・・」

「脱原発」を言うのは、精神論、感情論だ、という「言説」が、相変わらずあるようです。「理性的」でない、とでも言うのでしょう。
しかし、そういう言説を唱えることこそ non-scientific で non-logical に、私には思えます。それこそ、理性的でない。

「王様は裸だ」と、こともなげに言ったのは子どもでした。
何のことはない、見たこと、感じたこと、思ったことを、そのまま言ったに過ぎません。
しかし、大人も見て知っていたはずなのに、言わなかった。言ってこなかった。
このとき、子どもは「感情的」で、大人は「理性的」だったのでしょうか?
単に、大人は「『利』性的」だったに過ぎません。

各地域で生じた「高濃度の放射性廃棄物」、簡単に言えば除染したゴミの処分場を、生じた地域ごとに、具体的には各県単位に設けるのだそうです。地域のことは地域で、というわけです。
今、その具体的な処分場用地の公表の仕方が問題になっているかの報道が為されています。
そうではないでしょう。
地域のことはその地域で・・・、というのは一見すると「合理的」に見えます。
しかしその「策」が、この「問題」に対してのみ採られるのは、決して合理的ではありません。
先の玄侑氏の言われたことを考えれば、その不合理・非合理が明らかです。
もっと端的に言えば、ご都合主義。誰の?「利」を得る方がたの。
その点を論じなければ報道機関として「失格」ではないか、と私は思います。
この論理が一貫しないやり方を、えらい方がたは、それこそ一貫して続けてきて今に至っているのではないでしょうか。
ここは一つ、国民の生活を心配しておられる経済界や政界の方がたの出番ではないでしょうか。
放射性廃棄物を自ら引き取り、国民の不安の解消をはかる、それをお得意の「ビジネス」にしたらいかがですか。
   もっとも、そうすると、どこか他国へ安全だと称して捨てかねない。今のえらい人たちの考え方では・・・・。
しかし、原発建設を推進してきた自民党も、それを支えてきた経済界も、だんまりを決め込んでいる。現政権にその責を負わせて知らん顔している。さらに、現政権自体、「信念」が失せている。
結果として生じるのは、「国民」、特に福島および周辺の「国民」の負担と困惑。
原発事故直後の、「福島県に暮す人びとは、本当に日本国憲法の下に保護されているのか?」というある町の町長の言は、今も活きている、私はそう思っています。

もうひと月も経ってしまいましたが、九月の初めの東京新聞に「言いたいことを言うのは権利だが、言わねばならないことを言うのは義務である」と論じた社説が載っていました。
王様は裸だ、と言った子どもは、権利と義務を行使したのです。しかし、大人は?
その社説を以下に転載します。


毎日新聞 10月8日朝刊所載「風知草」
  
東京webから今日のコラム「筆洗」を転載します。

まったくうんざりします。

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