吊るし柿にする渋柿。最後まで残って、鳥たちの初冬の食料になります。
今日、メジロに会いました。早咲きのサザンカに来ているようです。
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[末尾に追記を追加12日 10.20]
私の住まいのまわりには、畑地と山林が広がっています。
ここに暮して10年、私によく判らなかったのが、農地の「持ち分」です。どこが誰の畑なのか、よく判らないのです。去年はあのお宅が耕していたのに、今年は別のお宅の方がやっている。こういう例が多いのです。
どうやら、町が仲介して、あるお宅が耕せない畑(後継者がなくできない場合や、いても人手が足りない・・・などいろいろな場合があるようです)を、他の方に斡旋する事業を行なっていて、その結果のようです(持ち分は変らない)。
2・3年ほど前から、2キロほど離れた集落の方が、近くの畑を耕すようになりました。この方は、それまで、自宅周囲の畑地が主たる農業の場であったようです。
しかもこの方は、私の住まいの近くだけではなく、あちらこちらの畑も耕しています。
その広さは、たとえば私の近くの場合は、どんなに狭く見積もっても2反歩、つまり600坪はあるでしょう。他の場所にも、どう見ても2反から3反以上の広さのところがありますから、おそらく全部ではかなりの広さになります。あちこちで彼を見かけますから、彼が耕す畑地は、明らかに年を追うごとに増えています。
彼は、いつも一人です。ときには手伝いの方もおられますが、まず一人が多い。年恰好は40代後半か。
最初は機械を使っていませんでしたが、最近は小型のトラクターを使っています。軽トラも新調しました。
では、広大な畑で、何をつくっているのか。
決して「儲かる」作物ではありません。
最近の農業の一つのやり方には、「儲け」が大きい作物を単品、広い土地でつくる場合があります。嬬恋村のキャベツやレタスが有名ですが、このあたりでは、落花生やサツマイモ、あるいは作物の種子を採るための「農業」などです(ミツバや大根そのものではなく、その種子を採るための栽培を種苗会社から委託を受けているようです)。
しかし、彼のはそうではない。ハウスものはやっていません。
彼は、いつも、「旬の作物」を露地でつくっている。今収穫期なのは、ハクサイ、ブロッコリー、ホウレンソウなどの葉もの。その収穫作業の一方で、収穫後の畑地の養生をして(有機肥料を鋤き込んでいるようです)春先収穫の葉物の苗を植えています。夏はジャガイモ、ナス、カボチャ、ウリ・・など。
つまり、多品種を少しずつ(と言っても1反歩程度ずつですが)並行してつくっているのです。しかも、たとえば同じジャガイモでも、ダンシャクだけ、というのではなく、キタアカリやメィクィーン・・・といろんな種類をつくっています。ハクサイなどもいろいろあるようです(名札を立てているので知りました)。
これを一人で順にやっている。毎日、黙々と。
採れた旬の作物は、農協に納入しているようです。農協の直販所に卸しているのを見かけたこともあります。
直販所では、たとえばハクサイは、今、立派なのが150円から200円です(ワンコイン:100円玉です:で、かなりのものが一束購入できます。もちろん採り立て)。
生産者名が付いているので、それで彼の名を知ることができました(近くの大型店舗でも、近在の方のつくった新鮮な野菜が、同じ程度か多少高い程度で売られています)。
今ではまだ一人ですが、おそらくこのようなやりかたが、意外と増えてくるのではないか、そんな予感がしています。これなら、若い方がたにもできるのではないか。
こういう「農業」を見ている矢先、11月1日の「リベラル21」に、あるジャーナリストが次のような論説を寄稿しているのを読みました。抜粋転載します(読みやすいように段落を変えてあります)。
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日本の農業は「TPPに参加すれば、崩壊する」のではない。
「参加しなくても、近い将来、崩壊する」のである。農民の平均年令が年々高まり、66,1歳に達している。
後継者がいない農業が継続できるわけがないではないか。
第2次大戦後の農業は政府の補助金と、消費者に割高の農産物を押し付けることによって成り立ってきた。
だが、そんなことがいつまでも続けられるはずがない。
そして、儲からなくなった農業経営を息子も娘も継がなくなってしまったのである。
国内農業は食糧安全保障のためにも必要である。
しかし、存続のためには改革して「儲かる農業」を実現しなくてはならない。
野田内閣の「食と農林漁業の再生推進本部」が25日、農業改革の基本方針と行動計画を決定したが、
これを実行すれば、農業に明るい未来は訪れるのだろうか。答えは明暗の半ばである。
再生計画の柱は、?今後5年間で水田の耕作規模を10倍に拡大?担い手を育成するために、青年の就農を支援し、
法人雇用を促進する?農林業者が加工や販売も行う、いわゆる「6次産業化」の推進
?過去のマニフェストに掲げた農家個別所得補償制度を、営農規模拡大に適したように変更、などである。
これらの方針はいずれも合理的で結構だ。問題は、どう実行するかである。
基本方針を実行するためには、農地の譲渡や営農委託についての規制緩和とともに、
現地での実行のカギを握る農地委員会のあり方を前向きに変える必要がある。
それ以上に重要なのは企業の農業への参入を大胆に認めることだ。企業参入が増えれば、
日本農業の国際競争力向上は間違いない。
企業参入の弊害が心配なら、それが予想される部分について規制すればいいのである。
改めていおう。農業再生とTPP交渉参加は直接関係がない。農民がその気にならない限り、農業は再生しない。
もし、TPPが農業再生と関係あるとしたら、TTPが農業関係者に危機感をもたらしたという点であろう。
農協も農民も危機感がない限り再生の努力をしないだろうから、TPP交渉参加は農業にとって、
むしろチャンスをもたらしたといえる。
それは農業にはびこる既得権を取り払うチャンスでもある。
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私はこの「論説」を読んで、おそらく、この方は、今の農村に行ったことがない、もしかしたら土を触ったこともないのではないか、と思いました。
簡単に言えば、農業を知らない(私だって、そんなに知っているわけではありませんが・・・)。
農業は、単なる金儲けの一手段に過ぎないのか?
当然ながら、「農業の意味」を考える気もない・・・。当然「経済」の意味は本来何であったか、も・・・。
あまりにも乱暴なので、いささか驚きました。
一時はやった「新《自由》主義《経済》」「《市場原理》主義」の後追いをしているのではないか。
実は、この論説を読むまえに、ものごとを真っ当に、筋道立てて見つめての論説がありましたので、それを紹介するつもりでした。
いずれも、いま、巷で話題になっている論説のようです。
結果として、以下の論説は、先のリベラル21に載った論を、根底から、理を通して、論駁している、と言えるのではないでしょうか。
毎日新聞、10月27日朝刊の「記者の目」。記事そのもののコピーとweb版を併載します。
「記者の目」
そしてその4日後、同じく毎日新聞「風知草」は、さらに鋭く論じています。
これも、記事そのもののコピーとweb版とを併載します。
「風知草:消費文明の衣を脱ぐ」
タイの洪水で、日本の「企業」の実態が顕になりました。もちろん、そうでない企業家も居られます。自分の足元の根に気を配り続ける人たち、決して根無し草にはならない方がた。根がなければ、先がないことが分っている方がた。しかし、当面、「儲からない」人たち・・・。
どうしても儲けたいのなら、日本を捨てて結構です。当面はいいでしょう、しかしそれは、理を考えれば、永続きするはずがないからです、「流浪する」ことになるはずなのです。
「記者の目」の中の紹介論文にある「輸出企業は、国内を牽引するのではなく切り捨てた」という一節が「印象」に残っています。
参考 2007年に書いた一文ですが、「近江商人の理念」もどうぞ。
追記 [12日 10.20追記 文言追補 12日15.13]]
エライ人たちは、どうしても「貿易」で暮したいようです。
そして、彼の地の農業に対抗(?)するために
小規模営農者には「奨励金」を払って、農地を他の「営農者」に集約させ、大規模化するのだそうです。
簡単に言えば、金を払って、小規模営農をやめさせる、ということらしい。
当然一時金でしょうから、その後、元小規模営農者は、どうやって日々を過ごせ、というのでしょう?
日本の国土というのは、すべてが大平原ではない。
それゆえ、山あいにも小さな農地をつくってきたのです。
私の住まいの近くの小河川沿いの水田は、今から40年ほど前、区画整理で、従前の小割りの水田から、
大きな区画に直されたようです。圃場の区画整理事業です。
中央に、霞ヶ浦にそそぐ直線化された河川、と言うより水路が走っています。
勾配が緩いので、元は蛇行していたはずです(東京の神田川や石神井川も同様でした)。
見ていると、最近は、水路側の田に土が溜り、水路から遠い丘陵側の田の水はけが悪くなっているらしく、
かなりの深い田になってしまい、トラクターなど農機が時折り立ち往生しています。
一枚の田の面積を大きくする、ということは、従前は10段近くあった段差を数段に減らさないとできない。
その結果、流れた土が下の段に溜まりやすくなり、上段が水はけの悪い深田化したのだと思います。
これを直すのは、かなりの大仕事。
大規模化を唱える《論者》は、多分、(今の)関東平野などしか見ていないのではないでしょうか。
今、広大な耕地ですが、江戸時代の末には、埼玉あたりは水浸しだったといいます。湖沼だらけだった。
広くなったのは、排水を機械に頼るようになった明治以降のはずです。
一旦、機械が止まれば、元の木阿弥。危なっかしいのです。
ハイテク必ずしもローテクよりすぐれているわけではない、私はそう思っています。
ハイテク維持のために、別途のハイテクが要るからです。
農地が平野だけではなく、平野面積が圧倒的に少ないのが日本です。
往時の人たちの考え方の方が、数等、地の「理」に通じていたのでしょう。真の「地理」学です。
日本の「農」学も、当然、そういう日本の「地」理に応じていた。
[文言追補 12日15.13]