槿の花が咲きだしました。風の中、少し揺れて撮れてしまいました。
[文言補訂 9日朝]
先週の金曜日の深夜、咳が出て寝床を抜け出し、所在なくつけたTVで、数年前の番組の再放送をやっていました。
「漂泊のピアニスト アファナシェフ もののあはれ を弾く」。
ここ数ヶ月、あまりにもデジタルな話にばかり係わっていたこともあり、思わず咳もとまり、聞き入りました。
大事なことを忘れそうになっていたな・・・。
アファナシェフは、ソ連時代のロシア生まれのピアニスト。
国家・権力が芸術をも差配する社会をきらい亡命、日本の文化に共感を覚え、自らの音楽世界構築の礎にした、という。
彼は、源氏物語や徒然草を愛読し(日本語で読んでました)、能の世界に共鳴し・・・、日本の古代〜中世の人たちの「もののあはれ」という「世界の認識のしかた・ありよう」に共感したのです。
番組後半、京都・岩倉実相院での、うまい言葉がありませんが「鬼気迫る」とでもしか言いようのない、空間に引きこまれてゆくような演奏は、圧巻でした。
「もののあはれ」。
懐かしい言葉です。中学・高校の「古文」で初めて聞いた言葉、そして、その意味するところに、何となくですが、共感を覚えたものでした。
「もののあはれ」とは、国語辞典によれば
「目に触れ耳に聞く物事につけて感じられる、しみじみとした情趣(平安時代の貴族社会における理念とされた)」(新明解国語辞典)
「・・・『もの』すなわち対象客観と、『あはれ』すなわち感情主観の一致する所に生ずる調和的情趣の世界。優美・繊細・沈静・観照的の理念。・・」(広辞苑)。
中世に生まれる日本の諸「芸術」は、建物づくりをも含め、たしかに、その根に「もののあはれ」感・観が潜んでいます。と言うより、それなくしては、つくられなかった、と思われます。
先に「 SURROUNDINGS について」でも触れたように、私たちの日常の生きざまは、明らかに、本来、この「もののあはれ」感・観:主客同一の世界に在らんとする心情・理念:に拠っているのです。
そしてそれは、本来、(洋の東西・地域を問わず)人びとすべてに共通する「心情・理念」であったであろう、と私は考えています。
中世の人びとは、それに素直に応じてきた・・・。
しかし、「近代化」が著しくなるにつれ、それらはすべて消えてゆこうとしている。
元来根ざしていたことどもから、浮いて離れて生きることに平気になってしまった、あるいは平気になることこそが「近代化」だ、と思っている・・・。
私は、学生時代に感銘を受けたある詩の一節を思い出していました。
・・・・・・
・・・・・・・・今の世では、嘗てなかったほどに
物たちが凋落する――体験の内容と成り得る物たちがほろびる。それは
それらの物を押し退けて取って代るものが、魂の象徴を伴はぬやうな用具に過ぎぬからだ。
拙劣な外殻だけを作る振舞だからだ。さういふ外殻は
内部から行為がそれを割って成長し、別の形を定めるなら、おのづから忽ち飛散するだろう。
槌と槌のあひだに
われわれ人間の心が生きつづける、あたかも
歯と歯のあひだに
依然 頌めることを使命とする舌が在るやうに。
・・・・・・・・
・・・・・ リルケ 「ドゥイノの悲歌」: 第九の悲歌
20世紀初頭のヨーロッパ。
そしてそれは、今の日本であるかのよう・・・。
今日は日曜日。東京新聞の社説:週のはじめに考える:は相変わらず明晰です。
東京webからそのまま転載します。