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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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「第Ⅳ章ー3-A5参考曽根原家,堀内家」 日本の木造建築工法の展開

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PDF 「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-A5参考, まとめ」A4版4頁

 

参考 曽根原家  1600年代中期  所在 長野県 安曇野市(旧 穂高町)有明新屋

東 面                                                                   日本の美術№287より

 

 

寛政頃(1790年代)の平面

 

   寛政~明治初期までの平面

 

 北アルプスの東に広がる安曇平(安曇野)にある農家。 島崎家とともに、本棟造の原型を示す事例と考えられている。

 この地域では、南にドマとマヤを置き、居室部を北側にとる例が多い。

 これについては、寒冷地であるためにマヤを暖かい側に置いた、との言い伝えがあるという。 また、安曇平特有の冬季の南北方向の強風が、オエ:居間に吹き込むのを避ける目的もあったようである。 基準柱間 1間:1821㎜ (6尺1分)

復元 平面図

図、写真は曽根原家住宅修理工事報告書(郷土出版社版)より

 

 一般に本棟造では、切妻屋根の妻側に大戸口をとるが、曽根原家では平側に大戸口がある。

 同高に柱を建て、@1間の格子状の梁を組む架構は、他の本棟造と同じである。

 

                                                                      復元 桁行断面図

 

 

ドマから北側、オエを見る 柱は@1間   寛政期に差鴨居を入れてドマ~オエ境の柱2本を切取る。   

  小屋 見上げ

 

柱 材種 オエ周辺:サワラ ザシキまわり:ヒノキ、ツガ、スギ、ネズコ、カラマツ  柱径 4寸3分角~4寸8分角

貫 足固、腰・内法:いずれも3寸7分×1寸 2間もの 桁行、梁行同高 桁行上端楔締め 隅は小根枘 継手 略鎌   

 

矩計図

図、写真は 曽根原家住宅修理工事報告書 より

 

 

 

参考 堀内家  宝暦~天明(1750~1790年)頃  所在 長野県 塩尻市 堀内

  

  

正面外観                    写真・図は日本の美術287より

 

 正面外観

 

 復元平面図 

 

 表側のザシキまわりや、正面の外観(上写真)は、明治初頭の改造によるもの。

 幕末から明治にかけて、見えがかりを重視する傾向が生まれる(高山・吉島家など)。島崎家の明治12年の改造(化粧のための差鴨居の付加)も同様である。

 

 

 

 上は、島崎家(上段)と堀内家の梁行断面図を同一縮尺で示した図である。

軸組、格子状の梁組は両者ほとんど変らず、それより上の部分と外部意匠に堀内家は意をそそいでいることが分る。 (島崎家は同修理工事報告書より,堀内家は 日本の民家2 農家Ⅱ 所載の図を編集作成)

 

付 島崎家の破風板、堰板(せきいた)の詳細             島崎家住宅修理工事報告書より  

      

破風板の峠部の継手           堰板の取付け                堰板の継手 

 

 

 以上、関東・甲信地域の農家住宅を見てきました。

 これらの農家住宅は、いずれも畑作主体(養蚕も含む)の地域の住居です。

 この地域は、いずれも歴史が古く、したがって建物づくりにおいても、それぞれの地域の暮しに適応したつくり:技術・形式が定着しています。

 一方、生産量では群をぬく関東平野中央低地部は、徳川幕府になってからの開拓地(干拓地)がほとんどで、地域としての歴史は古くはなく、それゆえ水田主体の農家住宅の事例は多くありません。

 

 ここに挙げた事例は、最も古いものでは300年、新しいものでも200年以上、いずれも大きな損壊を被ることなく、代々住み続けられてきた住宅です(近代以降、とりわけ明治以降に見られる粗雑な改造や補修による腐朽などによる破損等は見られます)。

 すでに、島崎家の建屋の使い方の変遷で見たように、このような長期にわたり住み続けてこられた理由は、以下に要約できるでしょう。

 

1)当初の建設された建屋の規模が適切である。

  接客用に設けられた部分を除いた居住部分の当初の規模は、小松家で約30坪、他の事例は、いずれも40坪(130㎡)を超えている。 また、敷地も大きい。 註 当然、いずれも居住部分は平屋建てが基本で(富沢家などは、二階建てであっても居住部分は一階である)、敷地は最低でも建屋の5倍以上ある。

 

2)当初の設定が、住まいの基本に忠実で、建屋全体を基本的にワンルーム:一つ屋根の簡潔な形体とし、その内部のゾーン分けの比率が適切であり(住まいの基本とゾーン分けについては21頁参照)、架構もゾーン分けに矛盾していない(掘立ての時代より、空間と架構の一致:架構=空間:は、建物づくりの基本であった)。

  時々の暮しに合わせた改造も、このゾーン分け内で行われている。

 

3)架構そのものの改修、改造は、暮す上で支障を来たす1間ごとの上屋柱や、ドマ境の柱を差鴨居の後補により撤去する、などが主で、小屋架構まで変えるような改造は行なわないで済んでいる。

 註 明治以降、見えがかりを重視した改造が増える傾向が見られる。 その際、見えがかり重視の結果、架構上の欠陥(島崎家で見られた均衡を欠いた差鴨居の挿入による柱の折損など)を惹き起こした例がかなりある。 また全般に、明治以降の補修は粗放な例が多いようである(古井家、箱木家においても見られる)。

 

4)柱と横材は折置もしくは簡単な差口で納め、継手は簡単な方法を用いて柱上に置く、などを原則とした簡潔な工法でつくられている。 

 その結果、材料の加工(刻み)や竣工後の補修・修繕なども容易であった。

 

 

 農家住宅の建設、営繕にかかわるのは、それぞれの地域の工人と、そこに暮す一般の人びとです。このことを考えるならば、上記の要件は、きわめて納得のゆくものである、と言えるでしょう。

 つまり、これらの要件は、そこで暮す人びとにも「見える」つくり方である、ということにほかなりません。そうでなければ、建物の維持、営繕は、人びとにとって至難の技になってしまうのです。

註 ここでは本棟造の事例を多く紹介しましたが、それは、本棟造の住居には、当初の架構・形を変更することなく代々住み続けた事例が多いからです。  本棟造は、その架構の特徴:単純な切妻屋根で、柱を同高にして@1間の格子状に梁を架ける:から、当初の設定さえ適切であれば、改造・改修が容易なつくりであったからだ、と考えられます。

 


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