(「筑波通信№11前半」 より続きます。)
こうして考えてくると、ある町に住みつき、なお且つその「空気」を見つめることのできる人というのは限られてくる。それは、ことばは悪いが、ひまのある人、ひまをつくれる人、である。(一瞬でもいいから)。その日常の生活から身をひき高みにたってながめる時間(それをいまひまと称したのであるが)をもてる人である。あの、いま風景版画に熱をいれている人、自分の仕事場(版画制作のための)を持ち、仕事場の壁に「借景」の窓を開けた人、はどういう人であったか。彼は、元校長であった。現役をあがった人、ひとまず生活の糧は保証され、日常の生活、かつては自分もそのまっただなかにあったその日常の生活とつかずはなれずの位置にいられる人である。言ってみれば、彼は他動的にその時間をあてがわれ、あるいは逆に、そういう立場・状況におかれてしまったからこそ、風景に目がいったのである。もちろん、だれでもがそういう状況になれば同じようにふるまうわけではない。おそらく彼の場合には現役のときから、その日常において、ふと風景に見入るときがあったに違いない。日常においても、一瞬そういうひまをつくることができた人であっだろう。それは歩きながらのことであったかもしれず、仕事のちょっとした合間のことであったかもしれない。とにかく彼には、そういう時があった。しかしそれは、直ちに版画に描き、あるいは仕事場をつくりその壁に窓をあけるということには連ならなかった。現役から身をひいたとき、風景は彼に迫って見えてきた。多分こういうことだろう。
いわゆる「借景」の庭や建物というのが、まずほとんど寺の書院や宮家の別荘そして普通の人の家の離れにおいて見られるというのも、こう考えれば納得がゆくのではないだろうか。それらの主である人たち(つまりそういうつくりをつくった人たち)の生活は、普通の日常の生活の一段高みにいられる生活であった。別な言いかたをすれば、世の人々、まさに日常に没頭している人々の生活をはすっかいに見て暮す、あるいは暮さなければならない、あるいはまた暮さなければいられない、そういう生活を日常とする人たちであった。(そしてもちろん、その生活の糧はひとまず保証されていた。)普通の人たちの生活と、つかずはなれずの生活が彼らの生活なのであった。それなしに彼らの生活もないのである。
そして彼らは、その「借景」の風景に、いったい何を見たのだろうか。単に美しい風景、すばらしい景観、かすみたなびく春の山、紅葉に燃えそして雪をかぶった山を見てよろこんだのだろうか。そうではない。そうではないと私は思う。彼らがそこに見たものは、人の世であったはずなのだ。その風景には、その風景を「空気」のごとくに吸って生きている人々のその土地での生活、彼らがつかずはなれず、はすっかいに見て暮しているその人の世が、象徴されているからである。その象徴された人の世を、どのように彼らが見たか、それは知らない。ある場合には、そこに未練を思ったのかもしれないし、あるいはまたそこに来しかた行すえを観じたのかもしれない。いずれにしろ彼らは、そのすばらしい景色と、借景により一体となることを通じ、そういうしかたで人の世と交ったのではなかろうか。
なぜ私かそう思うか。それはまったく単純な事実による。もし彼らが、単に、美しい、すばらしい、きれいな風景をながめるだけを目的としたのならば、なにも町なかとつかずはなれずの所などに居を構えなくてもよかったのである。そういう風景は、その地をはなれても、いくらでも見つけられた。しかし。そうしてしまったならば、それは「遁世」になってしまう。彼らはそうはしなかった。彼らはその地とつかずはなれずの場所に、その地で生きる人たちにとっては切っても切れない風景を借景にし、思いを人の世に馳せながら、そこですごしたのである。世俗からは、はなれることはできなかったのである。
あるいはこの推測は、少しばかり強引であるかもしれない。しかし、上記の件や、主な借景建築・庭園の建主の素性を二三調べてみると、私にはどうもそのように見えるのである。そして、いずれにしろ。彼らが借景によりとりこんだ風景、すなわち「借景」という技法が、単なる映像としての景色、「絵葉書」的景観、が目あてではなかったことは、それは絶対に確実である。それを、単に「絵葉書」的美しさで見て済ますのだけは、明らかにまちがいである。
それではいったい、いま私がいる山小屋の「借景」は、何なのだろうか。どうやらまた一つ宿題ができてしまったようだ。
あとがき
〇一昨年九月の号のあとがきで、いつも山にとりかこまれている人の山の見かた(従って見えかた)は、ときおりその山を見る人のそれと、どう違うのか、一度尋ねてみたいと書いた。それ以来別段そのことばかり考えてきたわけではもちろんないが、たまたまこの正月、久しぶりにすばらしい山のすがたをながめているうちに、それという確信もないままに、風景について書いて見る気になった。
〇一昨年から昨年にかけて、上州・妙義山のふもとに住宅を設計した。妙義山からながれるゆるい東斜面の敷地で、そこに立つと妙義山が目の前にたちはだかり、なかなか追力がある。あの特異なスカイラインが切れる右手のはざまには、浅間山の頂も見える。このすばらしい景観は、敷地から見ると、ちょうど真西に拡がっていることになる。このあたりに建つ家は、昔のものも今のものも、まずほとんど南面している。つまり、山の方へは向いていない。ところが私は、この家を、平然と、西向きに設計したのである。山から敷地までの聞には、仮に将来家が建ったにしてもどうということもない拡がりが維持されそうなので、敷地から山までの前景と山自体、全部ひっくるめて家にとりこんでやろうと思ったのである、つまり「借景」である。少し大げさに言わせてもらうと、妙義山から流れでた大地の流れを、家がせきとめている。そんな感じになっている。それはそれなりになんとか格好はついたと思うのだが、ふと、これでよかったのかという気がしてくるのである。ときおり訪れるにはいいかもしれないが、毎日山をうけとめているというのがいいものなのか、それはそれで構わないのか、どうもそのあたりが、自分でも分らなくなってきた。これが今回の話を書くもう一つの動機でもあった。
〇書いてみて分ったかというと、どうもすっきりとはなっていない。
〇いま建設中の知恵おくれの人たちの家では、設計のときとりたてて強く意識したわけではないが(しなかったわけでもないが)目の前に、それはちょうど真南にあたるのだが、富士山が浮いて見える。これはまた見事である。特にいまは空気が澄み雪をかぶっているから圧巻である。ここに住む人たちは、これをどう見るのだろうか。
〇いずれにしろ、書いたら宿題が残ってしまった。収穫といえば収穫ではある。
〇風景にどのように対しているか、そんなところに注意を向けては本を読んだことはそんなにないが、今後は少しその気になって読んでみようかと思う。
〇きょうの夕刊に、いくつかの詩・句が紹介されていた。私の知らない詩であった。
あの山は誰の山だ どっしりしたあの山は ・・・・
枯れ山の月今昔を照らしゐる
一月の川一月の谷の中
〇そして、私が風景を気にしているのは。私がいずれにしろ見えてしまうものをつくる仕事に係わりを持っているからである。それもまた風景の一部になってしまうからである。
〇先号のなかみは少し舌たらずなので、いずれ書き改めるつもり。
〇それぞれなりのご活躍を!風邪をひかれぬように!
1983・12・8 下山 眞司