(「筑波通信№9前半」より続きます。)
「近代化」・‥・その背景をなす二つの発想
この文のはじめに、鉄道敷設にあたって二つの思想があったように思えると書いたが、その二つとは、いまここで見てきた明らかに異なる二つのタイプの鉄道の背後にある考えかたに他ならない。
けれどもその二つの考えかたは、これもいま見てきたように、そのはじめから併存していたのではない。昭和になってでてきた新規開発型とでも呼ぶべき発想は、先にも書いたが当初はだれも思い及ばなかったに違いないのだ。実際、この世にはじめて表われた鉄道の及ぼす影響力など、想像を絶することだったろう。もちろん鉄道以前にだって、進歩や改変ということは存在した。けれども、その進歩や改変は、常にその前代を承けた形での変化や進歩であったから、仮に一つの手段に変化があっても、それにともなう事態の変容のさまもまた、十分に感覚的に予測し得る範囲にあった。人々は、進歩や改変を、目の前の現実からスタートさせたのである。考えるまでもなく、今日のありさま(それはすなわち来しかたでもあるが)を基に明日(すなわち行く末)を考えるというのが、人間にとって一番素直な発想なのだ。だから、鉄道の敷設が、単なる交通手段の変革の域を越え(それまでの交通手段の代替としての役割を越え)これほどまでの状況の変化をもたらすなどということは、それこそ字のとおり予想外だったはずである。けれども、この単なる手段の近代化が進んで半世紀、意外な結果があらわになってきたとき、その結果自体を目的化した考えかたが現われる、それ自体を商売にすることができる、そういう発見である。阪急・東急型の考えかたの誕生である。
現在普通に「近代化」と言うときは、多くの場合、この阪急や東急のやりかたを支えている考えかたを指すと言ってよいだろう。けれども、ここまで見てきたように、明治以降各方面で行われてきたいわゆる「近代化」を全て、この極めて今日的な意味での近代化として理解してしまうことには、私としては賛成できない。当初目ざした近代化では、多少ぎくしゃくした点はあったにしても、未だ「現在:来しかた」に基をすえるという姿勢がうかがえるのに対し、今日的な意味での近代化を目ざすとなると、「現在:来しかた」に基をおくことは、むしろ足手まどいとなってしまう。なぜなら、それに基づく限り、よほどのことでもなければ、「現在」を越えての発展・成長は期待できないからである。すなわちどう見ても「近代化」のなかみ、拠ってたつ思想が違うのである。
そしていま、「今日的な意味での近代化」が目的とされだしてから、いったい何が行われるようになったか。
そこでは、「現在:来しかた」の徹底した切り捨てがなされはじめたのである。つまり、それぞれの土地に密着して代々人々が成してきたところの「生活」、人々の営為の積み重ね(これを本来は「文化culture=cultivateされたもの、と呼んだはずなのだが)を一切見捨てることであった。そんなものにかかずりあっていては、より高い発展は期待できず、理想とする近代化社会を描く自由が束縛されるからである。そして人々の(旧き)営為の積み重ねには、いとも簡単に「非近代的」というレッテルが張られ、全ての白紙化(言いかたを変えれば、人間の「歴史」の断絶)へ向けて突進しだしたのである。いま私たちが身のまわりに見る「近代化」、「開発」は、全てこの白紙の上の作業である。
そし、その作業の向う側に、かつての人々の営為の積み重ねが、「文化財」というていのいい名前を付けられて、一見大事そうに放置されている。せいいっぱい観光価値といういう付加価値を背負わされて!
「近代化」「開発」ということばは、いまやこの今日的な思想で理解されるのが普通になってしまっているけれども、しかし、そういった思想をもって近世まで(あるいは明治初頭まで)の人々の営為を見てしまうことは絶対に正しくない。この今日的思想とは全く逆に、近世までの人々(あるいはもう少し時代が下るころまでの人々)の拠りどころは、常に、その生きている「現在」にあったのだからである。彼らは、「明日」のために、まず「今日」をcultivateすることからはじめたのだ。そして、あらためて言うまでもなく、「人間の歴史」とはそういうものであった。
今日的「近代化」「開発」という作業を白紙の上で平然としている人たちは、いったい何をその作業の「拠りどころに」としているのであろうか。 現在を欠落した未来、過去のない現在、突発的現象としての人々の営為。「歴史」も「土着性」も切り捨て、その上(いつも書くことだが)「主体性」はもとより「感性」までも失ったとき、「近代」はいったい何を拠りどころにするのだろうか。唯一考えられるのは、もうかるという意味での(言いかえれば、投資に倍する以上の利が潤う、あるいは成長率が高い、という意味での)繁栄・発展のために、それだけである。私はここまでの文章のあちらこちらで、繁栄する、栄える、発展する・・・・ということばを使ってきた。だが、このことばにも明らかに二様の解駅のしかたがあるように思う。いまならば、もうかるという意味で理解さるのが普通だろうが、しかしその解釈を近世までの町々の繁栄・発展にまであてがうのは、これも誤りではなかろうか。近世までのそれは、あえて言うならば、「その町で暮す限り、人々は(程度の差はあれ)可もなく不可もなく、大過なく、生活をおくることができる」という意味であったと理解した方がよさそうなのである。もちろんもうかることもあった。しかし、それは目的ではなく、あくまでも結果であった。先に、東武鉄道はもうからない鉄道だと書いた。しかし正確に言うならば、もうかることを目的としなかった鉄道だと言うべきだったろう。結果としてはもうかった。(その証拠に、これは余談だが、東武鉄道の創設者は甲州出身の根津嘉一郎という人物なのだが、彼は故郷に錦をかざるべく甲州じゅうの小学校にピアノを贈ったそうである。もうけがなかったわけではないのである。)ただ、もうけかたが、今日的なそれではなかったのである。
そして、いま‥‥
関東平野を東西に横断すると、二箇所で新幹線を横切ることになる。田園のなかをえんえんと続く柱脚の列。さしづめ現代の万里の長城である。平野は長城により二分される。古代の長城は、少なくともその内側に人々の安住の地を確保しようとした。そのための大地の二分法であった。だが、この現代の長城は、人々の安住の地を、わけもなく二分した。何のために・・・・「近代化」という至上命令のために。多分そこには、たとえ何十年が過ぎ去っても、「風物詩」の一つも生れはしないだろう。柱脚の足もと、「途中のついで」の足もとなど、そこの土地の人々の生活とは何の係わりもないからである。鉄道が、その土地の生活とともにないからである。そしてもちろん、その柱脚の足もとが繁栄するわけもない。かつての鉄道がそうであったように繁栄が沿線に及ぶ、などということもない。繁栄は言うならば沿点に集約されるのだ。それが、それこそが「合理的近代化」の目ざしたことに他ならない。「近代化」とはつまるところ新たな「辺地」づくりである。
最近の国鉄の特急・急行の増強と、それにともなう各駅停車の削減もまた、辺地づくり以外のなにものでもない。いったい「便利」とは何なのだろう、「便利」とはだれにとっての「便利」なのだろう。
上越新幹線は動きだした。約二時間で雪国に着いてしまうそうである。 トンネルの向うとこちらの気象は、新幹線が通ろうが通るまいが変りはしないけれども、しかしこれによって、「トンネルをぬけると雪国だった」というような新鮮な感激は、人はもう味わう必要がなくなるのかもしれない。
あ と が き
〇先号は少しおくれ、問いあわせなどもいただき、大変恐縮いたしました。物理的な忙しさも峠を越えましたので、平常に戻れそうです。(ここ二年ほど係わってきた知恵おくれの人たちの家の設計がひとまず終り、ようやっと着工にこぎつけたのです。八・九・十月とそれに忙殺されていたのです。)
〇今号は、少し長くなってしまいました。別に先号、先々号の埋めあわせをしようなどと考えたわけではありません。書いていったらそうなったのです。
〇ここ数日、冬らしくなりました。関東北辺の山々がくっきりと見えます。この二週間ほどの間に、上州、甲州、安房、とまるっきり方角の違う所へ行ってきました。上州では赤城神社に寄り、目の前に広がる広大な関東平野のその大きさに感嘆し、甲州では、これも目の前に仰ぎ見る富士山の姿にあらためて驚嘆し、そして安房に行く途中の車中では、東京湾岸沿いでいま人々が夢中になって行っている「開発」に慨嘆にいたしました。(安房に行く内房線は、湾岸に沿い台地と低地との境い目あたりを走るのですが、十年ほど前には線路のまわりは大体田んぼでした。田んぼはいま、市松模様に埋立てがすすめられ、住宅が密集しはじめています。埋め立て残った田んぼ・・・・とは言ってももう田んぼとしては使ってないようです・・・・の中に、一羽微動だにせず立っていたしらさぎの姿は、なにか場違いのようでもあり、象徴的でまた印象的でした。それでも、一時間も過ぎたころから、昔どおりの照葉樹林がうっそうと茂った風光が見えてきてほっとします。)
〇落葉樹の並木の葉もすっかり落ちてしまいました。はじめはまともに北風を受ける側の列の、それも風を受ける側だけが落ち、順次裸になってゆきます。最後には一列片側にだけ葉がついている時期が数日続き、とある朝、すっかり全部が冬姿になり、ゆうべ木枯しが吹いたことが分ります。そんな夜を車で走っていますと、落葉がまるで動物がとびはねるかのようにヘッドライトのなかを横切り、はっとします。寒くなりました。
〇年が暮れます。毎年いまごろになると、ことしはいったい何かやれたのだろうかと、少しばかり落ちつかない気分になります。
〇よい年をおむかえください。
〇また、それぞれなりのご活躍を!
1982・11・29 下山 眞司