PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅳ章ー1-1,2」A4版13頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)
「日本の木造建築工法の展開 Ⅳ 近世ー1」
・・・・我々は、ものを見るとき、物理的な意味でそれらを構成していると考えられる要素・部分を等質的に見るのではなく、ある「まとまり」として先ずとらえ、部分はそのある「まとまり」の一部としてのみとらえられるとする考え方すなわち Gestalt 理論の考え方に賛同する・・・。 ギョーム「ゲシュタルト心理学」(岩波書店)
・・・・私が山と言うとき、私の言葉は、茨で身を切り裂き、断崖を転落し岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、そしてついに絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、山を言葉で示し得るのだ。
言葉で示すことは把握することではない。・・・・・・・言葉で指し示すことを教えるよりも、把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。
おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、それが私にとってなんの 意味があろう?それなら辞書と同様である。・・・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)
主な参考資料 原則として図版に引用資料名を記してあります。
日本建築史図集(彰国社) 日本住宅史図集(理工図書) 日本建築史基礎資料集成(中央公論美術出版) 修理工事報告書 日本の美術 (至文堂) 原色 日本の美術(小学館)
Ⅳ-1 近世の典型-1:城郭建築・・・上層階級と庶民の技術の融合
室町時代:1392年(明徳3年)~1573年(天正1年) 安土桃山時代:1573年(天正1年)~1603年(慶長8年)
室町時代を前・中・後期に分け、後期(1528年~)を戦国時代と呼び、近世に含める分け方もありますが、ここでは、室町時代までを中世、安土桃山時代以降を近世として扱うことにします。
多層工法の例として、室町時代の後期:戦国時代になり各地に生れた城郭建築のうち、現存する2事例を簡単に紹介しました。 城郭建築は、各地域の武士が領地拡大を競って群雄割拠し、その拠点として築いた建物です。それゆえ、当初の城郭建築は、実用に徹しています。すなわち、自らの領地全域を見渡せ、万一の場合には籠って防戦できる、そういう建物を、極力早く築き上げることが求められました。その一例が、土台と通し柱、差物(飛貫)の活用です。
また、その工事には、それまで武士と係わりがあった工人たちだけではなく、支配地域の一般の人びとの間で仕事をしてきた工人:民間の工人たちも重用されます。それゆえ、城郭建築には、一般の住居などの架構技術(粗い加工の木材で、柱、梁・桁、差物(飛貫)、貫を一体に組み、そのまま仕上げとする)と、上層階級の架構技術(整えた木材で、二重屋根・桔木を用い、張り天井・付長押などで空間を整える)が適宜用いられた、と考えられる点が多く見られます。
そのような視点で、代表的な城郭建築を詳しく見てみます。
1.丸岡城 1576年(天正4年) 所在 福井県 坂井市 丸岡町 霞
現存最古の城郭建築遺構。所在は地図上〇印箇所。九頭竜川北岸の平野一帯を望む標高17mほどの丘陵上に天守台を築き、建つ。 (地図は国土地理院発行20万分の1地形図より)
信長の下で、柴田勝家による築城。明治維新に際し、天守以外ほとんど取り壊された。明治年間まで、数回の修理が行われている。安政地震で鯱が落下。福井地震では天守台が緩み、倒壊。
▽ 北からの遠望 写真は日本基礎資料集成十四 城郭Ⅰより
1)各階平面図 単位 尺、 天守は三層。一層の上にニ、三層が載る形をとる。 二層、三層は同一形状。
平面図は、下から一層、二層、三層。図中の各柱まわりの数字は、柱の大きさを示す。基準柱間:6尺3寸。
日本建築史基礎資料集成十四 城郭Ⅰより転載・編集
一層は、黄色枠内の母屋と、それを囲む庇からなる。黄色枠内の母屋の柱はすべて、〇印以外、当初は掘立柱だった。
掘立柱は、石垣で築かれた天守台天端面から下約3尺3寸の土中に礎石を据え、柱を立て、厚板で根巻をして漆喰を塗っていた。ある時期に、柱根元を切断し、地盤上の礎石建てに替えている。庇部は、石垣上に土台をまわし、柱を立てている。
〇印を付した柱は、礎石建てに変更した後、二層・三層の柱を受けるために追加された補強柱。この柱は、両脇の柱の礎石上に土台を渡してその上に立つ。二層、三層は、四隅の柱が通し柱。
天守台天端面が糸巻状の形(中央部が凹んでいる)ため、他の城郭とは異なり、土台は石垣上には設けられず、別個に礎石を据えている。そのため、石垣と土台の隙間を塞ぐために、土台に水切の小屋根を付けている。
2)断面図 単位 尺、 桁行(西~東)断面図、 梁行(南~北)断面図
建て方の手順 ① 一層の中央部の東西方向の掘立ての柱列に飛貫を通し、大桁を架ける。
② 大桁の上に、直交して、母屋部の南側および北側の掘立柱を結ぶ梁を架ける。
③ ②で架けた梁に直交して二層、三層の南側および北側の柱列を受ける梁を架ける。四隅は通し柱。
次写真で分るように、内部は農家あるいは商家同様のつくりとし、外部は二重屋根:桔木を用いている。
日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより
天守 二層内部 北~南面を見る(梁行断面図参照) 天守 三層内部 東~南面を見る(梁行断面図参照)
天守一階 北~東面を見る 天守一階 東~南面を見る
天守一階 南~西面を見る カラー写真は、高村幸絵氏 撮影提供による。
床梁下に取付けられた横材が目をひく。両脇の柱に差口で取付く。飛貫と言うべきか。 差口:一材が他材に差さる状態を総称
3)矩計図 単位 尺
東南側から見上げ 原色 日本の美術 城と書院 より
石垣の天端が糸巻状のため、一層の庇部の土台と石垣の間にできた隙間を、土台から掛けた板葺きの小屋根で塞いでいる。 南面(写真の左側の面)では、板屋根が石垣の外側に飛び出している。
矩計図(礎石建てに変更後の図) 日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰより転載・編集
諸種の技法が、混合して使われている。
外観を形づくるために、寺院で多用された二重屋根:桔木が使われているが(図のA部)、二重にしているのは外側の軒裏部分のみ。内部では、化粧垂木、野屋根とも表し。
全般に、屋内は部材すべて表しの一般の人びと:民間の建屋の工法で、図のB部の付長押など、部分的に上層の建屋のつくりかたが唐突に付加されている(三層内部写真参照)。
図のC部の下段の横材は、飛貫、差物・差鴨居と同じ役を担っている(桁行断面図参照)。民間の工法の援用と考えられる。
図のD部は、数段通した貫を表しの小壁。柱径が7寸前後ゆえ、貫は5寸×2.3寸程度。このように貫を表しで使うのは、一般ではあたりまえな使い方。
礎石建ては後補。当初は掘立て。 大引は足固を兼ねる。
柱、梁・桁、貫(差物)で組んだ架構は自立し、壁の位置は任意。
(「第Ⅳ章-1-2 松本城」に続きます。)