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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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「第Ⅲ章-3-2 参考 慈照寺東求堂 多層工法」

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(「Ⅲ-3-2 鹿苑寺 金閣」より続きます。)

 

参考 慈照寺(じしょうじ) 東求堂(とうぐどう)  1486年(文明18年)ごろ建立 

 

 足利義政により建てられた山荘・東山殿の一建物。義政没後、慈照寺となる。後に、戦乱で東求堂などを除き、消失。 東求堂は、義政の書斎兼持仏堂。方形平面、入母屋、桧皮葺き、基準柱間:6尺5寸。柱:仕上り大面取り3.8寸角。

 平面図 平面・断面共に日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより

 

 

 

 南側2室は仏間、北東の4畳半は書斎:同仁斎(どうじんさい)。 同仁斎は、書院の原型とされる。 

 いわゆる和様の形体をつくりだすため、下図の化粧桁のように、構造体を傷める方策も採られている。構造・架構=空間というつくりかたは、上層階級の建物では継承されていない。

 

 

文化財建造物伝統技法集成より

 矩計図 日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰより

 上分解図は、矩計図赤枠内の組立て分解図。 柱は天井裏まで延び、野屋根の桁を受けているが、同時に、その下方では、化粧地垂木、化粧桁、化粧肘木が柱を半分ほど欠きとって取付く。化粧のための無理。この方法は、近世の光浄院客殿などの建築でも使われる。 化粧桁の継手は、龍吟庵方丈の内法長押の継手同様鎌継ぎ(前出)。接続部を密着させるためで、構造的な意味はない。

 

参考 古代の多層工法

 古代寺院の塔や門、鎌倉時代末期の禅宗様の三門、楼閣建築、室町後期:戦国時代の城郭建築、そして近世以降の町屋など、日本には各種の多層建築がある。

 しかし、古代~中世の門、塔は、いずれも外観のみが多層であり、各層に床があったわけではない。東大寺南大門も同様である。

 

 古代の多層建築の構築法は、下図のように、下層の垂木上に土台:台輪(だいわ)(図の着色部分)を井桁状にまわし、その上に上層の柱・軸組を建てる方式であった。 五重塔では、これを二重、三重、四重、そして五重と4回繰り返す。 古代寺院の門や塔には外に欄干もまわるが、床はなく、実用に供用されてはいない。

  

法隆寺 中門 梁行断面図 奈良六大寺大観 第一巻 法隆寺一 より     法隆寺 五重塔 断面図

 

  

法隆寺 五重塔  三重 平面図および断面図        日本建築史基礎資料集成 十一 塔婆Ⅰより  図は転載編集

 

 上層に床を張り、用に供するのは、遺構では鹿苑寺 金閣が最初と考えられる。より実用性が強くなるのは、後の城郭建築。

 

               

参考 城郭建築の多層工法

 室町時代後期になると、中央政府の力が弱まり、各地の武士が群雄割拠の様相を見せはじめ、領地拡大の戦乱が頻発、その拠点として城郭建築が建てられるようになる。

 城郭の要件は、領地一帯を見渡すことができる望楼の役割を持ち、同時に万一の場合には立て篭もり防備に専念できること。 そのため、できるだけ標高の高いところを選び、防備のために石垣で基壇(天守台)を築き、その上に可能な限り高い建物:天守が建てられるのが普通であった。 なお、土台は城郭建築において考案されたと考えられている。

 

丸岡城  1576年(天正4年) 所在 福井県丸岡町 

 

平面図 下より一層、二層、三層   上:桁行断面図 下:梁行断面図 建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより

 

 丸岡城は、現存最古の城郭で、当初、石垣で天守台を築き、天守は掘立柱で建てられていた。

 二層、三層は同一平面で、四隅の柱は通し柱、三層の床梁は丸太で側柱(管柱)に差口で取付く(鹿苑寺 金閣に同じ)。三層では通し柱間の内法レベルに入れた飛貫で小屋梁を受ける。

 

 松本城  1594年(文禄3年)~1597年(慶長2年)

 松本城 平面図 断面図 建築史基礎資料集成十四城郭Ⅰより 

 松本城は、平地に天守台を築いた平城。 先ず、地盤面から天守の土台を支える支持柱を建て、それを埋めながら天守台が築かれている。 ここでも、通し柱、飛貫が活用されている。

 城郭建築では、各地域の職人も重用されたため、上層階級の建築技術と一般の建築技術が融合して用いられている。

                       

 ここまで、1200年代:鎌倉時代に入ってからの現存遺構について、主な寺院建築および禅宗寺院のなかに生まれた方丈建築について簡単に観てきました(住居の遺構は存在しません)。

 鎌倉時代の主な寺院は、平安時代から受け継がれた密教系(天台宗、真言宗)の寺院と、新たに移入された禅宗系の寺院です。このうち、密教系の寺院は、畿内だけではなく広く全国各地域に数多く建てられ、禅宗様の寺院は武家の帰依を受けたこともあり、政治の中心地に多く建てられます(時が経つと各地域にも広まり、また、形体上の影響も見られるようになります)。

 密教系の寺院の多くは、前代までに確立していた二重屋根・野屋根・桔木(はねぎ)の技法を用いた架構法を採り、それに寺院のシンボルとなっていた斗栱(ときょう)を装飾的に取付ける方法が一般的で、鎌倉初頭につくられた再建・東大寺のつくりかた:大仏様が継承された気配はうかがわれません。

 その点では、わが国の古代以来の寺院建築の建設の歴史の中では、再建・東大寺:大仏様は、むしろ特異であったと言えるでしょう。実際、大仏様の考え方:架構=空間を実施に移した建物は、東大寺以外、皆無に等しいのです。

 禅宗様の寺院の特色は部材各部の独特な形状にあり、そのためそれは一般に影響を与えるものではなく、禅宗系寺院に限られると言っても過言ではありません。また、技法的にも、意匠を優先し、構造的な視点を欠くきらいがあったことも否めません(前出、東福寺・三門参照)。

 このように、鎌倉時代の寺院建築は、禅宗様を含め、古代以来の「寺院」というしがらみを脱することができなかったのです。

 一方、禅宗寺院に生まれた方丈建築は、寺院の本堂とは異なる道を歩みだします。

 方丈は、すでに触れたように、どちらかといえば居所・住居的な性格の強い建物です。ここでは、寺院本体と同じく二重屋根・野屋根・桔木によるつくりかたを採っていますが、桔木の利用で役割をなくした斗栱を装飾的に付けることはしていません(前出の龍吟庵 方丈の例のように梁を虹梁風に見せかけることは行なわれます)。方丈建築で使われている古代以来の技法は、肘木だけです。肘木は横材:梁・桁を柱上で継ぐには不可欠な部材だからです。

 この方丈建築のつくりかたには、当時の寺院以外の一般の建物のつくりかたが関係していると考えられます(当時の住居など一般の遺構は存在しませんから推定です)。 そして、このような寺院イメージのない方丈建築は、その後の一般の建物にも影響を与える特徴を持っていたことはすでに簡単に触れました。

 そこで、方丈建築の架構の特徴をまとめてみると、次のようになります。

1)基準柱間6尺5寸~7尺、柱径約5寸、間仕切のほとんどを開口装置とする。

 平面図で明らかなように、方丈建築では、柱間は開口装置だけで内法:鴨居上の小壁以外にはほとんど壁がないことが分ります。しかも、寺院建築に比べ、柱は太くありません。このことは、壁を、架構の自立を維持するための不可欠な部分としては考えていないことを示しています。

註 これは、方丈建築に比べれば柱が太い古代以来の寺院建築にも共通する特徴です。古代寺院、中世寺院の平面図を見ると、方丈建築に比べると壁が比較的多くあります。ただ、それらの壁は、空間をつくりだすための壁:空間構成上必要な壁であって(たとえば、仏像の背面として、籠(こも)ることのできる空間をつくるため、など)、架構上必要とは考えられていないのです。

 このように、方丈建築が細い部材でありながら、間仕切を建具になし得たのは(柱間を開放的になし得たのは)、その架構法によると考えられます。そこで、その架構の特徴を詳しく見ることにします。

 

2)束立て小屋組の上屋+四面桔木の下屋からなる架構

 方丈建築も、平安期以降の寺院建築と同じく、二重屋根・野屋根・桔木による架構法を採っています。ただ、寺院建築とは、異なる点があります。

 方丈建築では、本体の四周に桔木によってつくられる庇部が、均等に設けられていることに注目する必要があります(重要なのは、四面にまわっていることです)。

 たとえば龍吟庵 方丈では、室中(しっちゅう)上部は大梁上に束立組の小屋を架けていますが、室中を囲む広縁、下間(げかん)、上間(じょうかん)そして北側の室の上部には、先の束立組の小屋組足元を基点として、これら諸室にかぶさる形で桔木による庇部が架かっています(基本的には、他の方丈建築も同じです)。

 

 これを三次元的に見てみると、室中をかたちづくる柱と梁・桁で構成された立体格子の四周に、桔木によって構成されたロの字型の鍔(つば)が設けられた形になり、建物上部の平面的な変形を防ぐ働きをしていることになります。

 しかも、この庇部は、垂直断面で見ると、桔木と繋梁あるいは化粧地垂木(天井)とで直角三角形を形成しています(下図)。その結果、室中部の架構上部を三角柱が取り囲むことになり、室中部の立体格子の各側面:垂直面の変形を防ぐ、つまり立体格子を垂直に維持する働きもしていることになります(庇が水平で三角柱をつくらなければ、この働きはありません)。これは軒の出の確保が主たる目的の寺院建築の桔木による庇部とは大きく異なる点と考えてよいでしょう。

 龍吟庵 方丈 桁行断面 

 

梁行断面図

日本建築史基礎資料十六書院Ⅰより転載・編集

 

 また、方丈建築では、建物全面に床が張られます。この時代の床組は、ほぼ現在と同じで、束立ての大引上に根太を転がし床板を張っています。床板の厚さは1寸程度が普通です(龍吟庵 方丈では8分)。そのため、床面自体が平面的に変形することは先ずあり得ません。

 さらに、柱通りの大引は柱相互をつなぐ足固貫として扱われ、直交方向では根太が繁く架かり、柱相互をつなぐ役割を担っています(後に、直交する柱通りにも足固貫を入れるようになります)。

 柱、束柱は礎石建てで礎石の上に置かれるだけですが、摩擦で一定程度は拘束され、さらに床面レベルを貫で縫われていますから、柱が礎石からずれることは簡単には起き得ません。

したがって、三次元的には、床から地面までの空間は単なる隙間ではなく、いわば地面と床面に挟まれた立体格子になっていることになります(上図)。 

 つまり、方丈建築は、主要部の立体格子の上部は桔木による庇部の働きによって、下部は床組の働きによって、立体的な形状が維持されていることになり、しかも、立体の側面にあたる間仕切部の軸組には数段の貫が設けられますから、立体格子はより一層安定し、それゆえ間仕切をすべて開口装置でまかなうことができるようになったと考えることができます。 

 以上のような方丈建築で練られた架構法は、近世の寺院建築、客殿建築、書院造に発展しながら引継がれてゆき、安土桃山~江戸初頭の西本願寺などの巨大な建築群も、この架構の考え方の発展系と考えることができるでしょう(ほとんどが、壁のないつくりになっています)。

 


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