(Ⅱ-2.2 より続きます。)
参考 天平時代建立(こんりゅう)の東大寺大仏殿の地震履歴
当初の東大寺・大仏殿(金堂)は、天平勝宝3年(751年)完成。 治承4年(1180年)12月28日の焼失まで、現大仏殿所在地に建っていた。
礎石から平面は桁行7間、梁行3間の母屋(もや)(身舎)の四面に庇(ひさし)、裳階(もこし)を設け、高さは、諸種の文書の記録から15丈(150尺)と推定されている。
下図の黒線描き部分が現状平面。茶色描き部分が天平期の推定平面。
平面図・年表は奈良六大寺大観 第九巻 東大寺 一より抜粋、編集
下の年表では、大仏殿本体に係わる補修工事等の記録に着色してある。落雷、風害の記事が見える。
法隆寺 東院 伝法堂 761年以前の創建 七間二面建物(切妻) 所在 奈良県斑鳩町 法隆寺 東院内(57頁参照)
図・写真は日本建築史基礎資料集成より 分解図は文化財建造物伝統技法集成より
現在は、創建当初の形に復元。床は板張り。
西南外観 長押は、平側では頭貫位置および床位置の2段。妻面では、床位置のみ。下図分解図参照。頭貫レベルで柱間に横材が入る。 右図:南立面図および平面図
梁行断面図 桁行断面図
堂内 仏像安置前 西側から 堂内 仏像安置後 東側から
頭貫-大斗―繋虹梁―肘木―丸桁 仕口・継手分解図 床組分解図:床板は、厚3寸ほどの割材を、大引、根太は用いず、柱通の床桁に直接載せている。 床位置の長押(図では腰長押)と、開口部材の取合い。 奈良六大寺大観より
新薬師寺 本堂 750年ごろ創建 五間四面建物(入母屋) 所在 奈良市高畑町
新薬師寺本体ではなく、別院の仏堂と考えられている。二重屋根。見えがかりの地垂木は中国建築にならい断面が円形。
正面 古建築入門(岩波書店)より 正面図
堂内 日本の美術 196(至文堂)より 平面図
側面図 桁行断面図 図は日本建築史基礎資料集成 仏堂Ⅰ より
梁行断面図 日本建築史基礎資料集成 仏堂Ⅰ 所載図面を編集
版築の基壇の上に礎石建て。床は張られていない。 長押は、開口部上のみに設けられ、長押というよりも、開口部の上枠の役割の方が大きい。 野垂木、地垂木とも、屋根の重さを担うに十分な太さを持ち、さらに登り梁をも架けている。 構造材が重複し、野屋根方式への前段階と考えられる。
参考 法隆寺 寺域図 奈良六大寺大観 第一巻 法隆寺 一(岩波書店)より
方位は左が北 (青文字は投稿者によります。)
法隆寺は、当初の伽藍が焼失し、その後建てられたのが現存の建物である、とするのが現在の学説である。
現在の法隆寺の軸線は、南北軸よりも東に寄っているが、当初の伽藍:通称若草伽藍の軸線は、現在の伽藍の軸線よりも更に東へ傾いている。
若草伽藍の建設は、平城京の条里制施行以前であり、この若草伽藍の軸線は、下の航空写真上の黄線の方向、すなわち背後に連なる生駒山系の重心へ向いていることから、当初は、南北軸のような方位によるのではなく、敷地自体が備えもつ方向性に順じて建物が構えられたと見ることができる。
再建にあたっては、条里制に若干歩み寄ったため、振れが減ったのではないかと考えられる。
方位に拠る軸線の設定は、通常、方位以外に定位の基準が求めにくい地域、あるいは地域の統制者が自らの権威を顕示する(植民地につくられる都市など、自然をも支配する力を持つことを示す・・)場合に行なわれることが多い。 日本では、古来、敷地自体が備えもつ方向性に順じるのが普通であり、条里制は仏教とともに中国から伝来した方式である。
また、中国の都市は、通常、城壁で都市を囲い(羅城らじょう)、それに倣い平城京でも試みられたが、実際には羅城門だけ築かれ、囲い:城壁は築かれなかった。 羅とは、連ねる意:羅列の羅、城には柵の意がある。羅生門は羅城門から転じた語。
奈良盆地、法隆寺・東大寺周辺航空写真 東大寺の西に平城京跡 上が北 googleマップ (黄文字・線は投稿者によります。)
法隆寺界隈 右の黄線は若草伽藍 軸線を示す。左は、現在の参詣道:軸線。(黄文字・軸線は投稿者によります。)
参考 東大寺 寺域図 方位は上が北 奈良六大寺大観 第九巻 東大寺一より
東大寺伽藍の敷地は、上の図の等高線の不自然な曲折からわかるように、東側に拡がる山塊:若草山の麓を条里制に合わせて切土して造成された。回廊西側の戒壇院などのあたり、東側の二月堂~法華堂のあたりは自然地形のまま。
(青文字は投稿者によります。)