「日本の木造建築工法の展開」
PDF「Ⅰー2住まいの基本の形, 3既存の地物や近隣への作法」 A4版7頁 (PCの方は、左上の「開く」をクリックし、さらに「Word Onlineで開く」をクリックしてください。)
Ⅰ-2 住まいの基本の形・・・・住まいは、建物づくりの原型
最近、住宅を言い表すときに3LDK、2DKなどという言い方をします。これは、住宅とは、生活に必要な部屋数とL(living room)、D(dining room)、K(kitchen)の組み合わせ方で決まる、という考え方が広まっているからだと思います。そのため、全体の面積の大小にかかわらず部屋数の確保にこだわり、部屋の大きさが小さくなる例をよく見かけます。
しかし、元来、住まいの持たなければならない基本的な性格は、大地の上に(あるいは世界の中に)、自分たちが安心して閉じこもることのできる空間を確保することにあります。その空間から外の世界へ出てゆき、そしてふたたびそこに帰ってくる、生活・暮しの根拠地・拠点、拠りどころとなるかけがえのない空間、と言えばよいでしょう。この視点に立つと、見え方が変ってきます。
そのような空間をどのようにつくるかは、地域により、そして暮しかたによって異なります。
遊牧生活の人びとは、旅の先々で根拠地を簡単につくれる折りたたみ式のテントが住まいです。 ある場所に定住して暮すならば、木の豊富な地域の人たちは木でつくり、木のない地域では土でつくり、石が得やすい場所では石でつくる、つまり、身近で得られる材料で空間をつくるのです。
下の図と写真は、敦煌近在の農業用水路(運河)沿いの集落で見た普通の農家の住宅ですが、主要部は土でつくられています。このつくりかたは、現在も黄土高原では普通に見られます。
この住居は、まず四周の囲い:塀をつくることから始まります。 足元の地面の土を練り形枠内に5~10cmほど詰めて叩き締め、それを繰り返してゆく版築(はんちく)が普通ですが、日干し煉瓦を積む場合あります。註 版築は、日本では奈良時代に地盤造成に使われた。また、築地塀にも実例を見ることができる。
塀には出入口が一箇所あり、塀が所定の高さまで達すると(3m程度)、出入口には頑丈な木製の板戸が取付けられます。 その段階で、部屋がつくられていなくても、暮し始めます。安心していられる場所が確保され、そこでテントを張ってでも暮してゆけるからです。房(室)はゆっくり時間をかけてつくってゆきますが、土の壁に楊樹(ようじゅ)の丸太を架け、屋根がつくられます。
写真説明 上段 版築の様子(別の住居の塀の新築中) 中段 上掲の住居の塀(囲い)の内側 下段 上掲の住居の房(室)の内部
下は、兵庫県の中国山地にあるわが国の最も古い住宅遺構の一つ、古井家(所在地 兵庫県宍粟(しそう)市安富、室町時代末:15世紀末建設)の平面図と外観及び内部の様子です。
建物は壁で塗り篭められていて、主出入口は一つ、窓は小さく閉鎖的な空間です。この建物の屋根を取り去ると、中国西域の住宅と同じような塀で囲まれた空間が表れます。
南 面 日本の民家農家Ⅲ (学研)より 平面図 日本の民家 農家Ⅲ (学研)より
東~北面 桁行断面図 日本の民家農家Ⅲ (学研)より
おもて 西面を見る にわからちゃのまを見る モノクロ写真は 古井家住宅修理工事報告書 より
この二例は、住まいとしての基本は同じで、材料と屋根の有無が違うだけと見ることができます。中国西域が雨の多い地域ならば、囲いの上全部に屋根をかけるつくりになっているでしょう。
上の図に、住まいの原初的な例を集めてあります(川島宙次著 滅びゆく民家 より)。
①の出作り(でづくり)小屋というのは、焼畑(やきはた)農業が盛んであったころ、麓の住まいからの往復の手間を省くため、高地にある営農地のそばに建てた仮の小屋です。
これらに共通していることは、いずれも出入口が一つの一室:ワンルームの建屋であり、そのワンルームの中を、暮しの場面に応じて使い分けていることです。
その使い分けは、出入口との位置関係で、おおよそ、A、B、Cの三つのゾーンに分かれることが読み取れます。そしてそれは、神社の構成にも言い得るのです。神社は神の住まう家だからです。そのうち①②③では三つのゾーンは明確な仕切りで区画されていませんが、④⑤ではAとB、Cは、目に見える形で区画されています。
ここに載せた例は、いずれも川島宙次氏による調査に基づいた記録ですが、おそらく縄文・弥生期の竪穴住居もまた同じような使われ方、使い分けがされていたものと考えられます。
これらの例は、ワンルーム自体が小さい場合ですが、規模が大きくなると、はっきりとした間仕切でゾーンが区画され、部屋として分化します。その場合、初めに分化するのはCのゾーンです。
左頁の古井家の平面図で、にわは土間、おもては板の間、ちゃのま、なんどは竹すのこ敷きで莚(むしろ)を敷いていたようです。にわとおもての境は板戸が1枚開くだけ、にわとちゃのま境は常時開いています。なんどへはちゃのまからしか入れません。
このことから、にわはAゾーン、ちゃのまはB、そしてなんどがCという使い分けで、家人の日常の暮しは、主に、にわ、ちゃのま、なんどで営まれていたと考えられます。
この建物の建てられた頃(15世紀末)、古井家は村役を務めていて、主に接客用(武家の接待)に使われる特別なゾーンDとして「おもて」が設けられていたのです。これに対して、先にあげた五つの例は、規模も小さく、家人の暮しだけを考えればよいため、Dのゾーンは必要ないのです。 現在でも、農家の住宅には、寄合いなどを目的としてDのゾーンを設ける例を見かけます。
このように、古い時代の日本の住居の建屋は、一般に閉鎖的な空間になっていますが、同じ古い時代の建屋でも、寝殿造と呼ばれる上層貴族の住宅の建屋は、きわめて開放的なつくりです。
下の図は、9世紀に建てられた藤原氏の邸宅東山三條殿(ひがしやまさんじょうどの)の復元平面図と、寝殿造での生活を描いた源氏物語絵巻の一部です。建屋の四周は、絵のように、ほとんど開放されています。
日本建築史図集(彰国社)より
このような開放的な建屋がつくることができたのは、敷地全体が塀で囲まれているからです。塀の中は自分たちだけの世界になり安心して暮せるため、建屋を開放的にすることができるのです。
農家の住宅でも、中世から近世になるにつれ、屋敷を塀や生垣、防風林などで囲み屋敷を構えるようになり、それとともに建屋が開放的になってきます。農家住宅に多い一文字やL字型の縁側は、屋敷の確立とともに現われます。屋敷の中では気がねなく振舞うことができるようになったからです。
屋敷構えがある場合には、建屋だけが住まいなのではなく屋敷全体が住まいなのです。
以上見てきたことから、住まいをつくるときに考えなければならない要点が見えてきます。それを要約すると、次のようにまとめられます(それは、建物づくり一般に共通する原理でもあります)。
① 住まいの基本は、安心していられる空間:ワンルームを、外界の中に確保すること。 ② ワンルームの大きさ:面積は建設場所:敷地の大きさによって違う。 ③ ワンルームには、外界に通じる出入口:玄関を一つ設ける。 ④ ワンルームの中の使い分けは、出入口との(心理的な)位置関係で自ずと決まる。 ⑤ 使い分けが間仕切られて部屋になるかどうかは、ワンルームの大きさにより決まる。
ワンルームの大きさには、これでなければならない、という推奨値はありません。建屋の大きさは、敷地の大きさと予算で決まりますから、あらかじめ決めた部屋数を、建屋の大小にかかわらず設けようとすると、たとえば、小さな建屋に部屋数をそろえようとすると、部屋が小さくなり、使い勝手が悪く、暮しにくく、転用もできなくなってしまいます。
それゆえ、間取りを考えるにあたっては、次の手順を踏むことが望ましいのです。
① 建屋の大きさに応じた使い分け方:暮し方を考える。 ② その結果、どのような部屋が分化してくるか考える。
しかし、このような建物を、人々は好き勝手につくったのではありません。常に、建物をつくる場所にある既存の地物や、すでに暮している人びとに対して気づかうことを当然としています。人びとの間には、ある場所で暮してゆく上の了解事項・作法があったのです。
Ⅰ-3 既存の地物や近隣への作法・・・・心和む町並はどうして生まれたか
1970年代ごろから、町並の景観や修景などが大きな話題になってきます。日照権をめぐる裁判、景観悪化をめぐる騒動なども、このころから多発するようになります。
江戸時代の姿を残す街道筋や町並が伝統的建造物群として保存地区に指定される制度も、このころからです。
福島県 大内宿 長野県 妻籠宿 妻籠宿 その保存と再生(彰国社)より
このことは、逆に言えば、新しくつくられる建物が、隣人に迷惑をかけ、景観・町並を乱すつくりになる例が増えてきたことを、人びとが身をもって知り始めたことを示しているのです。
このため、建築にあたっての条件を規定した建築協定などを設ける例が増えています。協定のなかみは、たとえば壁面の境界線からの後退距離の指定、街路側の建物の高さの規定、屋根材や壁材など外装材の指定、外装の色彩の指定、あるいは塀や垣根の指定、などです。
しかし、その協定に従うことで、かつての町並同様の質を確保できるか、というと、必ずしもそうではないことは、いくつかの事例で明らかです。
奈良県橿原(かしはら)市の今井町(下図)は、伝統的建造物群保存地区に指定され、改造・改修・新築にあたり、少なくとも見える部位は、重要文化財に指定された建物に似た外観にすることが求められます。
その結果、あたかも時代劇のセットのようになり、その町で現在暮す人びとの活き活きとした生活の息吹きが感じられない町になってしまいました。
今井町町並図 日本の民家 6 町家Ⅱ(学研)より
大内宿や妻籠宿など、他の伝統的建造物群保存地区に於いても同様な事態が生じています。また、建築協定の下で開発された新興住宅地も、それによって町並の質が向上したとは言いがたいのが現状です。
建築協定などを制定しても、かつてのような町並が生まれないのはなぜなのでしょうか。
それは、それらの方策が、町並の成立過程についての認識を欠いているからなのです。町並は、ある時突然できあがるものではなく、長い年月をかけてつくられるのです。別の言い方をすれば、常に変貌をとげるのが町並なのです。
建物の外観を過去の時代につくられた建物の形に似せるということは、この時間の流れを止めることに等しく、その結果、「現在」の感じられない時代劇のセットを思わせてしまうのです。
一方で、地域によると、江戸時代末に建てられた建物から、昭和初期の建物に至るまで、各時期につくられた建物が町並をつくっている町が残っています。関東近辺では、群馬県桐生市、栃木県栃木市などが例として挙げられるでしょう。
そこでは、江戸時代に建てられた商店があり、明治時代の土蔵造があり、大正から昭和にかけて文様を打ち出した鉄板で被った建物があり、あるいは煉瓦造があるなど、材料も形も色彩もさまざまな建物が並び、しかし、好ましい雰囲気を醸しだしています。
質のよい町並をつくる要件は、使っている材料や、形や、色彩・・・ではないのです。
質のよい町並が生まれるための建物づくりの要点は、建て主と設計者のマナーにあると言えるでしょう。
それは、新に建物をつくるにあたって、建て主ならびに設計者は、そのときすでに敷地周辺にあるもの、それは、隣地の人の住まいかもしれず、樹林かも知れませんが、その存在を尊重する、というマナー:作法、すなわち、向う三軒両隣の存在を尊重する、ということです。
隣人は、そこですでに長いこと暮しています。樹林はそこで長い間生きています。ことによると鳥や昆虫などの棲家かもしれません。
それを、新しい建て主はもちろん設計者も、無視してよいという理由はどこにもありません。
そしてそれは、それを規制する法律があるかどうか、法律がないから構わない、と言った類の判断ではないのです。それ以前の判断、それを越えた判断、それゆえに作法:マナーなのです。
実は、これは目新しいことではなく、近世までの人びとにとっては、あたりまえのことでした。しかし、明文化されていたわけではなく、人と付き合いながら暮してゆくための、互いの暗黙の了解、不文律だったのです。
たとえば、〇 自分の暮す土地に降った雨の処理は、その土地の内で処理する 〇 隣家の開口部が、これから自分が建物を建てる敷地の方に向いて開いているのならば、その暮しぶりを損なわないように工夫する 〇 隣家の井戸があれば、その近くには厠は設けない・・・ 〇 近隣の人びとから愛でられている地物(樹林や風景など)があったならば、その存在を存続させるように努める などなど。 これらの不文律は地域によってさまざまで(雪が多い、風が強い・・などの特徴)、明治政府の制定した民法は、それらを採集・編集したものと言われています。
下の図は、京都の指物屋(さしものや)町の町家の間取りを並べた地図:連続平面図(文化5年:1808年ごろ)です。 この町並は、もちろん、一時に完成したわけではありません。 それぞれの家が、似たような平面になっていますが、もちろん、そのようにしなければならない法律や規制があったわけでもありません。
それぞれの家が、隣家の暮しの存在を尊重しつつ、長年にわたってつくってきた、その結果生まれた町並なのです。
文化5年:1808年ごろの指物屋町 連続平面図 図集 日本都市史(東京大学出版会)より
この中の、どの家が最初につくられたかは分りませんが、このように全区画に家が建ち並ぶまでには、相当時間がかかっています。
最初につくられた家の隣に建てる人は、そのときすでにある隣家の暮しを尊重し、その隣に建てる人もすでに建っている隣近所の暮しを尊重する、・・・、人びとが皆、向う三軒両隣の暮しの存在を尊重して新築する、その繰り返しが続いて、結果としてこのような町筋ができあがったのです。
そして、ある時間が過ぎ、最初のころに建った家の建替えの時期がくる。そのときにはまわりには隣家が建っている。そうなると、建替える人は、隣家の暮しを尊重する・・・。この繰返しが続いたとき、町家の間取りに一つの定型が現れてくるのです。
コンプライアンス:法令遵守ということが盛んに言われます。しかし、法令の遵守だけでは、決して、かつてのような、百年後あるいは数百年後、昔の人はこんな素晴らしい建物を、こんな素晴らしい町並をつくった、と称賛される建物や町並は生まれません。
ここであらためて、この大地の上で、人が暮すとはどういうことだったのか、住まいとは何だったのか、立ち止まって考えてみることは、無意味なことではないと思います。
Ⅰ-2, 3 了
投稿者より:次回は「目次」の末尾にあります、「付録1若い方がたのために, 2」を掲載する予定です。
下記は全20頁あまりですが、歴史的事柄が過半を占めます。 詳細については、建築各部位名で「ブログ内検索」をして頂けたらと思います。