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夜が白みかけるころ、藪でコジュケイがけたたましく啼きかわす時季になりました。
丘の縁の梅も満開に近くなってます。春は確実に近づいています。
「復興」という「ことば」を、最近よく目にし、耳にします。東北~関東の「震災(地震・津波・原発)」から五年が過ぎる日が近付いてきたからです。
そこで言われ、書かれていることは、多くは「鉄道・道路が復旧した」、「魚市場が復旧・再開した」などの「復興」の姿です。そこに私は違和感を感じています。
たしかに、「復興」について、辞書には「(一度衰えたり壊れたりしたものが)もう一度盛んになること」(「新明解国語辞典」)「ふたたびおこること、また、ふたたびおこすこと」(「広辞苑」)とあります。また、和英辞典で「復興」をひくと「reconstruction、revival」とあります。どちらも「再建」の意が強い。その意味では、「鉄道・道路が復旧した」、「魚市場が復旧・再開した」をもって「復興」と見なすのは間違いではありません。
ただ、これが「字の通りに通用する」のは、地震・津波による被災の場合です。
福島の「原発事故による被災」の場合、外見上はまったく破壊もない場合が多い。家も周りの環境も、外見上は何も変っていない。しかし、人びとを苦しめているのは「目に見えない代物」すなわち、「放射能」。
これは、地震、津波がもたらしたものではない。「何があっても安全だという信仰・盲信」の下につくられた人工物:「原発」が「想定外の事態」によって爆発したのが発生源、つまりまったくの「人為的産物」(しかも、事故が起きれば重大にして過酷な状況が生じるであろうことは重々「承知」されていた、つまり想定内・・・)。
ではいったい、この場合に「復興」とは何か?
この場合には、「復興」という語は意味を為さないのです。
この場合に必要なのは、reconstruction:復興・再建 ではなくrehabilitation ではないでしょうか。
福島以外も同じですが、特に福島は厳しい。後掲の新聞の特集をご覧ください。
rehabilitationとは、「 habilitation を再び獲得すること」です。habilitation とは、「資格」「能力」というようなニュアンスがあり、英和辞典には、rehabilitation には、社会復帰、復権・・・の意とあり、次いで「復興」の意もある、とあります。
つまり、原発事故の被災者は、単なる外見上の「復興」ではなく、「その地で当たり前に暮す権利の復活」を望んでいるのです。それは、その地で暮す人びとが、その地で暮らすべく、営々として築き、培い、獲得した権利、その復権です。
そして、その意味の rehabilitationは、医療の場合のそれと同じく、本人の意志と、適切な支援が必要なのです。
身体に何か不都合が生じた。医療で外見上不都合は治った。たとえば、動かせなかった手足を動かせるようになった。それで本当に治ったわけではない。それだけで、自由自在に手足を駆使できるようになったわけではない。自由自在に駆使するための訓練が必要です。その「訓練」が、いわゆるリハビリ(テーション)なのだ、と言えばよいでしょう。
いわゆるリハビリについては、「回帰の記」に私見を書きましたのでご覧ください。
そこでも触れましたが、リハビリには、本人の復権への強い意志と、適切な助言を提供してくれる支援(医療の場合は、療法士や介護士などによる支援:サポート)が必要なのです。
ところが、被災地に於いて、reconstruction には熱心であっても、rehabilitation がおざなりになっているのが実情なのではないでしょうか。それでは、人びとの意志も消耗してしまうのです。
かと言って、私に今何ができるか?
せいぜい、実際の情況:実情を間違いのないように知ること・・・。そして知ったことを多くの知らない方がたにも知ってもらうこと。そのくらいのことからしかできない。
一週間ほど前の毎日新聞に、福島の情況を伝える特集が載っていましたので、web 版から転載させていただきます。
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丘の縁の梅も満開に近くなってます。春は確実に近づいています。
「復興」という「ことば」を、最近よく目にし、耳にします。東北~関東の「震災(地震・津波・原発)」から五年が過ぎる日が近付いてきたからです。
そこで言われ、書かれていることは、多くは「鉄道・道路が復旧した」、「魚市場が復旧・再開した」などの「復興」の姿です。そこに私は違和感を感じています。
たしかに、「復興」について、辞書には「(一度衰えたり壊れたりしたものが)もう一度盛んになること」(「新明解国語辞典」)「ふたたびおこること、また、ふたたびおこすこと」(「広辞苑」)とあります。また、和英辞典で「復興」をひくと「reconstruction、revival」とあります。どちらも「再建」の意が強い。その意味では、「鉄道・道路が復旧した」、「魚市場が復旧・再開した」をもって「復興」と見なすのは間違いではありません。
ただ、これが「字の通りに通用する」のは、地震・津波による被災の場合です。
福島の「原発事故による被災」の場合、外見上はまったく破壊もない場合が多い。家も周りの環境も、外見上は何も変っていない。しかし、人びとを苦しめているのは「目に見えない代物」すなわち、「放射能」。
これは、地震、津波がもたらしたものではない。「何があっても安全だという信仰・盲信」の下につくられた人工物:「原発」が「想定外の事態」によって爆発したのが発生源、つまりまったくの「人為的産物」(しかも、事故が起きれば重大にして過酷な状況が生じるであろうことは重々「承知」されていた、つまり想定内・・・)。
ではいったい、この場合に「復興」とは何か?
この場合には、「復興」という語は意味を為さないのです。
この場合に必要なのは、reconstruction:復興・再建 ではなくrehabilitation ではないでしょうか。
福島以外も同じですが、特に福島は厳しい。後掲の新聞の特集をご覧ください。
rehabilitationとは、「 habilitation を再び獲得すること」です。habilitation とは、「資格」「能力」というようなニュアンスがあり、英和辞典には、rehabilitation には、社会復帰、復権・・・の意とあり、次いで「復興」の意もある、とあります。
つまり、原発事故の被災者は、単なる外見上の「復興」ではなく、「その地で当たり前に暮す権利の復活」を望んでいるのです。それは、その地で暮す人びとが、その地で暮らすべく、営々として築き、培い、獲得した権利、その復権です。
そして、その意味の rehabilitationは、医療の場合のそれと同じく、本人の意志と、適切な支援が必要なのです。
身体に何か不都合が生じた。医療で外見上不都合は治った。たとえば、動かせなかった手足を動かせるようになった。それで本当に治ったわけではない。それだけで、自由自在に手足を駆使できるようになったわけではない。自由自在に駆使するための訓練が必要です。その「訓練」が、いわゆるリハビリ(テーション)なのだ、と言えばよいでしょう。
いわゆるリハビリについては、「回帰の記」に私見を書きましたのでご覧ください。
そこでも触れましたが、リハビリには、本人の復権への強い意志と、適切な助言を提供してくれる支援(医療の場合は、療法士や介護士などによる支援:サポート)が必要なのです。
ところが、被災地に於いて、reconstruction には熱心であっても、rehabilitation がおざなりになっているのが実情なのではないでしょうか。それでは、人びとの意志も消耗してしまうのです。
かと言って、私に今何ができるか?
せいぜい、実際の情況:実情を間違いのないように知ること・・・。そして知ったことを多くの知らない方がたにも知ってもらうこと。そのくらいのことからしかできない。
一週間ほど前の毎日新聞に、福島の情況を伝える特集が載っていましたので、web 版から転載させていただきます。
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