今日は立春。しかし、春は名のみの風の寒さよ・・・。まさに、「早春賦」の詩の通り。
朝夕の散歩、陽光は春の気配ですが、風の冷たさが応えます。
しかし、その寒風のなか、沈丁花は、葉は少し霜で焼けていますが、咲く準備が整っているようです。
もうすぐ大震災から五年になります。被災地の復興はままならないようです。
先日の新聞に、現地で行われている高台移転事業の実態についての記事が載っていました。
それを読んで、私は二点ほど違和感を感じました。
一つは、この高台移転は、「限界集落」を造っているようなものだ、というもの。
移住するのは高齢者が主。若い世代が欠けている・・・。直ぐに、廃屋の街になるのではないか・・・。
「限界集落」というのは、人口構成が、高齢者が主で、いずれ人が居なくなる:消えゆく運命にある集落、ということらしい。
誰が名付けたか知りませんが、ずいぶんと冷たい言いようです。これでは救いがない。
第一、それを言うなら、少子・高齢化の進んでいる日本という国自体が「限界」ではありませんか。「限界国家」・・・。
もう一つの違和感は、津波対策は、高台移転だけなのか、ということ。
これは、津波の高さ以上の堤防を造るというのと同じ発想。高台のないところはどうする?
確か、南海地震の津波に襲われることが想定される四国のある町は、高台が近くにないので、被災想定地域の各所に、人工の高台:津波に耐えられる(櫓のような)構築物:避難所を用意しておくことを考えているとのこと(既存の中高層の建物も利用するらしい)。
この方策の方が優れているように思えます。なぜなら、人々の現在の暮しの様態を損なう恐れが少ないからです。
要は、こういう計画は、計画立案者が、人々の「暮しのリアリティ」にどれだけ思いがいたるか、ということに尽きるのだと思います。