Quantcast
Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
Viewing all articles
Browse latest Browse all 514

“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-17

$
0
0
前回からだいぶ間が空きましたが、その間に、自然界はツクツクボウシの時季になっていました。今日から再開します。


     
      *************************************************************************************************************************


   Crown post and king struts in timber buildings

     crown post 、king-struts については、先回を参照ください。

木造の建物で crown-post を用いた事例では、建設時期を1300年近辺まで遡り得る事例が一、二ある。
fig44d( fig44 を下に再掲) のAYLESHAM の RATLING COURT の木造建屋( aisled 形式の hall に crown-post と king struts を併用している)は、13世紀の第四四半期(1275~1300年)~14世紀初頭の10年(1300~1310年)頃の建設と見なして何ら問題はないだろう。
hall 端部の king struts から collar :繋ぎ梁に至る brace :斜材を設ける工法は、EASTBRIDGE HOSPITAL の THE TABLE HALL と CHAPEL に於いても同様に使われている。

そういう事例がある一方、fig44c、fig45(下掲) のaisle 型式ではない CHILHAM の HURST FARM では、長いアーチ状の斜材が繋ぎ梁まで高く登り、二重の斜材で支えた先端を断ちきったような繋ぎ梁の変形のように見えるが、EAST SUSSEX WARBLETON の OLD RECTORY の事例とも似ていない。

   註 この部分の原文は以下の通りです。fig45 を見ても、truncated tie beam の意がよく分りません。 
     ・・・an arrangement which,like the use of a truncated tie beam with duplicate bracing below,is not dissimilar to features fonde at the OLD RECTORY・・・

この事例の屋根も、 crown post と scissor brace を併用しているが、形状は異なっている。ただ、この形状の屋根は、BRENCHLEY の OLD CRYALS ( CRYALS は固有名詞か?)や、LYNSTED の LYNSTED COURT の open hall など一・二の家屋でも使われている。
HURST FARM は、間違いなく1290~1310年頃の建設と見なしてよいが、その他は、それより若干遅いと考えた方がよいだろう。

    The relationship between crown posts and king struts

crown post は、13世紀末:1290年代にはケント地域ではよく知られていたし、14世紀前半には同地域で比較的広く使われていたというのも、長い間、いわば常識であった。しかし、CANTERBURY の宗教的な大建築に関わった大工職が、何故、居住用の建屋:住宅建築の屋根に crown post を使いたがらなかったのかは、分らずじまいである。
この地域の住居への初期の crown post 使用事例は、すべてが、secular buildings : 在俗司祭の住居 : か、rectory : 牧師の住居 : の hall の屋根である。13世紀後期~14世紀初期にCHRIST CHURCH PRIORY 、ST AUGUSTINE'S ABBEY によって建てられたおよそ20の住居(司祭や牧師の官邸と思われる)が現存しているけれども(いずれも CANTERBURY 域内かその周辺に在る)、1326年に建てられた MARGATE の SALMESTONE GRANGE (邸宅)の chapel の他には crown post の使用事例はまったくない。その後、漸く1400年前後になって、CHRIST CHURCH PRIORY 、ST AUGUSTINE'S ABBEY の関わる建築で、crown post を多用するようになるのだが、既にその頃ケント一帯では、crown post 工法は、ごくあたりまえの工法になっていたのである。
これらの事実は、ケント及び各地域での king-strut 工法 と crown post 工法についての新たな論議が起きて然るべきことを示している。何故なら他の工人たちの用いている工法にについて、まったく関心が示されないなどということは、工人の世界では通常あり得ないことだからである。ところが、CANTERBURY の工人たちは、彼ら独自の道を歩み、当時各地で発展していた新しい工法に、まったく関心を示さなかったのである。

CANTERBURY の大きな重要な建物のいくつかは、至る所で見られる crown post を用いた小さな建物群よりも早く建てられていると見なして間違いないだろう。そして、ケント地域ではcrown post を用いた住居用の建物が1290年代以前には見出せないことは、現存する king struts を持つ屋根のいくつかが、いずれも1200年代の早い時期の建設であることと符合する。しかしながら、crown post は、既に1260年代1270年代から英国各地で用いられており、そしてまたCANTERBURYの工人たちの屋根のつくりかたにも、king strutsから crown postへの構造的展開の経緯・過程が明確に読取れないがゆえに、両者の関係を単純に図式化して解釈することはできないのである。
CANTERBURYの宗教的建物は、大陸の影響を多く受けており、それゆえ、屋根のつくりにも大きな影響を受けたであろうことは想像に難くない。しかし、ケント地域でcrown post を用いようという動きは、これとは別の動向と言えるだろう。二つの可能性が考えられる。第一は、ケントの教会のcrown post 工法による屋根のつくりかたの影響である(ただ、その発展の経緯などは今のところ詳しく研究されていない)。もう一つは、イギリス各地の特にロンドン地域の初期の住居建築の影響である。ただ、当j所のロンドン地域の建物はほとんど喪失してしまっているから、その起源・経緯についても不明のままである。そして、このようなまわりの状況と関係なく、CANTERBURY の工人たちは、我が道を行き、長手方向の補強なしの屋根をつくり続けたのである。
   註 長手方向への方杖を設けず束柱だけ、の意と解します。日本ではあたりまえですが・・・。
そして、最終的には彼らもcrown post 工法を用いるようになるのではあるが、しかしそれは、英国南東部一帯でそれが一般的な造りかたになってから、かなり遅れてのことであった。

      ************************************************************************************************************************* 
 
以上で、crown post 工法、king struts工法の解説は終りのようですので、分量は少なく、先回の予告とも変りますが、内容の点で区切りがいいので、以下は次回にまわします。

   Base crucks and quasi-aisled construction in timber buildings
   The origins of base-cruck construction
この節は、crown post 、king struts工法と base-cruck construction工法 との関係の解説になります。
base-cruck は、彼の地では、構築法上、大きな影響力を持っていた工法であったようです。
このbase-cruck については、 The Last of the Great Aisled Barns -7 を参照ください。
また 「The Last of the Great Aisled Barns 」のシリーズは、 aisle 形式の諸相を紹介していますので、折りを見てご覧ください(下記)。

The Last of the Great Aisled Barns -1
The Last of the Great Aisled Barns -2
The Last of the Great Aisled Barns -3
The Last of the Great Aisled Barns -4
The Last of the Great Aisled Barns -5
The Last of the Great Aisled Barns -6
The Last of the Great Aisled Barns -8:最終回


   ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 
筆者の読後の感想

   ここまで読んだ限り、 crown-post の頭部の枝状の部分が、工人たちの間で、どの程度「構造的な意味」で考えられていたのか、よく分りません。
   印象として、ある頃から、工人たちの間でも、「構造」よりも、「形状」に関心が移っていったように思われます。
   もちろん、当初は、束とそれが支える部材:梁・桁とを強固に繋げるための斜材として工人たちが考え出した方策であったと思いますが、
   しかし、人びとは(工人たちも含め)、そうして生まれた形状に目を奪われたのです。かっこいい!
   これは、建築史上よくあることすが・・・。すなわち、当初の工人たちが予想もしなかった「形式化・様式化」の始まり。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 514

Trending Articles