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前回からだいぶ間が空いてしまいましたが、
今回は、以下の部分の紹介です。
Lower-end accomodation in stone houses
Layout and circulation
The first floor: access and accomodation
Subsidiary accomodation in stone houses : conclusion
Subsidiary accomodation in timber-framed houses
Cross wings
Evidence for secondary rooms in single-range structures
The form of early timber ends and the reasons for their disappearance
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Lower-end accomodation in stone houses 石造家屋の下手側の附属諸室について
Layout and circulation 諸室の配置と導線
現存する石造家屋の(下手側の)サービス諸室に供される側は、上手側とは異なり、一つの同じ屋根の下に hall の続きに並んで置かれることが多い。 CHARTHAM を除けば、CHRIST CHURCH PRIORY (修道院)の官邸全てがこの形式を採っていて、NURSTEAD COURT 、 HORD FARM も、そしておそらく IGHTHAM MOTE 、SOUTHFLEET RECTORY も同じと見てよいだろう。
石造家屋で下手側に附属棟を有する事例は僅か3例しか知られていない。すなわち、CHARTHAMの官邸、PENSHURST PLACE 、GALLANTS MANOR( fig30 、下図)である。しかし、SQUERRYES LODGE(平面図:fig5 下に再掲) についての言い伝えが正しいとするならば、そこにも13世紀の間に下手側に附属棟が建てられていたようである。
附属棟が hall の幅の内に配置されているからと言って、附属室の種類、規模などが限られていたわけではない。NURSTEAD COURT 、HORD FARMでは、附属室が梁間一つ以上にわたる痕跡は見当らず、COURT LODGE 、COPTON MANOR 、MERSHAM MANOR など CHRIST CHURCH の官邸のいくつかでは、下手側に二階建ての建屋が特別に付け加えられている。そしてまた、PENSHURST PLACEやGALLANTS MANORでも、同様な増補が為されているようだ。
また、hall と下手側の棟の間の壁には、三つの開口があり、両側の二つはサービスの部屋へ、中央は離れた位置にある厨房へ通じている例が多い。NURSTEAD COURT ( fig12 、fig29 下に再掲)には19世紀まで実在したし、また、PENSHURST PLACEやGALLANTS MANORでは、現在でも見ることができるだろう。
また、COURT LODGEのように、一つ屋根の主屋の内部には、諸室への出入口の付いた木造の間仕切りが設けられていた痕跡がある(現存しない)。 そこでは、現在は窓に改造されている出入口が外壁の中央部に設けられ、Memorandam Book が記しているとおり、食品庫と配膳室が別棟の厨房へ通じる通路で仕切られていたことが分る(fig17 fig31 :下に再掲:参照)。
Cliffe-at-Hoo の牧師館邸では、前世紀の SQUERRYES LODGE 同様、サービス部への出入口は2箇所しかないが、おそらく厨房は後側の 出入口から hall に通じていたものと思われる。
また、fig13(下に再掲) の IGHTHAM MOTEには、現在2箇所の出入口しか遺っていないが、hall の端部の壁の中央にある出入口から察して、当初は出入口は三つそろっていたと考えられる。
木造の間仕切の撤去は、小さく暗く暖房のない小部屋を、後に、大きく暖房された部屋に変えるためであったと思われる。また、サービス諸室が、hall に直交する建屋に設けられる場合には、低い天井を高める工夫がみられる。たとえば、SQUERRYES LODGEでは、軒先を支えるための過剰なほどの持出しが造られている。しかし、COURT LODGEやMERSHAM MANORの閉鎖された出入口の高さから考えて、一般に、特に(サービス部が) hall と同じ並びに配置される事例では、天井の高さは、当時のまま変らずに現在に引き継がれてきたと見なしてよいだろう。
サービス諸室の中でも特別な用途の部屋は、大きな chamber よりも、どちらかというとそれほどしつらえられていない solar に附属することが多いという Memorandam Bookの記録に留意しておく必要がありそうだ。そして誰しも、二階に用意される特別な用途の部屋は、家屋の下手側の上手側の諸室に比べて用途に合った適切な天井高を持つ食品庫と配膳室である、という「当時の家屋の典型」を思い描くことができよう。これは、solar の上部は、低い undercroft 上の上手側に置かれることの多い大きな chamber に比べると印象が薄い、ということでもある。しかし、事例が少ないから、これ以上のことは言えない。いくつかの事例では、よくしつらえられた建屋が家屋のサービス部側に直交して置かれている。端部の両側の壁がよく遺っている数少ない事例であるCOPTON MANORには、後世に閉鎖された窓と出入口により、当初の天井高が分るのだが、そこからは、その両側の地上階の高さが異なっていたことを示す痕跡は何もない。しかしながら、多くの記録や建築的な形跡を総合すると、この「典型」は、時代の一つの傾向であった、と考えてよいだろう。
The first floor: access and accomodation 階上へのアクセスと二階部分のしつらえ
二階部分の solar または chamber へ至る階段の存在を示す痕跡は断片的にしか遺っていない。COURT LODGEの場合は、階上へは、妻壁にある外部の出入口から入ることが明らかである。それゆえ、その側にある chamber 建屋にも同じく外出入口があった。おそらく、そこには、この二つの建屋にアクセスするために階段と木造のギャラリー:通路があったに違いない( 前掲の fig17、fig31 を参照)。COURT LODGEでは、solar は、 hall や上手側の諸室とは、まったく分離されていたことを意味する。おそらく、COPTON MANOR でも同様の配置になっていたものと思われる。そこでは、サービス部側にある増築建屋にある外出入口が、そこに、主屋と増補部共通の階段とギャラリー:通路があったことを示している( fig18:下に再掲:平面図参照 )。
これら二つのCHRIST CHURCH PRIORY (修道院)の官邸の下手側の諸室のような分散した配置のしかたは、OLD SOAR の上手側の諸室の配置と似ていないわけではない。しかし、Cliffe-at-Hoo の牧師館邸とGALLANTS MANORでは、hall 下手側の壁の後ろ側の出入口は、内部階段に通じているように見える。ただ、残念なことに、Cliffe-at-Hoo の牧師館邸のサービス部分はすでに存在せず、GALLANTS MANOR(平面図 fig30参照 )では、建屋の根太・梁を見ることができないので、はたしてそこに階段用に隙間が設けられていたのかどうか、分らない。
ここまで見てきたように、hall と同じ並びの上手、及び下手の建屋では、サービス諸室の上部の部屋(多くの場合は solar だが)のつくりはさほど印象に残るものではない。PENSHURST PLACEでは、上手側の部分ほどは大きくはないが、美しい頂部飾りのある窓から光を採っているし、GALLANTS MANORには、つくりの美しい crown post の小屋組が遺っている。この建屋は、実際は石造の地上階の上に木造で造られているのだが、このような混構造でありながら、IGHTHAM MOTE ( fig13 )と同じように、同時代の全石造の建物と同じ形をしている。
Subsidiary accomodation in stone houses : conclusion 石造家屋の附属諸室:結論
石造家屋、石造・木造混淆造の家屋に於ける附属諸室のしつらえについての考察が重要であることは明らかである。
一般に、附属室は hall の両側に設けられ、hall から離れて設けられる場合も、NURSTEAD COURT のように hall と一体に設けられる場合も、その階上に chamber を伴うのが普通である。階上の上手側の部屋は大きく構える傾向があり、一方、地上階の諸室は用途が限られ家事用に使われることが多い。また、( hall の)両端には一つ以上の建屋が設けられることが多く、増築部が主屋に対し、異なる角度で配置される場合もある( 前掲fig17、fig20:下図:再掲 参照)。
このように、当初は、多様な形を採っていた附属諸室は、中世後期になると、徐々に、それぞれの用途が明確な諸室の集合体として、一定の定型を持つように変容してゆくのである。
Subsidiary accomodation in timber-framed houses 木造家屋の附属諸室
すべてが木造の家屋の附属諸室は、石造のそれとは様相ががまったく異なる。先ず第一に、現在まで管理されて遺っている例はきわめて少なく、また遺っている場合でも、石造事例の同様な個所とは、つくりがまったく異なっているのである。
木造事例の遺構には、三つの形態がある。すなわち、主屋に直交したつくり: cross wing 、主屋に並ぶつくり、そして、すでに建て替えられて当初の痕跡だけが分る事例、の三つである。以下、順番に見てゆくことにする。
Cross wings
この時代(14世紀初期)の木造の cross wing :主屋に直交して建つ附属屋:の事例はきわめて少なく、そのうちの2例は石造家屋との併設である。その一つは1322年建設の GALLANTS MANOR の1330年代の建設と思われるIGHTHAM MOTE の上手側の二棟に類似の下手側の建屋の二階は木造架構であるが、それは石造家屋の hall と chapel に似たつくりであり、一部が石造の地上階の壁の上に木造で造られている。
他に唯一現存するのは fig32(下図) の SMARDEN に在る1325~1350年ごろの建設と比定されてきた HAMDEN の事例だが、実際は、もう少し時代は下るのではないだろうか。
また、 EASTRY COURT の下手側の建屋は、おそらく、14世紀になって部分的に再建された hall と同じころに造られたようだ。
Evidence for secondary rooms in single-range structures 独立棟の場合の附属室の痕跡
附属諸室の痕跡が多少でも遺されている事例は、別棟ではなく、一つ屋根の中に収まっている場合が多い。fig33 (下図)の SITTINGBOURNE に在る CHILTON MANOR(その古風な架構法と柱頭装飾から13世紀の建設と思われる)には、13世紀の hall が、梁間二つ分健在である。
北側(上図の左方と推察します)に三つ目の梁間が設けられているが、これは増補された部分で、おそらく14世紀の再建に際して造られたものであろう。この部分は、 hall の一部を構成していたか、あるいは、追加された aisle:側廊: を含んだ hall に次ぐ二番目の部屋となっていたのかもしれない。どの事例でも 、hall に増補された梁間部分があるが、しかし、その役割はいずれもはっきりしない。
LEIGH で発掘された MOAT FARM の考古学的資料では、梁間一つの hall の両側に設けられた独立の梁間が加えられて三つの梁間になったのか、それとも、梁間二つの hall に独立の梁間が一つ加えられて梁間が三つになったのか、はっきりしない。ケント地域以外でも、SASSEX の SALEHURST の PARK FARM で発掘されたきわめて大きな aisled hall でも、同様に不分明な点が多いし、 OXFORDSHIRE の VALE of WHITE HORSE に現存するいくつかの事例でも、その謂れの説明はなかなかつけにくい。後になると、端部の梁間は、 hall から完全に仕切られた独立した部屋のためにつくられることが多くなるようだ。CHILTON MANOR ( fig33 )はその例と言えよう。ただ、CHILTON MANORのどちら側が hall であったかの判断は難しい。しかし、屋根(の木材)が北に向いていることから察して、そちらが上手で、問題の北側の(増補の)梁間の下が、上座だったのではないだろうか。hall のはっきりしている他の事例や、中世後半に整えられた事例では、上手、下手も判定しやすい。 fig9 (下図:再掲)の AYLESHAM の RATLING COURT では、spere truss がサービス部の側を示しており、隅棟の架かる trussのある側が上手であることを示している。
註 spere truss : 第9回の fig46 をご覧ください。spere ≒ screen
また、fig34(下図) の PETHAM の DORMER LODGE では、窓、出入口や spere truss の位置が、aisled hall の上手へと続く archade :方杖の存在を示唆している(このあたりについても、第9回を参照ください)。
fig32 (前掲参照)の SMARDEN の HAMDEN では、hall の上手側の archade :方杖の「刻み」から、更に延長された部分があったことが分る。
けれども、以上はあくまでも、1370年代以前に建てられたと考えられる家屋に部分的に遺されている附属諸室の痕跡を総合して見た結果の推量に過ぎない。
The form of early timber ends and the reasons for their disappearance 初期木造建物の端部の形態、その消滅の理由
現存する木造事例には、その終端部が判然としない例が多いが、しかしそれは、木造の hall がすべて附属諸室なしでつくられていた、ということを意味するわけではない。いくつかの事例では、当初、同じ棟続きに何かが在ったことを示唆する形跡をうかがうことができる。HADLOW の BARNES PLACE の下手側の archade :方杖 を承ける柱には、そこに厚板で造られた間仕切が在ったことを示す「刻み」がある。それは、 hall 側に面していて、外部に面する壁ではない。しかし、aisle 形式が端部まで続いている事例はどこにもなく、それゆえ、当初は、端部は別個の架構でつくられるのが普通だったのかもしれない。
同様な事例が多く見られることから、当初から、独立の架構で建てられる木造家屋が存在していたと考えてよい。しかし、この端部にあたる部分は、中世の間に、cross wing :直交する別棟:に建て直されてしまう例が多く、残念ながら、当初の様態を遺している事例は、現存しない。また、hall 端部の壁に、いかなる状態の変化が起きたかを推察し得るような痕跡を遺す事例も現存しない。
初期の木造家屋の端部のつくりについていろいろな事例を考察した結果は、当初のつくりは、後世の使用に堪えなかった(それゆえ、改築を余儀なくされた)ということが判ってきた。この観点に立つと、木造家屋の端部の様態は、石造家屋のそれとは、いささか異なることになる。遺されている断片的痕跡からでは断言することは難しいが、初期の木造家屋の附属諸室は、屋根まで筒抜けか、あるいは地上床面が低い倉庫にしか使えないような場所であったに違いない。
一つ屋根の形を採るのは、aisle 形式の hall の場合だけのようである。しかし、最もよく遺っている fig33(前掲) の CHILTON MANOR でさえ、aisle 形式の全体が遺っているわけではないので、端部のつくりのありようについて、合理的な解釈を見つけることは、きわめて難しい。aisle の壁部分が造りかえられていることは驚くに値しないが、ただ、内部間仕切りや床面の痕跡がないことから、北側の端部の梁間は屋根まで抜けていたと思われる。多分、これは、一つ屋根の家屋すべてに共通の形体と考えられる。たとえば fig35 の断面図(下図)のように、 NURSTEAD COURT の端部の寄棟部では、少なくとも上手側の端部は、当初は(屋根まで)抜けていて、そこにある床は14世紀後半になって後補されたものだ。
このように床を後補できたのは、NURSTEAD COURT の高さに余裕があったからで、他のほとんどの木造の aisled hall は、規模がこれほど大きくはない。それゆえ、そのような事例では、arcade のつくり(柱や方杖、繋ぎ梁など)が邪魔になるため、階上に部屋をつくることができるのは、中央部の上部しかないのが普通である。また、端部にあたる寄棟部は隅棟があるため、一般に、fig9(前掲) の RATLING COURT や、fig34 の DORMER COTTAGE のように、上階の部屋は、3面の傾斜屋根に囲まれる窮屈な場所にならざるを得ないのである。
註 arcade のつくりについては、第9回を参照ください。
つまり、aisle 形式:上屋・下屋形式:の木造家屋では、端部(寄棟部)の上階に部屋を設けることはできなかった、と言ってよいだろう。それゆえ、後になって、上階に部屋が必要になってくると、端部を全面的に改築するようになるのである。NURSTEAD COURT 以外で、初期の aisle 形式で、寄棟部が改築されず、しかも上階が現存するのは、DORMER COTTAGE だけであり、そこでは寄棟部の中央の梁間だけに小さな食器庫がつくられている。
石造住居と木造住居の、建て主の 地位 による差異については既に3章で触れたが、その違いは、附属諸室の整え方に顕著に現れる。しかし、社会的な地位の違いが、二階建ての建屋を持つ石造家屋をつくるようにさせたわけでもなく、また木造家屋が屋根までの筒抜けの端部を持たなかったわけでもない。そして、13世紀後期から14世紀初頭にかけての南東部域の木造家屋では、少なくとも一棟の二階建ての部分をもっていたと考えられる。実際は、隅棟を有する寄棟部は、hall 自体と同時に建てられるときにだけ生まれ、また、hall の両側に寄棟部のある事例は少なく、これまで触れてきた事例では、上手側一方にだけつくられている例が多い。
註 一般的に、石造住居は、社会的に上層の人びとにより建てられる傾向がある(第10回、第11回参照)。
いずれにしろ、hall の端部:サービス諸室側の様態はさまざまで判断しづらい場所である。附属諸室として考えた場合、中世後期以前にはそこに十分確保できたとは言えず、多くの事例では、その場所をサービス用の別棟に建て替えている。しかしそれは、当初の建屋の端部が小さすぎたことを意味しているわけではなく、実際、石造家屋に比べると、必ずしも小さくはない。前掲の SMARDEN の HAMDEN の例で分るように、上手側だけに寄棟の端部があり、下手側には独立の別棟がつくられているし、 PIVINGTON や JOYDENS WOOD での発掘事例でも、下手側が明らかに大きい。そして、後の14世紀後半の事例の観察から推察すれば、多くの家屋がサービス用の別棟を持ち、そのしつらえは、前代の人びとのそれとは比べものにならないほどよくできていたと言えそうである。
14世紀初期に下手側に別棟を設けるのが普通の建て方であったとしても、その理由は、たとえ14世紀後期のそれが規模が大きいからと言って、初期の事例の場合は、必ずしも規模とは関係ないように思われる。
むしろそれは、その形状と架構方式に拠ると考えた方が適切だろう。既に触れたように、多くの石造建屋の上手側の端部:寄棟部の地上階は、後世に天井を高く直すまでは、低く、光の入らない暗い場所であった。この改造は、石造の場合は比較的容易であったが、木造ではかなり難しいのである。つまり、改造よりも建て替えの方が簡単だったのである。14世紀後期の建物には、天井が極めて低く使いにく地上階が現れるが、それについては、後章で触れる。この時期の木造建築について分る適切な痕跡事例が少なく、初期の木造家屋の附属サービス諸室について、その展開の様態を知りうる形跡がなぜまったく喪失してしまったのか、その理由は皆目見当がつかない。
以上の推察に間違いがないとすれば、石造家屋と木造家屋は、その進展の方向・様態が異なっていたということになるだろう。
それにはおそらく建て主の社会的地位が関係していると思われ、木造を採用する人びとは二階建て建屋は一棟でよしとし、一方石造で建てる人びとは二棟以上を望んだのである。
一棟だけが可能な場合、それは主屋の下手側に置くのが適切と考えられたようだ。つまるところ、階上の部屋の位置決めは、サービス諸室の位置決めに比べ、重視されていなかったと考えられる。木造建屋の上手側も、当初の石造建屋のそれほどには重要視はされていないことは、後の多くの諸事例の痕跡の示すところでもある。
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strong>この項の筆者の読後の感想
強く感じたのは、日本の「上屋・下屋架構方式」では、四周に「下屋」を回すことをいとわないが、「 aisle 架構方式」では、そういう事例がない、ということ。
おそらく、二枚の壁の間に屋根を架ける、という石造の構築法が、強く念頭にあるからではないだろうか?
日本の場合、下屋が四周にあるので、隅棟もそれを利用して架けられるから寄棟部の架構も自由度が高く、左程苦にはならないが(垂木で形状を整えられる「入母屋形式」やいわゆる「和小屋」形式を生む)、ケント地域の屋根では、隅棟も梁として強固につくらなければならないのである(古井家の架構と見比べると明らかである)。
次の章から、木造による屋根の架構の解説が始まるので、楽しみにしています。
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次回は、次の章の紹介を予定しています。
5.Construction and roofs : late 13th and early 14th centuries