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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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この国を・・・・14:遠くに見え隠れして見えるものは

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[文言追加 5日 7.42]

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これは、先に紹介した養蚕農家の近くに在る棟持柱方式の養蚕農家。その妻面です。
ちょっとボケています。
棟持柱には、梁と貫(と言ってもかなりの大寸)が挿してあります。
屋根勾配は6寸近くあるのではないか、と思います。
笛吹川沿いの街道では、こういう建物が軒を連ねていたのです。

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社会福祉施設(心身障碍者支援施設)の増築設計、最終段階。規模の大きな仕事(と言っても僅か500?の増築)は、最近の法令改変以後、ご無沙汰でした。
確認申請の諸手続きが、大きく変っていて戸惑っています。浦島太郎になった気分です。

今様浦島太郎は、この世が大きく変り、人びとに画一的な思考を求める傾向が顕著になり、さらにその傾向を「歓迎」する人びとが増えていることを知り、仰天しています。いつからこうなってしまったのか?

あれはダメ、これもダメ、カクカクシカジカにせよ・・・。そのカクカクシカジカの「領域」がきわめて限定的で「狭く」なった。おまけに、要らない(と思える)装備を付けることも義務付けられる。世の中には、「絶対的標準」なるものがあると《考え》ている、としか思えない。

なぜここまで、こと細かに「親切に」設定するのか。
それは単純な理由。
だいたい、法令や告示、指針・基準といった類が、「すべての場面・局面」に対応できる、などということはあり得ません。
場面・局面は、端的に言えば、人の暮らしごとに、建物ごとに異なる。
設計者は、「その特有の場面・局面にどう対応するのがよいか」を考える。それが設計という行為の基本である、と私は考えています。
だから、いかなる「個々に異なる場面・局面」にも対応できる指針・基準は、当然ながら、存在する筈がない。

しかし、設計者が、個々に個々の場面・局面を考えることを、法令や告示は嫌うのです。
なぜ?
「管理」できないからです。
個々が異なっていては管理できない。それではやってられないので、一つの指針・基準に(無理やり)「統一」しようとする。
けれども、当然のこととして、意図的か否かを問わず、そういう指針・基準の類のスキマの事例が必ず生じる。
しかし、それでは基準・指針の意味がないと(勝手に)思い、スキマのないように告示、指針・基準といった類を改変する(これを通常「改正」と称する)。
だから、ますます「狭く」なるのです。
と言うより、一つの「形」に集約することを求める、と言った方があたっている。
なぜ?楽だから・・。

何が楽なのだ?
人びとを管理するのが楽になる。
なぜ管理が必要なのか?
管理しないと人びとが何をするか分らないから。
管理するのは誰?
それは「選ばれた人たち」。
誰に「選ばれた」のか?
・・・・・      [以上7行文言追加 5日 7.42]

そういうことの結果、建物の中味にまったく関係のない「諸手続き」に大きな時間を費やされます。

では、このような「法令や告示、指針・基準といった類の限定強化」は、建物の質を高めているのでしょうか。
表立っては言わないでしょうが、大方の建築関係者の答は「NO」であることは間違いありません。

では、「法令や告示、指針・基準といった類の限定強化」は、何か「よい結果」を生んだでしょうか。
それが在るのです。
先ず、「法令や告示、指針・基準といった類」に適合しているかどうかの「審査」に、とんでもない時間と労力を要します。
と言うことは、審査担当者が多数必要。
と言うことは、それができる「人材」が要る。
それでは、そういう「人材」はどこに居る?言わずもがな、でしょう。

それに並行して、この審査に適合するように「導く」「《設計》ソフト」が幅をきかす。
つまり、こういった「法令や告示、指針・基準といった類に適合させる諸手続き」に「係わる」方がたの仕事は増える。それはこの方がたの稼ぎに反映する。

もちろん、審査を「お願い」する側、すなわち設計者の仕事も増える。ただし、建物の中味と関係しない「余計な」仕事が・・・。
もっとも、それが「設計」と思われている方がたも、かなりいるようですが。


おそらく、この先ますます、基準・指針は、その偏狭さを増すでしょう。
一言で言えば、最初の「ボタンの掛け違い」そのものを直すことをせず、その場その場で「不都合」を繕い、そこで生じた新たな「不都合」を、またその場しのぎで繕う、・・・。
なぜか?なぜボタンを掛け直さないか?
なぜ radical な(根本的な)検討(今の世の語で言えば「評価」)が行われないのか。
面倒だから?、
そうではなく、おそらく、「権威」にかかわる、と思うからでしょう。沽券に関わる・・・。だってエライんだから、過ちなんかないのだ・・・。
もちろん、「繕い」でも済む場合もあります。
しかし、全体が「繕い」箇所だらけ、というのは、すなわち「本質が見えなくなる」ということ。


こういうことを続けていたとき、その先に見えるのは何でしょうか。
それは、エライ人が決めた「一つの答」:「《模範》解答」に「従う」ことが強制される世界。
従わない物も者も認めない、という世界。
たしかに、管理する側に立てば、手っ取り早い。
すなわちそれは、、「人びとに、個々の思考の停止を求める世界」。
個々は思考をしてはならず、指示のとおりに動け、ということ。
それは、「いつか来た道」、「破滅に至る道」、と私には思えます。


しかし、関西の方では、選挙で多数を得たのだから、少数者は多数者に従え、それが民主主義だ!なぜなら、多数意見こそが「民意」だから、という《論理》で、好んでこの方向に突進したい方がたが増えているらしい。(「この国を・・・10:民意参照」)
民主主義とは、多数が少数を見殺しにすること?「多数」が「民意」か?

ものごとを、数の多少で《判断》することを、昔から私は採りません。
なぜなら、そういう「考え方」の人たちが、必ず「多数派工作」を行うのを見てきたし、第一、そういう思考は、ものごとの本質からは最も遠い「思考」であることは、言うまでもないことだからです。
片方では「科学的」という言葉を使い、その一方で「数の多少」でものごとを決めようとする、
そういう人がなぜ生まれてしまったのか、理解できません。
どなたか、解説してください。

あるいは、もしかして、このブログで私が書いてきていることは、
どれも、単なる「浦島太郎の愚痴」に見えているのかもしれませんね。

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