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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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「手摺」考・・・「手摺」とは 何か?

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ご近所のお宅の道路境のブロック塀に添って、立派な枝ぶりのカイドウが咲いていました。
道路との僅か1尺足らずの地面に、塀から微妙に離れて自立しています。
長い間、大事に育てられてきたのでしょう。

ほんとに久しぶりに(5か月ぶりか?)東京へ行ってきました。
今回は、杖は持ってゆきませんでした。普段は何とか歩いているのだから、都会の街中でも何とかなるだろう、と思ったからです。
しかし、それは間違いで、街中を歩くのは、特に駅の構内を歩くのには、結構気を遣いました。
私の左脚は、微調整がうまくゆきません。
靴底を擦ることは、ほとんどなくなりましたが、左脚に重心を移したとき、適切な位置で体を停止させることがうまくゆかないのです。
最初は筋力の問題か?と思っていたのですが、どうやら、動きを適切な位置で停める指令を筋肉に与える「センサー」が適切に働かないかららしく、うまくゆかないと、ちょっとふらつくのです(普通に立っているときにふらつくことはない)。
   センサーに関わる脳細胞に傷があるから、とのことです。
そのため、普段は、その調節を、右脚で着地するときにやっているようです。右脚が左脚の分まで働いてくれているわけです。
そして、歩く際には、常に、無意識のうちに、目の先に目標物や目標地点を設けて(仮定して)、それに向うようにすることで、方向にブレが生じないように右脚が努めてくれているのです。右脚に感謝です!
   多分健常な場合でも同じような行動をとっていたのだと思います(もっとも、両足とも着地が確実・適切なのですが・・・)。

ところが、街中や駅の中では、この目標物、目標地点の設定が難しい。
普段は、道路の路側帯の白線や側溝、あるいは建物の中の床のタイル、目地などが恰好の「導線」になってくれるのですが(それらがない時は、遠方に目標物:地面に立つ樹木、建物内では床面から立ち上る柱や物体の側線など:を定めます)、人混みの中では、それらが目の前から途絶えてしまいがちになるのです(人混みに隠れてしまうからです)。自ずと歩く速さも遅くなり、健常の人の邪魔になります。そういう場合は、できるだけ壁に沿って歩くことになります。
そして気が付いたのですが、床面・地面のものは導線になるが、天井面のそれは、あまり役に立たない、ということ。
多分、足先の地面・床面の方に気持ちが、したがって目も、向いているからなのでしょう。
   病院などで、〇〇に行くには青い線を辿れ・・、などと床に描いた線で案内する事例が増えてきましたが、壁や天井付の案内看板よりも正解かもしれません。

   それにしても、都会の駅の人混みに、あらためて驚嘆しました。電車が着いて人がホームから階段でコンコースにわーと降りてくる。その「量」に圧倒・・!!
   昔は、私もあの中の一人、平気でそうしていたんだ・・・・。
   下から眺めていて、その様子は、何かにそっくりだ、と思ったのですが、後になって、その「何」が何であったか気が付きました。
   現場に土砂を運んできたダンプカーが、荷台を上げて、土砂を「降ろす」。その時の様子・・・・。階段から音を立てて人が辷り落ちてくる・・・。

駅などの長い階段は、右脚にだけ頼るのは極めて難しく、杖が欲しくなります。

「杖を突く」とは、簡単に言えば、自分の体を、両脚の二点だけでなく、三点で支えるということです。その方が安定が保てる。両脚だけのとき、歩行時、片脚立ちになる瞬間がある。健常な人なら片脚立ちでも一定時間は体の安定を保てる。ところが、脚が不自由な場合、片脚立ちになったとき、ふらつくのです。そのとき、杖が在れば、2点支持ができる。一定程度安定を保てる。これが杖の効用なのです。
   登山で杖を2本使う場合があります。この時は、最低でも3点支持を常時保て、より安定度が高まるのだと思われます。
しかし、杖がないときは、階段では「手摺」が大事な「頼り」になります。両脚と手の3点支持に頼ることになるのです。

今回、ある駅の階段で、きわめて《斬新な》「手摺」に出くわして驚きました。
それは階段の側壁に取付けてありました。何処が《斬新》か?
階段の簓型・段型に合わせて手摺のパイプも段状に加工されているのです。パイプの径は25ミリくらい(それより太いと、多分、段状に加工できないのでは・・・?)。
階段を降りるときに使おうとしましたが、直ぐに諦めました。何故か?使い物にならないのです!

そこで、あらためて、「手摺」という日本語の「表現」に驚嘆したのです。
英語では handrail と言います。rail は横棒・棒。端的に言えば、「手で掴む棒」というような意でしょう。
しかし「手摺」という語には、「手で掴む」という意は直接的には含まれていない。「摺る・擦る」は、「こする」という意。つまり、「手でこする」。
これは言い得て妙。
実際、私はどのように「手摺」を利用しているか。
基本的には、手を「添えて(沿えて)いるだけ」、手で「こすっているだけ」、そうすれば、万一の時に「掴む」という動作に移れるからです。常に手を「手摺」に添わせて(沿わせて)いれば、咄嗟に「掴む」動作に移れるのです。留意しなければならないのは、「手摺」を常に「掴んでいるのではない」、ということです。
これは、「掴む」という動作ができる私の場合。「掴む」ことが不自由な人もいます。その方は、咄嗟のときどうするだろうか。多分、添えていた手を、強く「手摺」に「押し付ける」でしょう。「押し付ける」とは、体重をそこにかけること。それによって、体勢を維持できるからです。
   註 たしかアアルトの設計に、手を添えやすい形・断面に加工した木製の手摺があった、と記憶してます。手を添えると手にぴったりする。
     掴むことは考えず、手を載せやすい台あるいは板があれば、そこに手を置くだけで体を安定させることができる、と考えたのだと思います。
ところが、この《斬新な》「手摺」は、「手を添える」こと、「添え続ける」ことができないのです。
水平から垂直に段状に折れ曲がるところで、手を一旦離さざるを得ないからです。
手を離す⇒片脚立ちになる⇒1点支持になること、ゆえに脚の不自由な人は、ふらつくことになる・・・。
   註 試みに、簓状・段状の「手摺」に手を添え続けることができるか、想像してみてください。手をそんな具合には動かせません。
     ムリしてやってできなくはありませんがくたびれます。

私は転倒の恐怖を感じ、直ぐに、その「《斬新な》手摺」に頼るのをやめ、階段の中央にある「普通の手摺」の厄介になりました。

そこで考えました。
どうしてこのような「手摺」がつくられたのか?
おそらく《発案者》は、階段を歩行するとき、人の体も、階段の段に従い、簓状・段状に動いているはずだ、手も同じ。だから、「手摺」も階段の形状に倣うのが《合理的》ではないか・・・と考えたのではないでしょうか。
一番最初の(つまり、最も古い)新幹線の車内の座席は、当時、最新の「人間工学」に拠る《デザイン》と喧伝されていました。しかし、それは、極めて座り心地が悪かったことを思い出しました。
この「手摺」は、この「座席」の《デザイン》の発想と同じだ・・・。
その「座席」は、体をスポッとおさめたら最後、自由に体を動かしづらいのです。定形を保て、というわけ。それはムリというもの。かえって疲れてしまう・・・。
おそらく、人が、鉄道の車内の座席にどうやって座って過すのか、設計者:デザイナーが、考え忘れたのです。
   註 単純なベンチのような座席の方が、体は自由に動け適宜な姿勢を保つことができます。
つまり、この「手摺」の発案者も、「人と手摺の関わりかたの実相」について、考え忘れたのだと思います。
つまり、‘form follows function' を字面の上で「理解」しているのです。階段を歩行する人の体は、階段の形に応じて、簓状の動きをする= function と「理解」してしまった、に違いありません。
もしかしたら、「考え忘れた」のではなく、「《気鋭の》設計者、デザイナー」によく見られる傾向なのですが、「人と手摺の関わりかたの実相」を「考えなければならない、ということに、気が付いていなかった」のではないでしょうか。
   註 人と違ったこと、目新しいこと、をやりたかっただけだった、とは思いたくはありません・・・。

ところで、私は、階段を歩くことを考え、手袋をいつも持っています。春になっても、素手で鋼管の「手摺」に触ると、「冷たい」からです。冬場はなおさらのこと。それに、その方が、触ったときの感触がいいのです。その点では、木製にすぐるものはありません。アアルトの設計で、鋼管に皮を巻いた「手摺」があります。
   註 私の左手先は、感覚が鈍く、温度には、過敏で、冷水が針で刺されるように感じられるときがあります。だから、鋼管は触りたくない。

都会の街中には、私のなかに「違和感」を生じさせる事象にあふれています。田園の中の暮しとは、全く違う。「違和感」の存在は、「ものごとの原点を考える」一つのきっかけになるのは確かですが、本来は「在る必要はない」はず。ですから、田園の中の暮しに比べて、都会の街中は疲れます。今回の東京行きでも、復活に二日ほどかかりました・・・。

  ‘form follows function' については、下記で詳しく書きました。
   この「文言」の「解釈」のありようが、現代の設計・デザインの様態を決めてしまった、と私は考えています。
   その好例?が、先述の「人間工学に基づく新幹線の座席《デザイン》」なのです。
   「形の謂れ:補遺
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そんなわけで、「中世ケントの家々」の続き、編集がだいぶ遅れています。ご容赦!

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