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今回は、2 Houses of the early and mid 13th century (2 13世紀初期~中期にかけての家々 )の章の紹介、その3 として、次の二項を紹介します。
NETTLESTEAD PLACE and LUDDESDOWN COURT
Status of builders of early houses
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NETTLESTEAD PLACE and LUDDESDOWN COURT : NETTLESTEAD PLACE 及び LUDDESDOWN COURT の検討
これまで述べてきた hall の位置や chamber block についての諸仮説・試論を、より深めるためには、NETTLESTEAD PLACE 及び LUDDESDOWN COURT の遺構についての考察・検討が必須と考えられる。第一は、各遺構の主室の大きさが、私室としては大き過ぎる点についてである。 NETTLESTEAD PLACE の地上階の内部の面積は102㎡、 LUDDESDOWN COURT の二階の最も大きい部屋は95㎡もあり、それは付属する諸室の合計よりも大きい。
NETTLESTEAD PLACE の場合( fig6:下に再掲)は、遺構が、fig6aのように、ヴォールト天井の undercroft で分割されていないこと(一部屋である、という意?)から、想定できることは少ない。けれども、部屋の長辺の壁2面と西側の短辺の壁は、明らかに独立している。また fig6b のように、latrines として説明されている2箇所の突出しのある南面の壁以外、階上の壁の他の三方の壁が消失しているため、出入口、暖炉などの附属設備などの所在がまったく分からず、興味は尽きない。15世紀までには上階は区分けされ外付けの階段で出入りしていたと考えられる(図の▼印の個所か?)。この階段は、後に増補された小さな部屋の出入りにも使われたのだろう。南面の突出し部が latrines であり、この建屋が当初から分割されていたのであるならば、二つの突出しのうち西側のそれは、壁の中央部に在ることから、壁体中に多数の煙突が仕込まれていた可能性が高い。そしてまた、latrines があるが内部階段がない、内部を分割した形跡がない、などから、これは first floor hall ではなく、並外れて大きな部屋に過ぎない、と見なせるのである。
註 undercroft : 辞書には、「円天井の地下室」とありますが、単に、「円天井の(下の)室」 という意ではないか、と解します。
LUDDESDOWN COURT は、下図 fig7(再掲)のように、NETTLESTEAD PLACE よりも多くの部分が遺っている。
階上の三つの部分に分れた部屋は、頑丈な根太床の上に載っていて、158㎡の広さがある。見た限りでは、階下の部屋は、当初、区切られていた気配はない。二階では、主室には中央部に壁付の暖炉が設けられている。この暖炉は、14世紀初期に新設あるいは造り替えられたのではないか、と思われる。この部屋には、おそらく、常時、(外階段から)部屋の東端の出入口を通り出入りしていたものと思われ(図の▼印の個所)、上下階を結ぶ別の階段の存在を示す痕跡は何もない。部屋の西端を右に曲がると別室への出入口があり、この部屋には、隅に暖炉が設けられている。この小室に続いて狭い部屋があり、その端部は latrines らしき箇所へと続いている。現存する各出入口の様態から、この現存部分はすべて同時に建てられたと見てよいだろう。二つの大きな部屋は、屋根が木造の scissor-brace の梁組で組まれていて、壁には中世様の壁画(おそらく13世紀か?)が施されている。
註 scissor-braced : scissorは「鋏」の意。brace は「つっかい棒、突っ張り用の支柱⇒筋違・筋交を入れる」の意。
下図のような、木材:斜材をX形に交叉させて「登り梁または垂木: rafter 」を支える鋏のような形の架構を言うようだ。
なお、この図は、次回以降で再掲、説明があります。
木造の最も単純な小屋組は、木材を逆V形に組む合掌組ですが、合掌の底辺:梁間が長かったり、重い荷が架かると、木材が撓むことがあります。
その対策として、斜材に対してつっかい棒:支柱を入れる方策があります。好例が以前の記事(下記)に載せた信州・塩尻の「小松家」の小屋組です。
「トラス組・・・・古く、今もなお新鮮な技術-4」」
scissor-braced は、この系統の架構と考えられます。いわばトラス組の原型です。下記もご覧ください。
「形の謂れ-4…トラスの形」
上記は、「 LUDDESDOWN COURT は first floor hallであった」とする論の裏付けとされてきた事実である。当初の小さな開口部が遺されているだけだが、自立している3枚の壁のすべてに窓があったことは明らかであり、それゆえ、ground-ffloor hallは離れて在ったことも 疑いない。調度類も多く遺っており、かつては更に多く在ったのではないかと思われる。
また、 LUDDESDOWN COURT の主室は95㎡の広さがある。教会関係の建物群には、 EAST ESSEX、 BATTLE ABBEY の修道院長の邸宅や WILTSHIRE、 SALISBURY の司祭の邸宅などのように、これよりも広い事例が在るが、一般の非教会関係の住居でchmber block と見なされている他の最新事例には、このように広い部屋の例はない( NETTLESTEAD PLACE は例外)。
一方、階上の主室が first floor hall であるとの解釈に対してはいくつかの異論が出されるはずである。たとえば、同時代の STROOD の TEMPLAR MANOR の camera (89㎡)に比べ著しく大きいとは言えない、主室を区分して使った気配が見られず、また上下階間の動線の所在が不明である、などは、 RIGOLD 氏の説く first floor hall の必須条件を満たしていない、この建物のつくりは、この建物の持主の暮しに適ったものだったのか、判じかねる、などなどの論議である。
註 要は、 LUDDESDOWN COURT を first floor hall である、と断定する根拠がない、ということと解します。
12、13世紀の住居遺構については、その建物の所有者や建設者の実態について深く留意して研究されることは、これまで滅多になかった。
最近では、 first floor hall のつくりかたは、社会の下層にまでは拡がっていない、むしろ、そういうつくりは彼等とは無縁であったと言われるようになっている。現存するこの時代に建てられた石造住居が、すべて、上層の人びとの建屋である、というのは自明ではある。しかし、人びとの社会的地位と住まいのつくりかたとの関係は、よく分らないのである。 first floor hall は、上層階級特有のつくりである、との説には、社会的地位が高いのであるならば、 hall に加えてもっと豪華な調度も求めていてよいはずだ、との反論が出るだろう。また、住居の構成には、王宮のしつらえ(13世紀も進めば、一家の重要な構成員や従者は、それぞれ一組の部屋:最低でも私室+衣裳部屋:を持つのが普通になっていた)の「写し」があってしかるべきだという論も出されるに違いない。たしかに、ややもすると、hall の所在についてだけに論議が集中し、部屋のしつらえの意味と性格についての考察をないがしろにしてきた傾向がある。
註 武士階級が、住居の範を、彼らより高位と見なされた寺院の「客殿」に求めたのと同じ「慣習」がイギリスでもあったものと考えられます。
おそらく、この「慣習」の延長に、いわゆる「文化の伝播論」が発生するのかもしれません。
Status of builders of early houses : 初期の家々の建設者たちの地位について
註 builders : 「建て主」の意と解します。
以上挙げてきたケント地域の、 LUDDESDOWN COURT 、NETTLESTEAD PLACE そして SQUERRYES LODGEは、すべて、BARON に位する一家またはその一家に深くかかわる者のために建てられている。
LUDDESDOWN COURT は、13世紀のほとんどは、MOUNTCHESNEYS 家が所有していた。
MOUNTCHESNEYS 家は、SWANSCOMBE 、TALBOT の要職の半分を担い ROCHESTER CASTLE に仕える30人の従者を雇っていた。
註 “・・・the Mountchesneys who held half of the Honour of Talbot in Swanscombe which owed thirty knights for the service of Rochester Castle.”を、
上記のように解しましたが、自信はありません。要は、 LUDDESDOWN COURT の建て主が、地域の大物・豪族であった、ということだと思います。
この一家は、ケント地域に数戸の邸宅を持ち、他地域にも土地を所有している。現存する LUDDESDOWN COURT の建て主ではないかとされる WARINE de MOUNTCHESNEY は、1213年、相続時に2000マルクを払っている。彼は、PEMBROKE の伯爵 WILLIAM 将軍の娘 JOAN と結婚し、また彼の娘は、 HENRY Ⅲ世の異母兄と結婚している。1255年に死去したときには、200000マルク相当の不動産が遺されている。彼の死去にあたり、Matthew Paris は、イギリス王国で最も高貴で賢くそして裕福な惜しい人物を亡くした、と悼んでいる。
註 Matthew Paris : wikipedia によれば、下記のような人物のようです。
Matthew Paris (Latin: Matthæus Parisiensis, lit. "Matthew the Parisian";[1] c. 1200 – 1259) was a Benedictine monk, English chronicler, artist in
illuminated manuscripts and cartographer, based at St Albans Abbey in Hertfordshire. He wrote a number of works, mostly historical, which he scribed
and illuminated himself, typically in drawings partly coloured with watercolour washes, sometimes called "tinted drawings".
つまり、Warine は、単なる一領主だったのではなく、王家の家系に近い貴族の一員だった、ということらしい。
LUDDESDOWN COURT は、MOUNTCHESNEYS 家のケント地域の chalk hills の中の小さな領地に在り、何故そこにこのように大きく、しかも美しく装った建物を建てることになったのかは、よく分らないが、その細部のつくりから、実際に家族の住まいとして使われたのは確かで、おそらく、狩猟の際の lodge だったのではなかろうか。狩猟は、ケントの上層階級・貴族たちに非常に好まれ、 TONBRIDGE の CLARES 家などは、TONNBRIDGE の東部に、NORTH FRITH 、SOUTH FRITH の二つの(狩猟用の)園地を所有していたほどである。
LUDDESDOWN COURT に似た例に、HAMPSHIRE の WOOLMER の1284-85年に建てられた EDWARD Ⅰ世 の狩猟用 lodge があるが、この lodge に は、二個の暖炉、二つの衣裳室、一つの chapel を持つ石造の chamber block があり、それは、木造の hall 、厨房、および他の建屋につながっていて、まさしく、 LUDDESDOWN COURT のつくりそのものである。
ゆえに、以上述べてきた LUDDESDOWN COURT の「性格」についての想定・推定は、間違ってはいないだろう。
註 chalk hills : 第3回の記事(「ケント地域の地勢・地質」の解説)を参照ください。
>、NETTLESTEAD PLACE は、ODELL の WAHULL 家のために建てられている。一家の領地は、ケントではなく BEDFORDSHIRE などにあったのだが、NETTLESTEAD と PEMBURY でCLARES 家から、従者としての報酬を得ていて、その財産は、1291年には、14~15世紀を通して地域の名士であった pimpes 家をしのぐほどであった。しかしながら、この点以外では、ケントではほとんど目立たない存在であった WAHULL 家が、自らの領地から離れた地に、なぜ、かくも豪壮な建物を建てたのだろうか。
13世紀の家として採りあげてきた建物の三つ目、WESTERHAM の SQUERRYES LODGE は、CAMVILL 家が代表で管理していた WESTERHAM の土地の一郭にあった。CAMVILL 家は、12世紀から13世紀初頭にかけて、LINCOLNSHIRE の有力な一家なのであるが、 LEEDS CASTLE の CREVEQUEURS 家と姻戚関係にあること以外、ケントに於いてどのような地位にあったのかは、実際のところまったく分らない。
以上触れてきたように、最も初期の建設と考えられる遺構三事例の建て主は、すべて、ケント以外の地の上層階層に属す一家である。彼らが何者であるかは、名前こそ分ってはいるが、彼らがケント地域でいかなる役割を果たしていたのか、なぜあの場所に住居とおぼしき建物を建てたのか、その点は曖昧のまま残されている。趣味の狩猟が、こういう建物を建てる理由になるだろうか・・・、大いに論議されていいのである。そして、そのようなことはあり得ないとするならば、別の「答」を示さなければなるまい。
ところで、13世紀の終りごろには、建設に関わったと思われる三家は、すべて、ケント地域の表舞台からは、その姿を消している。
註 地名は、原文のままにしてあります。地図で調べましたが、比定できませんでした。
人名、家名も不詳です。
この項を読んでの筆者の感想
この著者たちの、いったん辿りついた「仮説・想定」に決して「安住」せず、常に5W1Hで問い続け、しかもなお問題点を公開し更なる議論を喚起する、
その「姿勢」にあらためて感じいっています。
また、日本で言えば平安末~鎌倉時代初期頃の建物(日本で言えば「南大門」「浄土堂」など)、しかも「住居」と思われる建物が多数遺されていることに
驚いています。彼我の、「歴史」に対する「考え方」の違いなのかもしれません。
なお、本書の後章に、ケント地域内の他の中世遺構の悉皆調査が報告されていますが、断片的なものも含め、結構、遺っているようです。
下記のシリーズでもイギリスの中世遺構を紹介していますので合わせてご覧ください。
「「The Last of the Great Aisled Barns」シリーズ、
「“CONSERVATION of TIMBER BUILDINGS:イギリスの古建築」シリーズ