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正月休みの宿題がやっと終わりました。
今回も、建物の事例は出てきません。
だいぶ前に、人が「住まい」をつくるにあたっての「必要条件」、「十分条件」について触れたように思います。
この書物が、ここしばらく解説を加えているのは、この「必要条件」に関わることである、と言えばよいでしょう。
「必要条件」すなわちそれは、人が一生物として生きて行くために必須の条件。手っ取り早く言えば、水と食べ物が得られること。しかし、その方策は、人びとが暮そうとする場所が、どのような場所であるかが大きく関係してくる。当然、それは、そのような場所で「どのような暮し方をすればよいか」、つまり、「そこでの暮し方」にも関わってくる。端的に言えば、人びとの「生業(なりわい)」に関わってくる。そして、その「生業」もまた彼らの「住まい」の形態にも大きく変わる。それゆえに、先ず、その地が、いかなる様態であるかを知らなければならない。
しかし、中世は遥か昔の話。その遠き時代にその地がどのような場所であったのか、今実際に目にすることはできない。
そこで、中世に書き残された各種の記録を基に、可能な限り、その地の中世の姿を想像・復元してみようではないか・・・、
これが、今紹介している本書・本研究の立ち位置:スタンスと言えるのではないでしょうか。
わが国の「住まい」~「建築」の諸研究にも、このスタンスの研究が皆無というわけではないとは思います。しかし、この書のように「しつこく」究めよう、という研究は、滅多にお目にかかれないように思います。
くたびれるかもしれませんが、お目をお通しください。
誤訳・誤読のないように十分留意しておりますが、至らない点があると思います。不明、不可解な点がありましたら、コメントをお寄せください。
下図は、先回に続き、14世紀初頭のイギリスの農村風景。 出典“SILENT SPACES―The Last of The Great Aisled Bahns ”
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今回の紹介は、次の項目です。
2. The regional distribution of wealth
b) 15th and 16th centuries
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b) 15世紀及び16世紀のケント地域の wealth :資産形成の状況
15世紀初頭、羊に疫病が流行り、それに拠り牧場経営が危機に曝された。それは毛織物生産にも大きな影響を与え、主に羊毛製品の貿易に依存していた港湾都市の経済活動も大きく左右されている。
しかし15世紀の後半になると、状況は好転し、世紀第四四半期には、織物産業とその輸出は着実に増加傾向を見せる。
このような15世紀の経済的状況は、地主層や、より貧しい層にも著しい影響を与え、人口減少や借地人の減少という形となって現れている。
しかしながら、それはすべての面で悪い結果をもたらしたわけではなく、比較的裕福な小作農の中には、それを契機に、借地・農地を増やす者も現れる。
TUDOR LAY SUBSIDIES に示されている Lay: 平民・一般人の資産状況の記録資料を見るかぎり、16世紀初頭までは、ケントの北部および東部の人びとの資産状況が、過去200年よりも悪くなったという傾向は見られない。
TUDOR LAY SUBSIDIES は1512年に始まり16世紀中継続するが、1334年の SUBSIDIES とは異なり、税金は総収益に課せられ、商いなどによる収益:動産だけではなく、土地からの収入や労働賃金にも課税されている。
この課税記録の解析・分析は慎重に行う必要があることは1334年の SUBSIDIES の税制記録と同じではあるが、少なくとも1514年および11515年の記録は、15世紀と16世紀の人びとの資産状況を比較する上で信頼性が高い資料と言えそうである。
それによると、1515年のケント地域の総資産は、イングランド全体で第8位から第4位にまで上っている。この課税記録には、CINQUE PORTS の商人たちの記録は含まれていない。それゆえ、この点を考慮に入れると、この地域の Lay: 平民・一般人の資産は、かなりのものになっていたと言えるだろう。
註 TUDOR LAY SUBSIDIES : チューダー王朝(1485~1603)において制定された Lay: 平民・一般人に対する税制、の意と解します。
TUDOR LAY SUBSIDIES に関する最も詳細な分析研究は、1524年、25年のケント地域の資料についての研究である。
ただ、この SUBSIDIES は、ある地域の資産状況や被課税者数についての信頼に足る資料ではあるが、ケント地域について分析するには、大きな問題があった。資料の内容が、全体は分っても部分が不明であったり、逆に、部分は分っても全体が不明である、など記録が一定していない。また、課税内容が多岐にわたることは分るが、徴税対象者の詳細、すなわち、少数の富裕層だけなのか、Lay: 平民・一般人も含まれるのか、が判然としない。その上、そこにはCINQUE PORTS の商人たちについての記録は、まったく含まれていない。ただ、この記録が全く役に立たないわけではなく、資料を扱うにあたり、とりわけ1334年の SUBSIDIESとの比較に際しては、注意深く扱えば何ら問題はない。
TUDOR LAY SUBSIDIES で詳しく明らかにされている記録は、大部分が、ケント地域の東部および HOO 半島の周辺に関する記録である。
すなわち、それによれば、DOVER と SANDWICH の後背地一帯は、他の若干の地域とともに、平方マイルあたりの納税者数が、イングランドの他の地域よりも多かったということを示している。一方で、地域の最北東部は、 ROMNEY MARSH 一帯とともに、納税者が相対的に少ないということも示している。
つまり、全体的に見れば、ケント地域の大半について、地域ごとの税収記録が得られ、例外もあるが、平方マイルあたり50シリング以上の高税収があったことを示している。これは、ケント地域は、イングランドの中でも最も高額納税の地域の一であることを意味している。
平方マイルあたり72シリングの最高税額の地域は、北部沿岸の中央部(その地域の教会資産は決して大きくない)が該当する。そして、このLay: 平民・一般人の wealth :資産が大きいという状況は中世を通して続く。
これに対し、ケント地域北東部の税額は平方マイルあたり58~65シリングに下る。しかし、この記録は、1334年の SUBSIDIESについての分析結果と同じくCINQUE PORTS の商人たちを除外しているので、この地域に関する数字は事実を正当に繁栄しているとは言い難く、むしろ、この地域の総資産も比較的大きかったと見なした方がよいかもしれない。しかしながら、この地域では、後に触れるように、14世紀後半から15世紀にかけて、土地所有が、徐々に少数の者の手に集約される傾向が明らかになってくる。
1524年の SUBSIDIES の示している最も興味深い点は、ケント中央部に新しい資産形態が現れることである。
この地域は、1334年の SUBSIDIESでは、税額最低の地域、つまり wealth :資産の少ない地域だったのであるが、1524年の SUBSIDIESでは、平方マイルあたり55~69シリングの税が WEALD 中央部、CHART HILLS そして VALE of HOLMESDALE 地域から集められている。
註 HOO 半島、第2回および第3回に掲載の「地域地図」(下に再掲)上部の Thames 川と Medway 川を分けている半島。Thames 川の文字の下あたり。
DOVER 、SANDWICH 、WEALD 、CHART HILLS 、 VALE of HOLMESDALE などは、本紹介の第3回を参照ください(下の地図も参照ください)。
これらの記録から、ケント中央部及び南部域の繁栄・発展の状況は16世紀半ばまで続くことが分る。この状況には、小作農たちの中で、彼らの所有する土地を北部域の大地主に貸して、彼らから貸地料を得るという新しい土地経営形態が進み、その結果課税額が高くなった、という状況の変化が深く関わっていると見なしてよいだろう。[文言訂正 10日9.00]
中世後期まで、WEALD 地域の人びとの最も大きな収入源は、木材と薪材であり、それは東部域の各地に水運で運ばれ販売されていた。13世紀には、地主の大主教はじめ教会関係者と借地者との間では、常に、」森林の不法伐採による木材の売却問題で争いが起きているが、最終的に、借地者側が借地料の見返りに木材を商う権利を取得することで収まっている。
しかし、15世紀から16世紀初期にかけての借地者の収入源は、これだけにとどまらない。WEALD 西部では、皮革業が現れ、後には製鉄業も発達する。また広幅織物製造業が CRANBROOK 中心に増加している。農業の複合経営もいたるところで見られ、ROMNEY MARSH では羊の飼育が、CRANBROOK や BENENDEN 地方では牛の飼育が併営されるようになってきた。
つまり、多くの場合、人びとの資産は複数の収入源に拠るようになっていたのである。しかし、この状況の全体像は詳しくは分っていない。たとえば、布地製造業が1331年 cranbrook に初めて設立されているが、この産業の15世紀以前の様態も少ししか分っていない。
15世紀中ごろの essex への梳毛や毛織物の輸送の状況やケントの毛織物生産についての記録は見付かっていて、それによれば、世紀初めには羊の飼育は多くの問題に直面して、1440~50年にかけては羊毛の価格は最低にまで落ちていることが分る。1460年代に入ると価格は好転すが、本格的な復活は80年代を待たなければならなかったようである。
一方、1560年代より前の weald 地方の広幅織物産業についての記録はほとんどない。同様に、牛の飼育は、16世紀中ごろまで、明らかに大きな産業になっていたが、その牧場経営の実態についても全く分かっていない。こういった諸記録の欠如が、地域経済の全体像の説明・解釈を難しくしている。
しかし、調査が進めば、この地域の繁栄は15世紀末までに始まる、ということが分ってくることは間違いないだろう。
CANTERBURY 大主教 の WROTHAM の荘園( CHART HILLS の端部、MEDWAY 川西側の LOW WEALD 一帯に広がる)の一部である PLAXTOL の牧畜業、食肉業、皮革業についての1480年以降の記録では、これらに専業で従事する農家が確実に増えていることが示されている。そして、1490年代には、WEALD 一帯では、借地料は家畜で支払われるのが当たり前でさえあった。
註 ROMNEY MARSH :地勢図参照。ケント地域の南東部。
CRANBROOK 、BENENDEN 、PLAXTOL: いずれも地名。地図上に見当たりません。
文意から WEALD 地帯(第3回掲載のfig 3:地質・地勢図と凡例解説を参照)に在ると推察します。
ROMNEY MARSH 地域は、16世紀のCINQUE PORTS の商人たちの活動実態が詳しくわからないため、その税収の状態も不明である。
1334年には、同地域平方マイルあたりのの課税額は、CINQUE PORTS の商人たちへの徴税も含んでいるので、相対的に高くなっている。しかし、彼らの記録を除くと、 FOLKESTONE が高い数字を示す一方、 MARSH の中央部では極端に低いという具合に、地域全体が一様ではない。この様態は、同地域には少数の極めて富裕な人々が偏在していたと考えると説明がつく。
1524年の記録では、MARSH はケント地域の中では、徴税額が最も低い。これは、おそらくCINQUE PORTS の商人たちの資産を除外しているからだが、そのほかに、15世紀に同地域で多発した洪水が、彼ら地主たちを農業から牧畜への転換を余儀なくさせたことも関係しているだろう。実際、1500年までには MARSH の大部分は農耕地から牧草地に変っており、転業により生計を失った資産家も少なくなかったらしい。
ケント西部域の様子を知ることは、更に容易ではない。記録が少なく、また、調査もされていないからである。
ケント西部域は、ロンドンに近いにもかかわらず、経済的な進展が最も見られない地域であった。一帯は土壌が悪く、大主教の領地・荘園も、ケント東部や SUSSEX に比べると少なく、ロンドンに隣接する地域から離れた一帯は、1334年~1524年の間の課税額、徴税額は、常にケント地域の中で最低であった。
一方、16世紀初期まで WEALD 中央部に生まれた新興の資産家の課税額は、平方マイルあたり38~42シリングの GOUDHAURST 西部よりもはるかに少ない。このことは、14世紀以降 WEALD 地域が新たに栄えてきたと言っても、それは WEALD 地域全域が一様に発展したのではないこと:場所により差があることを示している。
註 GOUDHAURST : WEALD地帯にある町の名称のようです。地図上に見当たりません。
SUSSEX:ケントの南西に隣接する地域・州。地域図参照。
[b) 15世紀及び16世紀の状況 の項 了]
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筆者の読後の感想
たしかに、このように詳しく解説されると、全くケントを訪れたことのない人間にも、中世ケントの地域とその社会の様子が、おぼろげながら見えてきます。
そして、それが、そこで暮す人びの暮し方、彼らがつくるであろう建物にも、大きく関わるだろうことが、想像できるようにも思えてきます。
つまり、大げさに言えば、その時代のケントに居るような気にさせてくれるのです。
私はこれまで、その建物の立地を、読者の目の前に彷彿とさせるが如き筆致で書かれた「修理工事報告書」の類に会ったことがありません。
また、我が国の「民家研究」では、「間取り」を並べ、この「間取り」がこの「間取り」へと変ってゆくなどと説く「間取りの系譜」論が多いように思います。
そこには、「住居」は、その地に暮す人びとが、その地に暮すためにつくるのだ、という視点、もっと言えば、「その地の人びと」を知る・見る視点、が
根本的にが抜け落ちています。だから、「その地」についての認識も、そっち退け。それが《研究の常識》になっている気配さえ感じられる。
今あらためて、我が国の《常識》的な思考法と、この書・研究者の思考法の違いを、強く感じています。
いわゆる「箱木千年家」の在った地域には、同様の風格の住居・建物が多数まとまって存在していたと言います。
それは、いったい何故なのか、以前から疑問に思っているのですが、未だに納得のゆく解説書の類には接していません。
おそらく、あの地域一帯の中世以降の社会様態を、いろいろな手段で解き明かせば、その背景が見えてくるのかもしれません。
そして、そのとき、いわゆる「千年家」の姿も、おそらく別の目で見えてくるのでしょう。
調べてみたいな、とは思いますが、並大抵のことではなさそうです。
どなたか、あの地域の「社会史」に詳しい方がおられましたら、是非ご教示を!
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1.historical background の章には、まだ次の項目が残っています。
c) Population trends
d) Landholding and tenure
(1)Tenure
(2)Landholding
3. The gentry of kent
a) Emergence of the gentry
b) Distribution of the gentry
Population trends はケント地域の中世の人口動態について、Landholding and tenure はケント地域の土地の所有形態の変遷についての解説です。
そして、The gentry of kent は、ケント地域におけるいわゆる gentry :「上層階級」の成立の経緯、および「上流階級」が主に地域内のどのあたりに生まれたか、言うなれば、大地主層の割拠状況についての解説と言ってよいでしょう。
しかし、「この地域の建物の実態・その謂れ」を理解するにあたっては、ここまで紹介してきた「解説」で得られた「ケント地域の概況」についての知見で十分ではないか、と(勝手に)考え、当面、これらの項目についての紹介は省き、必要が生じたときに、あらためて紹介することにし、先に進もうと考えています。
次回は、 2 Houses of the early and mid 13th century 即ち「13世紀初期~中期にかけての(ケントの)家々」の章の紹介の予定です。またしばらく時間をいただくことになるでしょう。