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Channel: 建築をめぐる話・・・つくることの原点を考える    下山眞司        
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“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”の紹介-2

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[所感追加 12月1日 9.00]

以下、本書を読むことにします。
文意が通るべく誤訳・誤読のないように十分留意したつもりではありますが、なお至らない点があるかと思います。ご容赦ください。
不明、不可解な点がありましたら、コメントをお寄せください。

分量が多いので、原文にはない「小見出し」を付けました。

     *************************************************************************************************************************

INTRODUCTION序章

〇本書(調査研究報告書)の目的
この書“THE MEDIEVAL HOUSES of KENT”は、RCHMEが行なった「ケント地域(州)の建築:domestic architecture」 に関する調査研究の3報告書の内の一つで、特にこの書は、次の課題を明らかにすることを目的としている。
ア)中世後期の建物の時間的展開・経緯(chonological development)について。
イ)中世後期に建てられ現存する建物と、それらを建てた人ひとの置かれていた社会・経済的状況との関係について。
   註 RCHME:ROYAL COMMISSION on THE HISTORICAL MONUMENTS of ENGLAND
     「英国の歴史的建造物に関わる委員会」、日本の「文化財保護委員会」に相当か。その沿革は以下の通りです。
      The Royal Commission was established in 1908, twenty-six years after the passage of the Ancient Monuments Protection Act 1882,
      which provided the first state protection for ancient monuments in the United Kingdom, and eight years after the passage of the wider-ranging
       Ancient Monuments Protection Act 1900.
     参考:日本の同様機構に関係する法律の沿革概要
          明治30年(1897年)に「古社寺保存法」制定、同法が昭和4年(1929年)が「国宝保存法」に変る。
          昭和25年(1950年)に現在の「文化財保護法」制定。

〇当該研究の現状と課題
建築物を歴史的な文脈で語る書物は、近年、国レベル、地域レベルで多数刊行されている。ただ、その多くが、居住者:建設者についての資料を得やすい16世紀以降の事例に集中している傾向は否めない。
しかし、中世の建築についての研究が、まったく無視されていたわけではなく、各地域の中世初期の遺構を探し出そうという多くの研究者の熱意で、「中世の家々」は、国レベル、各地方レベルで、大いに注目されるようになり、たとえば、国レベルでは、1950年代に為された上層階級の家々についての既往研究に対しても、再考しようとの機運が高まっているし、「より小さな家々」についても、この書の刊行まえにいくつかの重要な研究報告がなされている。また、近年、「構築法や大工技術」が注目され、数多くの個別建物についての研究も各地域で盛んになされ、報告されている。
一方、歴史学の分野では、その時代の人びとの遺した諸資料を基に、その時代の各階層(上層~小作農)の人びとの生活様態を明らかにしようとする研究も数多く報告されている。
けれども、同じ地域、時代が対象であるにも拘らず、建築分野と歴史分野の研究は、相互に無関係のまま進められているのが現状である。
その理由は、問題の複雑さと、それぞれの分野の研究方法の違いに拠ると考えられる。
近刊の「イングランド及びウェールズの農業史」は、考古学と建築についてかなり割いているものの、建物については、農業や経済の一般的な問題とはまったく別扱いとなっていて、建築への関心が社会・経済史の対象になっているとは言い難い。各地の小作農についての研究報告でも、建物についての項目を立てる例は少なく、触れている例でも、事例の要約列挙する程度にとどまっている。

それゆえ、現在、次の諸点についての研究:その方向性の策定:が緊急の課題と考えてよいだろう。
すなわち、
ア)家々の「格」の判定・評価が、その建物の形式・姿に拠っているのか、あるいは単に「それが希少な存在である」がゆえなのかを見究めること、
筆者所感 
   旧くて希少であると「格」が高いと見なしてしまう傾向は、彼我に共通するようです。
イ)現在の形態になったのは何故か、また、どのような過程を経てその形態に至ったのか、その経緯を明らかにすること、
ウ)その建物の建設年代の判定の確度・精度を高めること、
の三点である。

もちろん、問題は他にも多々あることは明らかである。
しかし残念ながら、これらの問題解決に向けた多様な試みが為される間も、しばらくは、「中世の家々についての研究」と「中世の社会・経済史の研究」は、それぞれ独自の道を歩むに違いない。

ア)社会的階層(小作農、自作農・小地主)と建物の「定型」「格」について
小作農の人びとの家々と、より上層の人びとの家々との違いは必ずしも明確ではない。
社会的階層で最上位に属する人びとの建物は、容易に見分けることができる。普通の層の人びとの家々も、そのなかのどの層に属すかにより明らかに微妙な違いがあるが、しかし、それを最小・最貧の人びとの家々に至るまで明確な線で区分することには無理がある。
最近の歴史学の研究でも、上層階級、yeoman:自作農・小地主と小作農の区分は難しい、という事実を明らかにしており、建築史の研究でも、これらの階層別に家々を分類すること、たとえば、現存する遺構の中で小作農の家の占める割合を明示するなどということさえ容易ではないとしている。つまり、「階層」⇔「その階層の家の定型」を単純に判定することはできないのである。
   註 yeoman:ヨーマン:自作農・小地主、昔の「自由民」:独立自営農民、gentleman より低い地位の自由所有権保有者。(研究社英和中辞典)
ケント地域が、他の地域に比べ自由な社会構造を有する地域であったことは、既に17世紀に明らかにされているが、現在でも、上層階層が明瞭に区分できるのに対して、自作農・小地主と小作農の違いは、明確には明らかにされていない。
一般には、近世になり、イギリスでは、建築が地位の象徴や社会的野望表現の道具として使われることが多くなる、と言われてきているが、ケント地域では、特に中世には、そのような気配は感じられない。
いずれにしろ、この問題は、家屋の形式、大きさ、一戸がどの程度の人数が暮せるか、などをも勘案した詳細な検討が必要になる。

イ)建物個々の履歴について
二番目の問題は、ある建物が、そもそも誰のためにつくられ、何時頃から現在の形になったか、など、その建物についての「編年史」を作製することである。
考古学的研究がかなり行なわれているにも拘らず、現存する建物と取り壊された建物との間の関連、一度つくられた建物が、継続してつかわれてきたのか、それとも改造・回収されて使われてきたのか・・・、といった問題についての研究は、建築史の分野で、ようやく緒についたばかりなのである。
それゆえ、現在のところ、現存する中世の家々を系統的に整理して概観することは、不可能である。
すなわち、現在まで健在であり得たのが、その架構の構造が当初から強固であったからなのか、それとも華奢な造りだったものがが丈夫に変えられてきたのか、あるいはまた、消え去った事例には、構造以外の別の消え去る理由があったのか・・・、などについて、今は確かなことは言い得ないのである。
したがって、この書の研究目的は、現存する中世の建物を、遺されている各種の断片的資料の分析を通じて、その変遷・展開の経緯について、より確かな理解に至ろうとすることにある。

ウ)建設年代の判定について
第三のテーマは、年代判定に関わる問題である。より正確な年代が判明しない限り、ある建物を歴史的文脈のなかに正確に位置づけることは難しい。上層階級の建物の場合は、遺されている文献やその建物のスタイル:形式により年代を特定出来ることもあるが、より小さな建物の場合は、特に中世の建物では、それはほとんど不可能である。各種の仕口や繰型の形態から建物がつくられた年代を判定しようという研究も為されているが、現在は、その有効性が論議されている段階である。いずれにしても、建物の建設年代の判定には、未だに種々なレベルの問題が残っているのが現状である。
幸い、本研究の始まったのが、いくつかの木造建築の建設年代が「年輪編年法( Dendrochronology )」により科学的判定が可能になった時期と重なっていたのは幸いであった。この研究はNottingham University Tree-Ring Dating Laboratory(NUTRDL)との共同研究で、木材の試料は、74の建物から採取された。この技術は、ケントの建物の年代判定にとって欠かせない手法となり、この書全般の結論は、それに負うところが多い。

すなわち、本書は、以上三つの問題点を常に念頭に置きつつ、単なる狭義の建築史、社会史ではなく、それら多くの家々・建物を建て、そこで暮した中世の「人びとの実像」を描き出すことを目的としている。
筆者所感
   残念ながら、この「人びとの実像」を描き出すという視点が、これまでの日本の建築史研究(いわゆる民家研究や住居史を含む)には、欠落していたように、
   私には思えます。  

〇ケント地域の中世の建築遺構概観
従来から、ケント地域は、中世の建物が他地域に比べかなり多く遺されていることが知られていた。
その量、質ともに、イングランド(グレートブリテン島)南東部の木造建築は注目されてきたが、中でもケントのそれは並外れていて、既に、その豊かな遺産についての価値ある研究もかなりの為されている。代表的なのは、ケント建築考究の基点になっている1960~70年代の故 STUART RIGOLD 氏による中世ケント建築についての「概要」、また、 KENNETH GRAVETT 氏によるケント建築に関する多くの興味深い資料・情報を収集・整理、個々の建築や建築群についてのすぐれた研究書(特に E W PARKIN 、THE CANTERBURRY ARCHAEOLOGICAL TRUST 、そしてJANE WADE 氏らのグループによる諸著作)が挙げられよう。
   註 STUART RIGOLD :wikipedia によると、ケント生まれの考古学をはじめとする多分野の研究者とのこと。なお、次のようにあります。
                  ・・・・ He had a special interest in medieval architecture on which he wrote extensively, and was a pioneer student of timber framing.・・・・
  THE CANTERBURRY ARCHAEOLOGICAL TRUST :同じくwikipedia によると以下のようにあります。
                Largest professional unit working in Kent archaeology. Consultation, evaluation, excavation, surveys, building recording, education
                service.
                イギリス発祥のNATIONAL TRUST 同様の性格の団体と思われます。
                TRUST は、自然環境、歴史的構築物、遺構などの維持・保全・継承を目的に、寄付を基金に、財団、NPO、NGOなどの組織を通じて活動
               を行う組織・機構のことを言います。

     JANE WADE :不詳です。

筆者所感
   住居・庶民の住まいについての研究が日本で広く行われるに至るまでには、
   今 和次郎 氏や川島 宙次 氏らの表舞台からは隠れた地味で地道な事例収集が重要な役割を担っています。
   また、建築史学における住居史の分野確立に努めた伊藤 ていじ 氏も忘れることはできません。
   箱木家、古井家など兵庫のいわゆる「千年家」の存在を発掘し、その重要性を世に広く知らしめたのが伊藤氏です。
   箱木家の近くにあった「阪田家」の火災消滅を機に、全国的にいわゆる「民家緊急調査」が行なわれたのも、伊藤氏の提言が基になっています。   

ケントの中世建築の価値の高さは、よく認識されてはいるものの、建物遺構の総数も推定にすぎず、その年代別分布の様態も明らかでないのが現状であった。
現在のケントは、広さが1440平方マイル、319の行政区からなっている。したがって、このような広大な範囲の中世建築探索は、行政区ごとに行うしか方策はない。そのための、効率的な探索法は、できるだけ狭い範囲ごとに調査を行ない集積する方策であった。
ケント地域は、その大きさ、多様性にもかかわらず、歴史的には一体として発展してきた地域である。ケント地域の慣習や土地の所有形態は、近隣地域のそれとは明確に異なる。それゆえ、この実態の全貌の理解のためには、どうしても、方法論の違いを越え、歴史学、建築学両者共同の下での研究がより重要と考えられた。

〇調査地域:ケント州の概要と、中世建築遺構の調査研究方法の策定に至る経緯
ケント全域を考慮に入れたうえで一つの資料収集策が講じられた。
最初に採られた方策は、農家の建物を集中的に調べることであった。
中世後期のケントの町場の発展をもってこの地域の歴史と見なすことはできず、町屋までを対象にすることは考えなかった。
なぜなら、町場の建物は、農村のそれとは別種の特性がある。すなわち、建物の規模も配置も限定され、そこから農村部には見られない町場特有の性格が形となって現れるからである。それゆえ、町場の建物は、個々の町の特性の探求とともにその町の建物独自に研究されなければならない。それゆえ、本書の研究では、町場の建物は対象外とした。
ケントは、いくつものまとまった小集落が散在する州である。それは、イングランド中央部の大部分を占める農村社会とは違い、どちらかと言えば、市場を持つトレーディングセンター、小さな町と呼んでいい。
CHILHAM、ELHAM、SMARDEN、WROTHAM、などの場合は、中核部は教会を中心にした住居群で構成されており、BRASTED、CHARING、などの場合は、家々は互いに肩を寄せ合って建ち並び、立派な街路を形成している。なかには意図的につくられたと見られる例や、建物の規模が限定されているように見える例もまったくないわけではないが、本格的に町場形成を意図していると思われる事例は、これらケントの小集落ではほとんど見られない。とは言っても、それらをまったく対象外とするのは不自然であるので、今回の調査対象には含むことにしている。ただ、これらの事例の研究結果から、この地の様相は、必ずしも他の地で見られるそれと同様ではない、ということは、既によく知られている事実でもある。したがって、これらの町場の建築については、別途探求される必要があろう。

本調査の主題:ケント地域の中世遺構の木造架構について
およそすべての研究には、その境界部にグレイゾーンがあるのが普通である。
この書の研究主題は、14世紀~15世紀の木造架構にある。
しかし、この問題は、石造、木造を問わず、初期の上層階級の家々と切り離して考えることはできず、本研究の一部となる。けれども、城郭、宮殿、キリスト教関連の施設などまでを対象とするのは難しい。それゆえ、それらについては、必要に応じて触れる程度とする。

ケント地域全体の考察のため、不作為に分けたグリッドごとに地域を調査する方法も考えられたが、既知の数多くの歴史的状況とは相いれない点があり、この方法は採用されなかった。
なぜなら、ケント地域の地理的、歴史的環境から、ケント地域の様態が多様であることは既に知られていて、地形・地勢も集落形態、農業形態も多様であり、その上、場所によって社会的、経済的状態さえも異なっている。したがって、調査対象地区を選定するにあたっては、これら諸点を考慮しなければならなかったのである。
旧荘園の範囲ごとの調査も考えられたが、その範囲の時代ごとの変遷などが明らかでないため、この方法も不可とされた。

〇採用された調査研究方法とその概要
上記のような消去法を繰り返した結果たどり着いたのが、「教区:parish 」ごとに調査する方法であった。
「教区」は、単に宗教的・歴史的意味だけではなく、現在の「行政単位」をも意味していた。その「範囲」は、例外はあるものの、大きく異なることはない。「教区」はその地域にとって歴史的意味を有し、それゆえ、この方法は、ランダムに地域を選ぶ方法よりも、地域の歴史的背景と建物の様態の関係を、より容易に知り得る方策であると考えられた。
たとえば、中世の建物の健在事例を教区:村単位に収集・記録することにより、建物を地域の人口や経済状況と関連づけて考察することが可能になった。そしてまた、教区ごとの調査は、中世遺構の一定区域内での形態やその変遷に関わるのが、地形・地勢の違いと地域の歴史的環境のどちらであるのか、というような問題を考えることをも可能にした。そのいくつかの興味ある結果は、本書の最後に論じられるはずである。

結局、Figure1(下図:再掲)のように、全319「教区」のうち、現在(1974年現在)も行政単位になっている60「教区」が調査対象となった。

この60教区は、ケントの全教区の19%、面積ではケント州の24%に相当する。60「教区」の選定にあたっては、できる限り地理的、歴史的背景の異なる事例を含むように考慮し、最近開発された地域を含む教区は、中世の家々が少ないために対象から除いた。
なお、これらの特定地区での資料収集に加え、建築的視点で稀有かつ重要と見なされた他の中世の家々は、その立地如何に関わらず収集・記録することに努めた。

中世の建物には、Figure2(下図)の例のように、後の時代の改装によって中世の様相の隠されてしまっている事例も多くあるが、各調査区域ごとに、これらの「隠れた事例」を精査することは難しく、それゆえ、かなりの中世遺構が埋もれてしまっていることは否めない。

他にも、中世遺構とおぼしき建物で、調べられなかった事例が多々あることは確かで、今回の調査によって、ケントの中世遺構のすべてが調査されたというわけではない。けれども、個々の建物相互、並びに州内の地域間に浮かび上がってきた顕著な差異から、調査によって明らかになった地域内の中世遺構の分布状態は、歴史学的観点で確かなものと見なして問題はないはずである。

今回の調査により、調査対象の60教区から380戸が調査された。また、他の地域から70の中世の建物が調査された。これらには、見逃すことのできない、そして当該地域の代表例とし得る14世紀中期および初期の遺構が含まれている。これら450の建物は、他の調査により得られた50を超える事例とともに、ケント地域の中世の家々の特性および発展について考察するための基幹資料となった。実際、既に、事例のいくつかは、各種の研究に引用されている。

本書の触れる調査研究のの概要は以上の通りである。
しかし、13世紀、14世紀初期の家々の規模とその利用の様態については、なおいろいろな問題が残されている。
収集された遺構はどれも小作農よりも上層の人びとの家ではあったが、その中には、富や地位の差別化を意図して建てたと思われる例は一例もなく、その家族形態と居住形態は実に多様であった。
ただ、調査総数が多くはないので、この様態を地域全体にまで広げ一般化して言うことはできない。また、調査の進行にともない、このような初期段階の上層の建物は、必ずしもがケント州内の各地で出現しているわけではないことも分ってきた。その分布には、石造か木造かによらず、あるパターンがあることが見えてきたが、この点についても、より詳しい調査と解釈が必要になろう。

ケントの中世遺構のなかで最も時代をさかのぼる事例は、14世紀中に建てられた上流より一段低い層の人びとの家々である。この事例は、世紀末には確実に増えてくるのだが、この傾向が何時頃から始まったかは、確定するのが難しい。第一、規模が大きく且つ立派な「小作農の住まい」と数少ない「上層の人びとの住まい」とを区別することも容易ではない。遺構の可能性のある多くの建物の歴代の所有者をたどることが難しく、それゆえ、どのような状況であったかを文献資料だけで明らかにすることも難しい。個々の家々の由来を確定するには、記録資料と建物とを総合的に調査解析をすることが基本なのだが、今回の調査では、残念ながら、必要な記録資料の収集ができなかった。
しかし、ある型の家が一定程度存在するならば、それを、「豊かな小作農」あるいは「自由民:上層地主層」の住まいを代表する事例と見なして問題ないことは分ってきた。さらにまた、調査範囲を広げた教区調査と年輪年代学(DNDROCHRONOLOGY)による正確な年代判定によって、このような展開には地域差があること、すなわち、すでに14世紀後期に出現した区域と、それより遅れて出現する区域とがあることも明らかになった。
「小作農の家々」と「上層階級の家々」を識別することは、中世後半を通しての重要な課題である。なぜなら、14世紀中期から15世紀後半にかけて建てられた「上層階級の人びと」の建物の実数が明らかに減少している一方、同時期に「小作農の人びと」の建てた建物が激増しているからである。この現象が、社会の変化の現れなのか、他に理由が求められるのか、まだ十分検討されてはいない。
こういった諸問題を考察するために、先ず、多様な事例を建物の用途、建設時期、規模、分布状況などの観点で、正確に見極める必要があった。

筆者所感
   たとえば、「古井家」について、いろいろ調べても、あの地域で、「古井家」だけが何故健在であったのか、
   同じ集落の他の家々は、どのような過程で、現在に至ったのか・・・、つまり、「集落自体の変遷」については知ることができません。
   これは、研究者の関心が、個々の建物にのみ注がれているからではないか、と思います。
   個々の暮しは、集落全体との係わりの中で成り立っているはずです。
   どうしたらこの問題に迫れるか、見当もつきませんが、この視点は欠かせないように思います。[文言追加 12月1日9.00]

14世紀後期前の木造架構は Aisled form または Quasi Aisled form が大半である。
   註  Aisled form :「身廊・側廊」形式 日本の「身舎・庇」=「上屋・下屋」形式に相当。
      Quasi Aisled form :Quasi は、類似または疑似の意。現段階では具体的には不詳だが、後に説明があるものと思います。
Aisled 形式の架構は、15世紀中を通して用いられるが、14世紀末には新しい形式の架構が出現する。
有名な Wealden house は、かねてから、中世の木造建築の完成型として見なされ注目されてきた。 Wealden house は、おそらく1400年前後に出現し、その後おそらく80年~100年間、すなわち1430年~1530年ぐらいが最盛期ではないか、と考えられている。
   註 Wealden house : Weald 地方特有のつくりかたの建物の意のようです。
     日本で言えば、たとえば「本棟造」などに相当する用語と思われます。
     その事例の詳細は、次回以降で紹介。
       Weald は、ケント地域南部の森林地帯です。「地理学的区分図」(下に再掲)および前回の同図の註解を参照ください。
         
実際、Wealden house の形式は、英国内の他地域に見られる cruck 同様に大きな関心を呼び、数多くの研究も為されている。
   註 cruck :土台から屋根に向って架けられる湾曲した梁。以前、下記で紹介・解説してあります。
     「The Last of the Great Aisled Barns-7」
    また、「the Last of the great aisled barns-4」に Aisled form の事例と説明があります。
      なお、今回紹介の書は、上記記事で紹介している書物の内容を補完する一資料でもある、と考えてよいでしょう。
Wealden house は、ケントでは、1970年までに、既におよそ350例の存在が確認されており、明らかに改装されていると思われる事例が多数見受けられるから、実際には、少なくてもその2倍は存在すると考えられる。このような様態は、ケント州の中央部、MEDWAY(ケント州北西部の町:ロチェスターの近傍)から STOUR (ケント州東部のカンタベリー近くに STOUR スタワ川という川がある)の間、特に MAIDSTONE南東部に集中している。
    註  MEDWAY、STOUR(川)、ロチェスター、カンタベリー、 MAIDSTONEは地名。 MEDWAY以外は、前回掲載のケント地域の地図にあります。下に再掲。

     
この地域には、他にも Wealden house よりも早くからあると考えられている end jettyの名で知られているつくりが存在するが、それと Aisled form 、Wealden house との関係、それぞれの発展の経緯や分布などを整理することを通じ、詳細に識別することにも注意が払われた。たとえば、14世紀中・後期につくられた建物の多くが、Wealdenあるいは end jetty に分類できる、とは必ずしも考えられないからである。
したがって、組織的な調査によって、ケント地域に存在している中世の建物を、形式、建設年代、規模ごとにその分布様態を洗い出すことが必須であった。

   註  end jetty 型とは、下の写真のように、建物の一辺(多くは桁行方向)の上階部分を突出すつくりをいう。本書後半に事例説明がある。
     日本の出桁に類似したつくりかたと見なせるか?



〇この調査・研究で「分ったこと」、「分らなかったこと」、その概要と意義
これらの調査の結果、ケント地域に遺されている中世の家々は、その年代、分布密度、その質の点で、かなり地域差があることが明らかになった。これは、既に、RIGOLD とEVERITT によって指摘されていた事実であるが、この事実は、ほとんどの社会・経済史の研究では、見過ごされていると言ってよい。中世のケント地域の社会の変容の様態について分るための文献資料は、まったく寄せ集めでばらばらだ、というのが実情なのである。たとえば、教会関係資料は、一般信徒よりも教会の聖職者など上層階級に係わるものが圧倒的に多いから、歴史分野の研究も、必然的に、教会関係の上層階級の面から語らざるを得なくなってしまう。
   註 RIGOLD :前註参照。
     EVERITT :調べましたが不明。
結局のところ、16世紀中期以前の時期のケントの経済的状況については、、文献資料の少ないケント中部・西部よりも、北部・東部地域の様態が、より多く明らかにされた。
どこに記録資料:文献資料が遺されているか、誰にも分らない。何故なら、そういう資料は、特別な目的で記録されるのが普通だからで、それゆえ、「中世の一般の人びとの生活の全容」は、まだ大部分が不明のままであり、今後の更なる研究が必要である。
そのとき、今回の調査・研究で明らかになったケント地域の中世の建物遺構の存在が、その地域の経済的な状況や社会構造を明らかにする上で、貴重な材料を提供してくれるであろうことは確かである。
また、これらの収集・集積され考証された建造物という資料は、今後、現在の各種の知見間のギャップを埋めて行く上でも、重要な意味を持ってくることも明らかである。                                                
                                                                               〈序文 了〉

     *************************************************************************************************************************

   序文全文を読んでの筆者の感想
   日本の研究報告書の類では、このような「序文」は、多分、全くないでしょう。
   ここでは、たとえば、調査研究の方法策定をめぐり逡巡した状況まで詳細に述べられています。
   一方、わが国の場合、そういうことは全く触れられず、その研究で採られた方策が、あたかも唯一最高の当然のものであるかのように記すのが普通です。
   そしてまた、どの報告書の類も、似たような《形式》を踏襲するのが当たり前のようでもあります。
   つまり、「学術論文・報告」としての《形式》の方が、優先してしまうのです。
   したがって、そこでは、それが何のための研究であるか、という本質的なことでさえ、陰にかくれてしまいがちになります。
   その一つの《典型》は、最近の原子力規制委員会の、「原発の安全審査報告書」。
   どんな問題が問われ、どんな意見が出たか、「結論」はどのような討議、論議の経過を経て出されたか、などについては、一切示されておらず、
   あたかも《天啓》のごとく、《結論》が語られる。
   それは、「議事録」に委ねられる事項だ、というのかもしれませんが、「議事録」の開示を求めれば、多分、難色を示し、黒塗りで見せられる。
   ところが、この「序文」は、言うなれば「内情」を「開けっぴろげ」にしています。
   しかし、それにより、本書の調査・研究の目的はもちろん、考えなければならない諸問題が、よりリアルに読者に伝わってくるのです。
   これは、関わった研究者・学者諸氏が、たがいに「論議する」ことを是とし、自らの「知見」を「囲い込む」ことをきらい、常に広く「開いている」ことの証左だと
   思います。
   日本の多くの研究者・学者諸氏は、そうでない場合が多い、自分の領域に垣根を築きたがり、知見を囲い込たがる、そのように私には思えます。
   そうすることで「斯界の権威」が保証される、と思い込んでいるからでしょう。

   
   そのようなわけで、この「序文」は、きわめて新鮮で、一層先が楽しみになってきました。

   さりながら、長文の英文との「格闘」は、受験勉強を思い出させるものがありました!

     *************************************************************************************************************************

   大変長くなりました。お読みいただき有難うございました。

   次回は “Historical background” の章の紹介になります。
   また時間がかかるかと思います。ご了承ください。   

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