今日は広島原爆の日です。
こともあろうに、深刻な被害を生み、未だに収束の見通しさえ立っていない過酷な原発事故を起こした国の宰相が、「そういう過酷な事故を踏まえた安全な原発技術」と称して諸国を行脚し原発の売り込みに熱中しています。
この「神経の粗さ」、「感性の欠けた振る舞い」に違和感を覚えるのは、私だけではない筈です。
メディアの中には、この「行商」を、日本経済再興の起爆剤として歓迎すると論じるところもある始末。それを「経済」と言って憚らない論者の「知性」を疑います。
私は、この「行為」は、明らかに、「偽計(欺計)」であると思います。
そこへもってきて、「ナチスの手口に学べ」という呆れ返る発言が、宰相の取り巻きから為される。これは、まさに「偽計(欺計)のすすめ」以外の何ものでもない。
偽計(欺計):相手を騙すための策略。他人を騙すはかりごと。振り込め詐欺然り。
そんななか、8月3日の毎日新聞の特集記事「記者の目」と「発信箱」に、このような政治家や経済人、その同調者たちを問い質す記事が載っていました。全文を転載させていただきます。
「記者の目」は、いかにして一般の人びとの原発への反発を薄めるか、そのための「偽計(欺計)」の謀議を告発、つまり、いうところの「安全神話づくり」の裏側を突いた記事です。
web版「記者の目」
これほどまでに「偽計(欺計)」をしなければならない、ということは、原発がいかに危険なものかを示す証にほかなりません。
そしてそれゆえ、当の本人たちは、「危険を安全と言いくるめること」が、「お国のため」の《正義》の行為である、と思い込んでいるのです。
次に「発信箱」を転載します。
今回の「発信箱」の内容は、「偽計(欺計)」を支えてきた言葉の軽さについて論じたもの。
簡単に言えば、「安全」に基準などない、ということ。
web版「発信箱」
世の中には、「脱原発」などは「情緒論、感情論」あるいは「書生論(理論倒れで現実に合わない論のこと)」だという方がたがいます。原発製の電気がなければ世の中真っ暗闇だと考える人たち。
おそらく、この方がたには、「福島の人びとの現実」が見えないのです。
その意味では、彼らの方が書生論。経済とは金儲けのことなりと一途に思い込んだ我利我利亡者。それ以外何も見えない。見えなくなっている。
何故こうなるのだ?
人の本来備えている「感覚・感性」に基づいて獲得する「知」を、安易に《学的『知』(科学的知、経済学的知・・・)》と置き換えてしまったからではないでしょうか。それが「科学的」なことと勘違いして・・・。。
本来の人の「感覚・感性」を備えているならば、記事にあるような「言動」は、あり得るはずがない。
つまり、人であることをやめてしまったのではないでしょうか。
こともあろうに、深刻な被害を生み、未だに収束の見通しさえ立っていない過酷な原発事故を起こした国の宰相が、「そういう過酷な事故を踏まえた安全な原発技術」と称して諸国を行脚し原発の売り込みに熱中しています。
この「神経の粗さ」、「感性の欠けた振る舞い」に違和感を覚えるのは、私だけではない筈です。
メディアの中には、この「行商」を、日本経済再興の起爆剤として歓迎すると論じるところもある始末。それを「経済」と言って憚らない論者の「知性」を疑います。
私は、この「行為」は、明らかに、「偽計(欺計)」であると思います。
そこへもってきて、「ナチスの手口に学べ」という呆れ返る発言が、宰相の取り巻きから為される。これは、まさに「偽計(欺計)のすすめ」以外の何ものでもない。
偽計(欺計):相手を騙すための策略。他人を騙すはかりごと。振り込め詐欺然り。
そんななか、8月3日の毎日新聞の特集記事「記者の目」と「発信箱」に、このような政治家や経済人、その同調者たちを問い質す記事が載っていました。全文を転載させていただきます。
「記者の目」は、いかにして一般の人びとの原発への反発を薄めるか、そのための「偽計(欺計)」の謀議を告発、つまり、いうところの「安全神話づくり」の裏側を突いた記事です。
web版「記者の目」
これほどまでに「偽計(欺計)」をしなければならない、ということは、原発がいかに危険なものかを示す証にほかなりません。
そしてそれゆえ、当の本人たちは、「危険を安全と言いくるめること」が、「お国のため」の《正義》の行為である、と思い込んでいるのです。
次に「発信箱」を転載します。
今回の「発信箱」の内容は、「偽計(欺計)」を支えてきた言葉の軽さについて論じたもの。
簡単に言えば、「安全」に基準などない、ということ。
web版「発信箱」
世の中には、「脱原発」などは「情緒論、感情論」あるいは「書生論(理論倒れで現実に合わない論のこと)」だという方がたがいます。原発製の電気がなければ世の中真っ暗闇だと考える人たち。
おそらく、この方がたには、「福島の人びとの現実」が見えないのです。
その意味では、彼らの方が書生論。経済とは金儲けのことなりと一途に思い込んだ我利我利亡者。それ以外何も見えない。見えなくなっている。
何故こうなるのだ?
人の本来備えている「感覚・感性」に基づいて獲得する「知」を、安易に《学的『知』(科学的知、経済学的知・・・)》と置き換えてしまったからではないでしょうか。それが「科学的」なことと勘違いして・・・。。
本来の人の「感覚・感性」を備えているならば、記事にあるような「言動」は、あり得るはずがない。
つまり、人であることをやめてしまったのではないでしょうか。